大司教の手紙 <空の棺>


 すべてを片付け終えた修道士が、菓子折りの箱を手に大司教の部屋を出ようとしたときだった。きちんと閉めていたはずのバルコニーの窓が、かたんと音を立てて開いたのだ。驚いてそちらを見ると、雨が降っているにも関わらず、濡れた形跡などない男が一人、ゆっくりと入ってくるところだった。
 修道士は目を丸くする。
 それは自分と同じほどの年の男ではあったが、静かに修道士を見つめる眼差しは、比べることもできないほど老成されているように思えた。それゆえだろうか。修道士はいぶかしみながらも険はなく尋ねた。
「…誰だ? どこから入った?」
 敬語を使うということがすっぱり頭から抜け落ちている修道士に、その男は少し首を傾げ、尋ねた。
「ククールは?」
 何かあどけないような印象を抱く声に、修道士は思わず顔を強張らせる。なぜか人ならざるものの気配を感じたのだ。もしかすると、いまだ根強く残る暗黒神の信者かもしれない、と修道士は身体を強張らせた。暗黒神を滅ぼした大司教の聖骸を悪しきことへ利用するつもりかもしれない、と用心をしながら、修道士は答えた。
「すでに大司教は亡くなられた。どこから入ったか知らねぇけど、ここにはいないんだ。さっさと出てってくれ」
 睨み付ける修道士の眼差しに、男は少し目を丸くした。そして驚いていた表情を一転させ、笑顔をころりと浮べた。まるで長年見知っていたものをようやく見つけたような笑顔だ。
「君、ククールにそっくりだ」
「あ?」
 告げられた言葉についていけず、思わず顔を顰めると、男は親しげな笑みを浮べて言った。
「良く言われない? 君の口調、すごくククールにそっくりだよ。ひょっとして賭博好きなんじゃないかな。いかさまが得意とか」
 修道士は今度こそ本当に呆気に取られた。目を丸くし、言うべき言葉を忘れて口を開いていると、やっぱり、と男は笑う。
「ククールもそうだったよ。もう随分前のことだけど、良く酒場でいかさまやっては悶着起こしてくれてたっけ…。それで、ねぇ、ククールはどこにいるの? 教えてくれないかな? 会いたいんだ」
 真っ直ぐに見据える眼差しから、それまで宿っていた親しみや柔らかさ、温かみが一気に消えた。底冷えのする真冬のような空気すら漂わせた男の口調は、人に命じることに慣れているように思えた。
 修道士は一歩後ずさり、そこにあった荷物に躓いて尻餅をついた。箱の上に倒れこまなかったのは幸いだった。何しろそれは、リーザス村へ送る大司教の遺品が入った箱だったからだ。
 無様に転がった修道士を、男は軽やかな足取りで近付き、助け起こした。外套の中から伸ばされた手が、腕をぐっと掴み引っ張り上げる。そのせいで男の腰に、一振りの長剣が下がっているのが見えた。そして長剣に刻まれた紋章に、修道士は目を見張った。
「大丈夫?」
 立ち上がった修道士は男の顔をまじまじと見つめた。
「あんた……トロデーン王家の…?」
 男はしまったとでも言うように自分の腰の剣を見下ろして、あー、うん、と言葉を濁らせる。
「まぁ…そのようなものです」
「なんでこんな所にいるんだ。王太后が亡くなられて、国葬を執り行ってるはずじゃねぇのかよ」
 相手が王族と解っても、生来持っての遠慮のなさは直しようもなかった。修道士のその言葉に、男は少し微笑んで言う。
「ミーティアの葬儀が終わったから、きたんだ。ククールに会いたくて。だからさ、どこにいるのか教えてくれないかな?」
 穏やかな口調ながら、口答えや否定は許さないと言いたげな様子に、修道士は大きな溜息を吐いた。大司教の部屋に曲者を入れてしまった時点で、すでに処罰を受けることは確実だ。今更、この男を大司教の聖骸の安置されている場所へ案内したところで、受ける処罰の割合が変わるわけでもない。それに、相手はトロデーンの王族だと言うではないか。国章の入った長剣を持つ者が偽者とは考えにくいし、尚且つ、修道士は大司教の手紙を読んだ後だった。大司教が思いを寄せたトロデーン前国王の血族になるのだろうこの男に、亡くなった後だとしても大司教を会わせてやりたいとも思い始めていた。
