此方の為すべきことがすべて終わった暁に、私がこの世で最も信頼できる者の手で研究書を貴方の手元に届けさせます。
そう言い置いた少女の背が銀の帳で完全に影も見えなくなるまで見送ったエドワードは、気配もなく背に立った存在に声を掛けた。
「渋い紅茶はいらない」
背後に控える存在はクツリと咽喉を鳴らし、心にもない謝辞を口にしてくる。そうして、玄関口で雨風に打たれるエドワードに薄朱の紅茶を差し出した。
「渋くはありませんよ。幼いお客様には間に合いませんでしたがね。身体が冷えます、どうぞ」
「三十分も掛かった紅茶など、あの子どもも飲みたくはなかっただろうよ。俺も同様だ」
ぎろりと深い藍の瞳を睨みつけるが、男は意にも介さずクッと口唇を歪ませる。その様子にエドワードは歯をぎしりと鳴らす。そうして、身体ごと男と向き合い、その手を差し出した。
「何をしていたかなんて訊きはしない、そんな事は解りきっている。だから、さっさと、キーを寄越せ」
だが、エドワードの要求には耳を貸さず、ライルは目の前にある掌にソーサー毎ティカップを置いた。ソーサーは熱を伝えてこず、ひんやりとしている。けれど、カップに満たされている薄朱の液体は確かに湯気を立てて甘みのある香りでエドワードの鼻をくすぐる。
「態々休憩を取りに此方に帰ってきたのに、肝心の休憩も取らずに何処へ行く気です。これでも飲んで、少し落ち着いたらどうですか」
掌に置かれた紅茶を見つめた後、揶揄するような色をちらつかせる藍の瞳を睨みつけ、エドワードは重石が載った掌を傾けた。それは掌を滑り、間も無く、ガチャン、と割れた大きな音をその空間に響かせた。熱い液体は飛び散ってエドワードとライルの軍靴に掛かるが、熱を感じるような造りではない。男の顔色も変わりはしない。ただ、少しばかり苛立ちに瞳の色が深くなる。
「言わなかったか、三十分も掛かるような紅茶はいらないと。加え、何が入っているかもわからない液体など、論外だ」
「普通の紅茶ですよ、マーガレスの紅茶はお好きでしたでしょう?」
「そんな御託はもういい。命令だ、車のキーを寄越せ。タッカー邸に向かう。あの三十分のうちに部隊に招集を掛けて、向かわせたのだろうっ」
剣呑に暗く光る瞳を睨みつけ、エドワードはもう一度命令だと繰り返した。そうすれば、この男は逆らえない。
「寄越せ!」
エドワードが自ら車を駆り、その屋敷に着いたときには既に軍用車が八台、庭内を占拠していた。既に部隊の内の何人かは、庭を掘り返している。
わかってはいたが、遅かったとエドワードは舌打ちながら暗いタッカー邸内を急ぐ。ライルはそんな上官に溜息を吐き、違う場所へと向かった。途中、何人か軍人達が自分を呼び止めるが、聞き入れるなど冗談ではない。そんなことをしている間に、どんなことになるか。
ショウ・タッカーは恐らく既に拘束されているだろう。だが、あんな男はどうでもいい。それよりも、一刻も早く、リア・グラフィックを見つけなくてはいけない。誰よりも先に。
エドワードは足を止めた。
「―――んで、―――ぱ……」
重く、濁ったような声が聞こえる。小さな声だ。だが、何故か、それはエドワードの警鐘をガンガンと痛いほどに鳴らし、少し開いたその扉の前で足を止めさせた。
「ぁ……ぅ……」
扉の向こうから聞こえる小さな音に、冷や汗が湧き出て細いこの背をじっとりと濡らしているような気がした。
エドワードは震える手で、その扉を開く。
何故だろうか。この時、エドワードの脳裏に数年前の国家錬金術師登用試験の内容が頭のなかで回っていた。ショウ・タッカーが綴銘という銘を戴き、生態の権威と呼ばれる始まりのそれを。
違ってくれ、と願いながら踏み入れた其処は資料室だった。
