手放せない  <否冠の王妃>


 ふわりと額や頬に触れる熱の心地よさに、ユーリルは重い瞼を押し上げた。顔の上をひたひたと何度かにわけて押し付けられる柔らかな熱が、ユーリルが瞬きを二度ほど繰り返すと遠ざけられた。
「あら、気付いたのね」
 穏やかな声に目をやると、傍らに立っていたミネアが頬を緩め目を細めた。その手には湯気を立てる布がある。どうやら熱い湯を搾った布で、顔を拭ってくれていたようだった。
「気分はどう? 吐き気や…頭に痛みは?」
 動けないユーリルの手首を持ち上げ脈をはかり、喉の両脇に手を置いて熱を測る。ミネアは手早く診察を終えると、傍らに置かれていた椅子に腰を下ろした。
「……ここ…どこ……?」
 なんだかぼんやりとする頭と、よく回らない呂律でどうにかそう呟くと、ミネアはベッド脇の卓から水差しを取り上げ、ユーリルの口を湿らせてくれた。再び椅子に腰を下ろし、常より静かな声で囁く。
「ロザリーヒル。何があったのか覚えている?」
 ミネアの声に促され、思考を巡らせたユーリルだったが、なぜこんなに身体が気だるいのか、目の前に紗がかかったように物事が考えられないのかは思い出せなかった。ゆるく首を振ると、そう、とミネアはさして表情を変えるでもなく頷いた。
「もう少し回復すれば思い出すでしょう。今はゆっくりと身体を休めなさい。あなた、ひどい貧血のはずだから」
「なぁに、目が覚めたの?」
 ミネアとよく二通っているけれど、それよりもはるかに生命力に溢れた声に、ユーリルは閉じかけた瞼を再び開いた。それを見たミネアが、姉さん、と顔を顰め振り返る。
「あまり大きな声を出さないで。ユーリルは目が覚めたばかりなんだから」
「まぁまぁ、いいじゃないのさ。ユーリル、気分はどう?」
 妹に諌められたマーニャだったが、あまり頓着する風でもなくユーリルの顔を覗き込む。正直マーニャの声は大きく、頭がずきりと痛みはしたが、我慢できないほどでもなかったので、ユーリルは億劫な瞼を繰り返しながら、笑顔でこちらを見下ろしているマーニャを見上げた。
「マーニャ……」
「ん、なぁに? 何か食べたいものでもあんの?」
 首を傾げたマーニャの肩から夕暮れと夜との間の空の色をした豊かな髪がさらりと落ちる。それを眺めながら、ユーリルは掠れた声で言った。
「…声がうるさい……」
 ぼそぼそとそう呟くと、マーニャは途端にくびれた腰に手を上げて憤慨する。
「あらっ、嫌な子!」
「ほらごらんなさい」
 ミネアが我勝てりとばかりに微笑むので、マーニャはますます機嫌を損ねたようだった。放っておくと後々厄介なのは目に見えているので、ユーリルは少し唇の端に笑みを浮かべた。
「でも……、悪い気分じゃないよ…」
「あら、そーお? それならいいんだけど。ま、今はゆっくり休みなさいよ。貧血だろうし」
 さすが姉妹。言うことが同じことばかりだ。
 そんな必要もないのにジプシーの姉妹は上掛けを直してくれ、顔に陽が当たるのではないかと風にそよぐカーテンの具合を確かめてくれる。枕元で仄かに香る森の匂いにユーリルが顔を向けると、視線に気付いたミネアが、ああ、と声を上げた。
「匂いが気になる? だけど我慢してちょうだい。これを消すわけにはいかないのだから」
 森の香りは銀色の香炉から立ち上っていた。意匠をこらした銀の香炉からくゆる煙は、仄かに青みを帯びている。ピサロやミネアが良く室内で香を焚くので、香炉自体は珍しいものではなかったが、青みを帯びた煙は珍しく、ユーリルは瞬きをしながら、ゆらゆらと天井を目指す煙を眺めていた。
「いい匂いだ…」
 すると不意にその煙が大きく揺らいだ。
「お目覚めですか」
 密やかな、凪いだ泉の上を走るような声には聞き覚えがあった。香炉からたちのぼる煙を揺らしたのは、寝室の入り口に佇むアンドレアルだった。ユーリルが顔を巡らせそちらを見やると、アンドレアルは仄かに目を吊り上げる。
