どのくらい眠ったのか、目が覚めた時には強い吐き気もあの感覚もかなり薄れていた。悟浄は寝台に横になったまま右手で顔を覆った。気分も落ち着いて冷静になれたが、どうあがいても頭からあの感覚・記憶を消し去ることができなかった。悟浄はじっとしていられず、気を紛らわしたい一心で自分の部屋から逃げ出した。しかし、待っていたのは悟浄の思いと裏腹な状況だった。 真っ先に悟浄の目に飛び込んできたのは、今、一番会いたくないと思っていた少年の姿だった。少年はお堂への階段に膝を抱えるように座っていた。咄嗟に背を向けた悟浄だったが、何かがその足を留めた。 『これは、夢。現実じゃない。現実のはずがない。だったら・・・・。』 しばらく考え込んだ悟浄だったが、意を決したようにひと呼吸つくと、少年の方へ振り返った。再び少年の姿を目に捉えるなり、逃げたくなった。怖くなった。けれど、向き合わなければいけないと感じていた。心のどこかでそう望んでいたようでもあった。悟浄は重い足取りで少年に近付いていき、沈んだ思いでその隣に座った。 「なんだよ?おっさん。」少年はつねられて赤くなった頬を隠しながら言った。 「ざまみろとでも言いに来たのか?へんっ!こんなの痛くもないよ!」 「これで勝ったと思うなよ、おっさん。絶対仕返ししてやるからな!」 少年の口から次から次へと出てくる減らず口に気に止めず、悟浄は黙って俯いたままだった。その雰囲気は少年の軽快な口の悪さとは対照的で、静かで暗く重々しいものだった。少年の方は、悟浄が言い返してくると期待して減らず口を叩いたのに、一向にその反応はないことに拍子抜けしたようだった。 「なんだよ、おっさん。黙り込んじゃって。さては、変なもんでも食ったか?」 少年はわざとからかうように言い、悟浄の顔を覗いた。その時になって、ようやく少年は悟浄が纏う重い雰囲気を察した。 「どうしたんだよ?さっきのチクりやがった意地悪さは、どこ行ったんだ?」 「・・・・・・」 少年は居心地悪さに耐えられず、声を荒げた。 「いい加減、なんか言えよっ!!」 「・・・・・すまない。」 「やれやれ、やっとしゃべりやがった。相手を無視するのはいけないことだって、親に教えてもらわなかったのか、おっさん?」 少年はやや偉そうに言った。もちろん、それは少年なりの冗談で、これでこの場の重い雰囲気を振り払えると思ったが、状況は何も変わらないままだった。あまりの気まずさに、とうとう少年まで押し黙ってしまった。 「・・・ない。」 「はっ?」 「・・・すまない。」 悟浄のやっと吐き出された言葉はとても奥深く、真摯なものだった。胸に占める思いが彼の目に浮かび、表情はもうこれ以上耐えきれないように細かく震えていた。 「本当にすまない・・!」 叫び声のように悲痛な響きの言葉は、悟浄の膨らみすぎた心の風船に針を刺した。大きく弾けた思いに悟浄は顔を手で覆った。 「な、なんだよっ!?おっさん!」 少年は面を喰らって動揺し、慌てて取り繕い始めた。 「そんな責めてるわけじゃないよ!全然平気!全然気にしてないよ!ただ、ただ・・・、ただ誰かに八つ当たりしたかった、いや!そうじゃなくて・・・、冗談で、そう!冗談だよ!冗談をおっさんと言い合いたかっただけなんだよ!おっさんが気にすることないんだ!元はと言えば、俺が茶碗を割って隠したのがいけなかったわけだしさっ!」 悟浄は大きく首を振った。 「いや、違う、違うんだ。そうじゃなくて、俺がしたー」 悟浄の頭の中に鮮明な記憶が甦り、再び吐き気に襲われて、思わず悟浄は口を押さえた。遮られた言葉は悟浄の本能が言葉にするのを拒絶した証のようだった。 