手放せない  <王の陽だまり>


 部屋を出たピサロはまず廊下の冷たい壁を背に、腕組みをしてもたれている踊り子の姿に気付いた。思わず顔を顰めれば、マーニャははすっぱな仕草で顎をしゃくり、まだ開いているドアを閉めろと促す。この気に食わない踊り子の言われるがままにするのは癪だが、開け放したままでは都合の悪い話をされるのだろうと解っていたピサロは、後ろ手に扉を閉めると、マーニャの前をすり抜けた。後ろからついてくるマーニャが、ねぇ、と甘ったるい声を漏らす。
「あんた、やっぱいい男ね、ピーちゃん」
「その呼び方は止せ」
 何度となるか解らない注意を促すも、おそらくこの先も改める気はないのだろうマーニャは、でもねぇ、と豊満な胸を見せ付けるように頭の後ろで腕を組んでみせる。
「あんたが約束を果たすまで、こんなに時間がかかるとは思ってなかったわ」
 かつかつとピサロの固い靴底の音と、ひたひたとマーニャのサンダルの底の音が絡まりあうように響く。ロザリーを匿うための塔の廊下は堅牢であるがゆえに音を内に篭める。
「約束?」
 言葉の意味が解らず、ピサロが思わず足を止め振り返ると、マーニャが危うくぶつかりそうになり足を止めた。
「ちょっと、急に止まんないでよ!」
「約束とは何のことだ」
 頭の後ろで組んだ腕を解き、腰に手を当てたマーニャは、呆れたようにハッと息を吐く。
「うっそ、あんた覚えてないの? 冗談でしょ? ほんとにあんたの頭って鳥頭だったわけ?」
「……その単語で思い出した」
 思わず額に手をやり、頭痛を抑えるような仕草をしてしまったが、かつてあの旅の中でマーニャに言われた事を思い出したのだ。
 ユーリルが自分に恋愛感情を抱いていると知りつつ、彼の身体を抱き寄せた。確信めいた言葉を使わず、ただただ側にいただけの自分に、マーニャは言葉でユーリルへの気持ちを表せと迫ったのだ。聊か脅迫めいたやり方で。
「せめて旅が終わってすぐとかにお願いしたかったけど、まぁ良しとするわ」
 満足そうな顔をするマーニャだったが、ピサロが不機嫌な顔を隠しもせずに、石造りの廊下を再び歩き出そうとすると、ちょっと待ってよ、とピサロの腕を掴んだ。
「そのウィネニスって女、どうしたのよ」
 咄嗟に腕を振り払おうとしたピサロだったが、腕を掴む手に篭る力と、紫水晶の瞳に宿る怒りに噤みかけた口を開いた。
「その女があれに危害を及ぼす事は二度とない」
 しんと冷えた石造りの廊下は、奇しくもあの謁見の間を思い出させた。あそことは比べ物にならないほど質素な廊下は、だがあそこほど憎しみや殺意に満ちているわけではない。常にここに住まうものの徳のせいか、底冷えのする石造りの廊下だと言うのに、どこか温もりを感じる。
 その中で褐色の指先を白くするほどピサロの腕を握り締めるマーニャが、強い声で言った。
「そんな説明じゃ解んないわよ。あんたがどれだけ魔界で権力持ってるんだか知らないけどさ、こっそりその女が山奥の村に行くことだってできないわけじゃないんでしょ。現に一度行ってんだから」
「それはない」
 今度こそ本当にマーニャの手を振り払った。普段ならそんな粗野な態度を取られようものならぎゃんぎゃんと喚きたてるマーニャだったが、今度ばかりは気にならなかったようだ。僅かに掠れた声で、どう言うことよ…、と尋ねる。
「その女がなんかしないって、なんであんたにそんな事言えんのよ」
「殺したからだ」
 静かな眼差しは感情を覗かせずマーニャを見下ろしていた。赤い柘榴のような瞳は血が通っていないような白い肌の上で、より一層赤く燃えるように瞬く。
「……なんですって…?」
 マーニャが目を見開くと、ピサロは僅かに首を傾げた。
「聞こえなかったか? あの女は殺した、とそう言ったのだ」
「殺したって…あんた、まさか、その女が山奥の村に行ったからってだけで、殺したとか言うつもりじゃ……」
「さすがの私もそこまで見境がないわけではない」
 ふと口元に笑みを浮かべ、ピサロは淡々と唇を開いた。
「ただあの村へ行くだけなら、私も怒りなどしない。私の命に背いたことは不愉快だがな。あの女は、二度もあれに危害を加えた。言葉で脅し、香を用いてあれの血を流させた。一度は寛容になろう。だが私に二度の慈悲はない。しかもあの女は愚かだった。おそらく三度目もあっただろう。だから殺した。ああ、気に病むな。三度目を企てるだけでも万死に値する。どうせ遠からず死んでいた女だ。あの女の父辺りが煩く囀るだろうが、構わん。アンドレアルの一族でなければ、血族すべてを絶やしているところだ」
