Unsent. -2- |
そろそろ戻らなくちゃね、と言ったのはナミさんだった。 俺はビビちゃんの可愛い可愛い笑顔を見ながら、彼女が話す他愛もない話に耳を傾け、時折相槌を打っていて、クソ腹巻は俺の隣で、俺がくれてやったクラシックショコラを平らげていた。二杯目のコーヒーはホットを頼んだようで、ウェイトレスが運んできたカップをごつい手で持ち上げるのを、俺はこっそり横目で眺めていた。 「サンジ君、ご飯の用意しなくちゃでしょ?」 「ああそうか。忘れてたぜ」 「珍しいのね、サンジさんが忘れるなんて」 「そうかい? たまには俺だってコック職を放りだす時だってあるんだぜ?」 「あら、どんな時?」 「そうだな。ナミさんみたいに、美しいレディを前にしている時とかね」 「くっだんね」 ボソッと呟くクソ腹巻を、俺は笑顔で無視をした。 「ナミさん、クラシックショコラは案外いけるから、ルフィの奴に少し買ってやって行ったらどうだい? そろそろ飯の時間だからって船に戻ってるだろうし。それにチョッパーの野郎もカルーと留守番してるしさ」 「そうね。ウソップも船の修理を終えた頃だろうし」 「じゃあ俺が」 テーブルの上の伝票を取り上げようとした俺の手よりも先に、ナミさんの白いほっそりした手がそれを素早く奪ってしまう。さすが盗賊。ぴらぴらと伝票を顔の横で振って、にんまりと笑うナミさんの笑顔はそりゃもう壮絶に魅力的だった。 「いつも美味しいもの食べさせてもらってるお礼。ここくらい、あたしが払うわ」 「…珍しいな、ごうつくばりの癖に」 「ああっ? なんだとコラっ! クソ剣士! テメェ、ナミさんの心優しき心遣いにっ!」 「どーせ後で三倍返しとか言うに決まってんじゃねぇか」 「あーらゾロ。よく解ってるじゃない。あなたは三倍返し。ちゃんと返しなさいよ〜」 「しっかりしたナミさんも好きだ〜」 チッと舌打ちしたクソ腹巻は、立ち上がり、右手で三つの刀の位置を正す。 「先返る」 「あ、ゾロ」 歩き始めたクソ腹巻を、ナミさんが立ち上がって呼び止める。不機嫌を露にした顔で振り返ったクソ腹巻に、俺は二言も三言も文句を言ってやりたい気だったが、ナミさんがそれを遮るように俺の前に立ったので、不精不精口を噤んだ。ここは禁煙の店なので、煙草を我慢していたのだが、咥えるくらいなら構わないだろう。口に一本抜き取った煙草を咥えると、クソ腹巻が俺をちらりと見た。何だっつーの。 「ルフィが船に戻ってたら、もう船から下りないでって言っといてくれない? 夜になったらトラブルの元も増えるだろうし。ね、お願いよ」 「…ああ。解った」 低い声で返事をして店を出て行くクソ腹巻を、ビビちゃんが「待ってMr.ブシドー」と言って追いかけていく。迷子になったらどうするの、と言う声が、店のドアを潜って出て行った彼女の背から聞こえていた。 「…やれやれだわね」 心底疲れたように呟くナミさんを振り返ると、彼女は肩を竦めている。肩から下げていた鞄の中から財布を取り出し、レジへ向かう彼女の後に続き、彼女が店員にクラシックショコラをありったけ持って帰るわ、と言うのを聞いていた。店員がケーキを包んでいる間、何となく並んでそれを待っている。咥えた煙草の先に火は付いていない。 ナミさんは受け取った大きな箱を、自然な仕草で俺へ渡す。当然俺はレディファーストの信念に基づいて、ナミさんが渡さなくても持つつもりだった。 白の可愛い財布を鞄の中にしまいながら、困った人ね、とナミさんが笑う。港へ向かう道で、何となく言葉少なに肩を並べている時だった。 「え?」 ぼんやりと上の空でそこらに並んでいる店のウィンドウを眺めていた俺は、うっかりナミさんの言葉を聞き逃してしまう。 「あんたの事よ」 「…何のことでしょうか」 「あんなにあからさまに、ビビを嫌わなくてもいいんじゃない?」 確信を突いてくるナミさんは、やっぱり大人の女性だ。 「あの子だって悪気はないのよ。だって、あんたの気持ちを知らないんだから」 少し、ナミさんの歩く速度が遅くなった。寄り道しましょ、と言って向かったのは、港へ向かう道からは少し逸れた道だ。暮れかけた港町特有の坂道に、ナミさんのヒールの音が響く。 