大司教の手紙 <手紙>


 大司教の葬儀は今にも雨が降り出しそうな、ぐずついた空の下、しめやかに行われた。
 大々的に触れを出し、近隣の者や地方の聖職者たちの参列をと望む声も多かったが、実際には大司教の知人への通達とマイエラ修道院で暮らす者たちのささやかな祈りに見送られての最後となった。法王に次ぐ聖職者と言われる大司教の葬儀にしては、いささか簡素すぎる趣ではあったが、故人の意思を尊重した結果だった。
 次の大司教へは、すでに聖堂騎士団の団長の名が上がっている。故人がそうであったことを受けての抜擢ではあるが、間違いのない人選ではある。
 老いてなお、美しいと形容するに相応しい人だった大司教の身の回りのこまごまとしたものの片付けをしていたのは、故人の身の世話をしていた修道士だった。
 二十歳そこそこの青年を、大司教はことのほかに気に入り、可愛がってくれていた。黒い髪や黒い瞳を見ると、若い頃にどうしても添えなかった人を思い出し、寂寥の念を味わえるのだと冗談交じりに話していたのを、修道士は覚えていた。
 大司教の持ち物は唯一の身寄りがいると言うリーザス村に送られることになっていた。修道士は実際に会った事はないのだが、大司教の兄上であるそうだ。足を悪くしていて葬儀には参列できない、と変わりに彼の妻が葬儀に足を運んだ。大司教と同じほどの年であろうに、しゃんと背筋の伸びた勝気な瞳をした老女だった。きっと若い頃は、さぞや美しい人だったに違いない。
 そんな事を思いながら、送る荷を箱に詰めていた修道士は、机の引き出しの、一番奥から出てきた菓子折りの箱に気付いた。古ぼけた箱を引っ張り出し、中を開くと、そこには手紙が幾束も納まっている。紐で束ねられたもの、ばらばらに放り込まれたものと様々だが、どれもが大司教の名を記されていることから、故人に宛てられたものだろう。これもまとめて荷の中に入れようとした修道士は、ふと手を止めた。
 菓子折りの一番底に、他とは別に麻の紐でひとまとめにされた手紙の束に気付いたのだ。
 それだけは他の手紙と違い封は切られていなかった。それどころか、宛先すら書いていなかったのだ。
 出し損ねた手紙だろうか。
 それとも、何か曰くのあるものなのだろうか。
 修道士は手紙を手に、しばし逡巡したが、己の欲には勝てなかった。
 まだ二十歳そこそこの若者なのだ。それに、大司教が目にかけてくれなければ、とうにマイエラ修道院を追い出されているに違いない、どちらかと言えば不良の部類に入る青年だった。悪戯好きで、故人もそうであった大司教と一緒になっては聖堂騎士団の団員をからかったものだ。
 修道士は十字を切った。
 大司教さま、お許し下さい、と形ばかりの懺悔をし、固く結ばれている麻の紐を解いた。
 そして、一番上の手紙の封を切った。
 宝の地図を開くような、どきどきとした心地で封筒から引っ張り出した便箋は、随分と古いものだった。インクが色褪せてはいるが、陽に当たらなかったせいだろう。かろうじて青味を残している。
 修道士は、そうして一番目の手紙を読んだ。
 そこには、大司教の、誰に語ることもなかった気持ちが綴られていた。
『エイトへ』
 宛てられた名に、修道士は覚えがなかった。それでも、いや、だからこそ、大司教が誰かにあてた手紙の続きを読むことができた。

『手紙なんか書いて、俺はどうしようって言うんだろう。お前にはもう届けられないって言うのに、何か繋がってるものが欲しいのかもしれない。昨日の結婚式は、とても立派なものだったと兄貴から聞いたよ。だけど兄貴を見て、姫さんやおっさんまでもが大声を上げたって聞いた時には、思わず笑うしかなかったぜ。式の最中だってのに、良くもまぁ……。いや、まぁそれがお前ららしいっちゃお前ららしいかもな。昨日は面と向かって言えなかったけれど、いや、今だって言えないけれど、いつかお前におめでとうを言えるようになりたい』

