I mean love me. -1-
 嘘みたいに良く晴れた空を、ゾロは倉庫前の甲板に寝そべって見上げていた。ラウンジから降りる階段の脇は、左舷から差し込む太陽の光を遮り、涼しい風を舞い込ませる絶好の昼寝ポイントだ。昼飯を食ったばかりで腹は一杯だし、ゴーイングメリー号が航海している海は、秋島か春島の近くらしく陽気もいい。グランドラインで生まれ、グランドラインで育ったビビとチョッパーは、けれども油断はできないと口を揃える。それにしたってこの天気だ。チョッパーは干した洗濯物の下で天下泰平大らかに大の字になって眠っているし、ビビにしたって船首の側にたらいを持ち出してカルーを泡だらけにしている。楽しそうな笑い声は、油断はできないと言いつつも、さほど心配もしていないようだ。
 そりゃまぁそうか、とゾロは雲ひとつない青空を見上げた。
 この船には口も性格も悪いが腕だけはいい航海士が乗っているし、少人数ながらも大抵の嵐なら難なく乗り越えられるクルーも乗っている。万が一など決してありえないとは言えないけれど、束の間の休息を奪う気はゾロにも毛頭なかった。
 船首からビビの柔らかで楽しそうな笑い声が、ゾロが凭れている階段の辺りまで風に乗って届く。幼い頃から一緒だと言っていたカルーとは、兄弟のようなものらしい。ゾロには生憎兄弟と言うものはなかったので、その気持ちは解らなかったが、正直羨ましいと思う心がないわけではない。
 この連中に会うまでは、たった一人で彷徨い歩いていたし、生活する為に海賊の首を狙い始めてからは、誰かを信頼することすらできなくなっていた。酒場であった誰かと旅をして、寝首をかかれるのはありえない話ではないし、なけなしの金を根こそぎ持って逃げられる事もよくある話だ。兄弟なんてものがいりゃ、そいつくらいは信用できたのかね、と大口を開けて欠伸を放ちながら考える。
 寝るか、と目を瞑った時、ザパッと波が跳ねたのではない音が船首からした。落ちたのか、とうっすらと目を開けて様子を探っていると、口元を綻ばせたビビが空のたらいを持ってやってくる。今の音は、汚れた水を海へ棄てた音だったらしい。なんだ紛らわしい、とゾロは息を吐き、目を瞑る。
 ビビの靴も、ナミのサンダル同様にヒールが少しある。カツカツと甲板を叩く足音が、ゾロの前を過ぎって倉庫の中へ消えて行った。続いてユニットバスのドアを開ける音がする。水を使う音が聞こえ、それが暫く続いた後、キュッとコックを捻る軋む音がした。よいしょ、と小さな声が倉庫の奥から聞こえ、やがてまたカツカツとヒールの音が聞こえ始める。だがそれはさっきのように快活には響かない。ゆっくりゆっくりと、時折たたらを踏んだように乱れる。入れすぎたかしら、と呟く小さな声に、ゾロは身を起こしていた。
 倉庫の中は、青空の明るさに慣れていた目には少し暗かった。真っ暗にさえ思えてしまうが、それも一瞬だけだ。
「Mr.ブシドー?」
 訝しげなビビの声に、ゾロは短く息を吐き、大股で近付いた。
「貸せ」
 ビビの細い手には、水を一杯に張ったたらいが下げられている。案の定彼女には重いらしく、歩いてきた軌跡を辿るように、少量の水が短い間隔で零れていた。
「…すみません。ありがとう」
 ホッとしたように笑みを洩らすビビに、ゾロは、いや、と短く答える。
「船首か?」
「ええ。カルーを洗っていたの」
「いい天気だからな」
「こないだまで雪の中にいたのが嘘みたい」
「ああ」
「Mr.ブシドーったら、あんな寒いのに寒中水泳なんかして。良く風邪引かなかったわね」
「当たり前だろ。鍛えてんだから」
「そんなものかしら」
「そんなもんだろ」
 船首へ上がる階段を上がると、カルーが濡れた羽を広げている。日光で乾かそうとしているのだろう。吹きつける風に飛べない羽が靡き、閉じた目は気持ち良さそうだ。
「ここでいいか?」
 甲板の濡れていた場所へたらいを置くと、「ありがとう」と言うビビの声に、カルーが目を開く。真ん丸の横目が何だか変だと思ったら、トレードマークのように被っているカルーの帽子がない事に気付いた。じっと見つめるゾロの視線に気付いたのか、ビビが苦笑しながら洗濯板を持ち出して見せる。
「いいお天気だから、ついでに帽子や鞍も洗っちゃおうと思って」
「こんだけ天気もいいと、すぐに乾くだろう」
