■ 嵐の夜

 ゴンドールにも年に数度、嵐が訪れる。春の種蒔きの始まる前と、秋の収穫の頃に訪れた嵐は、川を氾濫させ、水に埋もれた田畑に上流から栄養分をたっぷりと含んだ土を送り込み、固まりかけていた土をかき混ぜ、肥沃な大地にし、秋の実りを多いものにする。
 ボロミアは寝室の窓際に置いた椅子に腰を下ろし、窓の向こうに吹き荒れる風と、雨と、時折走る稲光に目をやっていた。
 王還りし国に憂いはもうなく、闇の勢力に怯える日々ももう去った。
 人々の暮らしの中には、小さな幸せがいくつも溢れている。
 高みから見下ろす国は豊かな実りに溢れていて、他国からの行商が運ぶ品物が市に多く並ぶ。物流は人の流れを生み、復興を遂げた国には新しく宿を開くものも多くいると聞く。活気溢れる国を治めるのは、滅びに怯える国を治めるよりも易しかった。
 ボロミアは、それを自分の部屋から眺めるのが嬉しかった。
 たとえそれが、嵐の最中にあったとしてもだ。
 指輪棄却の旅の間に、人間としてのたった一度の命を落としたボロミアは、一体どういう理由からかは解らねども、再びの生を受け、ゴンドールへと帰還した。ボロミアが戻ったときにはすでに王が国を治めることは人々の中に定着しており、そして世継ぎ誕生の知らせに沸き立っていた。そこへ戻った失われたはずのボロミアの姿に、国は諸手を挙げて歓喜した。
 旅の間に想いを交わした王その人の喜びは、誰にも勝るものだった。
 裂け谷に残ったエルフ達に伴われ戻ってきたボロミアを、彼は呆然とただ眺めていた。信じられないような、それでいて信じたいのだと思っているような、けれども触れてしまってはすぐに消えてしまう幻を目にしているのだと思っているような、そんな曖昧で儚げな表情で、アラゴルンは立ち尽くしていた。
 轟いた雷鳴を聞きながら、ボロミアは嵐の夜にそんなことを思い出していた。
 阿呆のようにぽかんと口を開き、言葉も発せず、息もしていないのではないかと思うほどに強張り固まっているアラゴルンの前に膝をつき、只今帰還いたしました、と頭を垂れたボロミアの名を、彼は呼ばなかった。
 恐る恐る、そうっと手を伸ばし、指先に掠めたボロミアのぬくもりに、びくりと手を引いた。
 嘘だ、と呟く唇に、ボロミアは思わず苦笑した。
 そう仰りますな、我が王よ。死者の道を抜け、ロスロリアンと裂け谷のエルフの方々の庇護を受け、陛下に一目お会いしたいと、影の取り除かれた我が国を一目見たいと戻ってきたのです。それとも、大事に遅れ、長く帰らなかったあなたの最初の民の名を、お忘れになられたのでしょうか。
 意地悪なことを言うねぇ、とレゴラスがボロミアの後ろに立ちながら笑っていた。あんなに惚けていたのでは、そう言われても仕方がない、と遠くゴンドールまで病み上がりの人間を一人でやらすわけにはいかないと、エルラダン、エルロヒアの双子がボロミアの後ろ、レゴラスの隣に控えながら言った。口上をいくつも考えたのだがねぇ、とボロミアをゴンドールにまで送り届けたグロールフィンデルが微笑み、つと進み出た。
 強張っているアラゴルンの背にそっと手を添え、さぁと促した。
 長旅を終えた彼に、祝福を。
 ボロミアの前に立たせようとするグロールフィンデルの手を抗うように、アラゴルンが身を捩った。彼は震える唇で、嫌だ、と呟いた。執政ファラミアを初めとした臣下が、側にいるのを忘れてしまったように、アラゴルンは呻いた。
 嫌だ。
 拒むアラゴルンの声に、ボロミアは訝しみ顔を上げた。
 アラゴルンの頬には幾筋もの涙があり、戻ってきたボロミアの身を喜んで受け入れてくれているものと思っていたのに、彼の口から出る言葉は、ボロミアを拒絶する言葉だった。
 触れれば、消えてしまう幻だ。
 私を惑わそうと、夜毎現れる幻だ。
 彼は、私のボロミアは、アモン・ヘンでなくなった。ラウロスの滝に消えた。いるはずがない。ここに、こうして、戻ってくるはずがない。だって彼は、私の手で送ったのだから。