 修道士は綴られた手紙の中の、いくつかの単語に首を傾げた。
 大司教は届けるつもりもない手紙を、こうして綴っていたことになる。それも、この一通だけではない。他にもまだたくさんあるこれらを、一体、大司教は誰に宛てたのだろうか。
 エイト、と呼ばれる人物だと言う事は解る。男性の名前ではあるようだが、愛称だったのだとしたら女性かもしれない。察するにエイトという人が結婚式を挙げたようではあった。
 修道士は、堪えきれずにもう一通の封を切った。
 いけない事をしているとは解っていたが、大司教が誰に手紙を届けたかったのか、知りたくもあったのだ。
 二通目も、『エイトへ』と宛てられていた。

『ミーティア姫ご懐妊の噂は、マイエラにまで届いたぜ。これでお前もようやく父親ってわけだな。複雑な気持ちもあるけど、お前に家族ができて、俺は嬉しいんだ。無事に元気な赤ん坊が生まれるように、毎日祈りを捧げるよ。これでも俺は、真面目な修道士だからさ。お前の子供だ。元気には違いないだろうけれど、寄り道癖まで移らないといいな。精一杯慈しんでやってくれ。俺や兄貴みたいなひねくれものにならないように』

 修道士は手紙を読みながら、もう少しで叫んでしまうところだった。
 ミーティア姫と言えば、奇しくも大司教と同じ日に逝去されたトロデーン国の王太后の名前だ。修道士が生まれるよりもずっと前に、悪しきものの呪いを受け、茨と化した城の中で眠りにつき、当時は近衛兵であった後のトロデーン国王の活躍により、呪いを解かれた伝説の姫君だ。勿論、修道士は知っていた。なぜならば大司教自身が、その呪いを解き、世界を滅さんと企んでいた悪しきものを滅ぼすための旅の一員であったからだ。
 では、このエイトというのは、いや、間違いがないだろう。
 大司教が手紙を宛てたエイトとは、ミーティア姫の夫で、今や息子に後を任せ、隠居をしていると言うトロデーンの前国王の名に違いない。
 修道士は御伽噺として聞かされたミーティア姫の名前は良く知っていたが、彼女の夫となった後の国王の名は知らなかった。歴史には疎かったし、何よりトロデーンはマイエラから遠い。そして、世界が滅されようとしていたその時は、修道士にとってはるか遠いかなたのできごとだったからだ。
 大司教は、ミーティア姫に惚れていたのだろうか、と修道士は胸を高鳴らせた。
 修道士は次いで、三通目の手紙の封を切った。すでに躊躇いなどはなかった。『エイトへ』と綴られる手紙に、必死になって目を走らせた。

『あの旅の間に、まさかこんな事になるなんて、想像したか? ゼシカが、よりにもよって兄貴と結婚するなんて! ラグサット野郎よりはよっぽどゼシカ向きな結婚だとは思うけど、なんだか複雑な気分だぜ。ゼシカと親戚になるなんて! 結婚式には行くつもりがない。兄貴は理由を知ってるから、納得してくれた。お前に会う自信がないんだ。お前との赤ん坊を抱いているミーティア姫と、彼女らと一緒にいるお前の姿を見る勇気がない。旅の間、何度だって俺はそう思ったけど、今こそ本当に痛感する。俺は意気地なしだ。そして、底なしの執念深さだと思う。俺はまだ、この恋を諦められないでいる』

 やはり、と修道士は目を丸くした。
 大司教の添えなかった相手というのは、ミーティア姫だったのだ。そう言えば御伽噺に聞くミーティア姫の容姿は、黒い長い髪をしていた。
 修道士は慌しく四通目の手紙を掴んだ。

『兄貴とゼシカの二人目の子供の名前は、ルチアに決めた。マリアの時もそうだった。女の子だったら兄貴の名前、男の子だったらゼシカの名前を文字ろうって考えてたんだ。今やゼシカまでもが、俺の気持ちを知っている。で、一生神様へ身を捧げるつもりの俺へ気遣って、名付け親になってくれなんて頼むんだろうな。嬉しいけど、申し訳ない気もする。マリアが大きくなったらお前の子供と結婚するんだって言ってたよ。そうなればいいと、思ってるんだ。そうすれば、遠いけれど、お前と縁が繋がる。たったそれだけに、途方もない喜びを感じるんだ』

