あれは、小雨が降る夕暮れ時だった。 僕は数日昼夜を問わず歩き続け、ひどく疲れ果てていた。足は棒のように堅くなって地面から離れようとせず、いつまでもその場に留まりたがっていた。しかし、僕は歩き続けた。たとえ何十も足に鎖を巻き付けられているように重々しく引きずって歩くことになっていても、それでも僕は歩き続けた。止まれば、もう二度と歩けないような気がしていたから。 「雨宿りしていきませんか?」 ちょうど祠の前を通り過ぎようとしていた時だった。不意にそんな言葉が聞こえた。とても優しい響きを残す声だったので、一瞬祠の主の声かと思った。だが、違った。 「見たところ、かなりずぶ濡れのようですし、体もお疲れでしょう?」 祠の屋根構えからふと顔を出したのは、声と同じく優しい眼差しを持つお坊さまだった。 「もし体でも壊されては、そのように先を急ぐこともできなくなります。『急がば回れ』と言います。体を休まれてはいかがですか?」 僕の身体はもう限界だった。お坊さまの声に立ち止まってしまった足は頑固に動こうとしなかった。それに、なぜか心も留まることを願っていた気がした。そう、このお坊さまが気になった。 「私もこうやって雨宿りさせてもらっています。あなたも一緒に。」 いつまでも突っ立ったままの僕にお坊さまは優しく微笑んだ。僕の体は自然とお坊さまの言う通りに動き、いつの間にか切り株に腰掛けるお坊さまの隣に座っていた。 切り株に並んで腰掛けながら、僕とお坊さまは黙ったまま、降りしきる雨を見つめていた。雨脚は止むような気配は見せず、いつまでも乾いた大地に降り注ぎ、潤いを与えていた。雨音だけが聞こえる空間。手持ち無沙汰に、僕が周りを見渡すと、ふとお坊さまと目が合ってしまった。その瞬間、お坊さまはやわらかな笑みを浮かべた。 『不思議な人だな。』 見知らぬ者とこうやって過ごすのも、目が合うのも気まずさがあるはずなのに、このお坊さまには全くそうものがないみたいだ。しかも、僕は妖怪なのに・・・。気付いていないのかな? 「雨、止みませんね。」 「え?・・ええ。」戸惑いながら答えた。 「どこから来られたのですか?」 「・・・北の方からです。」 咄嗟に曖昧な言い方をした。出身地を言えば、僕が妖怪とバレるかもしれない。そんな考えが過った。別に妖怪であることを恥じていない。むしろ、猪族であることを誇りに思ってるくらいだ。ただ、僕が妖怪であることを知ったら、このお坊さまはこんな優しい笑みを向けてくれないような気がして、それが嫌だった。村を出るのは初めてだったけど、この数日の旅で十分味わったから。偏見というものに・・・。 「そうですか。」 お坊さまは微笑みながら言うとそれ以上は何も言わずに、また雨を眺めた。 『気を悪くしたかな・・?』 お坊さまに対する申し訳なさと、人間とまともに話せる折角の機会を失ったという後悔が胸の中で渦巻いた。 グルルルル・・・。 胸に渦巻いたものが音となったかと思いきや、空っぽの胃袋の方だった。 「すいません・・・・。」 恥ずかしさ一杯になりながら、必死に音が聞こえないように両手で腹を押さえつけた。しかし、お腹は低い音を立て続けた。お坊さまは僕の様子に笑ったりはせず、徐に背中に背負っていた布袋を外し、そこから笹の葉にくるまったものを取り出した。 「良かったら、これをどうぞ。」 お坊さまが差し出したものは蒸したじゃがいもだった。他にもあったようだが、これが最後の一個のようだ。 「・・いいんですか?これ、最後ですよね?」 「いいのですよ。私はお腹が空いていないので、あなたが食べて下さい。」 何ひとつ戸惑いも迷いもなく、お坊さまはじゃがいもを僕に手渡した。僕は不思議でたまらなかった。 「どうしてそんなに優しくしてくれるのですか?僕は見ず知らずの者ですし、それに・・・、僕は妖怪です。」 僕が口走ったことにお坊さまは全く驚きもせず、表情ひとつ変えることなく、微笑んだままだった。 