「ええ、今しがた。もう少し眠るように促していたところです」
 ミネアの言葉にアンドレアルは尖った耳の先をぴくりと動かす。
「ご気分は…」
 アンドレアルはユーリルの体調を案じ尋ねるのに寝室の入り口からは離れない。ユーリルがかろうじて動くようになった手の先で、ちょいちょいと手招けば、アンドレアルはまるで仕置きを覚悟する犬のような神妙さで、ユーリルが横になるベッドの傍らに跪いた。
「此度のこと、我が一族のものがユーリル様にご迷惑をおかけし、申し訳ございません」
「……一族……? 何のこと…?」
 詫びるアンドレアルの言葉の意味が解らずに、ぼんやりとした表情のままで尋ねると、アンドレアルが困惑したようにミネアを振り返った。ミネアは椅子に腰を下ろしたままにこりともせずに答える。
「ユーリルは目覚めたばかりで、記憶が混濁しているんです。意識を失う前のことは覚えていません」
 いやに平坦な声に、どうやらミネアが憤っているのだとユーリルは察した。幾度となくミネアと顔を合わせているアンドレアルもそうだったようで、申し訳ない、と再び口に上らせる。
 あまり表情の動かすことのないアンドレアルの消沈した様子が憐れで、ユーリルは手を伸ばし、アンドレアルの鼻先に触れた。竜は好物を前にすると目を吊り上げ、鼻先を撫でられると喜ぶと、かつてピサロに聞いたことがあった。ユーリルの指が触れると、アンドレアルの柘榴のように赤い瞳が眇められ、心地良さそうな顔をした。
 途端にミネアが眉を吊り上げる。こちらは好物ではなく敵対物を見ると目ではなく眉が上がる。
「ユーリル、甘やかすんじゃありません。元凶はその人の一族なんですからね」
 かたやマーニャは落胆の溜息を漏らした。
「なんだっていい男はみんなあんたが好きなわけ? ピーちゃんと言いアドンと言い…。アドン寄越しなさいよ」
「姉さん!」
 今度は目も吊り上げ、ミネアがマーニャを睨みつける。マーニャは両手を挙げ、解ってるわよぅ、と拗ねた口調で呟くと、ミネアとアンドレアルを残し、寝室を出て行く。扉を閉めていかなかったので、マーニャがアドンを呼ばう声が筒抜けだ。
「ロザリーさんは?」
 アンドレアルの鼻先を撫でるユーリルの手首を掴み、布団の中へと戻すミネアが窓の外を見るような仕草で答えた。
「村に出ているわ。村のドワーフ達が滋養に良いものを拵えてくれているの」
「おれのため?」
「ええそうよ。誰かさんの一族のおかげで、随分血を失ってしまったものだから、無理矢理にでも体力を養わないといけないのよ」
 ユーリルにはにこりと微笑み、転じてミネアはアンドレアルを強烈な流し目をくれた。マーニャがやれば男を誘う色っぽい流し目も、ミネアがやると男を射殺しそうなほど冴え冴えとした恐ろしいものだ。アンドレアルが畏まって頭を下げるのが、なんだかピサロを前にしたアンドレアルのように思えて仕方がない。
「申し訳ございません」
 跪いたアンドレアルの黒い髪を焼き切りそうな強い眼差しで、ミネアはなおも口を開く。
「おまけに厄介な香まで使って頂いて。血は止められても傷が治るまで魔法で直せないものだから、ユーリル、あなたしばらく絶対安静ですからね。少しでも動けば傷が開くの」
「ああ…うん……」
 解った、と呟くユーリルの傍らで、アンドレアルが更に深く頭を垂れる。
「申し開きもございません」
「反香を練っていただいたことには感謝するけれど、ピサロさんが気付いて下さらなかったら一体どうなっていたことかしら」
「わたくしの不徳の致すところでございます」
 魔族の重鎮らしからぬ姿に、ユーリルは助け舟を出そうかどうしようかと迷った。出してしまうと余計にミネアの怒りを買ってしまうかもしれず、どちらとも決めかねてうろうろと視線を彷徨わせていると、寝室の入り口の扉が僅かにキィと軋む音を立てた。閉めきられていなかった扉を更に開き、銀髪の魔族の王が姿を見せたのだ。