「まぁあの子は鈍感だから、まだ気付いてないでしょうけど。ゾロだって気にしてたわよ、今日のあんたの態度には」 「そんなに…あからさまだったでしょうか」 コツコツと、俺の革靴が煉瓦の道を踏み拉く。 カツカツと、俺の革靴の音よりも狭い間隔で続くナミさんの靴底の音が、俺の隣から決して消えることはない。 並んで歩いてる。 こんな風に、人通りの少ない裏道を、俺はナミさんと歩いてる。 「…そうねぇ、あからさまって言えばそうかもね」 歩きたかったのは、ナミさんじゃない。 「ゾロが気付くぐらいだから」 歩きたかったのは、クソ腹巻だ。 「クソ腹巻が?」 「ええそうよ。気にしてたわよ。あんたが、少し様子変だったから」 そう、と呟くと、裏道はコツコツと煉瓦を踏みしめる俺たちの足音だけになった。どこからともなく漂ってくるいい匂いは、裏道に面している家からの夕食の匂いだ。ああ今日は、ありあわせの材料で何を作ってやるかな、と思いながら、俺は左手にケーキの箱を持ち、今までつける事を忘れていた煙草の火をつける。吐き出す煙は、港からの潮風に乗って後ろへ流れて行った。 「ねぇサンジ君」 ぽつぽつと灯る明かりが、裏道の薄暗い煉瓦の道を照らしている。 赤い色をした道に、オレンジ色の光が照らされ、とても綺麗だ。 「言いたい事があれば、言った方がいいのよ。言わなきゃ解らない事だってあるわ。ゾロだって、訳も解らずあんな風にされたんじゃ、腹も立つと思うの」 「あんな風って…」 「喧嘩するのは、あんた達のコミュニケーションだもん。仕方ないわよ。でも、無視するなんて、駄目よ、サンジ君。ゾロは馬鹿で単細胞でノウタリンで間抜けでとんでもない方向音痴だけど、ビビよりは鋭いわ。でも、言わなきゃ解らないのよ」 裏道も、港へ直接続いていたようだ。 歩く先に建物がなくなり、船のマストや海が見え始める。 「言わなきゃ解らないのよ、サンジ君」 最後の建物を抜けると、浜風がきつくなった。潮の馴染んだ香りが顔を撫で、俺の隣でナミさんは心地よさそうにオレンジ色の髪を靡かせている。 「それを教えてくれたのは、あんた達でしょう」 港へ下りるには、少し歩いた所に設けてある階段を下りなければならなかった。そこへ行くためのアプローチには、転落防止の柵がこさえてある。それへ凭れ、ナミさんは髪を押さえた。夕暮れのオレンジ色が、ナミさんの髪を一層鮮やかに燃えさせる。 「覚えてるサンジ君。ココヤシ村で、あたしがちっともルフィに頼ろうとしなかったこと」 「…ああ」 「ルフィは、あたしが助けてって言うまで手を出そうとはしなかったわ。何をするべきか、なんてルフィは解ってたと思うの。けれど、あたしが求めなかった。あたしが求めないことなら、ルフィはするつもりなんてなかったのよ。それって余計なおせっかいだもの。だけど、あたしが助けを求めた時、ルフィはあたしを助けてくれたわ。ルフィだけじゃなく、ゾロや、ウソップ。それにサンジ君、あんたもね。そうでしょう?」 目を細めるナミさんの顔をぼんやりと眺めていると、彼女はふいと視線を逸らし、海を見つめた。 「言わなくちゃ、伝わらないわ、サンジ君」 長い睫が夕暮れの光を弾いて黄金色に輝いている。 「何をして欲しいか。何をして欲しくないか。言わなくちゃ、解らないのよ」 でしょ、と明るい笑みを浮かべたナミさんが振り返る。 「…そうだね」 思わず呟くと、でしょ、とナミさんは再び微笑んだ。 ああ、と頷き、俺は港に目を向ける。 ここから遠い、一番端っこに我らのゴーイングメリー号は停泊されている。海賊だと解る旗は、トラブルを防ぐために外している。入港する際には、帆を畳んでいる。けれど、それだと一目で解る可愛らしい海賊船。 「…帰りましょ。ご飯作るの、手伝うわ。今日は簡単なんでしょ?」 「ありあわせの食料しかないからね。本格的な買出しは明日の朝イチで市場に向かうよ。聞いた話だと、朝が一番活気があるらしくてね。ナミさんもどうだい? 一度市場で買い物してみないかい?」 「やぁよ。あるのは食料だけなんでしょ。カッワイイ服とかあるなら、話は別だけどね」 「それはないなぁ」 「でしょ? あたしは美容のために、たーっぷり睡眠をとるつもりっ。