 ぽかんと口を開き、息を飲んでいたマーニャだったが、唐突にハッと息を吐くと、前髪をかきあげた。
「あっきれた……。あんたって…解りにくいけど、本当、ユーリルに参っちゃってんのね…」
「当たり前だ」
 ピサロはさらりとマントの裾に衣擦れの音を起こさせながら踵を返した。
 呆れた顔をするマーニャを置き去りに、ピサロは石造りの廊下を歩く。コツコツと硬い靴底の音を響かせ、それに声が紛れてしまえばいいと思いながら、ピサロは口を開いた。
「どうでも良いもののために、魔王の椅子を揺らがすことなどしない」
 聞かれたくない言葉だったが、耳聡い踊り子はどうやらしっかり拾い上げていたらしい。
 露な胸を曝け出して甲高い笑い声を挙げ、あんたってやっぱりいい男っ、と飛びついてくる。背中に張り付き負ぶさった踊り子を振り払うのも厄介で、押し付けられる豊満な胸の感触にも堪え、ピサロは塔を出た。その途端、わっとドワーフに取り囲まれる。ピサロの腰に届くか届かぬかの背丈のドワーフ達が、喜色満面の笑みで口々に騒ぐ。
 ユーリル様がお目覚めになったそうで! もう大丈夫だって占い師様がおっしゃっとりました! 良かった! 良かったですなぁ!
 押し寄せる人々は小さな子どもから腰の曲がった老人まで、ロザリーヒルに住まうものすべてが集まったのではないかと思うほどだ。
 その中をよろよろと杖に縋ってしか歩けない老人が子どもに支えられやってくる。ドワーフの長老だ。本来なら門外不出のドワーフの秘薬を使うことを許したのも彼だ。
「ピサロ様…」
 皺だらけの顔に涙を浮かべ、老人は腰を曲げる。
「ユーリル様がご無事とのこと、まずはお喜びを…。じゃがわしらドワーフの秘薬もユーリル様のお役には立てんかった。ほんに申し訳ないことを…ユーリル様になんぞあったら、わしらはピサロ様になんとお詫びすれば良いやら……」
「良い」
 項垂れる長老の言葉を短く遮りるピサロに、ピサロの背に負ぶさったままのマーニャが口を曲げる。あんたねぇもうちょっと言い方ってもんがあるでしょうが、と銀色の髪を鷲掴むマーニャを背にしたままでは聊か格好はつかなかったが、ピサロは構わずに言った。
「あれを見つけ、運んだのはそなたらと聞く。そなたらの働きがなければ、ドワーフの秘薬を用いようとも、魔族の禁呪を用いようとも、あれは助からなかっただろう。そなたらの働きに、感謝する」
 ピサロの表情は変わることなく無愛想なままだったが、長老は、おお、と声を上げ一層の涙を見せた。有難い、勿体のうございます、とおいおいと男泣きに泣くドワーフがいれば、良かったねぇ、本当に良かったねぇ、と楚々と涙を拭うドワーフもいる。またユーリル様と遊びたいなぁ、木苺摘みに行くんだ。明るい子どもの声が上がれば、傍らで、あら、あたしは花冠作る約束したのよ、と胸を張る少女がいる。それはいい、ユーリル様の御髪に似合う花冠を作って差し上げよう。シロツメグサがいい。黄色の花がいいよ、デイジーがいい。この時期に咲いてるもんか。山に見に行かなきゃ。ついでに蜂の巣も探してきとくれ。ユーリル様に滋養のあるもんをたーっぷり食べてもらわないと。
 口々に言い合っていたドワーフ達は、誰それがどこへ、誰々があっちへ探しに行こうと段取りを整えている。そして決まるや否や、飛び出していくものもある。
「……なに、このすっごい人気っぷり」
 ピサロの背に負ぶさったまま、それを眺めていたマーニャが呆然と呟く。
 小さな子どもまでもが蜂の巣を取りに行く一団に加わっているのを眺め、ピサロは目を細める。子どもがいちゃ危ないよ、とその一団に加わるのはイエティだ。魔物までもがユーリルのために何かをせずにはいられないようだ。
「あれは……」
 騒ぎを聞きつけたのか、教会からロザリーとアドンが姿を見せる。気持ちの高ぶっているドワーフの子ども達は、ロザリーの周りを駆け回って花冠を作ろうと誘っている。アドンがピサロとマーニャに気付き会釈する。マーニャが手を振ると、アドンは複雑な顔をした。職務に忠実な騎士は、主の背に張り付いている踊り子をどうにかせねばと思っているのだろう。
「あれは…種族を問わず、人を魅了する。太陽のようなものだ」
 独り言のように呟かれる言葉に、マーニャは耳を澄ませた。
「一度触れれば、離れがたい。手放すことなど考えつかない」
