Everything I Said.
 二日続いた雨の層を抜けた昼下がり。甲板にはまだ雨の名残である水溜りがそこかしこに残っていたが、マストからラウンジ前の手摺に張られたロープには、真っ白のシーツやシャツやタオル、時には男共のパンツなんかも吊るされて風にはためいた。ああやだやだ、と言いながらその下を通らなければならないナミは、洗濯が干されてからと言うもの船尾のパラソルの方へ引っ込んでしまい、サンジがいくらティタイムですと誘いをかけても、ここに運んでよ、と素っ気ない。パラソルの下に開いている海図は、風に時折飛ばされそうになった。そうならないように、しっかりとインク壷や青いガラスの文鎮の下に置いているのだが、あれを捲りこれを捲り、あっちの海図とこっちの本とを照らし合わせ、と忙しいナミは、そのうちの一枚が、はらりと風に浚われそうになって、慌てて立ち上がっていた。アラバスタを出てからずっと書き溜めていたポイントの整理をしていたのだ。ポイントとポイントを繋げ、海図を起こす。それを閉じて本にする。そうすればきっと売れるの、と目を輝かしていたのだ。
「あ、やだ、嘘!」
 高いヒールで甲板を蹴り、延ばした手の先から、ひらりと紙はナミを笑うように身を捩った。手摺に走りよろうとするが、とても間に合いそうにない。風に押され船はとても好調にスピードを出している。雨を抜けてからはぐんぐんとその速度は上がっていた。それでも諦めるなんていや、と足を踏み込んだナミは、左足に走った激痛に思わず呻いた。ちゃんと手当てはされていたけれど、ちゃんと安静にしてはいたけれど、それでも短期間に治るような傷ではないのだ。ああでもあの海図を諦めるなんてできない、と顔を上げたナミは目を丸くした。
「よっと…」
 ひらひらと風に舞って手摺を越えようとしていた海図を、長身の男がその腕を伸ばし掴まえていた。いつもの腹巻は洗濯中なのか、ズボンの上にはアーロンパークで着ていたような奇怪な幾何学模様のアロハシャツを羽織っている。
「ほい」
 少し身を屈めたゾロに差し出された海図を、ナミは不貞腐れた顔で引っ手繰った。なんだか悔しい。こっちがじたばたしているのを見られ、その上で劣等感すら感じてしまうほど呆気なく、彼は海図を手中に収めていたのだ。むっつりと唇を引き結ぶナミに、なんだよ、とゾロが笑う。
「助けてもらったんだから、礼くらい言えよ」
「取ってくれてありがとっ」
「心が篭ってねぇなぁ」
「いいじゃない、ちゃんとお礼言ったんだからっ」
 無理矢理に立とうとしたら、やっぱり傷が開いてしまったようだ。じくりと痛んだ左足を庇うように、デッキチェアに戻ろうとしたナミを、ゾロの逞しい腕がひょいと持ち上げた。胴に腕を回し、後ろから抱きかかえるように持ち上げられたので、ナミはぎょっと目を見開いてしまった。
「な、な、なにすんのよッ! やだっ、放してよ!」
 じたばたと足と手とを振り回すと、ゾロはおかしそうに笑い声を上げる。
「そんだけ元気がありゃ充分だろ」
「うるさいわねっ! サンジ君に見られて誤解されても知らないんだからっ。あたし、弁解してあげないわよっ」
「別にしてほしかねぇけどさ」
「やだやだ、放してっ! 痴漢〜っ、襲われる〜っ」
「あらあら、仲良しね」
 落ち着いたハスキーボイスに、ナミを抱えたままゾロがラウンジの方へ向き直った。自然、腕に抱えられていたナミはゾロと同じに向き直る事になる。じたばたと、動かしていた手と足を止め、ぎゅうっと眉を寄せた。
「何の用よ」
 服を勝手に借用されてからと言うもの、ナミはこの女を目の敵にしていた。それでもグランドラインにかけては彼女の方が知識も経験もあるので、頼らざるを得ないのだが、それがまた癪なのだ。ぷぅと頬を膨らませたナミにチャコールブラウンのスーツパンツに淡いピンクのキャミソールを合わせ、その上に白いシャツを羽織ったニコ・ロビンは頬にすらりと長い指を這わせた。
「まるで猫ね」
 首根っこ抑えられた猫みたい。
 そう嘯いた女に、ナミはカッと頬に血を上らせた。
「イッ…!」
 怪我のない右足で、ガツっとヒールの踵をゾロの向こう脛に叩き付けると、抱え上げていた腕の力が緩んだ。その隙に右足でひょいと飛び降り、イーッ、とナミはニコ・ロビンに歯を剥き出しにした。
「ナミ! テメェっ!」
 痛む向こう脛を抱えゾロは甲板に蹲ったが、ナミはてんで気にしていなかった。
あら可愛い、と笑う女は、ナミがひょこひょこと左足を庇っているのを見て、甲板に腕を生やした。デッキチェアをナミの側に持っていかせると、臨時の腕でナミをデッキチェアに座らせた。聊か乱暴にされ、うわっと悲鳴を上げているナミを乗せ、デッキチェアを元の場所に戻し、臨時の腕は甲板の上から姿を消した。