「その辺にしてやれ」
 ユーリルは久しぶりに見えるピサロの姿に身を起こそうとしたが、その瞬間身体中を駆け巡った鋭い痛みに呻き、浮かしかけた背をベッドに戻した。
「ユーリル様」
 忠実な飼い犬のごとき素早さで、アンドレアルがユーリルの枕や巻き込んでしまった掛け布団やらを元に戻し、具合を良くしてくれる。一歩出遅れる形となったミネアは、気に食わないような顔をしているが、アンドレアルの甲斐甲斐しい介護の手を止めはしなかった。その代わりにユーリルの額の汗を拭い、言い聞かせるような柔らかな口調で言った。
「いきなり動いては駄目よ。傷口が塞がっていないと言ったでしょう」
「ううー…言われてたけど……」
 ユーリルは腹を割る痛みに呻きながら、なんとか声を漏らす。
「全然治ってないなんて思ってなかった……」
「絶対安静の意味を解っていなかったようね」
「占い師、ことの説明は?」
 ユーリルは呻く自分にも構わず、ミネアへ淡々と尋ねるピサロを見上げ、薄情者〜、と詰るのを忘れなかった。ベッドの枕元の卓の上にあるいくつかの薬草の内から、一番鮮やかな緑色の葉を取り上げ、ミネアはそれをユーリルの口元へ寄せた。
「噛みなさい。でも飲み込まないで。鎮痛作用のあるものだから、痛みを和らげてくれるわ」
「うう……それ苦いから嫌いなのに……」
「後でロザリーさんに蜂蜜を貰ってあげます。どうしてあなたがこんな風に横たわっているかの理由は、ピサロさんにお聞きなさい。詳細は何ひとつ明かしていません」
 ユーリルの世話をしながらも、最後の言葉だけはピサロへ向けたミネアは、すべてを言い終わると身体ごとピサロに向き直った。
 ピサロは赤い目を眇め、恐れを知らぬ占い師を見つめた。紫水晶の瞳を持つ占い師は、柘榴の瞳を持つ魔族の王を見上げ、素っ気ないとも思える声で告げる。
「あなたの口から伝えた方が良いのでは? おそらくそれをあなたも望んでいるでしょうし、ユーリルにとってもそちらの方が良いでしょう。事実をありのまま伝えることです。瑣末な嘘はあなた方の絆を遠いものへと変えてしまうでしょうから」
 占い師の言葉は抽象的だが、ミネアの占いが外れたことはない。人の心の機微を読み、知らず求めていることまで見抜くミネアの前では、さしもの魔王も反論などできない。
 自分を置き去りにしたままの遣り取りに、ユーリルはなんだか面白くない気分ではあったが、ミネアに噛まされた鎮痛作用のある葉の効果か、腹の傷の痛みが遠のくと、面白くないと思っていた気持ちも遠のいていった。
 ミネアはてきぱきとユーリルの回りのものを片付けると、それじゃあ、とピサロには向けたことのない優しい顔で微笑んだ。
「ゆっくり休みなさい、ユーリル。私は外へ出ているけれど、何か用があったら呼ぶといいわ。いいわね、絶対安静よ」
「うん、解った…。何か解んないけどありがと…」
「いいのよ、あなたが気にすることではないのだから…。アンドレアル、作っておきたい薬があるから、あなた、手伝いなさい」
「ああ…はい、それでは、ユーリル様。私も失礼します」
 離れがたいような顔をするアンドレアルに、ユーリルがちょっと笑ってみせると、ピサロが早く行け、とばかりに手を払う。顔を顰めるミネアに引きずられるように部屋を出て行ったアンドレアルが知らぬ家に連れて行かれる子犬のようだった。
 部屋から出て行った二人の姿を見送っていると、先ほどまでミネアが腰を下ろしていた椅子にピサロが腰を下ろした。看護のために置かれたその椅子は枕元に寄せておいてあり、ユーリルはピサロに真上から覗き込まれているような気持ちになった。それがなんだかくすぐったく、ユーリルは唇の端を緩めた。
