「母さん。ぜったい目を開けたらダメだよ。ぜったいだよ!」 少年は母親の手を引きながら、念を押した。 「分かっていますよ。でも、何なの?」 「ヒミツ!」少年はワクワクした表情をして、ゆっくりドアを開けた。そこには少年の祖父や父親がいた。三人は互いに無言の合図を送り合った。 「まだだよ、いいって言ってからね。よし。母さん、いいよ!」 母親が目を開けると、部屋中に白と黄色の花に彩られ、テーブルにはおいしそうな匂いを漂わす夕食が並んでいた。いつもと全く違う光景に母親は驚いた。 「これは・・・?」 「母さん、たんじょうびおめでとう!」 少年の言葉と同時に三人から拍手が送られた。その時になって、母親は今日が自分の誕生日であることに気付いた。最近はずっと気に病むことが多すぎて、自分のことなど二の次だったからだ。 「この花はね、おじいちゃんが摘んできてくれたんだよ。この花、母さんの好きなすいかずらだよね?」 少年は母親の手を引いて中へと案内した。 「でね、ごちそう見て!今日はちょっと豪華でしょ?昨日、ぼくとおじいちゃんでとなり山まで行って、タケノコや山菜やきのこ取って来たんだよ。でね、これを料理してくれたのが父さんなんだよ!」 「あなた・・・」 母親は驚いた表情で父親を見た。父親はやせこけた頬に微笑みを浮かべて答えた。 「今日は体の調子が良かったし、凱歌も手伝ってくれたから。それに君の誕生日くらい何かしたいしね。」 もう、それだけで母親の胸には嬉しさでいっぱいに張り裂けそうで、思わず目に涙を浮かべた。すると、少年は母親の手を再び引っ張り、自分に注意を向けさせた。 「母さん、これ」 差し出した少年の手には竹で作られた髪留めが握られていた。 「これは?」 「ぼくが作ったんだよ!おじいちゃんにおしえてもらったんだ。ちょっともようがうまくいかなかったけど。ぼくからのプレゼント!」 少年の目はキラキラと輝いていて、女性が喜んでくれるのをワクワクしながら待っていた。女性は手渡された髪留めを見つめた。竹を裂いて編み込んである髪留めだった。竹の裂き方も疎らで編み方も歪であったが、とても五歳の子供が作ったものとは思えなかった。 「これを自分で作ったの?」 「うん。毎日がんばったんだ。けど、しっぱいばかりでなかなかできなくて。これが一番上手く作れたんだ。ひとつ作るのに丸ひと月かかっちゃった。」 「凱歌・・・。ありがとう。母さん、とっても嬉しいわ」 そう言って、女性は少年の頭を優しく撫でた。少年は照れるように笑った。 「おじいちゃんがね、ぼくにスジがいいって。『スジ』ってなに?」 「才能があるってことよ。凱歌はおじいちゃんや父さんに似て、手先が器用なのね」 「じゃあ、昔のおじいちゃんみたいに上手な竹さいくを作れる?」 「そうね、練習したら作れるようになりますよ」 「じゃあ、れんしゅうしたらお父さんみたいにおいしい料理作れる?」 「そうね。練習したらね」 「うん!ぼく、がんばるよ。来年の母さんの誕生日にはもっときれいな竹さいくと、おいしいごちそうを作るよ!」 「さあ、そろそろ食事にしようじゃないか。せっかくの料理が冷めてしまうぞ」 祖父の声がきっかけとなり、慎ましい晩餐となった。肉や魚もない、決して豪華とは言えぬものではあったが、四人が囲む食卓には笑いが絶えず、心を温かくさせるひとときだった。 しかし、その日以来、四人が一緒に楽しい食卓を囲むことはなかった。父親の体調が優れず、横になる日々が続いた。母親も家計を救うため仕事に出たまま戻らず、家族はバラバラとなってしまった。『母さんの誕生日には、もっと綺麗な竹細工とごちそうを作る』という約束は果たせぬまま、もうすぐ十一年の歳月が流れようとしていた。少年は青年となり、部屋から月を眺めていた。 「母さん・・・。」 青年は静かに呟くと、意を決したような表情に変わり、閉ざされた部屋のドアを振り返った。
ゴン、ゴン、ゴン。 どこからか何かを叩く音が聞こえた。暗闇に閉ざされた中では何も分からなかった。というより、青年は音に気も止めなかった。何もかもがどうでも良く思えた。 ゴン、ゴン、ゴン。 『うるさいよ。』 それでも、音は鳴り続け、青年は無視して無言を貫いた。そうすると、音は諦めたかのように静かになった。 『もう放っておいてくれ』 青年は何も考えず、暗闇に身を委ねようとした。すると、青年の耳元で何かが転がった。それでも気に留めずにいると、今度は青年の頭に何かが当たった。 「くっ・・・」 うっすらと開けた目の視界に、小さな石が転がっていた。 「・・・兄さん、凱歌兄さん!」 小さく囁かれた声に青年は完全に目を覚ました。途端に口の中で血の味がし、体のあちこちから痛みが発せられ、全身が重だるくて動けずにいた。青年は腫れ上がった目のわずかな視界から辺りを見回した。そこは馴染みの独房で、カビ臭い床に青年は鼻をつけて倒れていた。 「凱歌兄さん!」 独房の小さな鉄格子の窓からあの少年の声が聞こえてきた。 