「おっさん!?大丈夫なのか!?」 心配そうに覗き込む少年を横目に、悟浄はなんとか取り繕うが、苦い表情を強ばらせたままで、それでも、絞り出すように言葉を吐き出した。 「・・・何も言わず話を聞いてくれるか?」 こんな表情でせがむように頼まれては断ることなどできるはずもなく、少年は不安げに頷いた。 「これが夢なのは分かってる。現実に起こるはずがない。だが、夢の中の気休めであっても、言わせてくれ。俺は・・・、俺は取り返しのつかないことを、とても非道なことをした。どう謝っても、どんなに謝っても、決して許されない。許してもらおうなんて思わない。ただ、言いたいんだ、どうしても。どうしても謝りたい。・・・本当に、本当にすまない。」 悟浄は可能な限りの言葉を吐き出すと、黙ってしまった。それ以上どう言葉にすればいいのか分からなかった。どんなに言葉にできたとしても、とても言葉だけで足らず、たとえどんな方法を用いようとも、決して満たされることなどないのは分かっていた。それでも、少しでも自分の思いを何かで伝えたかった。だが、自分の過去を考えれば、何ひとつできることはない気がした。 そんな苦渋の表情を浮かべて押し黙っている悟浄に、少年は少年なりの真摯な言葉を投げかけた。 「・・・よく分からないけどさ、ようするに、おっさんは謝りたいんだな?謝りたいなら、謝りなよ。心につかえてるもん全部出しちゃえ。俺、聞くことしかできないけどさ、おっさんの気が済むまでずっと聞いてるぜ。・・・でもさー」 少年の言葉はそこで一旦途切れ、間があいた。一瞬の沈黙が流れると、同じ少年の口から別の言葉が出た。しかし、それは今までの少年のトーンと異なり、暗く低い口調で呟かれた。 「あんたが本当に謝りたいのは、俺じゃないだろう?」 言葉を言い終えぬうちに、少年の体は白く霞みがかり、白煙の中へと姿を消した。白煙は一筋の円を描きながら舞い上がり、再び降りてくるとお堂の床を撫でるように渦を巻き、次の瞬間、白煙は人の姿に変わった。 床に踞ったその小さな体には、ボロボロに裂かれて焦げ痕と赤い液体に染まった服が覆っていた。しかし、その人物はそんなことなど気にする様子はなく、いや、むしろ気付いていないようで、煤と泥で黒くなった両手を床に叩き付けて泣き叫んでいた。そのあまりの姿は誰も寄せ付けようとしなかった。 しかし、悟浄はその人物に近付いた。それが誰であるか、痛い程よく分かっていた。悟浄は跪き、赤く腫れ上がった両手をさらに痛めつけるように床を叩き続けて泣き叫び続ける少年に、告げた。 「・・・すまない。俺のせいだ。・・・本当に、すまない。」 しかし、泣き叫び続ける少年には悟浄の言葉も耳に入らず、ひたすら悲しみと怒りを床にぶつけていた。その両手は赤みを通り過ぎ、青紫に変色し始めていた。悟浄はいたたまれずに少年の両手を掴み、その動きを止めさせた。少年は気にも留めず床に叩き付けようとしたが、悟浄にがっしりと手首を掴まれて、その手を床へ振り下ろすことができなかった。 ますます少年は言葉にならない大声を張り上げて暴れ始めた。溢れた感情が吐き出し口を探しているように、腕や手は前後左右に動き、何かを求めて空を切っていた。足や体も同じように蠢いていた。少年が自分自身を傷付けるのを止めようと、悟浄は暴れる少年の背中を抱きしめるように腕で抱え込み、動きを制限した。もがく少年に引っ掻かれようと、叩かれようと、蹴られようと、それが当然とばかりに体で受け止め、決して少年を離さなかった。 「俺が悪いんだ。すべて俺が・・・・。」 泣き叫ぶ少年を抱えたまま、悟浄は届かぬ言葉をずっと紡いでいた。