既に部隊が此処に踏み込んだのだろう、落ちた本や紙を出来るだけ避けながら先へと進む。カーテンで閉ざされている室は暗い。それでも足元を照らすだけの明かりはあり、次第に眼は慣れる。そうこうしている内にも声の出所を探すエドワードは、不意に近付いてくる気配に立ち止まった。
それは確かに知っているものではあったが、知らないものでもあった。
「―――んで、……あそ、で」
眼界に収まったそれに、エドワードは崩れ落ちるように膝を付いた。その元に、それは四足でゆっくりと歩み寄ってくる。それの姿も気配も、あの日迷子の少女が連れていた犬に似ていた。けれど、同じではなかった。獣同様の四足の肢体は長い毛に覆われ、耳は垂れ下がり、馬のように長い尻尾は左右にゆるりゆるりと床を打つ。既に、これは犬という種から外れた存在だった。
けれど、エドワードはわかった。
「アレキ、サンダー?」
恐々と差し出したエドワードの手をそれは嗅ぎ、ペロリと舐めた。そうして、エドワードの懐に入り、青い軍服を纏う腹に頭を擦り付ける。エドワードはそれに記憶があった。けれど、それは、アレキサンダーの仕草ではない。
「うそ、だ、ろう……」
呆然と眼を見張るエドワードに、それは告げた。あそぼう、と。あの日のように。小さなあの子が、自分の腰に抱きついて頭をぐりぐりと擦りつけたように。またあそんでね、とそう云って。
「おねぇ、ちゃん。……あ、そぼう」
「ぁ、あ。……ニ、ィナ?」
生態の権威、綴銘の錬金術師と呼ばれる、ショウ・タッカー。あの男が、数年前の国家錬金術師登用試験で出した研究成果は、人語を理解し喋る合成獣。
資料に記された、一言、死にたいと言った合成獣。
こんな夜中なのに、気配のしないニーナとアレキサンダー。
知っている二つの気配が奇妙に混合する合成獣。
導き出される答えは、なんだ。
噛み締めた口唇は切れて、血が顎を伝う。エドワードは懺悔する様に瞑目し、ゆっくりとその獣を抱きしめた。
「ごめん、ごめんな……」
迷子のこの子達をこの屋敷に送り届け、事件の情報を手にして立ち去るときに危惧を抱いたはずだった。生態の権威と呼ばれてはいるものの、少女の父の研究はさして上手くいっていなかった。そんな男が国家資格を継続して保持するために、禁忌を犯すのではないかと。簡単な、人間と獣を合成するのではないかと。
「ごめん、ニィナ、アレキサンダー……」
なんであのとき。なんであのとき。そんな仮定を懺悔のように繰り返す一方、必死で分解と再生の式を組み立てていく。こんな風に合成されたものを、完璧に個々に分解し、以前と同様に再生できるだろうか。わからない。そんなことはしたことがないのだ。
エドワードは苦難に歪める顔を上げた。
兎に角、此処を離れなくてはいけない。あの深い藍の瞳にこの獣が映ったときのことを考えると恐ろしくて堪らない。
「あそ、ぼ」
こんな姿になってもまだ寂しそうな瞳を自分に向ける獣の頭をエドワードはくしゃりと撫でる。
「うん、此処を出たらな」
言葉を理解する獣は嬉しそう尻尾を振りながら、立ち上がったエドワードの後ろを付いて来る。それに顔を歪めつつ、扉に手を伸ばす。
だが、エドワードの手が触れるより早く、それは開いた。
見張った金の瞳に映った深い藍の色に、エドワードの全身の血がざっと音を立てて引いていく。
見慣れた男が左手を挙げ、その背後に控えていた数人の軍人がライフルを構えた。
いけない、エドワードの頭の中で警鐘が鳴り響く。けれど、身体は凍ったようにピクリとも動かない。
男の手が前方へと振り下ろされ、ライフルは重い音を立てた。それらはすべて、エドワードにはかすりもせず背後に在るものへと駆った。肉を抉る音と甲高い悲鳴が数度鼓膜を打った後、呆然としながらもギチギチと鳴りそうな身体を叱咤してエドワードは振り返った。