「人間も妖怪も何も変わりはありません。誰だってお腹は空きます。」 「いや、そういう意味じゃなくて・・。世の中では人間を襲う妖怪もいます。妖怪を嫌いな人間もいます。妖怪が隣にいて、嫌ではないですか?」 「どうしてですか?」 「どうしてって、それは・・・。」 逆に聞かれ、答えに困ってしまった。人間が妖怪を嫌う理由を妖怪に聞く人間がいるなんて。僕が聞きたいくらいなのに。戸惑う僕にお坊さまはすべて見通しているような澄んだ瞳を向けていた。 「確かにあなたが言った通り、世の中には人間を襲う妖怪もいるでしょう。しかし、あなたがそうではないように、すべての妖怪がそうだとは限りません。それはまた、人間にも当てはまります。妖怪を嫌う人間もいれば、そうではない人間もいます。私はあなたといて嫌ではないですよ。それに、妖怪を嫌ってもいません。」 微笑んで答えるお坊さまの言葉に、身を摘まされた気がした。自分が味わった偏見を疎ましく思いながら、自分自身が偏見を持っていたなんて。目の前のお坊さまを前にして、なんだか自分という存在が恥ずかしく思えてきた。 「ずいぶん嫌な思いをされてきたのですね。同じ人として、申し訳ありません。」 ずっと微笑んでいた顔が哀しそうな表情となり、お坊さまは深く頭を下げた。 「そんな!謝らないで下さい。お坊さまは何もされてはいないのですから!むしろ、温かい言葉や食べ物まで下さったのに、あなたに謝られては僕が困ります!僕の方こそ、素っ気ない態度を取って気を悪くさせて。」 「いいえ。そんなことはありません。誰でも話したくないことがあるものです。」 「気付いていたんですか・・・。」 『この人は、なんて方なのだろう。』 優しい笑みに澄んだ瞳、そして、すべてを受け止める清らかな心。こんな人間がこの世にいるなんて。 「別に話したくないことではないんです。ただ、怖かったんです。」 「怖い?」 「僕が妖怪だと分かったら、あなたに嫌われるんじゃないかって思って。でも、思い過ごしで良かった。これで気にすることなく、お話できます。僕は遥か北の朱の国、朱士村から来ました。そして、天竺へ向かっているんです。」 「あなたも天竺を目指しているのですか?」 「あなたも?お坊さまもですか?」 「ええ。私は天竺でお経を頂く為に向かっているのです。あなたはなぜ天竺へ?」 「お腹いっぱい食べるためです!」 思いが言葉となっていた。だが、それはあまりに言葉不足で脈絡なく、その言葉のまま受け止めたら、誰だって笑うだろう。しかし、お坊さまは決して笑わずに僕の言葉を待ち続けた。僕はほっと胸を撫で下ろした。 「僕の村は真冬でも雪が積もらない火山の麓にあります。大地は火山灰が降り積もり、水はけが良すぎて作物が育ちにくいんです。それでも、まだ雨が降るうちは良かったんですが、ここ何年か日照り続きで、貯蔵していた食料も尽きてしまって。みんな毎日の食べるものに困る有り様で、痩せ細って衰弱してる。いつもなら簡単に治るはずの病気も治らないんです。だから!どんな願いも叶えられるという天竺へ向かっているんです。村のみんなにお腹いっぱい食べさせてあげたい。村を豊かな村へと変えたいんです!」 僕は自然と着ている衣を握りしめていた。 「これ、村のみんなが大切にしてるものを売ってまでお金を作って、出し合って買ってくれたものなんです。こんな上質な衣なんて村の誰も見たことさえなかったのに、外へ出るなら猪族として恥じぬ格好をって。僕にしてみれば、こんな衣を買うくらいなら、村のみんなが食べる数日分の食べ物を買う方が余程いいのにって思うのに。でも、どんなに貧しくても、僕ら一族には誇りがあるんです。僕もそんな一族に生まれたことを誇りに思っています。だからこそ、村のみんなの為なら、僕は・・、僕が頑張らないといけないんです。」 思いを口にすると力が湧いて来る気がした。疲れ切った身体が軽くなる気がした。 「あなたはとても強い方ですね。