 どうしてです、グロールフィンデル。どうしてこんな意地悪をするのです。
 私はもう、私の手の中から消える彼を見たくないというのに。
 グロールフィンデルの腕にすがるように咽び泣くアラゴルンに、ボロミアは胸を捻り掴まれたように痛むのを感じた。ボロミアが亡くなってからの数年に、彼は幾度もボロミアの幻を見たのだろう。触れようと手を伸ばし、触れられなかったことに絶望したのだろう。
 いじらしい人だ。
 ボロミアはそう呟くと、額ずいていた顔を上げ、跪いていた腰を上げた。グロールフィンデルの腕の中で、近付くボロミアの姿に怯え怯む、幼い子供のようなアラゴルンを、ボロミアはそっと抱きしめた。ボロミアの手が触れたとき、アラゴルンは信じられたいと大きく目を見開き、はらはらとその両目から涙を零した。
 アラゴルン、わたくしの王よ。あなたのボロミアは、今、御許に戻りました。
 アラゴルンの手が囁くボロミアの頬に触れぬくもりを確かめ、喉や胸にふれ上下する息吹を確かめた。そしてそれが、確かに脈打っているのだと知ると、アラゴルンは、ああ、と感極まったような声を上げた。ボロミアの名を呼び、身体を掻き抱き、消えはしないのだな、と何度も問うた。側にいるのだな、と幾度も尋ねた。
 誰を憚ることなく泣き続けたアラゴルンを抱きしめた手を、ボロミアは見下ろした。
 かつてはアラゴルンだけを抱きしめた手は、今ではもっと多くのものを抱きしめ、支えるようになった。尽きることのない二度目の生は、これからも多くのものに触れ、抱え、支え続けるだろう。
 ごうと響いた風の音に顔を上げれば、窓の側に立つ木の折れた枝が窓を打っていた。
 その音にまぎれるように、コンコンと部屋の扉がノックされた。すでにみな寝静まって久しい。それでなくとも嵐によって引き起こされる災害を警戒するため、兵士達の多くは外へ出ている。こんな夜更けに一体誰が…、とボロミアは腰を上げ、居間の扉へと急ぐ。嵐の夜の散策に出かけてきます、などとのどかな事を言って暴風雨に飛び出していったレゴラスが戻ってきたのだろうかと考えた。
「ボロミア…」
 ボロミアが誰何の声をかけるよりも前に、重厚な廊下と居間とを隔てる扉が、ぎぃと音を立てて開く。わずかに開いた隙間から顔を覗かせたのは、今年五歳になったアラゴルンの世継ぎ、エルダリオンだった。
「…ど、どうなさったのです、こんな夜更けに」
 頬をびっしょりと濡らすのは、涙に他ならないだろう。慌てて駆け寄り、その頬を拭ってやると、エルダリオンはぎゅっとボロミアに抱きついた。
「雷が怖いのです」
「ああ、それで泣いていらしたのですか」
「…窓ががたがたと音を立てて、空が光って」
「ここまで一人で?」
 扉の向こうへと顔を出しても、エルダリオン付きの侍女や、護衛を担っている兵士の姿はない。エルダリオンの寝室から、ボロミアの寝室までは遠い。そうでなくとも王とその家族の住まう場所は、城の奥のしまいこむに守られた場所にあるのだ。そこからここまで、雷の音に怯える子供が一人でよくやってきたものだ。
 ボロミアはエルダリオンの頭をそっとなでると、さぁ、と促し部屋の中へ入らせた。消していた居間の明かりをつけ、暖炉の火に新しい薪をくべる。椅子に座らせると、火にかけていたポットを下ろし、良いにおいの立つ紅茶を入れた。
「お飲みなさい。身体が温まります。それを飲んだらお休みなさい。子供が起きていて良い時間ではありませんよ」
 エルダリオンの隣に腰を下ろし、ボロミアも暖かな紅茶で喉を潤した。ずっと窓の外を眺めていたのだ。知らず強張っていた身体が、胃に流れる紅茶のぬくもりにほぐれてゆく。
「一緒に眠ってもいい…?」
 エルダリオンは、彼の小さな手には大きく見えるカップを両手に支え、一口二口と、慎重に紅茶を飲んでいる。上目遣いに見つめる子供に、ボロミアはにっこりと微笑んで見せた。
「構いませんよ。その代わり、お父上には内緒にしておかなければなりませんよ。あなたと私が一緒に眠ったと知られたら、きっとやきもちを焼いておしまいになる」