床を浸す赤い水と其処に倒れ臥す赤く染まった獣。
ひくひくっと痙攣する肢体に手を伸ばそうとエドワードが膝を折れば、目端に現れた黒筒が耳元で重い音を放った。直後、伸ばした手に触れてもいない獣の赤が掛かった。獣はもうピクリとも動かない。
「にぃ、な、あれ、き…」
「合成獣は攻撃してきたため、生け捕りは危険と判断し射殺。報告書には、そう記入を。リア・グラフィックを探せ」
エドワードが呆然とする中、背後で部下がそんな指揮を飛ばす。金の瞳を見開いたままゆるりと背後を振り返る。
ライルの言葉通りに離れていく部下など、どうでもいい。硝煙が立つライフルを手にしているこの男だ。今自分の傍に膝をついたこの男だ。何の罪のない獣の血をこの手から拭っている、この男が問題なんだ。
「……けるな、ふざけるな!!なにが、攻撃をしてきただ!何が危険だ!!!あれは、人間だったんだぞ!!!!小さな、女の子と犬のっ!!!」
衝動に任せ、男の胸倉を掴む。エドワードは首を絞めかねない勢いであるにも拘らず、ライルは平然と此方を見下ろす。
「だからでしょう。あんな物に生きていられると、困るんです。あんな下らない物のために、貴方のすべきことが為されなくなるなんて冗談じゃない。その甘さも程ほどにしておかなければ、上層部の連中に足元をすくわれますよ」
何を平然と、なにを言っているのだ、この男は。怒りと悲しみに混乱して頭が働かない。どうすればいい、わからない。エドワードの手が震える。なんと言えばいいのだろうか、この男に。わからない。わからない。ただ、どうしようもなく、許せない。自分もこの男も。ひくりひくりとエドワードの顔が引き攣っていく。
不意に丈夫な軍服越しの腹部に、硬いものを感じた。次に強烈な熱を、そして激痛が走った。ゆっくりと力が抜けていく身体が、獣が流した赤い海へと崩れ落ちる。けれど、其処に落ちる前に、今まで胸倉を掴んでいた男が抱きとめられた。
エドワードは自分が部下であるこの男に撃たれたのだと、理解した。
そして、事件はこの男の望むように終幕を迎えるのだということも。
「貴方には、誓いを護っていただかなくては。私は、そのために、こんなものを着ているんですから。情に流され、道を誤るなど、許しませんよ」
血と共に体力も体外へと消え失せ、疲労感が全身を支配する。目蓋は鉛のように重く感じ、落ちてくるそれに遮られる前に見た男の顔は酷く苦しげで、理由はわからずとも、エドワードはいいざまだと思いながら目蓋を閉ざした。
「おーい、ライ、―――って、おい、撃ったのかよ、お前」
「撃ったのは私じゃなく、ショウ・タッカーだろう?それよりも、リア・グラフィックは?」
「どーも、その人が既に逃がしたみたいだぜ?いたっていう形跡はあるんだが、姿は何処にもない。つー訳で、准将に先手を打たれたと判断すんのが妥当だな。どこに行ったのかも、誰が連れて行ったのかも、わかりゃしねぇ」
遠くなっていく意識がそんな声を聞く。だから、エドワードはざまぁみろと呟いてやった。
(あのこだけは、まもってみせる)
それから後、エドワードの記憶は曖昧だ。時々目が覚めてはぼんやりとした視界の中、誰かが点滴を変えていたということしかわからない。
正気を取り戻したのが、約二ヵ月後。銃創が大分癒えた頃に漸くずっと投与され続けた睡眠薬か精神安定剤の類の薬が抜けたのだろう、頭がすっとクリアになった。
まず、エドワードは今日が何月何日であるかを確認し、真夜中だというのに東方司令部まで駆けた。あの事件がどういう終幕を迎えたのか知りたかった。
執務室で事件の調書に眼を通せば腸の煮えくり返る思いはしたものの、証拠不十分でメイリアとの約束どおりジールディスにまではメスは届かなかったらしい。そして、先に逃がしたあの赤ん坊は護れたようだ。