 もしかしたら自分以上に、この黒い髪、黒い目の男が、大司教の愛したエイトに似ているかもしれないから。
 修道士はまた一度、溜息を吐いた。そして顔を挙げ、手をしゃくる。
「ついて来いよ。大司教は聖堂で眠っていらっしゃる。明日の埋葬まで他所者は入れねぇんだ。抜け道を教えてやる。ついてこいよ」
「ありがとう」
 男はほっとしたように微笑んだ。最悪、強硬手段にでも出るつもりだったらしい。修道士が知らない間に男の手は腰の剣の柄にかけられていた。
 油断のならない奴だ、と思いながら、修道士は男を案内した。
 大司教の部屋を出、螺旋階段を下りる。大司教が住まう館は聖堂や聖堂騎士団の住まう宿舎からは孤立した島にある。雨の降る中、橋を渡り、人など誰もいない中庭を抜け、聖堂騎士団の宿舎を迂回し、修道士は聖堂の裏へ回った。
「中を通ると誰かに見つかっちまうだろうしな」
 辺りを不思議そうに見渡している男にそう言い、修道士は聖堂の外壁で微笑む女神像の下にしゃがみ込んだ。女神像の台座の横の出っ張りをずらし、中に手を突っ込むと、音もなく女神像が開く。目を見開いている男に、修道士は苦笑し告げた。
「大司教が教えてくれたんだ。酒場から帰ってくる時にはここを使えって」
「ククールらしいなぁ」
 女神像の抜け道は、人気のない聖堂の中へ直接続いていた。聖堂の中にも女神像はいくつも並んでいるが、その内のひとつと抜け道は繋がっているのだった。修道士が先に聖堂へ入り、男を中へ招きいれた。ここまでくるだけで、修道士も男もずぶぬれになってしまっている。なのにどうしてこの男は、大司教の部屋にやってきた時、少しも濡れてはいなかったのだろう、と眉を寄せた。
 大司教の聖骸は聖堂の真ん中に安置されていた。
 白い布をかけられた棺の中に納まり、両手を組んでいる。大司教の正装を纏い、組んだ手の中には教会の掲げる十字架があった。綺麗な顔で目を閉じ、死んでいるのではなく、ただ眠っているような様子だ。近隣から訃報を聞きつけ集まった信者たちが手向けた花に囲まれ、大司教は聖堂で一際大きな女神像に見下ろされてていた。
 静けさに満ちた聖堂には、降りしきる雨が屋根に当たる音と、聖骸に近付く修道士と男の足音だけが響いていた。
「…ククール」
 男は棺の側に立ち、そっと手を伸ばした。
 止めるべきだったのだろう。聖骸に触れるなど、罰当たりな事この上ない。だが修道士はそうできなかった。男の悲しみをたたえた眼差しに目を奪われてしまっていたのだ。
 黒い瞳は悲しみや後悔を纏ったまま、何度も瞬いた。男の手が、大司教の頬を辿る。老いてなお美しかった大司教は、それでもやはり年には勝てなかった。年ごとに増える皺は、確かに大司教が生きた年月を示す年輪として、大司教の肌に刻み込まれている。男の手はそれを辿るようだった。
「…ごめん、ククール…遅くなったね…」
 男は棺の上に身を屈めた。愛しい子供にそうするように、大司教の額にくちづけを落とし、そして振り返らずに尋ねた。
「ククールの最後を看取ったのは、君?」
 修道士は男の隣に並び、大司教の美しい死に顔を見下ろす。
「ああ。なんでも、昔惚れてた人に俺が似てるとかで、俺の顔を見ながら死にたいとか……」
 思えばそれが、トロデーンの前国王エイトだったのだ。
 大司教と同じ年頃であるだろうから、もうすでに充分な年だろう。長年連れ添ったミーティアも、大司教と同じ日に亡くなったというし、今のエイトが修道士に似ているはずもないのだが、大司教の中でエイトの姿は修道士と同じ年の頃で止まってしまっているのだ。手紙によれば、大司教が彼に最後にあったのは、彼の結婚式の日であったそうだから、間違いないだろう。
 唇を噛み締めた修道士の表情をどう捉えたのか、男は不思議に静かな声で、そう、と頷いた。
「ありがとう」
「あ?」
「ククールを看取ってくれて」
「…なんであんたに礼を言われなくちゃならねぇんだよ……」