「そうね。風も吹いてるし」
 気持ち良さそうに、長い髪をひとつに束ねた髪留めから零れる後れ毛を揺らし、ビビは微笑していた。
 随分と、軽い笑顔を浮かべるようになったものだ、とゾロは内心で嘆息する。
 ゴーイングメリー号に乗り込んできたばかりの頃は、早く早くと自らを急かすように張り詰めた顔をしていた。ナミが気を使って話題を盛り上げると浮かべる笑顔は、愛想程度で見ている方が返って申し訳なく思ってしまうほどだった。船長の人柄に感化されたのか、それともコックの当り障りがなく、嫌味のない気遣いに和らいだのか。それとも、ウソップの言葉が効いたのだろうか、とゾロは極寒の国を思い出した。
 何もかも背負いすぎだ、と、自分が危険を回避する為にウソップの口からついたでまかせだったかもしれないにしろ、その言葉が、気負いすぎる王女を少し変えたのは事実だ。おそらくウソップはその事実に少しも気付いてはいないだろう。けれど、その方がいいのかもしれない。
「さぁ、お洗濯」
 傍らに置いてあった帽子を手に取るビビを、ゾロは眺めた。
 綺麗な顔をしている。
 男とか女とか関係なしに、人間をひきつける、王族特有の顔だ。ドラム王国で一波乱あったワポルが余りあるほどに持っていた、王族にありがちな驕りと言うものがない。反乱を食い止める事ができたら、ビビは王女に戻る。きっといいアラバスタの王女になるだろう。王女と言う枠に戻れば、こんな質素な船に乗る事も、自分で洗濯をする事もなくなるに違いない。ふとそんな事を思うゾロに、ビビがふわりと髪をなびかせ顔を上げる。
「そうだ、Mr.ブシドー。良かったら腹巻洗濯するわ」
「はぁ?」
 思わず素っ頓狂な声を上げてしまったゾロに、カルーが閉じていた目を薄く開く。心地よい風と、日の当たる場所にいれば汗ばむ太陽の光に、カルーの羽は早々と乾き始めているようだ。
「だってMr.ブシドー。毎日腹巻してるでしょ? ちゃんと洗濯してるの?」
「いや…まぁ…」
「シャツだって毎日同じのだし」
「同じのが何枚もあるんだよ」
「こんなに天気がいいんだもの。すぐ乾くわ。水を運んでくれたお礼に、私洗ってあげる」
「や、いいって別に」
「いいじゃない、仲間なんだし!」
 ね、と可愛らしく首を傾げられ、本来女と言う生き物が、可愛らしい意味で苦手なゾロとしては、うう、と唸るしかなくなってしまう。今までつらつらと考えていた王族とやらの影響もあるのだろうが、ビビに洗濯をさせるなんて、となどと珍しい考えまで出没してくる始末だ。
 腹巻にかかる細い腕をどうしたものかと見下ろすゾロに、本当はね、とビビが舌を出した。
「洗濯が楽しいの」
「楽しい?」
 眉を寄せるゾロに、そう、とビビは腹巻から手を離す。
「うちじゃ洗濯なんて、したことなかったんだもの」
「そりゃお前…王女なんだし」
「そうなの。この船に乗ってからなの。自分の服、自分で洗ったのって」
「…そりゃまた…奥ゆかしいことで」
「だから最近、洗濯が楽しくって。自分のはもう洗っちゃったから」
「…仕方ねぇな」
 渋々といった体で、ゾロが腹巻を外すと、すかさずビビが「シャツもね」と付け加える。はいはい、と言ってシャツを脱ぐと、伸びてきた手が腹巻とシャツを引ったくり、たらいの水の中へどぼんと付けた。これでもう文句言ったって濡れちゃってるわよ、と言いたげなビビの顔に、ゾロは失笑を禁じ得ない。
 シャツを脱いだせいで露になったのは、がっちりとついた筋肉ばかりではない。左の肩から右の脇腹まで走る特大の傷跡だ。ゾロが自分で縫合した醜い跡と、ココヤシ村のドクターが治療した適切な縫合跡が、まるでぎざぎざの鍵のように走っている。驚異的な回復力で、それはほぼ完治したように見えるが、まだうっすらとかさぶたのようなものが張り付いている。
「すごいわね」
 衣類用の洗剤を洗濯板に振り撒き、ビビが笑う。
「ん?」
「傷跡」
「ああ」
 言われ見下ろすゾロの仕草に、ビビは目元を緩めた。
「名誉の負傷?」
「いや、こりゃ負けた傷跡だ」
「…負けた? Mr.ブシドーが?」
 目を丸くし手を留めるビビに、ゾロは唇を引き締める。
「鷹の目って奴にやられた」
「鷹の目…バロックワークスで聞いた事があるわ。ミホークね。クロコダイルと同じ、王下七武海の一人」
「そうだ」