「はっ」
上等な黒革張りの椅子に全体重を掛ける。そのままエドワードは顔を覆い、息を吐いた。
調書には庭に埋没されていた奇怪な骨を十八体見つけたと書いてあった。添付された写真には、獣のような、けれど余りに奇妙に屈折した白骨があった。考えるまでもない、ニーナやアレキサンダーたちと同じような合成獣なのだろう。やはり、ジールディスの依頼である新種の血液型が創れない場合は、攫ってきた子どもをタッカーの研究材料としていたということなのだろう。近隣の女性が断絶魔、と言っていた事からもしかしたら合成は上手くいっていなかったのかもしれない。生まれあがった途端、互いの存在に拒否反応が起こって暴発するということもあるらしいのだから。
考えてみれば、それもそうだ。まともな合成獣があの家にはいなかった。蛇と猫を合成したのだろうが、あれも随分とお粗末なものだった。例え、人間が題材になってもそう上手い合成獣が出来上がるとは限らない。偶然にも成功したのが血の繋がった娘というのは良かったのか、悪かったのか。どうなのだろうか。多分、子ども達を題材として新たな生を受けた獣達は不完全品とされあの家の合成獣の腹に入ったはずだ。でなければ、最初に誘拐された子どもはまだしも、十二・三人目以降の子どもを題材にした獣が白骨化するには時間が短い。いくら、土の中に埋めていたとしても。
やるせないやるせないやるせない。
これだけの悪行を犯しながら、タッカーは罪を悔いることもなく茫然自失のまま処刑、ジールディスは今ものさばったまま。そして、あまりに悲惨凄惨な事件であったため、真相は闇の中。知っているのは今事件に携わった者たちだけ。被害者の家族にさえ、子どもは死んだと偽りの死因を告げるのみ。彼らに縋りつける骸さえ帰してやれない。
「………畜生!!!」
がたりと椅子から立ち上がったエドワードは呻きながら机の上のものすべてを払い落とす。
ガラス製の電灯が割れる音、インクの容器が床に叩き付けられる音、紙が舞い上がる乾いた音、調書が落ちる重い音。外から聞こえてくる鳥の声、草の揺れる音、虫の鳴き声。何もかもが鬱陶しい。やるせない。耐えられない。
「……チクショウ」
眦から零れてくる冷たさを誤魔化すように頭を擦り付け、口惜しさに痛む心臓を誤魔化すようにマホガニーの机に爪を立てた。爪が剥がれたことを感知してもエドワードは力を緩めなかった。
「止めなさい、爪が捲れているでしょう」
背後から身体を掬うように腕を掴まれる。この身を拘束する存在をエドワードは肩越しに睨みつけ、なんのようだと呻く。
「主が療養中にも関わらず、司令室から派手な音が聞こえましたから様子を見に来たのですよ」
「お前は上官を撃ったのに軍法会議に掛けられていないようだな」
目の前の男を嘲笑うようにこんなことを言っても、次にこの男が吐く言葉がどんなものか良くわかっている。だからこそ、この一対の琥珀が据わっていくのがわかる。
「撃ったのはショウ・タッカーですよ。娘と犬とで合成獣を作り上げ、危険と判断されたそれを殺され怒りに貴方を撃ち、その後自失したショウ・タッカーがね」
予想通りの言葉をすらすらと舌に乗せる男に疲労感がどっと出てくる。この男に罪悪という観念はあるのだろうか。そんな馬鹿なことを一瞬でも考えてしまった自分にエドワードは嫌悪したのだ。
ライルは確かに非情ではあるが、無情なわけではない。ニーナや被害者の子どもたちに対してもこの男なりに思う事はあるはずだ。
「それから、お客様ですよ。ジールディス家当主、ヴィーク・ジールディス氏です」
脱力したエドワードを椅子にやんわりと押し付けるように座らせ、ライルは扉を開いた。