「あの二人、案外うまくいくんじゃないかと思うんだ」
 ピサロは眉を寄せ、意味が解らない、と言った表情をした。
「ミネアとアンドレアル。マーニャは怒るかもしれないけど」
 アンドレアルが人の姿になったのを初めて目にした時のマーニャの色めきようを思い出し、ユーリルは軽く肩を竦めた。それだけで腹の傷は痛んだが、気分は悪くなかった。
「あの姉妹の煩さには閉口する」
 心底うんざりと言った様子のピサロが、枕元の香炉にちらりと目を走らせた。
「あ、それ」
 目敏く視線の先を追ったユーリルが声を上げる。
「ミネアが焚いておくようにって言ってたんだ。だから…」
「反香だ。消そうなどとは思っていない」
「反香…?」
 聞きなれない言葉に僅かに首を傾げると、ピサロはひとつ小さな息を落とし、ユーリルの額に手を伸ばした。指先だけで前髪を梳き、目にかかりそうだった髪を避けてくれる。
「……お前も知っているとは思うが、先の、私の妃選びのことだ」
「ああ……、あの、アドンに聞いた…」
 半年ほど前、ユーリルの耳には入らぬまま、ピサロの妃選びが行われていた。その中に当然のことながらユーリルは含まれず、自分ひとりが蚊帳の外に置かれ、随分と寂しい思いをした。結局誰がお妃に選ばれたのかは聞いていないが、お妃選びのことも、できれば直接言ってほしかったと思ったことなどは打ち明けず、ユーリルはやんわりと微笑んだ。あの時のことを思い出すと心の底から笑うことなどできないが、アドンに愚痴を言い、僅かなりとも気が晴れていたので、突然の話題にみっともなく喚き散らすことはなかった。
 とうとうその結末を聞かされるのだろうか、と組んだ指先に知らず力が篭る。
「それがその、反香ってのとどう関係あるの?」
「反香は邪香の効果を打ち消すために使われるものだ」
「邪香……って何…」
 ますますわけの解らないことになる話についていけず、ユーリルが思い切り顔を顰める。
「邪香とは人を呪うために使われるもので、用途は様々だ。気付かれぬように気力を削ぎ、死に至らしめるものや、傷の悪化を促すもの、回復魔法の魔力に反応し、その魔法をまったく逆のものに換えてしまうものもある。お前に使われた邪香がそれだ。回復魔法を使うと、傷が悪化し、治りが遅くなるどころか、治療の手立てがなくなる」
 この辺りは占い師か神官がよく知っているだろう、と続けるピサロに、ユーリルは目を丸くした。
「それじゃ…俺にその邪香ってのが使われたってこと? ミネアかクリフトが? ありえないよ、そんなの」
 かつての仲間がそんな陰湿なことはしない、と反論すると、ピサロは表情も変えずに頷いた。
「貴様に邪香を使ったのはアンドレアルの一族のウィネニスという女だ。ウィネニスの兄が調香を得意としていてな、それを用いたらしい」
 ユーリルは寝台の上に仰臥したまま、ぱちくりと目を瞬いた。
 ピサロの言うウィネニスという女性に思い当たりはなく、彼女になぜ自分が恨まれ、邪香を向けられたのかが解らなかったからだ。それにアンドレアルの一族のと言うと、そのウィネニスという女性は竜族の一員であるらしい。アンドレアルを見る限り、竜族がそんな姑息な真似をするとは思えなかった。
 言葉もないユーリルをどう思ったのか、ピサロは静かな眼差しで見下ろしたまま告げた。
「アンドレアルはこの一件に噛んではおらん。責任は感じているようだが。しばらく煩く纏わりつくかもしれんが、気に入らなければそう言え。魔界にでも帰るだろう」
「ちょ、ちょっと待ってよ、ピサロ! そのウィネニスって人、俺、全然知らないんだけど、なんで俺がそんな人に狙われて…ッ」