「Mr.ブシドーはミホークとやりあったのね」
「負けたがな」
「でも、ミホークとやりあって生きているなんて、凄いわ」
 にっこりと微笑む愛らしいビビの口元に、ゾロは自嘲的な笑みを浮かべて見せた。
「生かされたんだ。俺は、鷹の目に」
「だから凄いのよ。ミホークが生かしておくほど、Mr.ブシドーは彼に期待されているんだわ。彼を超える事ができるのは、Mr.ブシドーだけなのよ。ミホークはそんな風に、Mr.ブシドーに期待しているんだわ」
「そうかな」
「そうよ」
 さらりと言うビビの強い言葉に、ああそうか、とゾロは思う。今まで卑屈めいて考えてきた事が、この王女様の前だとまるですんなり受け止められる。恐らくは、鷹の目が考えたままその通りに。
「その傷を見ていると、リーダーを思い出すわ」
 洗濯粉を撒き散らした洗濯板を手で支え、ビビが目を細める。注がれるのは、ゾロの顔ではなく胸の傷だ。茫洋とそんなビビの顔を見つめるゾロを相手に、ビビは続ける。
「私の初めての友達で、砂砂団のリーダーなの」
「砂砂団?」
 なんだそりゃ、と首を傾げるゾロに、ビビはゾロのシャツを持ち上げ、さっきとはうってかわった丁寧な手つきで水に浸している。
「小さな子供が作る、なんて言うのかな…グループのリーダーだったの。良くみんなで遊んだわ。遺跡に行ったり、色々。ここに傷があるの」
 水に濡れた手を持ち上げ、ビビは己のこめかみをぴっと指先で引いて見せる。
「私を守って、できた傷なの」
「名誉の負傷って奴か」
「そうね。そう言うのかもしれないわ」
「気に入らないみてぇだな」
「……そうね、気に入らなかったわ。守ってくれたのは嬉しかったけれど、リーダーが死んでしまうんじゃないかって怖くて…同時に腹立たしかったの。私は守ってもらうほど弱くないって。初恋だったの。対等でいたかったの。守ってもらうなんて弱虫な、ただの女の子みたいになりたくなかった。今思えば、単なる強がりだったんだけれど」
 けどね、とビビは明るく顔を上げた。吹きつける風に、髪がふわりと漂い細い首を彩る。幼い頃も、さぞ可愛かったんだろうよ、とゾロは薄ぼんやりと思った。
「その傷がある限り、どんなに時間がたっても、私はリーダーを見つけられるわ。そうでしょう。だったら守られた私を褒めてあげたいくらい。ううん。見つけなくちゃいけないの」
「何故? 決闘の続きでもするつもりか」
 からかいを込めてそう言うと、ビビは「いいえ」と笑う。
「反乱軍のリーダーなの、あの人」
 目を見開くゾロをちらりと見上げるビビの眼差しに、迷いはない。けれどその奥には葛藤の跡があった。
「見つけて、止めるの」
「辛くねぇのか」
「辛いわよ。でも、そうしなきゃならない。だって私は王女で、あの人は反乱軍のリーダーなんだから。砂砂団のリーダーだったあの人と、副リーダーをさせてもらった私はもういないの。反乱を止めて、話し合うわ。解ってくれるまで、何度も。どんな風になっても、きっとアラバスタがうまく行く様に、何度も話すわ。あの人が国を良くしたいって思っていると同じに、私も国を良くしたいんだもの。私の子供の頃のように、平和な国にしたいんだもの。そのためなら、何だってやるわ」
 強い意志を秘めた眼差しが、ゾロを見据えていた。
 そうか、と呟く事もなく、ゾロはその目を見返していた。
 さわりと風が揺れる。
 ビビは微笑し、止まっていた洗濯の手を再開する。
 カルーの側に腰を下ろし、洗濯板でごしごしとシャツを洗うビビの手元を眺めていると、んん、とビビが首を捻った。
「なんだ」
 ビビの手にあるのは緑色の、ラブコックに言わせればクソ趣味の悪い腹巻だ。眉を寄せ、扱い難そうに洗濯板に擦り付けている。
「…洗濯板に引っかかっちゃうの」
 腹巻が洗濯板のでこぼこに引っかかってしまい、うまく洗えないのだとビビは言う。
「無理矢理擦ると、ほつけちゃいそうだし…。Mr.ブシドー。いつもどうやって洗ってるの?」
 眉を寄せるビビに、さぁ、とゾロは首を捻る。
「俺が洗ってるわけじゃねぇし」
「…Mr.ブシドーが洗ってるわけじゃないって……」
「んあ? ああ、洗濯は全部クソコックがやってっから」
「…サンジさんが?」