「うん、でも言いたい気分だったんだ。それに、今の君の言葉で決心がついた」
「……はぁ? なんの決心…」
「ククールは俺が連れて行く」
 男の突然の、突拍子もない言葉に、修道士は言葉を失った。呆気に取られている修道士の前で、男は懐から取り出したひとつの瓶の蓋を開けた。不思議な形をした瓶で、その上、中に納まっていたのも実に不思議なものだった。
 どうやら砂ではあるようなのだが、淡い燐光を放つ緑色の砂で、とても自然に生み出されたものではなさそうだった。魔法の力を感じるそれを、男はざらりと自分の手の上に零した。
 不可解な眼差しを向ける修道士を見上げ、男はちらりと笑みを浮べる。
「『時の砂』だよ」
「……『時の砂』…?」
「まぁ見てて」
 男は手の中に握りこんだ『時の砂』とやらに祈りを捧げると、ざっと大司教の聖骸の上にその砂を振りまいた。
 慌てたのは修道士だ。司教が何人も集まって清めた大司教の聖骸にとんでもない事をしやがる、と掴みかかって止めようとした時、修道士は信じられないものを目にした。
 きらきらと光を放ちながら大司教の聖骸に振りまかれた『時の砂』が、大司教に触れた途端、そこから新たな光を放ったのだ。淡い光ではあったが、えもいわれぬ美しい光で、それに包まれた大司教の姿が、ゆっくりと変わりつつあった。
 深い皺の刻まれた肌から皺が消え、張りと瑞々しさが戻る。すべて白くなっていた長い髪は輝きを取り戻し、月の夜の光のような銀色の髪になった。
 淡い光の中で寿命を全うした老人から、若者へと姿を変える大司教がおもむろにぱちりと瞼を押し開いたのを見て、修道士は危うく悲鳴を上げるところだった。
 淡い光が止む頃、大司教は修道士と変わらぬ年頃の青年へと姿を変えていた。
 目を開き、不思議そうに辺りを見渡した大司教は、驚愕の表情を浮べている修道士に気付くと、あれ、と瞬きをした。
「俺、死んだんじゃ……?」
 不思議そうに首を傾げる大司教の言葉に修道士は答えられなかった。修道士は後ずさり、どすんとその場に腰を抜かしてへたり込んでしまったのだ。
 その表情をどう捉えたのか、訝しく眉を寄せた大司教は、だがすぐにくんと鼻を動かした。己が身に纏っている大司教の正装の袖に鼻を近づけて、ああっ、と哀れっぽい悲鳴を上げる。
「テメェ、死者を送る香をくべやがったな! あの匂いは好きじゃねぇから、違うのにしてくれって散々っぱら頼んどいたってのに!」
「く、くべるに決まってるじゃねぇか!」
 腰を抜かしてへたりこんだ修道士は、だが負けじと反論する。これはもう身についた習性のようなものだった。
「死んだ人間送るのに、花の香なんか焚けるか!」
「それをなんとかそうすんのがテメェの仕事だろうが……まったく、これじゃしばらく匂いは取れねぇな……あれ? なんか俺、若くねぇか?」
 袖を持ち上げる自分の手の、いつもとは違う滑らかさにようやく気付いたようだった。ぺたぺたと頬を触り、長い髪を持ち上げ、あれ、と目を白黒させている大司教は、なんでだ、と不思議そうに辺りを見渡し、そして動きを止めた。
 棺の中で目を覚ますなり、突拍子もない事を騒ぎ始めた大司教を、ただただじっと見つめていた男に気付いたのだ。修道士は腰を抜かしながらも口を開いた。
「あ、そいつはトロデーンの王族の…」
 修道士の説明の半ばで、大司教はぽつりと呟いた。まるで、信じられない幻を見ているかのような口調だった。
「………エイト…?」
 大司教の口から零れた名前に、修道士は目を見開いた。慌てて男を見上げると、男は薄い笑みを浮べて、こくりと頷く。
「…うん」
「嘘だ…エイト……本当に…?」
「うん」
 男がまたこくりと頷き、誘われるように棺に近付くと、上身を起こしていた大司教の腕が伸び、濡れた外套ごと男を抱き寄せた。濡れた黒い髪に顔を埋め、深く息を吸い込み、ああ、と呻くような感嘆の声を洩らす。
「本物の、エイトだ……! 奇跡みたいだ…夢見てるみたいだ!」