 思わず身を起こしたユーリルだったが、腹の傷のことをすっかりと忘れていた。走り抜けた激痛に呻き、どっと身体を横倒しに倒せば、仕方がなさそうに息を吐いたピサロが卓の上から一枚の葉を取り上げた。色の鮮やかな、鎮痛作用のあるものだ。ひどい苦味のあるものだが、ユーリルはそれを奪い取ると口の中に押し込み、急いで咀嚼した。
 息が上がり、痛みに驚いた心臓がばくばくと全力疾走した後のように脈打っている。額に滲み出た脂汗が髪を濡らし、枕に顔を埋めるように呻き声を堪えていたユーリルの耳に、そっとピサロの声が落とされた。
「ウィネニスは妃候補の一人だった」
 痛みを堪えるため、きつく閉じていた目をハッと開き、ユーリルは息を飲んだ。
 先の妃選びの際、ユーリルは一人の魔族の女と会っていた。
 ピサロの寝所に侍りピサロに甘い声と顔とを向けながらも、山奥の村にまで足を運びユーリルに二度とデスパレスに近付かぬように釘を刺しにきた女だ。世界を旅してきたユーリルが見ても美しい女ではあったが、底意地の悪そうな女に、こんな女がピサロの側に侍ることになるのかと絶望したのを覚えている。
 ユーリルは痛みにではなく小刻みに震える指先を握り締め、極力平静を装おうとした。だが発した声は僅かに掠れ、聡い魔族の王には動揺が伝わってしまっただろう。
「そ、の人が…俺に…邪香を……俺を、殺そうとした…?」
 山奥の村に訪れた女は、高慢な様子でユーリルの野良仕事で汚れた姿を揶揄し、ユーリルがいかにピサロに不釣合いかを見せつけた。
 そんな事、言われるまでもなく解っていた。
 ピサロは何万と言う魔族、魔物を束ねる王という地位だけでなく、誰よりも強く美しい。強さだけなら負けないかもしれないが、自分はただ山奥の村で世捨て人のような暮らしをしながら、時折昔の仲間や、ピサロが訪れることを待っているだけだ。担う重責もなければ、与えられた職務もない。かつて勇者と呼ばれたユーリルも、魔界と人間界の間に平穏が敷かれた今となっては存在すらも危ういものだ。
 逆に言えば、そんなユーリルにさえも邪香を向けるほど、ウィネニスの権威は高まりつつあるのか。それとも邪香を使わねばならぬほど憎まれているのだろうか。いずれ己が王妃となると豪語していたあの女に。
 ユーリルが言葉なくかたかたと震えているのを知り、ピサロが濡れた髪を指先で梳いた。ピサロの指が触れた瞬間、びくっと大袈裟なほど身体が震えてしまったが、ピサロは気付かぬふりをしてくれた。
 ユーリルはぎゅっと目を瞑り、大きく息を吸い込むと、それをゆるゆると吐き出した。
「その人が…ピサロの、お、奥さんに…なるの…?」
 かつてアドンに尋ねたことを、面と向かって言えず、背を向けたまま、涙混じりに尋ねる。
「あの女は妃の器ではない」
「それじゃロザリーさん?」
 穏やかに微笑み、あらぶることなどない。ユーリルの存在すらも甘受し、陽となり陰となりピサロを支えるエルフの娘になら、ピサロの隣を譲ってもいいと、ピサロと並び新しい命を囲んでいる姿を見ることも我慢できると思っていた。いや、我慢しなければと、覚悟していた。
 いよいよその時が来たのかと尋ねれば、ピサロはふっと笑いを滲ませた声で答えた。
「少しばかり優しすぎるきらいがあるが、ロザリーなら良い妃になるだろう。それが私に妃を持てと迫った連中の大方の意見だったが…」
 決壊しそうになる涙を堪えて唇を噛み締めるユーリルの耳元に、ピサロはそっと唇を寄せた。
「中には、貴様を妃にと望んだ者もいたぞ」
 ユーリルが驚いて振り返ると、ピサロは薄い唇の端に笑みを乗せ、おかしそうにユーリルを見下ろしていた。
「私の妃に必要なものは統率力、純然たる力、そして自己を抑えることのできる精神力だ。貴様ほど相応しい者はないと言っていた」
「…だ、誰が…?」
「ヘルバトラーだ。いらんなら自分の嫁にくれともな」
 強い者が大好きなヘルバトラーは確かアリーナに熱を上げていたはずだったが、あの誇り高き魔族の重鎮に認められていたのだと知るのがこんな時でなければ嬉しかっただろう。