「…あ、ありがと…」
 不貞腐れた顔ながらもちゃんと礼を言うナミに、どういたしまして、とニコ・ロビンは微笑む。傍らのデッキチェアを引き寄せ腰を下ろすと、持ってきていた本を開いて膝の上に乗せていた。
「あ、それあたしの本!」
「いいじゃないの、貸して頂戴」
「勝手に持ち出さないでよ! 潮風に弱い本とかあるんだからっ」
「これはそうじゃないわ」
「そうだけど…」
「大丈夫。本に関しては、私もちゃんとそれなりに知識はあるから」
「それだったらいいけど…傷めないでよね、本だって高いんだから」
「解ってるわ。それよりも、Mr.ブシドー。座ったら? この子に用があったんでしょ」
 女は一人でも煩いのに、二人集まればどうなることかと、ナミに持ちかけようとしていた相談を宙に散らし、さっさと昼寝でもしようと歩きかけていたゾロは、その言葉に溜息を吐いた。踵を返し、大股で空いていた残りひとつのデッキチェアにどんと腰を下ろすと、本を読んでいるふりをしながら、ちゃんと聞き耳は立てているニコ・ロビンに睨みを効かせた。
「黙ってろよ」
「あら、何を?」
 本からにゅっと出た腕が、ぱらりと一枚ページを捲る。便利な能力だが、ちょっと見る分には気持ち悪い。
 飄々とした顔で嘯く女に、ゾロは再び睨みを効かせた。
「何聞いても黙ってろって言ってんだよ」
「ああ、そう言うことね。いいわよ、別に。面白くなさそうだったら黙っててあげる」
「面白かったらどうする気だよ」
「言いふらそうかしら」
「……」
「冗談よ。さっさと話したら」
 女の気持ちを代弁するかのように、ページを捲っていた手が、さらりとナミの方へ促す仕草をした。ゾロは溜息を吐いて、あのな、と散らかした海図の順番を正しているナミに顔を向けた。
「今向かってる島には、あとどれくらいで着く?」
「…そぉね」
 トントン、と海図を机に打ち付けて整えながら、ナミは首を傾げた。ばさりと机に海図を置き、青いガラスの文鎮を置き、側に置いてあった大きな本をぱらぱらと捲っている。
「どれくらいかって言うのは正確には解らないけど…何しろここはグランドラインだし、何が起こるか解らないから。けど一週間はかかるわね、確実に」
「…なんで」
「それはね」
 ナミが答えるよりも先に、ニコ・ロビンが微笑みながら言った。目はしっかりと、膝の上の本に注がれている。
「気候が安定していないからよ」
「そう言うこと。グランドラインを旅してきて解ったんだけど、気候が安定するのは島までの距離が…その島の大きさや島の特性にも関係あるけど、大体五日から十日の間なの。だから平均して一週間ってところかな。それに雨が降ったりやんだりで、ここのところ忙しい天気だし…」
「まだまだ島は遠いってことよ」
 ニコ・ロビンの言葉に、うん、とゾロは眉を寄せた。
「…どうしたの? 島に何か用があんの?」
 ポイントを書き連ねた紙を、海図の用紙の隣に並べながら、ナミは問うた。
「いや…もうすぐ誕生日だから」
「…え、ゾロの誕生日ってもうとっくに終わったじゃない? ウソップもまだまだよ」
「……コックさんの誕生日ってわけね」
 ふふふ、と笑うニコ・ロビンに、ナミが長い睫を瞬いた。
「嘘、本当に?」
「ああ」
 仏頂面で頷いたゾロの顔は怖いが、それが照れ隠しだと言うことを、ナミはとっくに知っていたし、第一ゾロの強面くらいでいちいち怯えるような女ではない。
「やだ、どーして言わないのよ!」
「どうしてって…俺だってすっかり忘れてて…」
「あんた自分で誕生日作ってあげたんでしょ! なんで忘れてんのよ!」
「…なんでお前がそれ知ってんだよ!」
「あらやだ。ほほほ、気にしないで」
 ぱたっとまるでどこかのおばさんのように手を仰いだナミが、ううん、とすぐに唸って生真面目な顔を装った。
「困ったな」
「…そんなことないわよ」
 薄く笑んだニコ・ロビンが、ナミの腕を取った。左腕に填めたログポースをこんこんと叩き、軽く片眉を上げてみせる。眉の少し下辺りで切りそろえられた前髪が、ふわりと揺れた。
「進行方向向かって左四十五度。多分ここからだと一日で着く所に、小さな島があるわ。小さな町があるけれど、大きな島と島との間だから、そこそこ栄えていて物流も良いの。食料の補充と言うことでの寄港ならあのコックさんも疑わないんじゃないのかしら」
「でも、まだ食料は全然…」
「それなら大丈夫よ」
 ニコ・ロビンは微笑んだ。そうすると少し笑窪ができるのを、ナミもゾロも始めて知った。
「食料を、なくしてしまえばいいのだから」
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