手放せない <舞姫の祈り>


 ひらり、ひらりと、褐色の指先から淡い光が落ちる。
 まるで舞うように動く指先が、何がしかの文様を描いているのだとロザリーは知っていたが、それが何を意味し、何を司るものかは理解できなかった。
 血を纏い、死のにおいを漂わせたユーリルを眼下に置き、ミネアの伏せた瞼の奥で紫水晶の瞳は何を思うのだろう。
 豪胆な姉ですら息を飲んだ弟分の姿を前にしてもなお、ミネアの冷静沈着な様は変わらず、ロザリーにはそれがピサロの姿に重なって仕方がなかった。気性も肌の色も、顔立ちも何ひとつ似ても似付かぬというのに、時折、ミネアはピサロと似た気配を匂わせる。
 手首の銀色の飾りがしゃんと音をたて、左手に持った細かな細工の銀の器から聖水が零れる。右手は時折聖水に付けられ、そしてまた花弁を撒くようにユーリルの上に複雑な動きを見せる。
 ピサロがロザリーヒルを去った後すぐにアドンは姉妹を呼び寄せた。
 ロザリーがただただ泣くことしかできず、絶望に身を浸し始めた時に再び現れた姉妹は、ピサロが言い置いた通りに動いた。
 窓を開け、空気を入れ替える。
 邪香のせいだと陛下が、とアドンが口にしただけで、ミネアは眉間に皺を刻み、部屋の中で竜巻を起こした。それが真空系の魔法によるものだとロザリーが理解したのは、お気に入りにクッションがずたずたに引き裂かれた後だったが、無論、ロザリーはクッションが引き裂かれたことなどどうでも良かった。それでユーリルの命が僅かなりとも長らえるのであれば、クッションだけでなくソファも、カーテンも、調度品のすべてを切り刻んでも構わないとさえ思っていた。
 ユーリルはミネアやマーニャにとってそうであるように、ロザリーにとっても得がたい大切な友人だったからだ。
 ロザリーが何もできず見守る中、姉妹は着々と準備をした。
 嗅ぎ慣れぬ香を焚き、見たこともない道具を用いて呪いを祓う。
 道具の準備さえしてしまえばマーニャに出番はないのか、不安げな顔をするロザリーの側に立ち、安心させるように頷いた。
「あたしらジプシーに伝わる悪魔祓いのまじないさ。大丈夫、ピーちゃんが言ってた通り邪香のせいなら、でもって、呪いのせいなら、ミネア以上の適任者はいない」
 マーニャの言葉が終わるか終わらないかの頃合でミネアが聖水を撒き終わった。傍らに用意してあったいくつかの磨きこまれた石を定められた場所に置き、魔を退ける力を持つ香木を石と重ねて置く。
「姉さん」
 振り返らずに呼ぶミネアの声に応じ、マーニャが指先に小さな炎を灯した。そしてまたミネアが聖水を撒いたように、マーニャが火の粉を撒いていく。姉妹が小さくくちずさむ言葉は魔を退ける言葉なのか、部屋にいたスライムが泣きそうな顔で部屋を出て行った。それを見やり、マーニャがにやりと笑う。
「あんたも苦しいだろ?」
 マーニャが視線を向けたのは、戸口に佇むアドンだった。ロザリーが顔を向けると、アドンは短く、いえ、と言葉を返す。かすかに焦りの滲む声ではあったが、甲冑に隠されたアドンの表情は伺い知れなかった。
「ユーリル様のお側にいるようにと陛下より命じられておりますので」
「そうかい。まぁ我慢できなかったら部屋から出て行くこった」
「無駄口を叩かないで、姉さん。魔の匂いが弱まったわ。今の内に結界を張りましょう」
「あいよ。じゃああたしは火を」
「私は風と水を」
 ユーリルを間に挟み、姉妹がユーリルの上に両手を翳した。似通った顔をした姉妹は同じように目を伏せると、異口同音に呪文を詠唱し始める。二人の翳した手が淡い光を帯びると、ユーリルが横たわるベッドの回りに光の輪が生じる。その輪が広がり、部屋の隅々にまで行き渡る。
 暗く陰鬱な気配が満ちてた室内に清らかな風が流れ始める。例えて言うなら初夏の頃、雨の上がったばかりの森に吹きぬける乾いた夏の風のような匂いだ。身体の中に淀んでいたものを爽やかに拭き抜け洗ってゆく風に、姉妹は翳していた手を下ろし、ふと息を吐いた。
「これでいいわ。ピサロさんが戻られるまでの時間稼ぎにはなるでしょう」
「はー。ジプシーのまじないなんて久しぶりだから、疲れちまったわね。何か飲むものでも…」
「姉さん駄目よ! まったく、すぐサボるんだから! 今の内にユーリルの傷を治しましょう。魔法は使えないけれど、薬草やそう言ったものなら効くはずだから」
「そ、それでしたらわたくしにもお手伝いできます…!」
 ただただ見ていることしか叶わなかったロザリーが慌ててまろぶように身を乗り出す。振り返ったミネアの眼差しに、過ぎたことだっただろうか、とロザリーが胸を押さえると、ミネアはふと笑みを浮かべた。
「ええ、お願いします、ロザリーさん。エルフの薬なら回復も早いでしょうし」
「んじゃやっぱあたしゃ休憩するよ」
「姉さん!」
 ぎゃいぎゃいといつものように騒がしく囀る姉妹に、ロザリーはふっと肩の力が抜けるのを感じた。生真面目な顔をしたマーニャや、ピサロと同じように何かの決意を宿した目をするミネアなど、彼女らには似つかわしくない。
 今のようにあけすけに笑い、朗らかに微笑んでいる姉妹を見ると、それだけでロザリーの心は凪ぐようだった。


<冷戮の魔王>