 ヘルバトラーの言葉は嬉しいが、自分がピサロの妃となることなどありえない。
 ユーリルは柔らかに痛んだ心を隠しながら、少しだけ微笑んだ。
「……俺、男だ。子ども産めないのに…」
「世継ぎなど側室でも迎えて産ませれば良いとも言っていた。確かにヘルバトラーの言う通り、貴様には統べる者の妃の資質がある。だが私は、貴様を妃に望むつもりはない」
 初めてはっきりと、ピサロの言葉で面と向かって告げられた言葉に、ユーリルは驚くほどショックを受けはしなかった。これまでピサロの言葉ではなく、違う誰の言葉で突きつけられてきた事実を、改めてピサロの口から伝えられただけなのだ。
 だがそんな考えとは裏腹に、喉を塞ぐように熱いものが込み上げ、ユーリルは泣くまいと唇を噛み締めた。
 ピサロは白くなるまで噛み締められたユーリルの唇に指を這わせ、愛しいものを見るように赤い目を細める。
「憎らしいことに、貴様には空の血が混じっている。魔界の風には耐えられないだろう」
 体温の低い指先に唇をなぞられ、ぽろりと零れた涙を追うように、ピサロのやはり冷たい唇がユーリルのこめかみに触れた。
「私の妃は魔界に下り、デスキャッスルで暮らすことになる。貴様を側に置いておきたいが、貴様に魔界の淀んだ空気など似合わん。貴様には青空の方がより似合う。あの忌々しい姉妹どもや口煩い女王どもに囲まれ、あの山奥の村で貴様が笑っているのを見るのが私は好きだ。私の妃という重責に顔を強張らせるよりも、貴様には永く奔放に生きてもらいたい」
 耳朶に直接注ぎ込むように囁かれる言葉に、ユーリルは目を見張った。
 今まで、一度として聞いたことのないようなピサロの掠れた声音に、溢れた涙も驚いて止まる。
「初めて貴様を見た時、貴様は笑っていた。穢れを知らず、憎しみも、悲しみも知らず、安穏とした平和の下で生き、闇に満ちた私にすら怯えることもなく、海がどんなものかと尋ね、そして笑った。あの時のように、貴様には笑っていてほしい。それは魔界では叶わぬことだ。だから私は貴様を妃には望まない」
 ピサロは屈めていた身を起こし、酷く憔悴したような顔で仄かな笑みを浮かべた。
「誰に告げたこともない。私の瑣末な願いだ」
 貴様からそのすべてを奪った私が願うには虫のいい話だが、と囁くように続けたピサロに、ユーリルはゆるく首を振った。
「俺……そんな、ピサロが、そんなこと思ってるなんて知らなくて……なんでピサロは俺に何も言ってくれないんだろうって…お妃選びのこととか、ロザリーさんを奥さんにすることとか、そう言うこと、なんで俺には言わないんだろうって、そればっかだった……」
「知られていたとしたら恥だ」
 私は貴様ほど解りやすいつもりはない、とピサロは眉を寄せる。
 堪えたはずの涙がぼろぼろと零れるのを拭いもせず、ユーリルはもがくように腕を伸ばした。溺れた人が頼りになる何かに縋るように、ユーリルの手は見下ろすピサロの腕を掴む。
「ピサロが、俺に何も話さないのは、何も言う価値がないからだって…。俺なんか、ロザリーさんみたいに優しくもないし、ピサロの子どもを産むことだってできない。何の役にもたたないから、お妃選びのことも何も、言わないんだって」
「私は貴様やロザリーを何かの役にたつからと側においたつもりはない。だが、妃選びのことを黙っていたのは悪かった。あの女が余計なことをしなければ、知らさぬままことを終えているはずだった」
 ウィネニスという女が山奥の村まで押しかけてきたことを言っているのだろう。ユーリルは掴んだ手の中からピサロの腕がするりと抜け、冷たいその手に手を握られるのを知ると、ふと息を吐いた。
「結局、誰がピサロの奥さんになるの?」
 今まではその事を考えるだけで胸が痛んだというのに、不思議と今度は何の気負いもなく尋ねられた。