 読み進めるうちに、修道士は不思議なことに気付き始めていた。
 大司教の手紙はエイトに宛てられたものではあるが、ミーティア姫に恋心を抱いているのだと思っていた。だが、それも段々と不自然になってくる。大司教はミーティア姫とではなく、エイトと縁が繋がることに喜びを感じているのだ。
 まるで、大司教はエイトに惚れていたかのようだ。
 修道士は五通目の手紙を広げた。それは今までの四通よりも、随分と後に書かれたもののようだった。

『マイエラにまで訃報は届いたよ。おっさんが死んだなんて、信じられないな。マリアと王子の婚約が整ったんで、安心したんじゃねぇのかな。いつだって元気に走り回ってるイメージしかなかったってのに、俺も年を取るはずだ。気付けばもう、死んだ親父と同じ年になってる。お前の主であり、父親でもあるおっさんの死を、お前がどれほど悲しんでいるか…想像するのも辛いくらいだ。できれば側にいて慰めてやりたいけれど、俺にはまだお前に会う勇気がない。もう何年経ったろう。それでもまだ会えないんだ。おっさんが安らかに眠れることを、そしてお前の悲しみが一瞬でも早く癒えることを俺はマイエラで祈るよ』

『ヤンガスが来たよ。あのおせっかい野郎め。孫ができたからってのろけにきやがった。幸せそうで安心したけどな。お前が俺に会いたがってるって聞いた。ありがとう、嬉しいよ。聞いた時には泣きそうだった。ああ、お前の中でまだ、俺という存在が残っているんだって知って、幸せだった。だけど、無理だよ、エイト。俺はお前には会えない。きっと、一生会えないと思う。会ったら、何もかもをぶち壊そうとしてしまうだろうから。お前の幸せや、お前の周りにいる人たちの幸せを、俺は奪おうとするだろうから。親父と同じ轍は踏みたくない。俺はここで、ずっとお前の幸せを祈ってるよ』

『すごい、幸せだ! なぁエイト、お前の子供と、俺の姪っ子がとうとう夫婦になったんだ! 俺たち、血は繋がってないけど、うんとうんと遠いけど、家族にはなったんだ! お前と初めてセックスした時以上の喜びだ! マリアはきっと綺麗な花嫁だったろうな。王子は、そうか、俺たちが出会った頃のお前と同じ年なんだな。お前に良く似てるって噂の王子と、兄貴よりもよっぽど俺に似てるマリアとの結婚だ。ああ、すっごく見たかった。想像するだけで、幸せだ。神様ありがとうって何度もお礼を言った。ああ、なんて、素晴らしいんだろう!』

『いつの間にか気付けば、オディロ院長の部屋が、俺の部屋になってる。兄貴の部屋が俺の部屋になった時も、かなり不思議な気分だったけど、今ほどじゃない。大司教への就任式は盛大にやらなくちゃならないらしいんだけど、質素倹約が美徳とか嘘吐いて、取り辞めたんだ。だって就任式には各国の代表がくるわけで……お前に会う自信がないんだよ。もう足腰弱ってきた爺だってのに…笑うといいよ、エイト。俺はまだ、お前を愛してる。出会ったときのまま、俺の中で綺麗に笑ってるお前を愛してるよ』

『おい、エイト。お前どうかしちまったんじゃねぇのか。もう何十年も顔を合わせてない野郎に、大事な孫の名づけを任せるんじゃないってんだ! だけど、嬉しい。すごく。悩んだけど、手紙をきちんと書く自信がないんで、うちの優秀な修道士に言葉を届けさせるよ。色々考えたけど、お前の初めての孫の名前は、エールにしよう。気付くかな。名前をもじったんだ。俺と、お前と、まだ何かで繋がってたいって、そう思うから。ごめんな。俺の我侭だ』

