はじめに

 桝矢は大阪府堺市中区東山に位置する。東山は桝矢・高山・北垣外の三町からなる。

東山は寛文8年(1668年)より約13年かけて新田の開発が進められ、天和元年(1681年)

畑方479石余、田方4斗余、計480石あまりとなり、開発は事実上終了した。当時は綿花など

田作の商品作物の栽培が盛んであった。1834年、地名は和泉國大鳥群東山新田村となって

いる。明治初期まで東山新田は二分され、一つは新田南部、開発者、升屋系統。もう一つは新

田北部、開発者、大和屋の系統であった。この頃から東山新田を桝矢、高山、北垣外と呼び分

けたと思われる。



    ● 明治元年(1868年)  堺県が設立された。

    ● 明治14年(1881年)  堺県が大阪府に合併した。

    ● 明治22年(1889年)  市町村制施行により

                     泉北郡久世村大字東山 となった。

    ● 明治43年(1910年)  泉北郡久世村東山 と改称した。

    ● 昭和30年(1955年)  久世、東陶器、西陶器、上神谷が合併。

                     泉ヶ丘町東山 と地名変更。

    ● 昭和34年(1959年)  泉ヶ丘町が堺市と合併。

                     堺市東山 となる。

    ● 平成17年(2005年)  堺市が美原町と合併。

    ● 平成18年(2006年)  堺市が政令指定都市に。

                     堺市中区東山 となる。


         東山地車

 現在、桝矢、高山、北垣外の三町それぞれが地車を所有しているが、昔は三町共有の地車が

あった。東山地車である。その地車は大正初期に大東市押廻より購入した北河内型の地車で、

高さ4.5m、長さ5.1m、幅2.5m(推定)とかなり大型であった。

戦争により曳行されない時期も数年あったが、昭和34年まで地車曳行行事は行われた。その

後、昭和38年に他町の地車愛好者に売却され、東山地車の歴史に終わりを告げた。

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         桝矢子供地車

 昭和47,8年頃から毎年、小阪・平井・東八田といった近隣の町では秋祭りの行事が一層賑や

かになり、それらの地車が東山地区を巡回した。そのため桝矢も他町の地車で賑やかであった。

この光景を眺めていた町内の有志の方々から子供たちのために地車を自分達の手で制作すると

いう構想がでた。自治会などの検討の結果、子供地車を制作する事が決定。昭和54年9月末に

桝矢子供地車は完成した。素人が制作したものであったが、とても素晴らしい地車であった。

そして、同年10月の秋祭りには子供会が中心となり、新しい子供地車で町内をねり回った。

こうして、桝矢にも秋祭り地車曳行行事が復活したのである。

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 その後、子供地車は昭和60年までの7年間に渡り、秋祭りには賑やかに曳行されたが、地車

新調に伴い、昭和62年9月に八田西町二丁に譲渡された。そして、八田西町二丁子供地車として

平成13年まで大切に曳行されていた。

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         借用地車

 地車への関心度が高まるにつれて地車曳行行事も一段と盛大になり秋祭りは賑やかになった。

このような情勢の中で、近隣の町で地車を新調するところが増えてきた。それにより、桝矢の青年

層からも地車を新調して欲しいという声が急速に高まりそれが拡大してきた。

昭和60年の秋祭りが近づくにつれて、時の動向をいち早く察知し、青年達の希望を叶えさせる方策

を考えていた町内の地車愛好者は、他町の地車を個人で譲り受け、自治会にその地車を秋祭りで

曳行して欲しいと申し入れる。自治会は青年層の動向と諸般の状況を考慮し、この厚意を受け入れ

る事となり、昭和60年の秋祭り一日目にこの地車を曳行。二日目は以前からあった子供地車を曳行

した。秋祭りが終り、この地車を購入できないかと言う意見が出されていたが、結局貸して頂いた地

車愛好者に返却された。

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         リース地車

 昭和61年になり地車新調の気運もさらに高まり、自治会も新調問題について論議を重ねた。

しかし諸事情により最終的に新調購入の決定をする事ができなかった。近づく秋祭りの対応に就い

ていた自治会はその打開策として、リース地車の方向を見いだした。

そして昭和61年は太鼓正より地車をリースし、秋祭りは盛大に行われた。
         桝矢地車

 桝矢自治会では数年にわたり地車新調について種々論議をしてきたが、ついに地車を新調する

ことを決定。昭和62年9月26日、池内工務店より地車が納入され翌日に入魂式が行われた。

長年の懸案であり青年達の願望であった地車であったので多数の人が集まり盛大に行われた。

それ以後、町民に愛されながら曳行され、現在に至る。

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