手放せない <冷戮の魔王> |
魔界へ戻ったピサロの呼びかけに応じ、アンドレアルは従兄弟アンドロマリウスとその妹ウィネニスを率いてデスキャッスルへと急ぎ登城した。 アンドレアルはピサロの膝元に仕えるものであるから、常ならば案内を乞うことなく執務室へと赴くのだが、今回はどうした事か登城したアンドレアルの行く手を阻むものがあった。 ピサロの側に侍るホイミスライムだ。 種族としてはアンドレアルと比べるのもおこがましいほどの下等種族だが、ピサロの身の回りの世話をするものとしての誇りに溢れた様子で、此度は謁見の間へおいでいただくよう仰せつかっております、と触手を動かす。 アンドレアルが眉を顰めれば、ホイミスライムは恐れる様子もなく、そのように仰せつかっております、と繰り返す。その場にはホイミスライムだけでなくアンクルホーンやライノソルジャーが控えており、何やらただならぬ雰囲気だ。 アンドレアルの後ろに続くウィネニスが、ホイミスライムごときに指図されるなどとは、と苛立ちも露に呟いているが、アンドレアルは密やかに顎を引いただけで頷いた。 「確かに承った。謁見の間にてお目通り願えるよう、陛下にお取次ぎを」 ホイミスライムは触手を重ねふわりと空中で、人型の魔物であったのなら膝を曲げるように会釈をする。 「陛下にお伝えいたします。謁見の間にて、陛下がおいでになられるのをお待ちください」 再びのホイミスライムの会釈を目の端に捉え、アンドレアルは謁見の間へと進むべき道を変えた。アンドロマリウスとウィネニスがその後に続き、アンクルホーン、ライノソルジャーが三歩ほどの間を空けて付き従う。まるでアンドレアル一行を逃がさぬようにと指示があったかのような緊迫した様子はかつてないものだった。それだけに、ウィネニスの聊か拗ねた口調は酷く場違いに感じた。 「我ら魔族の重鎮を、まるで陛下のお姿を拝見するのも初めてのような臣下のような扱いとは…なんと腹立たしいこと。アンドレアル兄上があのように下等な魔物を重んじられる必要などありませんのに」 それは呟きにしては大きく、アンドレアルは謁見の間へと進める足を止めた。振り返ると、ウィネニスが澄ました顔でアンドレアルを見据えている。 黒くうねる長い髪は頬の両脇を残し高く結い上げられ、その地位を示すかのごとく美しい石を填め込んだ金色の豪奢な髪飾りで飾られている。白い陶磁器のような肌は豊満な胸元を強調するかのように大きく開き、毒の沼地を思わせる真紅のドレスは黒い繻子で彩られている。 「何か?」 ウィネニスの美しい容貌の内に残忍な本性があるのをアンドレアルは知っていた。己が長を務める一族の、それも血の近しい女のことだ。アンドレアルさえあの下等な魔物を重んじなければ、背を向けた瞬間切り裂いてやったものを、とでも思っているのだろう。 空々しい顔を装おうウィネニスに背を向け、アンドレアルは密やかに嘆息した。 謁見の間へと足を進めるアンドレアルには、今回ピサロに呼びつけられたことが、容易く想像ができた。 おそらく先のピサロの王妃選びの際に起こった出来事のことだろう。 ウィネニスは不可侵の森へ足を踏み入れ、そこに住まうものに接触し、あろう事かそこに住まうものに害をなしたと言う。それがどれほどの罪になるのか、アンドレアルの愚かな従妹は理解しきれていないらしい。それどころか己の犯した愚業を、この女はピサロはおろか他の誰にも知られていないと思い込んでいるようだ。 いや、知られていても尚、戒められずにいることこそが、ピサロの寛大な恩恵が与えられ、自分であるから許されていると思い込んでいるのだ。 エビルプリーストを発端とするあの大戦の後、魔界を平定したピサロは無闇に人間の世界を侵すことを好しとはしなかった。だがそれは厳しく禁じたわけではなかった。殺生を禁じるということは、魔物の生態を崩すことに他ならない。それは数多の魔物を束ねるピサロとて本意ではない。つまりほどほどにと言うことだ。今でも以前ほど多くはないが、人間を襲う魔物もいる。村を襲う魔物もいる。ピサロはその魔物を諌めたりはしない。それが本性だからだ。 だが唯一、不可侵の地としたのが勇者の住まう山奥の村だった。 あの山に元より住む魔物とピサロに許可を得たものを除き、魔族を含めた魔物の関わりを厳しく戒めた。 ピサロに近しい者ならばその意図を正しく汲み、ピサロの命に従い、不可侵の森へは関わらないようにした。