『年のせいだな。目があんまり利かなくなってきた。元々目は良くないから、そのせいかもしれないけど、だから、きっとこれが、最後の手紙になるだろう。出す宛てなんてない手紙を、よくもこれだけ書いたもんだ。俺の執念深さには、自分で呆れ果てる。だけど、ああ、本当に、何もかもが奇跡みたいに思えるよ。お前と出会って、お前を好きになって、俺の気持ちはお前に届くことはなかったけど、旅の間だけでも自惚れることができたのは、幸せだった。お前が結婚するって言った時には、セックスまでした俺を棄てるのかって思ったけど、今じゃ良かったと思ってる。お前が幸せになってくれて、本当に良かった。随分長くかかったけど、結婚式の日に言えなかったおめでとうを、今なら心から言えるよ。おめでとう、エイト。あの時に言えなくてごめんな。遅すぎるけれど、本当に遅すぎるけれど、お前とミーティア姫の幸せを、心から祈るよ。お前が昔望んだ通りに、トロデーンが長く繁栄するように、祈り続けるよ』

 気付けば、修道士の膝の上には、封を切った手紙がいくつも重なっていた。はらはらと落ちる涙ではなく、呻きそうになる口を思わず手で押さえ、修道士は大司教の秘められた恋の深さに瞼を閉じた。
 なんと言う、愛の深さだろう。
 エイトと呼ばれたトロデーン国王のことは知らないけれど、修道士は大司教を良く知っていた。彼のこれまでの功績も、マイエラ修道院に住むものの嗜みとして知っていた。
 暗黒神を倒すべくマイエラを発ち、目的を果たし戻ってきた後は、堕落しかけていた修道院を高潔な姿に正すべく尽力をした。聖堂騎士団の団長として長らくを過ごしながらも、誰よりも信仰深い修道士としての道も後に続く者に示し続けた。大司教となってからも、崇高な姿と親しみを抱く暖かな人柄に触れ、感銘を受けるものも多かった。
 その大司教の、知られざるうちに、このように深い思いがあったのだ。
 道ならぬ思いは禁じられた衆道ではあったが、だが、それがなんだというのだろう。異性とてこれほどまでに思い続けることは難しいのだ。愛に正しさや間違いがあると言うのなら、大司教の愛は紛うことのない正しさに満ちていた。
 修道士は、菓子折りの箱の中に残る一通の手紙に気付いた。麻の紐で結ばれていたものの、最後の一通のようだった。
 ゆっくりとそれを開いた修道士は思わず目を見張る。その手紙はエイトにではなく修道士に向けられたものだった。

『どうせそんなこったろうと思ったぜ。俺の手紙を、見たな? 見てないのなら、箱ごと全部燃やしてくれ。もし読んだのなら、いや、読んでるだろうな。お前はそう言う奴だ。俺に似てるんだ、良く解る。最後の頼みだ。手紙は燃やしてくれ。そしてできれば、手紙の内容は、覚えていてほしい。勝手な頼みだが、誰かに俺の気持ちを知っていてほしかった。そしてその誰かは、お前だといいと思っていた。前に言ったことがあったろう? お前は、似てるんだ。顔の作りは似てねぇんだが、仕草がちょっと似てる。黒い髪だし、黒い目だし、お前が側でちょろちょろしてるのを見ると、まるで昔に戻ったように思えた。ありがとう。良く俺の世話をしてくれた。おそらく、俺の最後を看取るのはお前だろう。あいつに似たお前に看取られることが、俺は楽しみで仕方がない』

 修道士は苦笑を馳せた。
 なんと最後まで、大司教らしいのだろう。修道士の賭博好きを諌めるでもなく、一緒になって賭け事の輪に入るような人だった。そして決まって、大司教が大勝をするのだ。神様のご利益があるとかなんとか言っていたが、修道士は知っていた。世界中探したって、いかさまの得意な大司教などどこにもいるまい。
 修道士への手紙を書いたのも、おそらく賭博のような気分だったのだろう。大司教の世話をする者が必ずしもこの菓子折りの箱を開くとは限らないし、別のものが開いたら開いたで余計な悶着が起こりそうだ。それだと言うのに大司教は菓子折りの箱を残した。大司教は賭け、そして勝ったのだ。
 修道士は頬を伝っていた涙を拭い、手紙の束を胸のポケットにしまった。暇を見つけて、裏の庭で燃やそうと思ったのだ。大司教の好きだった花の香でも一緒にくべれば、叶うことのなかった願いや恋への供養になるだろうか。
 そして修道士は滞っていた荷造りの作業へ戻る。
 いつの間にか外では静かに雨が降り始めていた。

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