 腹巻を諦め、シャツをごしごしと豪快に洗濯板に擦りつけていたビビの手が止まった。顔をあげ、まじまじとこちらを見つめてくるビビの眼差しに、何だよ、とゾロは眉を寄せる。何か変なことでも言ったか、と首を傾げるゾロが、何かを言うとした時、バンッ、と盛大にドアの開く音がした。顔をやればそれはラウンジのドアで、頭に銀色の盆を乗せたサンジが嬉々とした笑顔を浮かべているのが見えた。
「ビビちゅわ〜んっ。ずーっと外にいたら日焼けしちゃうよ〜っ。俺様特性のスペシャルドリンクでも飲んで、日陰で愛を語り合わないか〜い」
 階段を駆け下りる革靴の軽快な足音に、目を丸くしてゾロを見つめていたビビが、「え、あ…」と慌てたように反応を返す。
「私は別に…」
「そんなこと言わないでさ〜。ほら、今日のくつろぎおやつはビビちゃんの大好きなブルーベリータルト……」
 船首への階段を駆け上がってきたサンジが、そこにいたゾロの姿を認めるとぴたりと動きを止めた。
「よぉ」
 ゾロが片手を上げると、金色の髪の下で瞬く真っ青の目が、大きく見開かれる。
「…お前……な、なんで裸なんだよ」
「ああ。ビビに腹巻とシャツ、洗濯してもらってんだ」
「あ?」
 ぴくりとサンジの眉が動く。
「…だから、ビビに腹巻とシャツを…」
「んなもん一編聞きゃ解るわ、ボケェッ! なんでビビちゃんに洗濯させてんだよッ!」
「なんでって天気いいからってビビが…」
「このドアホッ! ビビちゃんは王女様なんだぞっ! テメェの汚い腹巻なんぞ洗わせるなッ! 綺麗な手が汚れるだろうがっ!」
「サ、サンジさん。私なら別に…」
「テメェのクソ汚ねぇ腹巻は、俺がちゃんと洗ってやってんだろうがッ!」
 ああ、とサンジを止めるため、泡だらけの手を持ち上げていたビビは納得した。こうまでサンジが怒り狂っているのは、何もゾロがビビに洗濯をさせたからではない。ビビの手が、ゾロの洗濯物のせいで荒れるなどと言う建前をつけながらも、サンジはビビがゾロの洗濯物を洗う事に異議を申し立てているのだ。
 この船に乗り合わせた者ならば、今ゾロの側でサンジの剣幕に怯えているカルーでさえも、ゾロとサンジの関係を知っている。勿論、初めてそれを明かされた時には、ビビとて平静ではいられなくて、ゾロとサンジに対する態度がぎこちなくなってしまったけれど、今では当然のことだと納得している。二人が巻き起こす騒動にももう慣れた。
「じゃあ、サンジさん」
 ビビはにっこりと笑って、泡に塗れた手を綺麗な水で洗って拭った。
 なんだい、と条件反射でにっこり笑顔を向けるサンジに、ビビは泡塗れのたらいを指差して見せる。
「折角だから、ブルーベリータルトを頂きたいの。スペシャルドリンクも。申し訳ないのだけれど、Mr.ブシドーの洗濯物、洗っていただけないかしら。シャツはあらかた洗ってあるんだけれど、腹巻が難しくて」
「勿論、お安い御用だよ、ビビちゃん!」
 両手を組み合わせて、とろけるような笑みを浮かべるサンジの頭の上から、ビビは銀色の盆を取り上げ、立ち上がった。ゾロの目が追っているのは解っていたから振り返り、黒いスーツごとシャツの袖を捲って泡だらけのたらいに手を突っ込むサンジににっこりと作った笑顔を向ける。
「下にいるトニー君と一緒に食べてくるわ。Mr.ブシドー。洗濯物途中で放り出してごめんなさい」
 いや、と片手を上げるゾロに、「何だその態度はァッ」と早速サンジが突っかかっている。沿線上の間に挟まれる事になったカルーは、どうしたのかと二人を見比べているが、サンジの側に洗い終わったばかりの帽子が置いてあるので、ビビの後を追うのは諦めたようだ。
 銀色の盆を持って船首から降りていくビビの後ろ姿をゾロは見送っていた。
 背筋をぴんと伸ばして歩くお姫様には、さぞやお国の衣装が似合うのだろうと何となく思った。そんなゾロの視線に気付いてか、サンジはじゃばじゃばと腹巻を洗いながら、何見てんだクラッ、と唾を飛ばして怒っている。飛ばされたカルーは溜まったもんじゃない。呆れた顔でゾロがサンジを見ていると、ビビちゃんに色目使うなっ、と噛み付かれる。誰が色目…、とゾロは溜息を吐き、欠伸をひとつ噛み殺す。あらかた乾いたカルーの羽に背を預け、目を閉じると、寝んなよっ、と洗濯続行中のサンジが怒鳴ったが、すでにゾロは半分夢の中だった。
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