あ、朝ごはんは勝手に食べるから用意しなくてもいいわよ。その代わり、たくさんイチゴ買ってきてね。ミルフィーユが楽しみだわ」 「了解」 さぁ晩飯は何にするかねぇ、と呟きながら、港へ下りる階段を、ナミさんよりも先に下りる。後ろからコツコツと高い音を響かせて降りるナミさんが、何でもいいわよ、と微笑む気配を漂わせた。 「ゾロの好きなもの、作ってあげなさい」 「……了解」 後ろにあるナミさんの気配に、俺は感謝する。 隣に並ばれなくて良かった、と俺は思った。 にやけた顔は、愛らしいレディに見せられるもんじゃない。 船が近付く。 あちらこちらが何だかんだでボロボロになったゴーイングメリー号に近付く。 甲板には、串団子を振り回すクソ腹巻がいた。俺達に気付いたらしく、振り回している串団子を下ろした。俺が頭にケーキの箱を乗せたまま船に飛び移ってきたので、何だそれ、と近付いてくる。 「ケーキだよ、さっきの店の」 「サンジ君。それ、うちの欠食児童どもにやってくるわ。ねぇゾロ。みんないるんでしょ?」 「ああ。船首でウソップの手伝いしてる」 「そ。じゃサンジ君。晩御飯お願いね。手伝いがいるなら遠慮なく言って頂戴。今日は気分がいいの。特別にタダで手伝ってあげるわ」 「ああ。なんて優しいんだナミさん! でもナミさんの白魚のような手が、水仕事でがさがさになっちゃ大変さ! 俺が全部するから、ナミさんは、ルフィの馬鹿にケーキでも食わせていてくれるかい?」 「ふふ。了解」 笑顔でケーキの箱を抱えたまま、カツカツと甲板を歩いていくナミさんの後ろ姿を見送った後で、俺は再び串団子を振り回し始めたクソ腹巻をちらりと見た。 「オイ」 唇を尖らせて呼びつけると、何だよ、と串団子を振り回す手を止めず、クソ腹巻が答える。 「テメェ、今日の晩飯に何が食いてェ?」 「あ?」 不審気に眉を寄せ、串団子を中途半端なところで止め、クソ腹巻が振り返る。機嫌が悪そうに寄った眉に、俺は少し顎を引く。短くなっていた煙草が、唇を焦がしそうで、俺はぷっとそれを海へ吐き棄てた。 「晩飯だよ。何が食いたいかって聞いてんだよ」 「…ああ、晩飯か…」 そうだな、と呟いたクソ腹巻は、中途半端に止めていた串団子を甲板へ下ろした。 「味噌汁と白米とほうれん草のおひたし」 「……ジジくせぇな…」 「何が食いたいって聞くから、食いたいもん答えたんだろうが。できねぇなら他のでいい」 「できねぇこたねぇけど…お、そうだ。クソ腹巻。味噌汁の具は? 大根でいいか?」 「…ああ。大根のが一番好きだな、俺は」 「…そっか。解った」 知らず知らず、にんまりと唇が持ち上がる。 すぐ作るからなっ、と言い置いて、キッチンへ行こうとすると、あ、オイ、とクソ腹巻が俺を呼び止めた。なんだよ、と少し不機嫌そうに装って振り返ると、いや、と珍しくクソ腹巻が言い淀む。 「…飯食ってさ、後片付け終わったらさ…。その、飲みに行かねぇか。ビビが、ここらの酒はうまいって言っててよ。なんつーか、ワインバーみたいなのもあるんだとよ。テメェ、そう言うの好きだろ」 これはもしや、と俺はクソ腹巻の顔をまじまじと見てしまった。 まるでデェトのお誘いじゃねぇか、と思ったら顔がもう止め処なくニヤニヤしちまって、それであいつは答えを知ったんだろう。 んじゃ夜な、なんて素っ気なく呟いて、ぶんぶんと串団子を振り始めている。 けどよクソ腹巻。 背けたテメェの顔、こっちから見える耳だけ見ててもわかるくらい、真っ赤だぜ。 俺は最高にいい気分で、キッチンへ向かった。 咥えていないと落ち着かない煙草が、今はもうない事も気にならない。鼻歌まで出てくる始末だ。ご機嫌ね、とラウンジにいたナミさんが笑った。向かいにはルフィとウソップとチョッパー、足元にはカルー。そしてカルーの側にはビビちゃんがいた。 まぁね、と俺は笑う。 ナミさんは、一人、俺の心情をすべて察したように、そりゃ良かったわ、と口を開けて笑う。 愛らしい女性の笑顔ってのは、いつでもどんな時でも心を和ませてくれるもんだ。 今は、それがいつにも増して俺の心に響いてしょうがなかった。 |
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