其処に立ていたのは、初老を通り越した男だった。上流階級らしく、目立ち始めるだろう白髪を綺麗に金に染めて身だしなみもきっちりと整えた男。
ふと、エドワードはこの男は自身が願った事の顛末をちゃんと知っているのだろうかと疑問に思った。子ども達の苦しみを、悲しみを、恐怖を、カケラでも想像したのだろうか。わからない。エドワードも、わからない。あの子達は、ニーナはどんな思いだったのだろう。
エドワードは、立ち上がる。そして、ゆっくりと扉口に立つ男の下へ歩み寄った。
無残な姿で発見された子ども達とは違い、小奇麗な姿をしたこの男に湧き上がったのは殺意なのかもしれない。
けれど、この男もまた哀れな存在なのだと、エドワードは知る。真正面に迎えたその男の瞳の奥に隠された苦渋の罪悪を垣間見た、この瞬間に。
「ヴィーク・ジールディス。いつか必ず、貴方に流れるその血に、然るべき罪を与えて差し上げますよ。この手で」
知らないことを幸せだと思う事はないから、哀れなこの男の真実を知れてよかったのかもしれない。だが、エドワードはこの男が許せない。この男のした事は、今はまだ裁けないけれど確かな罪悪なのだから。
東方司令部最高司令官の言葉に、男はそうかと微かに顔を緩ませた。まるで一縷の望みを見つけたような顔つきに、エドワードはどうしようもない遣る瀬無さを感じた。
この男の望みは、脆弱な孫娘を助けることだった。それは一般階級の者には無理でも、上流階級のこの男には叶えられる可能性があった。だから、止められなかったのだ、罪だと知りながらも邪悪なその欲望を。
まるで、いつかの愚かな自分のようではないか。
「赦しはしない」
誓いを唱える。男のためではない。骸の上に親しい者達の涙を感じることも出来なかったばかりか、人として死ぬことも出来なかった子ども達。愛しい存在を取り上げられたばかりかその存在があった証も手のうちには戻らず、その理由さえも聞けない大人たち。彼らのために。今は政治のために、犠牲にする彼らのために。
誰も彼も、助けられるHappy endを迎えられるなどと思ってはいない。けれど、望んで何が悪いのだ。エドワードは床に倒れた獣を思いだし、胸が痛んだ。
遊ぼうと訴えたあの子との約束を、護ってあげられなかった。
ヴィーク・ジールディスを送っていく軍用車をエドワードは執務室の窓辺から見送る。夜闇の中、灯りに照らされていた車も、もう見えない。エドワードはその視線を傍らの男に向けた。ライルは器用に爪の剥がれた手当てしてくれていた。内心は愚かな自分を嘲笑しているのか、それとも最早呆れているのか。外面のよさに、内心は読めない。
「リア・グラフィックは何処です」
居所を聞いたらあの赤子を殺すのだろう。寂しい眼をした獣を殺したときと同じように。
「一つくらい、救いがあってもいいだろう」
ポツリと力なく出てきた言葉にライルは溜息を吐いた。
「救いなんてない事は、貴方が一番識っているでしょう」
「俺への救いではないよ、――― 一人くらい、救いを与えても、許されるだろう」
黙り込む男の名を縋るように呼べば、ライルは再度溜息を吐き、言った。
「リア・グラフィックは死亡と調書には書いてあります」
その言葉はエドワードの要望を叶えると言外に告げていた。それは実のところ予想外でエドワードは唖然と瞠目し、けれど、直ぐに現実を理解して顔を綻ばせた。頭上からは嘲るような溜息が降ってくるがどうでもいい。
「――― 一時間後に迎えに来ます。貴方は今有給を取って療養中なのですから。ああ、そうです、未成年者誘拐事件の最高指揮官は貴方でしたが怪我の療養に時間が掛かるとの診断を受けましたので、カルロス・プレーリー少佐に当事件の最高指揮権を移譲しました。既に一ヶ月以上前に中央に調書、ショウ・タッカーの身柄を移送しました。それから、カルロス・プレーリー少佐は先月の終わりに事件を悲惨な形で迎えたことを苦に自殺しました。以上をお心に留め置いてください。では、一時間後に」