見晴らしのいい山頂に一行は足を休めていた。寺から出発した時から、眠気以外はいたって元気な悟空が先頭をきって歩いていたが、後ろの三蔵、悟浄、八戒の三人の足取りは軽快ではなかった。三人の胸にはどこかやりきれない思いが漂い、出てくるのは溜め息ともとれる息づかいだけだった。進まぬ足取りに、悟空の眠気もあって、一行は岩場に腰掛けて休んでいた。 「夢が叶う寺か・・・・。」 寂しげに呟かれた八戒の言葉に、三蔵も悟浄も自然と自分の気持ちに照らし合わせていた。 「夢と分かっていても覚めないでほしいって思っていました。」 「私も同じです。悟空に本当のことを言われても、夢の中へ戻ろうとしました。」 「でも、お師匠さんは自分でそれを振り切った。でも、僕は・・。」 「願いや願望は誰にでもあるものです。それを恥じることはないと思います。八戒の夢は何ですか?」 瞬間的に、八戒の頭に夢に出てきたいくつもの顔が浮かんだが、すぐに満面の笑みで答えていた。 「美味しいものに目がなくて。」 「みんなと一緒に食べれたら、より美味しいでしょうね。」 自分に向けられた三蔵の澄んだ目の意味を感じ取り、八戒は思わず苦笑いを浮かべた。 「悟浄さん、まだ気分悪いんですか?」 八戒はずっと押し黙っている悟浄に話を振った。悟浄は明らかに何か別のことを考えてたようで、八戒の言葉に我に返ったようだった。 「え?・・いや、大丈夫だ。」 「気分が良くなかったのですか?」 「そうなんですよ。悟浄さんの顔色は真っ青で、足下も覚束ない感じで。せっかくの夢の中で、体調悪くなるなんて、ちょっと残念でしたね」 八戒は少しからかうような言い振りだった。もちろん、悟浄が連れていた美女のことを指してのことだった。悟浄はそれを察して、その話題に便乗することにした。 「ああ、全くだな。あんな幸せな機会はもうないかもな。いや〜、実に残念だ。」 悟浄は努めて明るく言ったつもりだった。八戒も普通に笑ったし、上手く誤摩化せたと思ったのに、左隣にいた人物はそうではなかったようだ。 「その顔、初めて会った時と同じですね。とても悲しそうです。」 いきなり水を浴びせられた感じだった。全く予想していなかった三蔵の真を得た言葉に、悟浄は声を詰まらせた。途端に夢の出来事と自分の感情がぶつかり合い、言葉を呑み込んでいく感じだった。 「いや、そ、それは・・・・。ただ・・・、ただ夢から覚めると、なんだかー」 「心の隙間に風が吹いたみたいですね。」 八戒が言葉を引き継いでくれたので、悟浄は内心ほっとした。しかし、その後に続いた言葉は悟浄の胸の内をよく表していた。八戒にとっては自分の気持ちを何気に言った言葉だったのだろうが・・・。 「あれは夢で、単なる幻で、現実はそうじゃないんだと改めて実感すると、何だが寂しいというか、悲しいというか、辛いというか、複雑な気持ちです。」 「現実と向き合うことは辛いことなのかもしれません。けれど、明日を生きる為には必要なことです。」 「現実と向き合うこと・・。もしかしたら、それが一番願っていたことなのかもしれないな」 悟浄は夢の出来事を思い出しながら、噛み締めるように呟いた。 「過去も現実も向き合うことが出来れば、あとは未来(あす)を生きるだけですね。」 三蔵は悟浄に微笑みで答えた。その意味をしっかりと悟浄は受け止めた。 「夢か・・・・。」 「私もまだまだ修行が足りません。今一度、心を戒めねばなりませんね。」 「お師匠さんの夢はなんです?」 「私の夢は・・・・」 (おわり)
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