「黒子っち」

聞き慣れた声で呼称された自分の名。それに怯える様に肩を揺らす間も無く、後ろから何かが黒子に覆い被さってくる。

「黒子っち」

また、名を呼ばれた。黒子とその両腕ごとすっぽりと腕の中に閉じ込める男に。ぎゅうぎゅうと締め付けてくるわけではない、やんわりと緩やかな拘束。けれど、逃亡を図ろうにも自身は無力で、拘束者は強力な道化だった。

「なんだ、又お前か、黄瀬。黒子も大変だな。こんな馬鹿に付き合わされるなんて、心底同情する」

「うっわぁ、ひっどいスよ、そんな言い方。でも、まぁ、馬鹿だから黒子っちに勉強教えてもらえるんスけどね。ホントは羨ましいんじゃないんスか、緑間っち。でも、駄目っス、黒子っちはオレ専属のカテキョっス。誰にも、渡さないっスよ」

(ウソツキ、本当のキミは僕と同じくらい頭がいいんでしょう)
黒子は怯えが表面に出ないように、いつものように無表情のまま二人の遣り取りを聞いている。それでもそんな突込みを入れたくなるのは、黄瀬が言うだろう言葉を出来るなら拒絶したいから。

「明日は土曜だし、今日は泊まってってね、黒子っち。勉強して、飽きたら遊んで、んで又勉強しよう、一緒に。ふふん、もう部活もないからオレん家でゆっくりしよ?」

「黄瀬、お前は学年末のために黒子の時間を割かせてるのだろう。ならば、黒子の面子を潰すような真似をせず、真面目に勉強だけしておけ―――黒子も、いくらこの馬鹿の成績が見るも無残でスポーツ特待を受けての進学が叶ったとしてもこれでは帝光の恥だから何とかしてくれと教諭達に言われたからといって、土曜日曜祝日までコレに時間を費やさなくてもいいのだぞ」

眼鏡を押し上げそんなことを言った緑間に黒子は一瞬呆け、そして、ありがとうございます、と言おうとした。言おうとして開いたその口を、背後からぐっと鷲掴まれた。決して痛みを感じたりはしなかったけれど、背後から迫る威圧感は黒子の肌には痛かった。

「ひどいっス、本気でひどいっスよ、緑間っち!!なんて事言うんスか!馬鹿馬鹿って言うっスけどね、これでもオレ一般入試で海常受かってるんスからね!黒子っちのカテキョのお陰で!その後のテストはまぁいつも通り散々でしたけど、でも最後くらいは有終の美を飾ろうとこれでも頑張ろうと思ってるんスよ。センセェ方にもそれ宣言してる手前、今更止める訳にはいかないんス。今更黒子っちを誘惑したりしないで欲しいっス!」

(そう、そうやってキミはまず先生達を攻略した)
黒子は目の前にいる緑間から焦点を外し、一ヶ月前のことを思い出す。
二学期末の成績が張り出されて数日経った頃だ。とある教師の一人が黒子にこう言った。

『黄瀬を頼むぞ。海常に一般入試で受からせたように、最後の学年末くらいいい点を取らせてやってくれよ。今回はアイツもちゃんとヤル気があるみたいだからな、家庭教師のし甲斐があるだろう。学年末、期待しているぞ、黒子』

そんなことを言う教師は一人ではなく、三学年に関与している教師のほぼ全員が同じようなことを黒子に言ってきた。終いにはクラスメートからも黄瀬に協力してやれよ、と口々に言い出した。
周囲を黄瀬派に固められてはどうしようもないと渋々要望に頷けば、両親は長期海外単身赴任という黒子の家庭環境を持ち出し冬休みは丸々黄瀬の家に泊まらされた。勿論、黒子は嫌だと言った。言ったら、黄瀬に強姦された。
その後、黄瀬はまず『帰れる状況下』を全て奪い去った。
財布も携帯も当然のように奪われて黄瀬に管理され、電話もメールも彼の許可が下りない限り出来なかった。例え許可が下りたとしても、電話は黄瀬の目の前でしなければいけなかったし、不用意なことを言えば携帯を奪われ反対に黒子が窮地に追い込まれた。メールもまた黄瀬がO.Kを出さなければ送信できなかった。
黒子は勿論逃げ出すことも考えた。黄瀬がいるときに無理に逃げ出そうとしても、どうせ直ぐに掴まる。そうなれば、その後の『仕置き』が恐ろしくて流石の黒子もやろうとは思わなかった。だが、黄瀬は毎日マンションの一室に居るわけではない。食品など日々無くなる物はどうしても買出しに出なくてはいけない。そのときに、逃げ出せばいい、黒子はそう思い、その機会を待った。
結果を言うなら、失敗だった。
黄瀬はあの強姦以来毎日黒子を抱いたが、乱暴に抱くことは『仕置き』以外では余りなかった。それでも、時折黒子の理性を殺すように乱暴に抱くことがあった。そういうときは必ず黒子は途中で失神する。目が覚めれば倦怠感が酷く、身体は鉛のようにピクリとも動かない。瞼は腫れて、ガンガンと響く頭痛も酷かった。
そういう状況下に落として黄瀬は出かける。立つどころか動くことさえ困難では逃げようなどない。
そんなこんなで『勉強』も『家庭教師』も鼻で嗤うように爛れた冬休みを過ごした。
そして、休み明け、黒子は観衆真っ只中で宣言した。