魔界で絶大な力を持つピサロの命に背くと言う事は、人間のそれとは比べ物にならないほど永らく続く一族の血を絶やすことに他ならないことだからだ。 それゆえに不可侵の森は不可侵のまま保たれていた。 これから先も、侵されることはないだろうと思われていた。 ところがウィネニスはたった一度、ピサロの閨に呼ばれたことを正妃への道が示されたことと思い込み、不可侵の森へ足を踏み入れた。 あの地で世捨て人のように暮らすかの人に、ピサロが与えるまいとしていた情報を与え、喉元に爪を立てるような真似をした。 ピサロが腹心と頼むアドンからもたらされたその情報にピサロは眉を上げたが、憤ることはなかった。ピサロの内でどのような感情が蠢いていたのかは知らないが、ウィネニスに対する処罰はなかった。アドンもアンドレアルも、ピサロが憤りを露にしなかったのは、ウィネニスにそれほどの価値がないからだと解っていた。ウィネニスは美しく力のある竜ではあるが、ピサロが取り立てて側に置くほどのものでもなく、また脅威ではなかったからだ。 ところがウィネニスはそれを、ピサロに許されたと思い込んでいるのだ。 今回の召し上げも、ウィネニスは己が立后の件と信じて疑わず、きらびやかに装っている。 精々戦くが良い、とアンドレアルは無邪気を装おう女から視線を逸らした。 ライノソルジャーが開く扉の内で、アンドレアルとアンドロマリウス、そしてウィネニスはしばし待った。 言葉はなく、ただ控えているだけではあったが、アンドレアルには不思議な威圧感があった。この場にはいないピサロから言いようのない重圧を感じたのだ。 やがてホイミスライムがピサロの到着を告げる。 アンドレアルは頭を垂れ、許しがあるまではそのままでいた。 「顔を上げよ」 ピサロの声はいつもと代わりなく、上げたその目で見た表情も普段とさして変わらぬようにアンドレアルには感じられた。しかし、どこかが違う。玉座から見下ろすその血色の眼差しに、寒々しいまでの殺気があった。 それを感じないのか、ウィネニスは族長である従兄をも差し置き、晴れやかな声を上げた。 「陛下にはご機嫌麗しく……」 「余計な口上などいらぬ」 ぴしゃりと氷で打つように言い捨てられ、ウィネニスは口を噤んだ。 しばしの間、沈黙していたウィネニスだったが、ピサロが重く口を閉ざし、ただ見つめるだけの威圧に耐え切れなかったのか、それともそれすらも感じ取れなかったのか、愚かにも再び口を開いた。 「此度のお召し、先の…」 「アンドロマリウス」 場に似つかわしくない晴れ晴れとした声を無為に遮り、ピサロは拝謁に望む三人の内で、アンドレアルの右に控える竜族の男に目を向けた。 近しい血をその身に称えるだけあって、アンドロマリウスの様相はアンドレアルによく似通っている。アンドレアルのように殺戮に飢える竜族の本性をうまく隠した顔を、アンドロマリウスはピサロに促され上げた。 「貴様が香の調合に秀でていると耳にした」 「は、恐れながら」 アンドロマリウスが畏まって頭を垂れる。 「貴様の香を、嗅いだような気がしてな」 己の立后に際し、兄が褒められているとでも思ったのだろうか。ウィネニスが再び要らぬ口を開いた。 「兄の香は魔界のどなたが作られるものよりも長く深く功を奏すと評判の香。魔界の重鎮の方々が兄の香を求めて足を……」 「黙れ、ウィネニス」 愚かな従妹の口を封じるべく、アンドレアルが睨みを利かせるも、恐れを知らぬ女は笑うばかりだ。 「おお、アンドレアル兄上、なんと怖いお顔やら……」 アンドレアルは己の左に控える娘に、いっそ眩暈とも近しい驚きを感じていた。 幼い頃から見知ってきた娘ではあったが、これほどまでに愚かなものだったのだろうか。玉座のピサロから発せられる殺気は、世間話のように投げかけられる質問の端々にまでも練り込まれ、下手な返答でもしようものなら刃となって身を裂くように思えるほどだ。無言で発せられる怒りの気配は、謁見の間の隅に控えるオークキングが手に持つ槍に縋ってでなければ意識を保っていられないようなもので、近しく侍るホイミスライムもピサロが謁見の間に現れるや否や、逃げるように出て行ったほどだ。 魔族は、力を得れば得るほど気配に聡くなる。 肌の表皮に魔力を浮かせ、漂う空気の温度、風の強さ、相手の嗅ぎ分けられぬほどの微細な匂いをも無意識の内に探り、相手が自分に仇なすものかそうでないかを嗅ぎ分け気配を探る。 