 大司教の腕の中で、男は苦しそうにもがいてはいたが、その腕を拒もうとはしなかった。正装の背中に手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめ返す。
「大袈裟だよ…」
「大袈裟なもんか! 本物のエイトを抱きしめてるなんて…! 長生きして良かった…って……そーだよ、俺、死んだはずじゃ…? それになんで俺たち、若返ってんだよ」
「ええっと……」
 男は大司教の腕を押して身を離し、外套の中に手を入れると懐から瓶を取りだした。それは大司教に振りまかれた砂が入っていた瓶で、とても不思議な形をしている。ハート型と言うのだろうか。修道士が初めて目にした時には、瓶の縁ぎりぎりまで入っていたのだが、今はほんの少し、底に淡い緑色の砂が残るばかりだった。
 男はそれを大司教の手のひらに握らせた。大司教は手の中の瓶を不思議そうに眺めている。
「これ、『時の砂』って言うんだ。国政から退かれた後、トロデ王が錬金釜で作って下さったんだよ。本当は何度でも使えるものらしいんだけど、レシピが不完全で一度しか使えないそうなんだ。必要な時がきたら使いなさいって仰っていた」
「……おっさんが?」
 さらさらとほんの少しばかりの残る砂を眺めていた大司教は、うん、と頷いた男の言葉を吟味するようにしばらく黙っていたが、すぐに何かに気付いたかのようにはっと顔を上げた。
「それなら、お前…俺なんかに使わねぇで、姫さんに使ってやれば良かったじゃねぇか! 一度しか使えねぇんだろ? だったら…!」
「いいんだよ、ククール」
 男は柔らかく微笑むと、『時の砂』の瓶を握り締めている大司教の手をそっと両手で包み込んだ。
「……君に使うって、約束だったんだ」
「…俺に使う……約束?」
 不可解に眉を寄せる大司教に、うん、と男は諭すような口調で告げた。
「…俺はね、竜神族だから年を取らない。君たちみたいに、すぐには。見てくれだって、あれから六十年もたつのにちっとも変わらない。俺にとって君たちと過ごす時間は、ほんの少しなんだ」
「だったら、なおさら姫さんに」
「違うんだ、ククール。ほんの少しの時間でもいい、一緒にいたいのは、ミーティアじゃなくて君だったんだ」
 大司教の手を包み込む男の手に、力が篭ったようだった。目を見開いている大司教に男は尚も続ける。
「陛下に勧められるがまま、ミーティアと結婚したけれど、段々なんだか違うなって思った。ミーティアと過ごしている間、いつも君の事を考えてた。ククールならこうする、ククールならこうやって答えてくれる、ククールなら、ククールならって…。陛下は、俺の気持ちに気付いておられるみたいだった。この『時の砂』を下さった時に、仰られたんだ。もう一度人生をやり直せばいいって。一度しか使えないけれど、これは時間を戻すことのできるものだから使うといい。だけど、ミーティアを不幸にはしてほしくない。俺がこの『時の砂』を使うのは、ミーティアが亡くなった後にしてくれって。だから、ミーティアが亡くなったから、きたんだよ、ククール」
 男の言葉が終わるか終わらないかのうちに、大司教はバッと乱暴な仕草で己の手を包み込む男の手を振り払った。
「ふざけんなよッ!」
 男が目を見開いて見守る中、ずっと腰掛けていた棺から飛び降りた。それは大司教の正装が不釣合いなほど敏捷な動きだった。そして、かつて一度として修道士が聞いたことのないような激しい口調で男を罵り始めた。
「じゃあテメェは、姫さんと結婚して、子供まで作って、なのに姫さんを好きじゃなかったって言うのかッ! 愛してなかったって? どこまで人を馬鹿にすりゃ気が済むんだ! どれほどお前らの結婚をおっさんが喜んでたと思ってるんだ! そのおっさんに、何て事させやがる! 自分の娘を好きでもない奴に、こんなはなむけ寄越すようなことを、させるんじゃねぇッ! 姫さんはどうなる? お義理でテメェと結婚してもらって、それで幸せだったとでも言うつもりかよ! お前らの幸せを一生かけて祈った俺はどうなる! ふざけんじゃねぇ、馬鹿にすんのも大概にしやがれ!」