「そのウィネニスって人?」
「あの女は妃の器ではない。それに私は元々、妃を持つつもりなどなかった」
「なんで? だってお妃選びで……」
「妃を持てと言い出したのは私の側近ではない。それなりに魔界で力を持つ貴族どもが言い始めたことだが、どうせ私利私欲に駆られる連中だ。妃候補を出せと言えば縁の者を並べ立てるだろう。自分に近しい者をと諍いを起こすに違いない。それを理由にしばらく妃を持つつもりはないと言ってやるつもりだった」
「え、でも、アドンはそんな事、一言も…」
「ロザリーにしか言っていなかったからな」
「なんでアドンじゃなくてロザリーさんに?」
「そうでも言わんと貴様も妃候補に入れろとうるさかったからだ」
 ロザリーらしいことだ、とピサロは苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
 ユーリルは今までの疲れがどっと出たような心境で、大きく息を吐き出した。
 ピサロの妃候補の一件以来感じていた寂しさや不安、僅かな憤りやらが走馬灯のように蘇り、片手で額を押さえる。慰めるように髪を梳く手が頭皮を辿る心地よさに思わずほうっと息が漏れる。
 鎮痛作用のある葉のせいか、それとも思いがけないことに心がまだ追いついていないのか、なんだかぼうっとしてきた頭を持て余しながらユーリルは唇を湿らせた。
「あれ…でも……さっき…元々お妃を持つつもりはないって…。なんで? ピサロって魔族の王様だから、跡継ぎとか必要だろ? なのに……」
 瞬きをしてピサロを見上げると、ピサロは眉を寄せ大きく息を漏らす。何か気に食わないような顔をしている魔王に、何か悪いことでも聞いたかと焦ると、ピサロは繋いでいる手に力を込めた。
「……私はおそらく、貴様より遥かに長い時を生きるだろう」
「うん、魔族だしね」
「魔王の責務として、いずれ妃を迎えねばならんだろう。ロザリーか、他の女か…。いずれにしろ、それは貴様が死んでからでも良いことだ。貴様が生きているうちには妃などいらん」
 いずれ妃を持つ魔王の、彼なりの誠意の見せ方なのか、彼なりの愛情の示し方なのかは解らないが、それでもユーリルはピサロの言葉に胸を衝かれた。
 今までピサロはユーリルに対し、どう思っているかなどの明確な感情を示してこなかった。好きだと言えばそうかと抱き寄せられ、愛しているかと尋ねればさあなと額にくちづけられた。それでも見下ろす彼の赤い瞳に宿る優しさに、彼が自分を特別に思っていることは感じていたし、あの旅の仲間の誰よりも足しげく山奥の村に通ってくることから、その気持ちが変わらず続いているのだろうとも思っていた。
 だがそれらすべてはユーリルの憶測だ。
 そうであればいいと夢見ていた願望だ。
 好きだとか愛しているだとかそんな言葉ではなく、ユーリルが生きている間にはロザリーであろうとも妃に迎え入れないと言う言葉は、ピサロの内に秘められた思いを手の内に曝け出されているのだと思った。
 言葉もなく驚き、ただただ眼を見張っているユーリルを見下ろし、ピサロはふと口元を綻ばせた。身を屈め、梳いたせいで露になっている額にくちづけを落とす。ゆっくりと、長すぎるのではないかと思うほどの間、唇を寄せ、身を起こしたピサロはやんわりと微笑んだ。
「早く治せ」
 握った手にもくちづけを落とし、立ち上がったピサロは振り返ることなく部屋を出て行った。ぼんやりとしたままそれを見送ったユーリルは、つとこめかみを伝う生温い熱で、自分が泣いているのだと知った。
 かすかに震える指先で頬を押さえ、瞼を押さえる。そして、ピサロの唇が触れた手の甲を唇に押し当てた。溢れる嗚咽と涙は留まらず、ユーリルは夕暮れの近付く中、陽が落ちるまでずっとそうしていた。


<王の陽だまり>