「…笑われるかしら」
 エルダリオンは小さな声で、恥ずかしそうに呟いた。
「もう五歳になったのに、雷が怖いなんて、父上は笑われるかもしれません」
「私もあなたと同じ年には、雷が怖くて堪らなかったものです。実は大人になった今も少し怖い。ですから、エルダリオン様が私と一緒に眠ってくださると、心強いのですよ。お父上が笑われたのなら、ボロミアにお願いされたのだと仰りなさい」
「でもそうしたら、僕がボロミアと一緒に眠ったのが、父上に知れてしまいます…」
「ああ、そうですな。それはいけませんな」
 からからと笑い声を上げるボロミアの姿に、エルダリオンがようやく笑みを浮かべる。
 王の家族にしろ、執政の家族にしろ、子供は物心がつく頃に一人で住まうための部屋を与えられる。自立心を養うためであり、国の中枢を担う子供に教育をするためであるが、こういうときくらいは側にいてやればよいものを、とボロミアは今頃安穏と己の部屋で眠っているであろうアラゴルンを苦々しく思った。
 王妃には二子が生まれ、その世話にかかりきりだ。エルダリオンのことを忘れているわけではないけれど、どうしてもまだ手のかかる二子を優先してしまうのは仕方がないことだろう。だからこそ、父親がしっかりしなければならないと言うのに、エルダリオンが嵐に怯え助けを求めやってきたのは、すぐ側にあるアラゴルンの部屋ではなく、遠いボロミアの部屋だった。
「ご馳走さまでした」
 空になったカップを受け皿に戻し、エルダリオンはほっと息を洩らした。子供らしい小さな手で口元を拭うのを見届け、ボロミアは先に立ってエルダリオンを寝室へ導いた。
 今日はまだ一度も身体を横たえていないベッドは冷たかったが、暖炉の火と紅茶にエルダリオンの身体は温められており、そのせいで冷えることはないだろう。
 エルダリオンを抱き上げ、ベッドの中央に寝かせると、そっと布団をかぶせ、エルダリオンがまだ歩き出す前にしていたように、軽く胸を叩いてやる。
「さぁ、お休みなさい、エルダリオン様。朝には空も晴れていましょう」
 ベッドの端に腰を下ろし、そう話しかけながら額にくちづけを落とすと、おやすみなさい、と呟きエルダリオンは静かに目を閉じた。
 唇から漏れる息が静かな寝息に変わるまで、じっと子供の柔らかな巻き毛を撫でていたボロミアは、ふと聞きつけた物音に、枕元に立てかけていた剣を手に取った。使いこまれたそれは、外での戦事に向いた長剣ではなく、室内の戦いに良いようにと聊か短く作られたものだ。長剣ではなく、短剣でもない幅広の剣を扱うことも、ボロミアはことのほか得意にしていた。
 すらりと鞘から抜き放ち、薄く開いた寝室の扉の側に寄る。息を潜め、隙間から居間を伺えば、廊下の扉をギィと軋ませながら、何者かが忍び込んでくる姿が見えた。身のこなしのすばやい男は、静かに静かに、軋む扉の音を立てないようにと扉を閉め、ほうと息を吐いている。
 背を向けたその男の姿に、ボロミアは溜息を吐いた。
「このような嵐の夜更けに、一体何の御用ですかな」
 鞘に剣を収め、寝室の扉を押し開きながら声を上げると、居間の扉に手を預けていた男がびくりと肩を震わせ振り返った。
「…や、やあ、執政殿。随分、夜更かしをしていらっしゃるようだ」
「陛下には夜更けに執政の部屋に忍び込む趣味がおありのようだ」
 薄ら笑いを浮かべながら、肩の辺りまで両手を上げているアラゴルンは、ボロミアの手に握られている剣を目にして、ぎょっと顔を強張らせた。
「私を斬るつもりか」
「まさか。どこの間抜けな夜盗が忍び込んできたのかと思ったのだ」
 ボロミアはひとつ溜息を吐き、それを居間のテーブルの足に立てかけるようにして置いた。エルダリオンが座っていた椅子に腰を下ろし、ポットに残っていた紅茶を新しく用意したカップに注ぐ。まだ十分に暖かいそれをアラゴルンの方へ押しやれば、アラゴルンは先程ボロミアが座っていた椅子に腰を下ろし、使われた形跡のあるふたつのカップに目を留めた。そして赤々とともる暖炉の火と、消されていなかった居間の明かりに気付き顔を強張らせる。ボロミアが出てきたのが寝室だということも、アラゴルンの胸に疑惑を持たせるきっかけにもなったのだろう。