 握り締めた『時の砂』の瓶を、ひょっとしたら割るんじゃないだろうか、と修道士は思った。ぎりぎりと音がするほど握り締めた瓶を、大司教は憎々しげに見下ろしていたが、決してそうはしなかった。それを錬金窯とやらで作り出した人物に、よっぽど恩義があるのだろう。
 苛立ちを隠さない大司教に、男は少し、微笑んだ。途方にくれた子供のような顔で、男は静かに告げる。
「ミーティアを好きだったよ。俺の家族なんだ、好きに決まってるよ。子供だって可愛くて、全力でみんなを守りたいって思ったよ。だから、本当はもう『時の砂』を使うのはやめようって思ってたんだ。ククールは一度だって会いにきてくれなかったし、ひょっとしたら、もう俺なんか忘れてるかもしれないって考えてた。だけど、ミーティアは違うって言うんだ。ククールはきっと、今でも俺を想っていてくれるって」
 はっと顔を上げた大司教へ、男は途方にくれた顔に少しばかりの笑みを乗せる。
「……エールの名前がマイエラから届いた後に、ミーティアが打ち明けてくれたんだ。本当は俺たちの関係を知っていて、黙っていたんだって。俺が結婚を申し込んでからもずっと半信半疑で、いつかククールが迎えにきて、俺が消えちゃうんじゃないかって心配してたって。でも、君は会いにこなかった。その後、ミーティアは言ったんだ。ククールが会いにこないのは、俺をまだ好きだからだって」
 大司教がよろめくように後ずさり、己がついさっきまで眠っていた棺に手を当て身を支えた。蒼白な顔色をし、戦慄く手が『時の砂』の瓶を取り落とす。だが、強化魔法でもかけられているのか、それとも特別な瓶なのか、甲高い音を立てて割れるはずのガラス細工は、何事もなかったかのように石畳の上で転がっていた。
「……まさか、そんな…」
 大司教の震える手は、同じほどに震える口元を覆っていた。
 己の想いをよりにもよってミーティア姫に気付かれていたのだと言う驚きだけではない、何か恐れのようなものを滲ませながら、大司教は震える唇で言葉を紡ぐ。
「じゃあ……姫さんは、ずっと気に病んで……? 俺のせいで…親父みたいに…親父が、兄貴たちを傷つけたみたいに……姫さんを…?」
「違うよ、ククール。全然違う」
 慌てたように男は駆け寄り、大司教の手を取り告げる。
「ミーティアは言ってた。自分が死んだ後は『時の砂』を使って、ククールを幸せにしてやってほしい。ミーティアが、すごく幸せだったように、ククールを幸せにしてやってほしいって。だから来たんだ、ククール。虫のいい話かもしれないけど、俺は君と、もう一度やり直したい。また前みたいに方々を旅して、好きなときに好きな場所で寝て、時間をかけて俺たちが住める場所を探そう。まだ君が、俺を好きでいてくれたらの話だけど」
 駄目かな、と首を傾げる男を、大司教の腕が掻き抱く。力強く己の腕の中に抱き締め、二度と離すものかと言わんばかりに大司教は叫んだ。
「駄目なもんか!」
 それはまるで、積年の思いを形にした慟哭のようだ、と修道士は思った。
「俺がお前を好きだなんて、そんなの当たり前に決まってる! ずっとずっとお前を好きだったんだ、愛してたんだ。二度と叶うことがないって諦めてた、会うこともないって」
「良かった。絶対嫌だって言われたら、どうしようかと思ってたんだ」
 へへ、と悪びれもなく笑う男に、カッと頭に血が上ったのは修道士だった。腰を抜かしへたり込んでいたのが嘘ように立ち上がり、ふざけんな、と言葉尻も荒く、大司教の腕の中で一人幸せそうな顔をしている男に詰め寄る。
「ふざけんなよ、テメェ! いきなり来て、いきなり大司教を生き返らせて、虫のいいことばかり並べ立てやがって! あんたが安穏と暮らしてた間、大司教がどんな気持ちだったのか解ってんのかッ!」
「おい、止せよ」
 顔を顰めて修道士を諌めるのは、大司教その人だ。見てくれは随分と若くなってしまったけれど、見つめる青い眼差しの澄んだ様はまったく変わらない。それに見据えられながらも、修道士の言葉は止まらなかった。