 ロザリーに何事か囁きかけ、アドンはこちらへ向かって歩いてくる。その最中もドワーフに、魔物たちに声をかけられている。
「一度手放せば、己の愚かさにどれだけの時間がかかろうともやがて気付く。あれを失うと、まるで世界は闇のようだ」
「……あんたもそうだったの?」
 背に負ぶさったまま、ごつんとピサロの頭に顎を乗せるマーニャをピサロは怒りはしなかった。かわりに、やってきたアドンが、マーニャ様、と困った表情でピサロの背からマーニャを引き剥がす。まるで子ども扱いだが、マーニャは抗わなかった。
 背からマーニャが剥がれたのにも気付かない様子で、ピサロは塔を見上げた。おそらくユーリルが臥せっているであろう寝室の窓を眺める。
「妃を持てと迫られた時、私はあれを手放そうと決めた。魔界に生きることのできないあれを、無理に留め置くのは酷だと。だが、できなかった。ロザリーを失った私は我を失った。だがあれを失った私はおそらく、生きながら死して行くだろう。手放せるはずなどない。あれは…、私の生そのものだ」
 寝室の窓は大きく開け放たれ、おそらく地上の声も届いているだろう。眠りに落ちたユーリルの耳にそれは届くかどうか解らなかったけれど、明るいドワーフ達の声は彼の気持ちを紛らわせてくれるに違いない。賑やかな様子に笑みを浮かべるだろう
 想像するだけで身体の奥底から沸きあがる陽だまりのような気持ちを押し込め、ピサロは塔に背を向けた。
「魔界へ行く」
 アドンの腕に抱え上げられたままだったマーニャが、カッとこめかみを引きつらせる。
「あんたねぇっ、いい話に感動してたらこの期に及んでそんなことを! せめてユーリルの側にいてやんなさいよ! 今くらい!」
 腕から飛び降りようとするマーニャを、落ち着いてください、とアドンが宥めている。マーニャの振り回した手がアドンの顔を打つが、アドンはじっと耐えるだけだ。騒がしいマーニャの声には答えず、ピサロはアドンへ告げた。
「アンドロマリウスだけでは奴の父を抑えられはしないだろう。魔界を収めた後戻ってくるが、それまでは頼んだぞ」
「御意」
 不貞腐れた顔のマーニャを抱え上げたまま、畏まり頭を下げるアドンを目の端に捉え、ピサロはルーラを唱えた。その間際、塔の窓を見上げるが、ユーリルの姿は見えない。だが魔界から戻ればすぐに顔を見ることができるだろう。反香の甲斐もあり、時間はかかるがこれから回復の一途を辿るばかりだ。すぐにいつもの元気を取り戻し、子犬のように泥だらけになって転げまわるに違いない。滅びに至る前のあの村で、何も知らず笑っていた、あの幼い子どものような笑みを見ることができるだろう。
 ピサロは少し頬を緩め、そして移動魔法の光が途切れるその前に、表情を消した。魔族の王に感情などはいらない。それはすべてあの陽だまりの中へおいておけばいい。
 移動魔法の光が消えるや否や歩き出したピサロに、お戻りでしたか、と側仕えのホイミスライムが空中を漂いやってくる。その顔に僅かな困惑があり、アンドレアル様の一族の方がお見えになっております、と案の定、ウィネニスの父がやってきたことを告げられる。アンドロマリウスが宥めているが、それも時間の問題だというホイミスライムに、そうか、と短く答えた。
 あの陽だまりの中へ戻るため、そしてあの陽だまりが侵されぬよう、魔界を平治する。
 そのためなら魔王の椅子を脅かすものすべてを力でもって退ける。魔王らしく、何者にも揺るがされない地位をこの力で確立する。
 すべてはあれのために。
 ピサロは心に浮かぶ眩しい笑みを心の奥底へと閉じ込め、冷酷な魔王の仮面を被り、大きく扉の開かれた謁見の間へと足を踏み入れた。


手放せない <了>
 長らく続いていたのか続いていなかったのか解らない悲恋シリーズの最終話です。本当はもっと悲惨な悲恋シリーズ最終話を用意していたのですが、書いている途中で泣きたくなってきたのでやめました。機会があれば…いや、私の根性があればまたそっちも書いてみたいと思いますが、空き缶とか投げられそうなんで、本当に根性座ったら書きたいと思います。
 さて「手放せない」ですが、アンドレアルが書けて満足でした。容姿としましてはピサロ(とアドン)とは系統の違う美形と思って頂ければ…。イメージ的に黒髪長髪でデコ全開。常に無表情で触れれば切れそうな感じ。ピサロよりもよっぽど魔王っぽい美形な感じでよろしくお願いします。これ書いてる途中でどうしても書きたかったのがこれ。どうやら私は尻に敷かれる魔族が好きなようです。