またそれと同時に、気配を殺すことにも長けるようになる。 ピサロともなればなおの事だ。 そのピサロが、怒りを隠しもせずに玉座に座り、殺気を包むことなくひけらかしているというのに、ウィネニスはまったく感じ取っていない様子なのだ。 アンドレアルが愚かな従妹を恥じたとき、ピサロが玉座の上で僅かに身じろいだ。それだけで、アンドレアルだけでなく、アンドロマリウスもぎくりと背を強張らせる。まるで鼠が、猫の首につけた鈴の音に怯えるように。 「アンドレアル」 「はっ」 ついに己の名が呼ばれ、アンドレアルは畏まって頭を垂れた。 「貴様、不可侵の森へは行ったことがあったな」 先よりも冷えるピサロの声に、やはり、とアンドレアルは腋に嫌な汗が滲むのを感じた。 陛下は、かの方にもたらされた害に、憤っていらっしゃる。 「恐れ多くも我ら竜族が、勇者討伐の際、陛下にご拝命頂き、かの村を滅ぼしました。大戦の後も個人的にではありますが、陛下にお許しを頂き、かの地に足を運んでおります」 「……だろうな。そう、私が許した」 気だるく、玉座の上で頷くピサロに、愚かなウィネニスは明るい声を上げた。「陛下、あの森のことでしたらわたくしも存じ上げております」 「そうか、存じ上げている、か…」 「ええ、存じ上げております。みすぼらしい村に、みすぼらしい勇者。わたくし、陛下があの者をお側に召し上げられるのではないかと案じておりましたが、あの勇者とやらのあまりに泥臭くみっともない姿…。陛下がお目をかけられるはずもないと安堵したのを覚えております」 ピサロが仄かに浮かべた笑みを、冷酷の笑みとは捉えられなかったらしい。ウィネニスの言葉に血相を変えたのは、アンドロマリウスだった。 「お、恐れながら、陛下!」 震える声を張り上げるアンドロマリウスに、ピサロが凍える赤い目を向けた。 「我が妹が、かの地に足を踏み入れたと、そう仰るのですか?」 アンドロマリウスの恐れようを睥睨し、ピサロは素っ気なく告げた。 「貴様は相当耳が遠いようだ」 「申し訳ございません、陛下! かの地へは近付くなかれと我が血族には申しつけていたのですが…。我が血族がお許しも得ず、かの地へ足を踏み入れましたこと、深くお詫びを…」 ウィネニスは、深く頭を垂れる兄のあまりの慌てふためきようが理解できないようだった。あどけないとも取れる表情で、兄とピサロとを見比べ首を傾げる。 「おや兄上、なぜ驚かれておいでか。かの地に足を踏み入れただけで、陛下がお怒りになるはずなどありませんのに」 「ああ、勿論そうだ」 ウィネニスの言葉を耳にし、ピサロは優しげな笑みを浮かべ、鷹揚と頷いた。それを見、ウィネニスは我が意を得たりと笑みを深くする。 「私は歴代の魔王の中でもとりわけ気の長い方だと思っている。一度私の命に背いたからと言って首を刎ねるような真似などせん」 ピサロが薄い笑みを浮かべれば浮かべるほど、アンドレアルの背には冷たい汗が伝った。おそらくアンドロマリウスもそうだろう。仮面のように貼り付けた微笑と言う表情の下に、研ぎ澄まされた牙を剥き出しにし、怒り狂うピサロの本性がある事を知っているからだ。 「だが、二度は許さぬ」 オークキングの構える槍の穂がカタカタとかすかに揺れ、空気を震わせている。 気付かぬうちにひたひたと忍び寄る恐怖に踝まで浸かりながら、アンドレアルはピサロの言葉を待った。 ピサロは微笑を浮かべたまま、顰めた声で告げた。 「貴様の妹は、あれに香を練った」 囁くようなその言葉に、アンドロマリウスが弾かれたように顔を上げた。 何万年と冷え続けた魔界の深部の氷のような寒々とした怒りを纏い、ピサロは冷酷の笑みを浮かべ続ける。囁く声は地を這う冷気のように、感じるか感じぬかのひめやかなものだ。 「貴様の香だ」 アンドロマリウスは慌て、腰を浮かしかけた。 「まさか……まことでございますか!」 「私が、このようなつまらぬ嘘を拵えると?」 「いえ、まさか……そのようなことは……」 アンドロマリウスが茫然自失の様子でそう呟いたきり、呆けたように何も言えずにいるのを見かね、アンドレアルは恐れながらと前置きし、顔をあげた。先ほどから僅かなりとも代わらぬ微笑を浮かべ続けるピサロを見上げ、まず気がかりであったことを尋ねた。 「陛下、かの方は……」 「邪香と知れた以上、それ相応の対処をさせてある」 アンドレアルはその言葉に思わずほっと安堵の息を吐いた。 