暗闇に響く子供の声。誰にも届かない泣き声は、ただ哀しく、虚しく暗闇の中に響いていた。 『父さん・・。母さん・・。嫌だよ。ひとりぼっちにしないで。お願い、目を開けて』 飛び起きた顔に苦しみが滲んでいた。悟浄は周りを確かめるように見渡し、横で寝息を立てている者を見つけると、今度は思い出したように胸を撫で下ろし、額の汗を拭った。しかし、夢の中で聞こえた声は、起きた今でも悟浄の耳から離れず、頭の中ではある記憶がまざまざと浮かび上がっていた。悟浄は辛そうに顔を顰め、耐え切れずにそっと寝床から抜け出した。 小さな小屋を出た瞬間、悟浄は走り出した。何もかも振り切るように。それでも、頭に響く声。 『お前が父さんや母さんやみんなを・・。返せ!!みんなを返せー!!』 悟浄の口から白い息と共に呻き声が漏れる。必死に口から漏れる声を堪え、ひたすら走り続けた。遠く離れた場所、叫び声を上げても誰の耳にも届かない場所へと足を早めた。 いくつもの森をくぐり抜けて現れた滝。滝は轟々と音を立て、その滝壺以外の辺り一面が純白の雪に覆われていた。悟浄は真っ直ぐその滝に向かって走り、身を切る寒さの中、信じられないことに滝壺へと駆け込むように飛び込んだ。滝壺の底ギリギリまで深く潜る悟浄。水の冷たさが凍える寒さとなって全身を襲い、体温を急激に奪っていく。それでも、奥へ奥へと潜っていく。凍える寒さが針で刺されるような痛みと変わり、痛みもやがて薄れると体の感覚は何も感じられぬようになっていた。 『このまま何も感じられなくなればいい。体の感覚も、心の苦しみも・・・』 悟浄は泳ぐのを止め、水中に身を委ねて目を閉じた。暗闇に漂う悟浄の頭に声が響く。 『絶対に許さない!絶対にお前を殺してやる!!妖怪なんて、みんないなくなればいい!!』 「やめろ!聞きたくない!」 悟浄は思わず水中で声を張り上げ、水を呑み込んでしまった。慌てて水面へと顔を出す悟浄。大きく咽せながらそれでも悟浄は両手で耳を塞ぎ続けた。 「馬っ鹿じゃない。気でもおかしくなった?」 呆れたように言い放つ女性の声が響いた。振り返ると、川岸に女性が立っていた。 「金魚・・・」 こんな姿を見られて悟浄はばつが悪そうに顔を伏せ、ゆっくりと滝壺から上がってきた。 「こんな真冬の大寒波に泳ぐなんて、いくら河童でもしないわよ」 突き放したような口振りで言うと、金魚は手にしていたものを悟浄に投げ付けた。悟浄は無言で広げて見ると、それは厚地の衣だった。 「風邪引くのは勝手だけど、看病させられるのはごめんだわ」 キツい口調だが、そこには彼女らしい優しさがあった。今の悟浄にはあからさまに心配されるより金魚のさり気ない優しさの方が有り難く、少し救われるような気がした。悟浄はその衣を自分の肩に掛けた。 「悪い。起こすつもりはなかった」 「よく言うわ。うなされるし、真夜中突然いなくなるし、苦しそうなうめき声を上げるし、それで起きない方が異常よ」 金魚の言葉は一旦そこで途切れた。もっと荒い言葉を浴びせてくると思っていた悟浄は不思議に思い、ふと顔を上げて金魚に視線を向けると、そこにはじっと悲しく心配そうに自分を見つめる金魚の眼差しがあった。しかし、目が合うとその視線はすぐに外されてしまったのだが。 「いい加減、話してくれてもいいんじゃない?何に苦しんでいるの?」 「・・・単なる悪夢だ」 「あら、そう。その悪夢が1ヶ月前の出来事と関わっているってことね」 悟浄は思わず顔を顰めた。 『見透かされている』 それが恥ずかしい気もした。だが、どこか嬉しくもあり、ほっとしていた。 「・・・・1ヶ月前、俺は、俺に出会ったんだ」 「え?」 「正確には、俺の目をした少年に。そう、村を追われた頃の俺みたいな。その目を見て自覚してしまったんだ。俺自身が一番憎んでいた奴らと、俺は同類なんだと。あれ程忌み嫌っていた奴らと同じ事を俺はしてきたんだと。俺は・・・・、心が汚れきってしまった」 平静を装いながら悟浄は訥々と言ったが、吐き出された言葉は悲壮な響きを残していった。 「だけど、どうすることもできない。どうあがいても過去は変えられない。せめて未来はと思うのに、今の状況は・・・・。もう、限界なのかもな」 「悟浄・・・・・」 金魚の口から続きの言葉は出て来なかった。言いたい言葉が何かに邪魔されているようだった。沈黙が雰囲気をますます重くしようとしていた。 「・・・・ここは寒いな」 「馬鹿ね。そんなずぶ濡れになるから、いけないんでしょ」 悟浄の口から声が聞こえ、金魚は悟浄が雰囲気を軽くしようと話を切り替えたんだと思い、明るい調子に合わせた。しかし、悟浄の意図は別にあった。 「温かい所へ行きたいな」 「全く!小屋の薪に火を付けてきたから、暖を取れば?それと着替えも−」 「いや、そういう意味じゃない。もっと温かな気候の所へ、南に行きたい」 悟浄の目は遠くの何かを見つめていた。それはどこか羨望しているような眼差しに見えた。 「世の中にはもっと素晴らしい所がたくさんある。緑豊かな山々や清流の河、広大な大地。他にも俺の知らない素晴らしい景色があるはずだ。そういった所を旅してみたいんだ。・・・・・なあ、金魚」 そう言って悟浄は金魚と向き合うと、まっすぐ金魚を見つめた。その視線はどこか引き込まれるような強さがあり、金魚の目を捕らえて離さなかった。 「一緒に行かないか?」 「え・・・・」 「こんな所から抜け出すんだ」 「な、なに言ってるの?そんなの・・・・。そんなの、無理に決まってるじゃない」 「どうして?」 悟浄はわざと何でも聞きたがる子供みたいな顔をして微笑んだ。だが、真っ直ぐ向ける目は真剣そのものであり、悟浄の内心を物語っていた。 「どうしてって・・・・」 金魚は戸惑った表情を浮かべていた。悟浄の心を痛いほど分かっているが、現実を考えると賛成できなかった。愛する者を痛みや苦しみから助けたいと思うのに、横たわる現実はあまりに厳しかった。 「あの方から逃げるなんて、できるわけないでしょ。そんなこと、本気で思ってるの?」 金魚は揺れる気持ちを隠し、気持ちの伴わない言葉を明るく冗談っぽく言った。 「そうだな・・・」 悟浄も冗談っぽく笑って軽い調子で答えた。だが、明らかに気落ちしていた。白い息を吐きながら呟いた言葉に秘められたもっと深い痛烈な思い。悟浄から視線を反らした金魚の目に、辛く苦しい悲しみが浮かんでいた。
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