Unsent. -3-
 夜はかなり冷え込んだ。
 船を出た時は、欠食児童どもが食い散らかした食器やら鍋やらの後片付けを終えたばかりだったので、そう寒くも感じなかったのだが、メインストリートを歩いていると吹きつける風がどうにも冷たくてたまらない。待ち合わせの時間ぎりぎりに船を出たので、船へ戻っている余裕はなかった。
 クソ腹巻は、飯を食うとすぐに、買いたいもんがあると言って船を降りて行った。待ち合わせは時計台のところな、と言っていたので、船へは戻らず直接いくつもりなのだろう。「あーらデェト?」と我らが麗しき航海士様は、クソ腹巻ご所望のほうれん草のおひたしを上品に箸で口へ運びながら、にんまりと笑う。ええまぁ、と曖昧に微笑んで、彼女の空になっていた湯のみへ緑茶を注いだ。
 冷えた黒いスーツの腕を摩りながら、どっかで安いコートでも買うか、とそろそろいい宵の刻だと言うのにまだまだ明るいメインストリートに並ぶ店先を眺める。餞別よ、とナミさんは少し金をくれた。これで美味しいお酒でも飲んで、あたしにワインを一本買ってきてくれればいいわ、と言われたのだが、渡された金は、彼女がいつも好んでいるワインを十本は軽く買える金だった。気を使ってくれなくてもいいと思ったのだが、ナミさんの有り難い気持ちだ。俺は丁重に受け取らせて頂いた。
 目についた古着屋に俺は飛び込んだ。
 スーツ姿の俺は目立っていたが、そんなもん気にしちゃいられねぇ。約束は必ず守るクソ腹巻が、寒い思いして待ってるんだ。俺はとりあえず無造作に積まれているブルゾンを引っつかんだ。試しに着てみると丁度いい。これくれ、と着たまま言うと、三千ベリーと言われた。くたびれた色の、チープなブルゾンだ。俺は財布を取り出し、紙幣を三枚抜き取ると、ピアスをじゃらじゃらつけたオッサンに金を渡した。
 急いで急いで、待ち合わせの時計台の下のベンチに、ああまだ来てなかった、とホッとしながら腰を下ろしたのは、クソ腹巻よ。もう一時間も前の話だぜ。こんなクソ寒ィ空の下で、脂ぎったオッサンに売りに間違えられて声かけられて、何で俺は一人で待ってんだ。
 どっかでいい女に声でもかけられたか。
 それともどっかで迷子になってんのか。
 ああ、それともあれか。
 ビビちゃんとでも会ったのか、。
 まぁいい。
 なんでもいい。
 もうどうだっていいよ。
 テメェがこなくたって、俺はここで待ってるからよ。
 思い出したら来てくれよ。
 言いたい事があるんだ。
 ナミさんが言ってたろ。
 言わなきゃ解んないって。
 言ってやるよ、洗いざらい。俺が考えてること、思ってること、勘繰ってること全部。
 もうこんな風に、待ってるだけが嫌なんだ。
 待ってる間が嫌なんだ。
 畜生。
 なんだって、こんなに寒いんだ。
 ほっぺたがすうすうする。
 帽子でも買うか。
 マフラーでも買うか。
 なんだってこう、一人侘しく待ってる時は、他人の幸せが気に障るんだろうな。
 腕を組んで歩いてる人とか、手を繋いで歩いてる野郎とか、暖かそうな店の中で、飯食ってる奴とか。
 時計台のベンチで、一人待ってる俺は、なんて虚しいんだ。
 寒ィよ畜生。
 ほっぺたが冷たい。
 畜生。
 なんで、涙なんか出るんだ。
 女々しくて、反吐が出る。
 なんで俺は、こんなにあいつに惚れちまってんだ。
 畜生。
 無様だ。
「悪ィ! 迷った!」
 膝に立てた手に顔を埋めていた俺の頭に、ばさっと何かが被された。驚いて顔を上げると、ドラム王国で着ていた白いコートをきっちり着込んだクソ腹巻が俺の前に立っていた。
「いやー…この辺の道って、全部が全部繋がってんだよなぁ。近道しようと思って違う路地に入ったら、港へ出ちまってよ。いや、あ…そうじゃなくて…」
 頭の上に乗せられていた紙袋が、クソ腹巻の手によってずるりと落とされる。それを右手に持ったまま、クソ腹巻は、左手を俺の頭に置いた。
「…悪かったよ、遅くなって」
 緑の、うんと深い緑色の瞳が、俺を映していた。
 海の底の色だ、と俺は思った。
「その…いや、マジで道に迷って…」
 右手で、クソ腹巻の白いコートの腹を握り締めた。余計に涙が溢れそうになって、俺は慌てて俯いて唇を噛み締める。ぐいと左腕で目を擦ったら、安っぽいブルゾンから洗濯粉の匂いがした。鼻をつく、安っぽい洗濯粉の匂い。
「…オイ、サンジ?」
 クソ腹巻の、声。
 ああそうだ。
 聞きたい事があったんだ。
 ずっとずっと思ってた事があったんだ。
 テメェにあった時から。
 テメェとこうなってから。
 ビビちゃんが、船に乗ってから。
 ずっとずっと聞きたかったんだ。
 ぎゅうっと右手に力を込めると、クソ腹巻は俺に一歩近付いた。
「……ゾロ」
 呟く声が、みっともなく濡れていた。
 なんだ、と尋ねるけれど、決して無理矢理顔を上げさせようとはしない。俺の頭に触れる左手が、温かかった。
「…俺のこと、好きかな」
「あ?」
「俺のこと、お前、好きかな…?」
「…何言って……」
「俺…っ…」
 涙が、喉を塞き止めた。
 息ができなくて、ひゅうひゅうと喉が鳴った。
 俺はクソ腹巻のコートを引っ掴んでる手に、もっともっと力を込めた。こいつが絶対逃げないように、絶対話さないように、渾身の力って奴で、コートを掴み続けた。
「…俺のことっ、…お前、好きかよ…ッ」
「好きだぜ」
 溜息を吐くように告げる、クソ腹巻の声。
「…ビビちゃんよりも…?」
「…なんでここにビビが出てくんのか解んねぇけど。比べようなんてねぇだろ」
「ちゃんとッ!」
 俺は、思わず顔を上げて怒鳴った。
 涙でべとべとになった顔を、クソ腹巻の前に晒して俺は怒鳴った。
「ちゃんと答えろよッ!」
 両手で引っつかんだ白いコートを、俺は無意識に手繰り寄せていた。また一歩近付くクソ腹巻を、俺は睨み上げた。
 持ち上がる、クソ腹巻の左手が、俺の顔を拭う。
「好きだ」
 俺の噛み締めた口は震えてた。
「ビビより、お前が好きだ」
 泣かないようにと寄せた眉の下で、目は涙を分泌していた。
 クソ腹巻が、俺の頭をぐいと引っ張って、白いコートに押し付ける。ぽんぽんと俺の頭を叩く大きな手が、暫くして俺の頭を撫で始めた。
 俺は。
 ガキみてぇにわんわん泣いた。
 我慢なんてできなかった。
 絶対離さないようにって、白いコートをぎゅっと掴んで、俺は泣いた。
 馬鹿みてぇに泣いた。
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