ピサロ自らの手で行わずにこちらに来たということは、あちらにはジプシーの姉妹がいるのだろう。 ジプシーの姉妹のとりわけ妹の方はデスパレスにも頻繁に足を運んでおり、アンドレアルもよく見知っていた。錬金術の何がしかや、魔法の理に関する何がしかの知識を得ようとしているらしいとは聞いているが、魔族の重鎮にも恐れることなく言葉を交わし、気負った様子でもない。聊か得体の知れない人間ではあるが、呪いなどに関しては確かな知識があるように思えた。 かの人の安否が知れたところで、アンドレアルにはまだすべきことがあった。 力の抜けた身体を引き締め、改めて畏まり、アンドレアルは頭を垂れる。 「陛下、此度の不祥事、わたくしの不徳の致すところでございます。ご存分にご処分を」 「申し開きもございません、陛下。ご随意に」 少しばかり放心していたアンドロマリウスも我に返り、アンドレアルに習って改めて頭を垂れる。ピサロは血の通っていないような薄い唇を開いた。 「貴様を処分するとなると、あれが黙ってはおらぬ。貴様はあれの気に入りだからな、アンドレアル」 「光栄に存じます」 「だが、一族を束ねるものとして聊か力不足のようだ。今以上に一族の動向に耳を澄ませ、目を光らせろ」 「御意に」 アンドレアルが再び深々と頭を下げると、ピサロは冷えた眼差しをアンドレアルの右に控えるアンドロマリウスに移した。石床についたアンドロマリウスの手が、かすかに震えていることをアンドレアルは察していたが、どうしてやることもできなかった。いかに血の近い従兄と言えども、魔王の命は絶対だ。ピサロがアンドロマリウスの首を刎ねよと告げれば、アンドレアルは即座に牙を剥く覚悟はできていた。 「さて、アンドロマリウス。貴様には反香を練ってもらわねばならんし、貴様の練った香が使われたからと言って、貴様をどうこうせよとは言わん。あれはそう言う気概ではなくてな。だが、私の気は収まらぬ」 「如何様にも、覚悟はできております」 アンドロマリウスの項垂れ掠れた声に、これはいよいよ良くない事態なのかもしれないと思い至ったらしい。ウィネニスが神妙な顔で尋ねた。 「あの、陛下」 玉座の上からアンドロマリウスを見下ろしていたピサロが、おずと言ったようなウィネニスの声にその赤い目を転じた。アンドレアルを見る時のような眼差しではなく、睥睨する眼差しに、ウィネニスはかすかに頬を強張らせ、それでもどうなり笑みを浮かべ尋ねた。 「わたくし、何か陛下のお気に障るようなことを……?」 瞬間、凍てついた空気に謁見の間は囚われた。 愚か者め。 アンドレアルは磨きこまれた床を見下ろしながら、奥歯を噛み締めた。 己がどれほどピサロの機嫌を損ねているとも知らず、恐れもなくそのようなことを尋ねることこそ、ピサロの気に障る行為だ。痴れ者と雷が飛ぶのを覚悟していたアンドレアルだったが、ピサロはただ静かに唇を開いただけだった。 「私は、私の言葉を理解せぬ愚かな者は好かぬ」 この期に及んでもまだ、事態を理解しきれていない女を見下ろし、ピサロはまるで、ただ息を漏らすように密やかに告げた。 「殺せ」 アンドロマリウスが息を飲み、ウィネニスは震え上がった。 アンドレアルはただ立ち上がった。 牙が伸び、研ぎ澄まされた爪が鈍い光を放つ。かの方の前では、ただただ凪ぐ泉の表面のように穏やかな色しか見せなかった瞳が、獰猛な色を含んで赤く滾る。血に飢えた竜族の本性が露になった姿は、殺戮を許され歓喜していた。 「アンドレアル兄上、なにを……」 ウィネニスはようやく、ピサロが己に対し、どれほど怒り狂っているのかを理解したに違いない。 だが、すべては遅すぎた。 圧倒的な力を持つ従兄を前に、ウィネニスはなすすべもなかった。断末魔の悲鳴すら上げることも叶わず、ウィネニスの血は謁見の間を穢した。ごとりと鈍い音を立て、竜族の女であったものの頭が、人間の顔をしたまま石の床に落ちる。その後を追うように、どうっと倒れた身体が血だまりを広げた。弾みで飛び散った血が、俯き、ただ畏まるアンドロマリウスの顔を汚し、じわじわと石床を侵食する。 むせ返るような血の匂いに満ちた謁見の間に、さらりと衣擦れの音が響く。 「反香をロザリーヒルへ届けろ」 ピサロは何事も起こらなかったような平静な様子で玉座から腰を上げる。 「御意」 謁見の間を去ろうとするピサロを、アンドレアルは爪から滴る鮮血もそのままに頭を垂れ見送った。 |
<否冠の王妃> |