「あんたが、その『時の砂』とやらでもう一度人生やり直せるって呑気に考えてる間ッ! 大司教がどんな気持ちで祈ってたのか、あんた知ってんのかッ! あんたに、あんたに会わずに、大司教が何を祈ってたのか、あんた、これ読んで思い知れよッ!」
 修道士は懐から取り出した手紙を、男の胸に突きつけた。
 それは大司教の机の引き出しの奥から出てきた菓子折りの箱の中にしまいこまれていた、宛名のない封筒だった。好奇心に負け、封を切ってしまった手紙だったけれど、修道士はそれを読んだことを後悔はしていなかった。むしろ、読んだからこそ、突然やってきた男に苛立ちを感じずにはいられなかったのだ。
 男が胸に押し付けられた手紙を思わずと言ったように受け取ると、大司教が血相を変える。
「テメェっ、燃やせって書いといたろ!」
「これから燃やすとこだったんだよッ!」
 知らず伝っていた涙をぐいと拭う修道士に、大司教は物言いたげな眼差しをする。だが修道士に何かを言うよりも、封の切られている手紙を読もうとする男から、それを奪い返す方が先と察したのだろう。大司教は白い正装の裾を捌き、男の手から手紙をひったくった。
「読むんじゃねぇ!」
 手紙が破れてしまうのではないかと思うほど、乱暴にひったくった手紙を、大司教は己の懐へしまい込んだ。そして思わぬ真剣さを帯びた眼差しで告げる。
「エイトに、知ってほしくない事ばかり、書いてあるんだ」
「大司教、だけど」
「いいんだ。もう、いいんだよ」
 己の手の中に手紙を取り戻したことへの安堵感か、浮かんだ笑みをそのままに修道士へ向け、大司教は静かに告げる。姿形は若返っても、その瞳の中に宿る思いやりや労わりの気持ちなどは、年を経て得るものばかりだ。生前と変わらぬ瞳を向けられ、修道士は口を噤むしかなかった。
「……エイトが会いにきてくれた。それだけで俺は充分さ」
 蕩けるような微笑みというのは、こういうものを言うんだろう、と修道士は大司教の微笑を見つめながら思った。愛しいものを前にして、その感情を殺すことなく表現できることの喜びを、彼は全身で示しているかのようだった。
 複雑な表情をする男の髪をくしゃりと撫で、次いで修道士を振り返る。何か憑き物を落としたがごとくさっぱりとした顔をしていた。
「今まで俺に仕えてくれてありがとうな。お前がいてくれて良かったよ。もしかしたらまたどっかで会うこともあるかもな」
「これからどうするつもりだよ。大司教の聖骸がなくなっちまうんじゃ、大騒ぎになるぜ」
 空っぽの棺を見やる修道士に、白い正装を纏った大司教は己の身体を見下ろし、困惑したように首を傾げている。
「いや、こればっかりはなぁ…素っ裸で出てくわけにもいかねぇし…。どうせ入り口は閉鎖されてるだろうから、抜け道から出て、そのまま行方を眩ますっきゃねぇな」
「まぁその顔じゃ、誰もあんたが大司教だなんて解りゃしないだろうけど」
「そりゃまぁそうだ」
 あっけらかんと笑う大司教に促され、男が聖堂の抜け道へ向かう。少しばかり乱れていた棺の布を丁寧にかけなおし、修道士もその後を追えば、女神像の抜け道を出た彼らは、一人は外套を頭から羽織り、一人は罰当たりにも正装のケープを頭からかぶって雨をしのいでいた。ひとまずどこへ向かうかを相談している二人に、抜け道を隠す女神像を元通りの位置へ戻し、修道士は声をかけた。
「なぁ、エイトとか言ったっけ」
 驚いたように振り返る黒い瞳に、修道士は生真面目な顔で告げた。
「大司教を大事にしてやれよな。あんたが思ってる以上に、大司教はあんたのこと想ってるんだから」
「……こっぱずかしい事言ってんじゃねぇよ」
 ぶすっと年不相応な顔に睨まれ、修道士は笑い声を上げ、慌てて口を己の手で押さえた。聖堂の中の音が外へ響くことは、よほどの大音声でない限りないが、すでにここは聖堂の外だ。大司教が逝去され、聖骸を聖堂の中に抱く大切な日であるから、見張りの聖堂騎士団もいくらかいるだろう。彼らに、白い正装を着た、死した姿とは似ても似付かぬ年恰好の大司教を見せるわけにはいかなかった。