 彼は、低く潜めた声で切り出した。
「……寝室に、どなたかおいでか」
 ボロミアは疑り深い眼差しで見つめるアラゴルンに、内心呆れながらも、少し懲らしめてやろうかと言う気になっていた。雷に怯えるエルダリオンを気遣ってやれなかった罰だ。
「私の大事な方が休んでいらっしゃる。こんな嵐の夜だ。お一人で過ごさせるのも心許ないからな」
 アラゴルンの目が落ち着きなく辺りを彷徨っていた。くつくつと腹の底に込み上げる笑いを、ボロミアはどうにか噛み殺し、澄ました顔を作っていた。
「それで、陛下は一体どんなご用件でお越しになったのですかな」
「……え、いや……特に…用と言うほどのことでもないのだが……。ひどい嵐なのだし…どうしているかと…」
「ほう! 嵐ごときで陛下に我が身を心配して頂けるとは光栄ですな! しかし御心配召されるな、陛下。私もそろそろ休もうと思っておりました」
 しどろもどろで部屋を突然に、それも夜半にこっそりと訪れた言い訳を探すアラゴルンは、不器用そうな仕草でカップを持ち上げた。ほとんどのことはそつなく器用にこなすくせに、よほど何か気にかかることがあると、手元がおろそかになるのはアラゴルンの悪い癖だ。
「休むというのは…その、寝室で…だろうな、やはり」
 ボロミアの寝室に眠る、彼の大事な方とやらが一体どこの誰なのか、気になって仕方がない様子に、ボロミアはほくそ笑む。
「他にどこで休むと言うのです」
「……それは…そうだが…、その…誰かいらっしゃるのだろ? 同じベッドで…?」
「小さな方ですからな。間違って蹴り落とすこともありますまい。無論、一緒に同じベッドで眠るつもりです。何か、不都合でも?」
「…あ、いや……」
 アラゴルンの手からカップが零れ落ちた。幸いなことに、高く持ち上げていたものではなかったので、かちゃんと派手な音を立て、受け皿にカップが戻った程度で済んだが、アラゴルンは慌ててそれを両手で押さえ込んだ。大きな音を立て、隣の寝室で眠る人を起してはならぬと思ったのだろう。隣で動く気配がないのを感じ取ると、ほうと息を吐き、そろりと腰を上げた。
「その…夜更けに突然すまなかった」
「おや、お戻りですかな」
 ボロミア自身も立ち上がり、アラゴルンを戸口まで送るべく付き従う。歩いて数歩のわずかな距離だが、王が席を立つというのに、安穏と座って見送る家臣もいまい。しょぼくれた顔で廊下へ向かうアラゴルンを、ああそうだ、とボロミアは今更思い出したかのように装って声を上げた。
「祝福を頂けませんかな、陛下」
 扉に手をかけていたアラゴルンが、ふと訝しむように首を傾げた。
 今更何を、と言うのが彼の気持ちだろう。
 不思議と言うよりも、怪しいものを見るような顔をするアラゴルンに、ボロミアはにこりと微笑んだ。
「我がゴンドールの王の祝福を頂きとうございます。私の大事な方に」
 ボロミアの顔を眺めていたアラゴルンが、はっと息を飲んだ。顔を強張らせ、唇を震わせている。少々悪戯が過ぎただろうかとボロミアが思っていると、アラゴルンは努めてなんでもない様子で顔を背け、いいだろう、と低く囁いた。
「…あんたの大事な方とやらに、祝福を送ろう」
 まるで闇の勢力とでも向き合うように、アラゴルンの顔は強張り引き締まっていた。ボロミアが先に立って寝室へと向かうと、その後をおとなしくついてきてはいるが、いつ、やはり嫌だ、などと言って身を翻してもおかしくない様子だ。寝室の扉に手をかけ、ボロミアは、ああ、と足を止め振り返った。
「よく休んでいらっしゃるので、起したくないのです。どうぞ、大きな声は上げられぬよう」
 アラゴルンはもう答えなかった。唇を引き結び、じっと扉を見据えている。ボロミアは薄く笑みを馳せると、扉を開き、どうぞ、とアラゴルンを招き入れた。