「・・・劉か?」 「気を使わなくていいよ。范でいいって。それより、大丈夫?」 「ああ、いつものことさ。」 気のない返事をして、青年は痛みを堪え、なんとか自分の体を動かして仰向けになった。 「それより、お前。どうしてそこに?そんな所にいたら見つかるぞ。」 「サイレンが鳴り響いたから、凱歌兄さんだと思ったんだ。そしたら、何だかじっとしていられなくて、騒がしさに紛れて抜け出して来たんだ。」 「ここにね・・・。俺が捕まるのを見越したわけか。」皮肉めいた言い方だった。 「違うよ!ただ・・、ここに戻って来て欲しかったんだ。」 「ずっとここにいろと?」 「オレだって嫌だよ、こんな所。けど、逃げるなら一緒に行きたいんだ、凱歌兄さんと一緒に。」 「慕ってくれるのは嬉しいが、俺は人に構っている余裕がない。自分のことで精一杯だ。今日こそ、抜け出せると思ったのに・・・・。」 気持ちを口にした途端、青年の胸にやりきれない思いとある感情が溢れ、思わず手で目を覆った。 「今、何時頃だ?」 「一時くらいかな?見張りが交代していたから、0時は過ぎているよ」 「そうか・・・」 青年の覆った手の隙間からは、窓に切り取られた夜空があった。その夜空の高くには綺麗な半月が輝き、狭い独房に月明かりを届けていた。 『また、今年も約束を果たせなかった。』 いつも月は青年に郷愁の念を思い起こさせ、抱えた寂しさを募らせた。 「凱歌兄さん、さっき寝言言っていたよ、『カアサン』って」 「意味不明の言葉だな」 日本語は少年には分からないだろうと、青年は自分の思いを誤摩化した。 「(日本語で)そうかな?凱歌兄さんがそんな言葉をつぶやくとは思わなかったけど」 「お前・・・。日本語が話せるのか?」青年は驚きの表情を浮かべていた。 「それはこっちが聞きたいよ。凱歌兄さんが話せるなんて全然知らなかった」 「違和感なく話せる所をみると、親しい人に日本人が?」 「母さんだよ。言ってなかったっけ?」 「いいや。」 「そうか。凱歌兄さんは?」 「・・・お前と同じだよ。母さんが日本人で、父さんが中国人だ。」 「初めて聞いた。兄さんって、あんまり自分のこと話さないもんね。どうして?」 「あまり思い出がない。もう人生の半分をここで過ごしている。それに、どんどん記憶が薄れていく。」 「兄さんの家族は今どうしてるの?」 「・・・いないよ。この話はやめよう。」 青年の目には、家族四人揃って過ごしたあの母の誕生日のことがまざまざと浮かんだ。今日は、あれからちょうど十一年経った日。だからこそ、ここから逃げ出したかったのに。 「そうだね、こんな話しても仕方ない。もう家族いないもんね、オレも凱歌兄さんも。誰も誕生日祝ってくれる人はいないんだ・・・。」 「誕生日?」 自分の考えていたことが見透かされたみたいで、青年は思わず聞き返した。 「あっ、そうだよ!そうだ!もう0時過ぎたんだよね?今日二十二日で、十一歳だ。」 「今日、誕生日なのか?」 「そうだよ」 「二十二日が?」 「だから、そうだって。何だよ!?」 「いや、別に」 口ではさっと流したが、妙な奇遇に青年は驚いていた。初めて会った時から、何か気になる存在だった。互いに鏡を見ているように、共通する思いが重なったり、見え隠れしたり、見透かされたり。だからこそ、自分の弱さを見るようで、相手を避けたい気にもなった。だが、結局は自分を見捨てられないのと同じで、見放せない相手だった。しかし、ここまで不思議な繋がりがあるとは、考えもしなかった。 「毎年さ、ささやかだけど、親が祝ってくれたんだ。でも、今年から祝ってくれる人いないと思うと、なんかね・・・。」 少年の声は強がってはいたが、どこか寂しそうに聞こえた。二十二日に祝いたい人がいながらできない人間と、同じ二十二日に祝ってもらいたいのに祝ってくれる人がいない人間。そんな二人が出会うのも何かの縁なのか?そう思うと、今までと違った感情が青年のやわらかい口調の言葉になって表れていた。 「俺が祝ってやるよ、お前の誕生日。何もプレゼントはないがな。」 「そんな湿っぽい独房に閉じ込められて、どうやって祝ってくれるんだよ?」 少年は皮肉めいた言い方をして笑い飛ばしたが、どこか嬉しそうでもあった。 「大丈夫さ。お前の方からこっちに来てくれる。俺はこの独房で待っているだけ」 「え?どういう意味?」 「すぐ分かるさ」 青年が言った瞬間、けたたましいサイレンが鳴り響いた。 「逃げたほうがいいぞ。五、六人の軍人がこっちに走ってくる。足音が聞こえる。」 「そういうことは早く言ってよ!」 少年は慌てて走り去って行った。その足音はどこか嬉しそうに弾み、わざと見つかるような大きな音を立てていた。青年は少年の様子を思い浮かべて笑い、横になったまま少年の訪問を待つことにした。 (おわり)
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