 慌てる修道士に、男はひどく穏やかな顔で頷く。うん、とそれだけを言った男だったが、なぜか修道士は満足だった。
 湿っぽい別れはすでに大司教逝去のその日に済ませてある。涙は手紙を読んだ時に流した。もう告げることも教えを乞うこともない。じゃあな、と片手を上げて、見送りもせずに背を向ける修道士に、あ、待てよ、と声をかけたのは大司教だった。己の首筋に手を突っ込み、常に身につけていた鎖を引き摺り出した。教会が掲げる槍が天を突くような十字架ではなく、親指の爪ほどの本当に小さな棒を組んだだけの十字架が下がっているものだ。
「これをやるよ。俺がガキの頃に、マイエラに来た時に恩人がくれたもんなんだ。道に迷わぬように祈りが込められている。お前は俺に似た性格だから、ふらふらしそうだしな」
 そう言って大司教は修道士の手に、それを押し付けた。しゃらりと鎖が音を立てるのを見下ろした修道士の額に、柔らかなくちづけが落ちる。
「主の憐れみとご加護が下りますように」
 捧げた祈りの最後に大司教は、じゃあな、と呟いた。はっと修道士が顔を上げたときには、すでに大司教の姿も男の姿もない。ただ残るのは、何がしかの魔法が使われた気配だった。
 雨が降りしきる夜の空を、一筋の光が過ぎ去ったように思えた。雨に打たれながら空を見上げ、修道士はぶるりと首を振り、そして握り締めた十字架を手に宿舎へと戻り始める。聖堂騎士団の見回りに見つからぬよう、細心の注意を払い、修道士が女神像の抜け道の前から去った後には、もう何も残らなかった。
 翌日、埋葬された大司教の棺の中には咽返るほどの花がつめこまれた。
 棺に聖骸がない事はマイエラ修道院の誰しもが知るところで、それによって騒動は起こったものの、誰よりも信仰深く慈悲深かった大司教を神が惜しみ、御世へと導かれたのであろう、と高僧の誰かが呟いた言葉に落ち着きを取り戻していた。
 埋葬の前に一目でも大司教のご尊顔を拝みたいとやってきた信者たちは、ご尊顔を拝することすら叶わぬほど詰め込まれた花と、そして焚きしきめられた香木の香りに首を傾げることになる。
 それは死者を送るための香ではなく、大司教がこよなく愛した花の香だった。

 書いて、読み返して、気付く。エイト、一度として「ククールが好きだ」と言ってねぇ…。ある意味すごいよ。好きとも愛してるとも言わずにククールをものにする男、エイト。これでもクク主なんです、と言っても信じちゃもらえないだろうなぁ。クク主のつもりで書いてたんですけど、ククールのあまりのへたれ…じゃない乙女っぷりに主ククな勢いです。まぁいいよ、どっちが突っ込もうが、どっちが突っ込まれようが(あからさまな…)。
 オリキャラの修道士君ですが、見てくれはちょっとエイトで中身はククールだと思って頂ければ嬉しいです。でもってすみません、意外と好きなんですゼシカとマルチェロ。ノーマルだとミーティアとチャゴス、ゼシカとマルチェロの組み合わせが好き。どっちもカカァ天下っぽくて(笑)。あ、ヤンガスのところもそうですね(笑)。ゼシカとマルチェロは本気で喧嘩のできる夫婦ですよね(いや、夫婦になったとしたらの話ですが)。でもその喧嘩がメラゾーマの応酬、祈りを込めて十字を切る旦那、ライトニングデスを放つ嫁。リーザス村は安泰ですね(笑顔)。
 ちなみにこの話、『届かない祈り』のその後的な話なんですが、あれと交えて三話完結にしても良かったかな。タイトルはどうしてもこれが使いたかったので分けたんですが(そんな理由か)。あ、でも『届かない祈り』を書いた時にはククール悲恋決定一生一途にしつこくエイトを想うのよ!と思いながら書いてたので、別と言えば別かも。……そっちのが良かったかな。美青年は憂いている顔の方が似合うものだもの、と思う私はやっぱSかもしれん…。これのちょっとしたおまけもあるんですが、まだ書いてない…というか色々ネタがあってどれをおまけにするか悩み中。