 明かりを落とした寝室の中央に置かれた大きなベッドには身体を横たえ眠る小さな世継ぎの姿がある。寝室で頼る光は、窓の外で轟く雷鳴の光だけだ。ボロミアが脇に退き、アラゴルンの様子を伺っていると、アラゴルンは緊張をほぐすかのように数度呼吸をし、足を踏み出した。
 アラゴルンも眠ったことのあるボロミアのベッドにアラゴルンは近付き、眠る人の顔を覗き込んだ。祝福を…、と呟きかけた彼が、ベッドに眠る人の顔を見て、はっと息を飲む。
「エルダリオン!」
 そしてものすごい勢いで振り返ったと思ったら、ボロミア、と声を上げた。
「私を担いだな、ボロミア! あんたって人は!」
 顔を真っ赤にしたアラゴルンが、振り向きざまに飛びかかった。首を絞める仕草をするアラゴルンの身体を抱き止め、ボロミアは笑い声を上げたものの、エルダリオンが何か寝言を言ったのを聞きとめ、慌てて声を潜め、アラゴルンを居間へと導く。後ろ手に扉を閉めると、ひとつ息を吐き、笑みを浮かべながら言った。
「雷が怖いと泣きながら私の部屋へやってきたのだ。先ほどようやく眠ったところだ」
「大事な人だなんて嘘を言って私を担いだな! なんて奴だ!」
「ゴンドールのお世継ぎだ。私の大事な方だ。陛下、アラゴルン。そう声を荒げるな。エルダリオン様が起きてしまわれる」
 ぐいぐいと襟元を締め上げるアラゴルンの背を撫で、肩を撫で、ボロミアがなんとかなだめようとすると、アラゴルンは大きな息を吐き、ボロミアの肩に顔を伏せた。かすかに震えた吐息に、さすがにボロミアも悪いことをした気になり、優しく髪を梳いた。うねる癖毛の先がもつれ、指にひっかかる。何度も繰り返しそこを梳いていると、やがてボロミアの指がたやすく通るようになった。その間、じっとボロミアの肩に顔を伏せたまま、じっとアラゴルンは黙っていたが、やがてぽつりと小さな声を洩らした。
「……誰か、想う人ができたのかと…」
「すまない。少し度が過ぎたようだ。ご心配なさらずとも、私の心はいまだあなたのものだ、アラゴルン。裂け谷でお会いしてからずっと、私はあなたを変わらずお慕い申し上げております」
 ボロミアの首筋をアラゴルンが洩らす安堵の息が震えながら掠めていった。ボロミアの腕の中で身をもがいたアラゴルンは、生真面目な顔でボロミアを見つめ、伸ばした手で頬に触れた。ぬくもりが指先に伝わった瞬間、びくりと熱いものに触れたように手を引っ込める。まるで、ボロミアがこの都へ帰ってきたときのようだった。
「……あんたが幸せであればと」
 ボロミアの顔を一心に見つめ、アラゴルンが呟いた。どこか茫洋とした表情だった。
「…あんたが幸せであってくれればと、いつも思っていた…。あんたが私の手の届く場所に戻ってきてくれて、あんたが幸せであるなら、例え誰とあんたが添おうとも構うものかと。……覚えているだろうか、ボロミア。ロスロリアンの森で、あんたが私に言ったことを。あんたは私の幸せを見守ると」
「確かに」
「……私には無理だと、改めて思い知った。私は狭心しか持ち合わせぬ。あんたが私以外を見るなどと……やはり、耐えられない」
「嬉しいことを仰る」
 身を伸ばし、アラゴルンの頬に唇を寄せると、強張っていた身体をぎこちなく解き動かし、アラゴルンはボロミアの首に両腕を巻きつけた。
「私は、手前勝手な男だ…」
「何を仰る。あなたほど己の身を削り、誰かのために尽くされる方を、私は他に存知上げぬ」
「アルウェンを妻に向かえ、子をなし、日々幸せだと感じる。家族と言うものがこんなにも安らぎを与えてくれるものと知り、あんたにもその喜びをと思っているのに…実際、そうなるかもしれないと考えたら、心臓が凍りつきそうだった。あんたが、私から離れてくのかと思うと…耐えられないのだ。呆れるか、ボロミア。私はとても愚かな男だ。アルウェンもあんたをも悲しませる」
「…あの方と、私が悲しんでいると?」
 腕の中に閉じ込め抱きしめていたアラゴルンの身体を、ボロミアはもぎ離した。薄暗い色を瞬かせるアラゴルンの瞳を真っ向から見つめ、ボロミアは繰り返した。
「本当にそう思われるのか」