村のみなさんも、きっとあなたのことを誇りに思っているでしょうね。」 「どうかな?僕は変わり者だから。」 「?」 「僕、猪族で生まれた豚なんです。なぜか豚の姿で・・・。」 「でも、心は立派な猪族です。」 そう言ってお坊さまは微笑んだ、僕の気持ちを察するように。やっぱりこの方にはお見通しなんだ。こんな方と出会えた嬉しさが胸いっぱいに広がった。 『大丈夫。まだ歩ける。』僕は徐に立ち上がった。 「僕、もう行きます。」 「でも、まだ雨が・・。」 「分かっています。でも、一日でも早く天竺へ行きたいんです、みんなの為に。お話しできて良かった。そうです、まだお名前を聞いていませんでした。僕、猪八戒と言います。あなたは?」 「私は三蔵と言います。」 「三蔵?あなたがあの三蔵法師さまですか?」 名前に心当たりがあった。旅の間、何度か聞いた名前だった。人の噂では都で最も徳高く誰からも信頼される僧だとか。まあ、妖怪の間では食べれば永遠の命が得られると、あまり良くない噂があるけど。目の前のお坊さまが三蔵法師さまなら、人の噂は本当だったんだ。とても納得ができた。 「それでは、これで。」 僕は一礼してその場を後にしようとした時、 「八戒。」 とても優しくも芯のある声だった。自分の名をそんな風に呼ばれるのを初めて聞いた。僕は惹き付けられるように、無意識に振り返っていた。 「八戒、一緒に天竺に行きませんか?」 「え・・、一緒に?」 「ええ。同じ天竺へ向かう者同士、こうやって会えたのも何かの縁です。」 「しかし、妖怪とお坊さまでは釣り合いが・・・。」 「そうでしょうか?」 そう言って、お坊さまは今までの笑みとは違う、どこか楽しんでいるような明るく愉快そうな笑みを浮かべた。すると、どこからか声が聞こえてきた。 「お師匠さん。」 声の方へと目を向けると、雨の中をこちらに駆け寄ってくる者の姿が見えた。青い衣を翻し、降り続く雨も全く気にならない様子で走ってきた。やって来たのは衣と同じく青いターバンを頭に巻いた男?いや、違う。人間はこのような妖気を放たない。僕と同じ妖怪だ・・。 「お師匠さん。この先に古いお堂があります。そこで今夜は・・・。」 青い妖怪は僕に気付き、押し黙った。お坊さまはすぐに察して説明し始めた。 「彼は猪八戒。私たちと同じ天竺を目指しているそうです。どうせなら一緒に旅をしませんかと誘っているところなのです。」 お坊さまのある言葉に引っ掛かった。 「私たち?」 「そうです。私とこの悟浄は共に天竺を目指す旅の仲間なのです。」 「仲間?妖怪と人間が仲間・・・。」 普通では考えられなかったが、この方なら十分あり得る話だった。きっと当たり前のことなんだろう。妖怪がお供しても気にしない。人間と妖怪という種族の違いなど、このお坊さまには関係がないんだ。すべて同じ心を持つ者として、常に優しく平等に接するんだ。そう考えると、僕はますますこのお坊さまに心惹かれた。 「僕も一緒にいいのですか?」 「ええ、もちろんです。あなたさえ良ければ。悟浄もいいですよね?」 「はい。俺はお師匠さんが言われることに、反対はしません。」 「八戒、私たちと一緒に行きませんか?」 僕は溢れる気持ちを必死で抑えて、こう言った。 「はい!お願いします。」 それに対して、お坊さまは満面の笑みを浮かべた。 「では、一緒に。」 そう言ってお坊さまが立ち上がると、隣にいた青い妖怪は気遣うように言った。 「まだ雨脚が・・。」 「雨はあなたにとって恵みであるように、誰にとっても恵みなのですよ。雨の中で歩くのは気持ちが良さそうです。」 お坊さまの言葉に、青い妖怪は参ったなといった様子で微笑んだ。 「さあ、行きましょう。悟浄、八戒。」 「はい!三蔵法師さま!」 お坊さまの呼びかけに、僕と青い妖怪は同時に返事をしていたのだった。 (おわり)
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