重要な報告を坦々として出て行った男を呆然と見送り、姿の残像すら望めなくなった時エドワードは嘲笑に声を上げた。
自分一人の身を中央の爺どもから守る為に部下の命が一つ消えた。あの男はそう言ったのだ。
あのまま自分が最高指揮官であったならば、軍事利用出来そうな人体と動物との合成獣についてなんらかを提出するように言われただろう。勿論、断固としてエドワードは提出しないだろう。どんな処罰を下されようとも。だからこそ、ライルはあの獣を撃ち、エドワードの自由をすべてが終わるまで拘束したのだ。エドワードを守る為に。だが、本当にエドワードを護ろうとするならば、身代わりの最高指揮官が必要になる。その身代わりが、カルロスだ。最高指揮官の彼がすべての情報を持ちながら死ねば、最早問えることはない。タッカー邸も歪な白骨死体も哀れな獣も、カルロスの手によって火葬されたと調書には書かれていた。すべてを土の下に持っていったのだ。エドワード・エルリックを護るためだけのために。調書には、必要最低限のことだけを記して。
「ばかやろう……」
救いはいらない。こんな自分に救いはいらないから。せめて、これ以上犠牲になっていかないでほしい。
エドワードは床に蹲り、痛み始めた腹の傷を温かい右の手で押さえた。
「エルリック少将」
久しぶりに耳にした凛とした声に、エドワードは一気に現実へと引き戻された。今はもう二年も前のあの雨の音は聞こえない。いつの間にか押さえていた腹の銃創も完治し、今は歪な傷跡になっている。
声がした方向を振り返ると、あの時と同じ護衛四人に背を護られた少女がいた。
「研究書は、無事届いたようでよかったですわ」
ゆっくりとエドワードの隣に歩み寄る少女は儚く微笑み、目下の白の教会に眼を落とす。その翠玉には明らかな悔恨や自責が孕まれている。慰めも何も言えない事が判っているエドワードは見なかった振りをし、その話題に乗ってやる。
「ああ、ロス中尉が受け取り此方に来たその日に私が受け取った」
「謝罪ですむことではありませんが、本当に申し訳ありませんでした。―――いつの間にか、御祖父様に研究書を奪われていたことに気付かず、それによりこのような事態を招いたことは、すべて管理していた私の責任ですわ」
「ああ、けれど、それは、罪罰は科せられない。わかっているだろう」
静かに、いっそ冷たく、突き放すようにそう言えば、少女は眼を瞬かせて口唇を震わせた。
「……っ、はい」
まだ十六の少女は自分の愚鈍さが許せないのだろう。そして、許されないことを知っているのだ。だが、それはエドワードが言ったとおり罪罰を科されることはない。あるとすれば、今少女の身の内でのた打ち回るどうしようもない悔恨や付きまとい続ける自責がそれに値するのだろう。一生消えないものだから、一生苦しんでいくものだから。
エドワードは突き放すようにその話題を終わらせ、先程拾った灰色の紙面を少女に差し出した。
「それよりも、この新聞の記事は君が?」
「はい。私が、知り合いの記者の方にお願いし、その記事を書いていただきました。エルリック少将に研究書を届けさせてからは、兎に角身内からも、知り合いからも、軽蔑されるのではないかと恐れが出始めまして。逃げ出す前に、退路を立ってしまえと。思ったのです」
「一応、穏便にいきたかったのだけどね」
「申し訳ありません。でも、これも、丁度いい罰の一つですわ―――御祖父様の免罪を願おうと今でも思っている、私への……」
声を震わせてとうとう涙を零す少女を目端に収め、エドワードは踵を返した。