 アラゴルンはためらう素振りを見せながらも、結局は頷いた。ボロミアはそれへ、なんと愚かな、と呟く。
「あの方にお聞きになるといい。私はあなたを愛しているが、あなたの愛を受けるあの方を憎んではいない。あの方がいらっしゃることに悲しみもしない。なぜならそれが、あなたの望んだことだからだ。あの方がいらっしゃることであなたが幸せだと思われるからだ。あなたが幸せであることに、どうしてあの方と私が悲しまねばならぬ」
 目を伏せるアラゴルンの額にくちづけをし、ボロミアは微笑んで見せた。
「…あなたを愛している、アラゴルン。裂け谷でお会いした時から、もしかしたら、ソロンギルと言う名のあなたにあやして頂いていた幼い頃からずっと、あなたをお慕い申し上げている。あなたが幸福でいらっしゃるのなら、私にはそれに勝る喜びなど他にない」
 アラゴルンの伏せた目からころりと涙が転がり落ちた。ボロミアはそれへ唇を寄せる吸い取った。頬を指先で撫で、顎をついと持ち上げさせると、乾いたアラゴルンの唇についばむようにくちづける。掠めるようだったくちづけが、だんだんと深いものになり、いつしか二人の間にあったわずかばかりの空間は、ぴたりと風すらも通さぬほど密したものになっていた。
 アラゴルンの手が、ボロミアの服の襟にかかる。留められていたボタンをひとつずつ丁寧に外し、その隙間から現われた矢傷に目を留めた。黒い星のように肩から腹へと並ぶみっつの矢傷に、アラゴルンは唇を寄せた。
「…あんたが好きだ。ソロンギルと言う名の私が、初めてエクセリオン様にあんたを抱かせてもらってから、ずっとあんたを愛している」
「身に余る光栄ですな」
 微笑むボロミアの目尻に、わずかな皺が浮かぶのを、アラゴルンは愛しそうに眺めていたが、やがてボロミアがアラゴルンの服に手をかけたのに気付くと、自ら進んでシャツの袖を抜いた。
 ボロミアはアラゴルンの細腰に両手を回すと軽々とその身を抱き上げ、寝室へ向かおうとして、扉に伸ばしかけた手をふと止めた。
「……どうした?」
 てっきりこのままベッドへと運ばれ、情を交わすのだろうと思っていたアラゴルンは、きょとんと目を丸くしてボロミアを見下ろす。ボロミアは強張った顔をしており、それはとてもベッドに向かう男が浮かべるものではなかった。ボロミアはちらりとアラゴルンを見上げ、弱りきった声を洩らす。
「……私のベッドには、エルダリオン様がお休みだ」
「じゃあ今日はこのままお預けだとでも言うつもりか!」
「大きな声を出すな! 目を覚まされてしまうだろう!」
 噛み付くように怒鳴ったアラゴルンを睨み上げたボロミアが、寝室に向かうはずだった足を、居間の隅にある長椅子へ向けた。よく陽にあて膨らまされたクッションが詰め込まれた長椅子に、ボロミアはアラゴルンの身体をそっと下ろし横たえる。
 自らは床に膝を付き、まるで奥に隠された姫君に額ずくように、アラゴルンの手の甲に唇を寄せた。
「……声を出さずに済むか?」
「…どうだろう。努力はするが」
「エルダリオン様に知られては、私はこの都にはおられんな」
「…こんな時に、たとえ私の息子とは言え、他の誰かの名など呼ぶな。私は心が狭いんだ」
「では、あなたの名ばかり呼ぼう、アラゴルン。もういらぬと仰るほどに、あなたの名を呼ぼう」
 長椅子に埋もれるようにして横たわるアラゴルンに圧し掛かり、ボロミアがそう囁くと、アラゴルンはふと目元を緩め、微笑んだ。
 心底からの幸せそうなその微笑に、ボロミアも頬を緩める。
「…お慕いしている、アラゴルン。お忘れになられるな。わたくしの心は、永久にあなたのものだ」
 伸ばされたアラゴルンの手が、ボロミアの頬に触れた。唇が重なり、手と手が繋がれ、鼓動がぴたりと寄り添う。
 窓の外にはいまだ雷鳴が轟き、折れた木の枝がガラスを打ち付けていたが、アラゴルンはそんなこと少しも気にならないように微笑み、同じように微笑むボロミアをずっと見つめ、幾度も呼ばれる名に幸福を覚えていた。




■おまけ■