『もう、キミの勉強など見たくないです』

真っ向から否定とすら取れるその言葉を黒子から受けた黄瀬は、昏い闇を孕んだ瞳で、嗤った。

『ひどいっス、黒子っちがオレを見捨てるー。オレには黒子っちしかいないのに』

揶揄するように、泣き真似までして、黄瀬は黒子をぎゅうっと抱きしめた。抱きしめて、高い背を縮めて、黒子の首筋に顔を埋めて犬のようにぐりぐり押し付けてきた。

『黒子っちがいなきゃオレまた赤点取るんスよ。最後なのに、最後なのに。最後まで赤点は嫌っス。一回くらいはいい点取ってみたいっスよー』

そんなことを黄瀬が泣き真似しながら言うのを聞きながら、黒子は身体をぎくりと震わせた。ぴちゃりと水音がしたかと思った。首筋、いつの間にか開かされたシャツから覗く鎖骨、耳朶の裏、そこらを黄瀬に舐められた。こんな観衆の在る場所で。ここなら、観衆が在るここなら、黒子に強引なことは出来ないと思っていたのに。

『黒子ー、黄瀬は馬鹿で大変だろうけどもうチョイ手伝ってやれよ。学年末は一月の最終日からなんだぜ?もう一ヶ月の辛抱だって』

『そうそう、黄瀬君カワイソウだって。最後まで全部赤点だったらさ』

観衆の言葉など黒子は取るに足りないものだった。どうやっても此処で自分のこの姿勢を崩してはいけないと思っていた黒子は言葉を撤回する心算はなかった。
だが、状況は直ぐに変わる。黄瀬が衆目など気にもせずに耳朶裏の白い肌に吸い付いてきたのだ。黒子の心中は狼狽なんてものではなかった。恐慌にすら陥りそうだった。此処に来て漸く、黄瀬にとって衆目など取るに足りないものであると、黒子は本気で理解した。言ってしまえば、黄瀬が此処で今すぐ黒子を犯す事だって出来るということも、理解した。
そんなのは、黒子は絶対に嫌だった。

『わかりましたっ、見ます、勉強、ちゃんと見ますからっ』

『皆ありがと!お陰でオレはなんとか有終の美を飾れそうっス』

黄瀬は観衆には愛想で応え、黒子には嘲笑で応えた。

『可愛くて、でも馬鹿な黒子っち。逃げ道なんて、オレが残す訳無いじゃない』

(こんな人、道化以外の何だと言うのだろう)
黄瀬は滑稽な仕草も物言いもしない。けれど、滑稽な化粧で表情を塗り潰して本性を隠す道化のように、黄瀬もまた綺麗な笑顔の仮面で荒々しい本性を隠す。そして、黒子を逃がさないために周囲を扇動する。人をそんな風に騙している時点で道化と判断するのは黒子の偏見なのだろうか。
(どっちでも、いいんですがね)

「黒子、聞いているのか?」

ふと、声を掛けられ黒子は焦点を目の前の緑間に戻す。彼は片眼を眇め、テーピングしたその指先を伸ばしてきた。だが、その指は黄瀬に弾かれた。

「触っちゃ駄目っス。黒子っちはオレのっス。だから、触っちゃ駄目なんスー。ホントは見ても駄目ー」

未だに黒子に発言を許さない男がおどけてそんなことを言った。
黒子を背後から抱きしめている片腕に力が篭もる。これは後が大変だろうな、そんなことを黒子は思考の片隅に置いてみた。
非力な黒子がどう抗っても、この身が黄瀬という檻の中にいる現状からは逃げ出せない。それをもう厭と言うほど思い知った。もう、諦めたのだ、全て。どうせ高校は別になる。それまでの辛抱だった。

「本当にお前は犬のようなヤツなのだな。飼い主を奪われる心配でもしているのか?全く、馬鹿馬鹿しい。二ヶ月後には捨てられるというのに。どうせならその忠犬根性で、黒子の進学先でも聞けと言うのだよ」

進学先、その言葉に黒子はぎくりと身体を震わせた。口唇と顎が震える。それを宥めるように黄瀬の長い指が白い頬をくすぐった。
(その話題は。緑間君、それは、駄目です)
頼むからそれ以上は何も言うなと黒子は目の前の男に願う。

「ん。そっスね。いい加減、教えて欲しいっスもんね。オレらの誰が一緒の学校に行こうと言っても首を縦に振らなかった黒子っちが選んだ学校。すっげぇ興味あるっス。今日聞いてみるっス。勉強の合間にでも。―――ね、黒子っち?ちゃあんと、答えてね?」

覗き込んでくる道化の美しい笑顔に、黒子の足が震えた。
(はやく……このオリから にげたい)
けれど、発言の自由はこの咽喉には帰ってこない。そして、逃亡の権利も、この身からは剥奪されたまま。









塞いだ逃げ道

 ワンコだってね いつかは しゅじんをつなぎたくなるモノ なんスよ







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