聞こえるか、聞こえないか、曖昧な距離でエドワードは足を止めた。
「君が夜間街に黒服の人間を配置してくれたお陰で、少なくとも犠牲者は減った」
ありがとう、それだけは音にすることなく呟く。背後では護衛が少女へ駆け寄る所作が感じられた。
エドワードは今度こそ足を止めず、ライルが扉を開いて待つ車内へと身体を潜らせた。
「司令部へ」
空は黒雲に支配され、街も薄暗い帳内に閉じ込められて。ゴロゴロと重く響く鳴き声に釣られて空も大粒の涙を零し始める。そんな外界をカーテンの向こうに押し遣り、広い会議室で男女の軍人が六対五に別れて顔を合わせていた。
「―――以上が、現在東方司令部が携わっている案件となります」
険悪とはいかないが、それでもあちらから向けられる意識や視線は不信感、嫌悪が満ちている。エドワードは対面するロイとその麾下にある者たちを眺める。自然と浮かんでくるのはシニカルに口唇を歪めた笑み。金にも似た色の瞳は鮮やかになっているのだろう。
「ご苦労様、もう座って良い、ホークアイ中尉」
戸惑うような表情で敬礼した彼女が座すのを見届け、エドワードは両肘を机の上に置き手を組ませた甲の上に顎を落ち着けた。
「では、案件は一旦俺が預かり、その後マスタング大佐と俺に振り分ける。お前たちの評価は東方司令部最高司令官である俺の評価にも繋がる。―――せいぜい尽力してくれ、ロイ・マスタング」
息を呑む彼らを見据え、エドワードはいっそ艶やかに微笑んでやった。
彼等はこれをどう取るだろうか。宣戦布告か、けれど、真実は―――。
少女は真っ黒な車の中、車窓を強く叩く空の涙をガラス越しに指でなぞった。
空と同じように少女の頬には滑り落ちていく涙がある。丘で再会した光の支配者の最後の言葉を思い出せば、嬉しくて悲しくて悔しくて、更にそれが誘われる。少女は拭うこともせず、ただ泣いた。
祖父は二年前の事件で自分の愚行を後悔した。だから、ショウ・タッカーの研究書を少女に盗まれたことを知っていながら、何も言わなかったのだ。少女がけして悪用することはないとわかっていたから、其処はいい隠し場所だったのだ。悪用されないことを願っていた彼にとって。
そんな彼がなぜ、再び同じ間違いを犯したのだろうか。孫である少女にもわからない。勿論、原因はわかっている。親友のホーランドの孫娘が少女の小さな従姉妹と同じ特殊な子どもだったからだ。だから、祖父は親友のために同じ罪を犯したのだ。一度は悔恨を、罪悪を覚えたはずなのに。一体、なにが、彼の悔恨や罪悪を凌駕したのだろうか。
だが、もうどうでもいい。一度は悔恨に涙していたとしても、少女にとって優しかったとしても、祖父は罪人なのだ。庇うことはできない。弁護することも許されない。
そうしたのは自分だ。祖父の罪が二年前のものだけならば、少女の行いは彼に執行猶予を与えるだけのものだった。けれど、彼は二度の罪を犯し、少女は祖父の罪を明らかにする扶助的役割を負ってしまった。
本当はしたくなかった。けれど、少女は自身の言葉を、覚悟を曲げるだけの安い矜持を持っていなかった。
だから、今、少女は泣く。自分は光の支配者のように強くはないから、心身に弱音や卑屈、悲愴に苛立ちを溜めては直ぐに心が折れてしまうのだと、よくわかった。雨が晴れた後空気が清々しくなるように、どうしようもなく今の心は悲しくても辛くても泣くだけ泣いたらすっきりして前に進めるだろう。
だから、今は泣いて、泣いてすべてを流しだす。
優しくて愚かなあの人と、弱くて愚かな自分に、決別するために。
メイリアは充血した瞳を瞬かせ、また一つ二つと涙を落とした。
(さあ、決別を)
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