手放せない <淀む緑玉>


 足音も荒く部屋へ踏み入れば、陰気満ちたベッドの傍らに膝を付いていたエルフの娘が驚きも露に振り返った。美しい顔には疲弊の色が濃く浮かび、治癒のために掲げられていた手はその身にそぐわぬ血に染まっていた。
「…ピサロ様」
 しなやかに、だが音を立てぬようにと立ち上がり、それに答えぬ男にロザリーは会釈をする。淡い萌黄色のドレスがさらりと細かな絹擦れの音を立て、歩みを止めぬピサロのために場を空けた。
「何があった…?」
 傍らに置かれていた手布を取り、汚れた指先を拭うロザリーは、押し殺すピサロの低い声に顔を上げた。
 ピサロの秀麗な横顔は、この頃浮かべることの多くなった穏かなものではなく、かつてデスピサロと名乗っていた頃に纏っていたような剣呑なものだった。隠しても隠し切れぬ憤りは殺意と変わり、抑えても溢れ、捌け口を求めてじわりじわりと彼の体内から滲み出ている。
「……解りません。傷付いたお姿で村の入り口に倒れられていたのを、村の方が見つけ、わたくしに教えて下さったのです」
 憂いに満ちた息をつと洩らし、ロザリーはピサロのためにと一歩退いた場所から、己のベッドに横たわるユーリルを見下ろした。
 健康的に日焼けした好ましい肌は、今や血の気の失せた土気色に変わり、清らかな森の息吹を詰め込んだような濃緑の髪も艶が失われている。かさつきひび割れた唇からも色は失せ、閉じられた瞼は開くことがない。下腿にのみ毛布をかけられているが、上半身に覆うものはない。腹の上に宛がわれた布にはじわりじわりと赤黒い血が滲み出ており、今もまだ出血は続いているようだった。
 呼吸をしているのかどうかも怪しいほど弱りきった勇者を見つけたドワーフの若者は、転がるように村の中へ戻り、大声で呼ばわった。幾たびも訪れているユーリルは彼らドワーフ族にとっても得がたい友人であったから、治療に長けているドワーフの秘薬をも使うことが許された。差し出されたそれを、教えられた通りに使ったというのに、ユーリルの腹に空いた傷は塞がることもなく、ましてや血が止まることもない。
 身じろぎもせず、食い入るようにユーリルを見下ろしていたピサロが、低く告げた。
「デスパレスへ、連れてゆく」
 だらりと身体の両脇に垂らす手が、きつく拳を握り締めているのをロザリーは知っていたが、静かに、だがきっぱりと言い切った。
「…なりません」
「なぜ」
「動かせないのです。村の入り口から、この部屋へ運ぶだけでも多く血を流しました。ドワーフの秘薬を用いても血が止まらないのです。今動かすことは、ユーリル様のお命を縮めることにしかなりません」
 見やればベッドの傍らに用意された水桶の水は、赤く染まっていた。ロザリーが治療のために使った手を清めるために用意されたものだろうが、それが赤く染まるほど、ユーリルの血が流れているということだ。
 ピサロは右手を差し伸べた。
 今もまた溢れる血だけでも止めねばと、治癒の呪文を唱えようとしたピサロの手を、慌ててロザリーが掴み止めた。
「お止め下さい!」
「何をする!」
 突然しがみ付いたエルフの娘の軽い身体を、あろうことかピサロはあわや振り払うところだった。眦を上げ、治癒の呪文を邪魔するロザリーを遠のけようとするが、ロザリーは激しく頭を振った。
「治癒の呪文を唱えてはなりません! 治癒の呪文を唱えれば、傷が悪化するのです!」
「何を……」
 馬鹿なことを、とピサロは目を見開いた。それを必死で見上げ、ロザリーは尚も言い募った。
「ミネアさんに来て頂いて、すでに治癒の呪文は試したあとなのです…! 傷がさらに開き、ミネアさんですらどうすることもできなかったのです! ドワーフの秘薬も、エルフの秘術も効かぬのです! 呪いが込められているのだとミネアさんは仰いましたが、込められた呪いが何なのか解らなければ、解呪のしようもないのです! 今、ミネアさんとマーニャさんがお調べ下さっていますから…ですから、ピサロ様は、ユーリル様のお側に……」
 ピサロの腕に縋ったまま激しく言い募っていたロザリーの眦から、ころりと赤い石が落ちた。床に落ちる前に儚く砕け散ったそれは、後から後から溢れ、ロザリーは慌ててそれを拭い取った。
「どうか、ユーリル様のお側にいらっしゃって下さい…」
 ロザリーの言葉に促されたわけでもなかったが、ピサロは導かれるようにベッドの傍らに膝を付いた。伸ばした手で髪に触れれば、ごわついた感触が手に返る。髪にすらも血がついているのだとピサロは目を伏せた。
 髪を撫で、頬を撫でてもユーリルの瞼はぴくりとも動かない。
 息をしているのか、ピサロの耳をもってしても容易には知れない。それほど弱い呼気を確かめるべく、首筋へ指先を当てれば、覚束なくなりそうなか細い脈動が密やかに返る。
「……愚か者め…目を覚ませ」
 土気色の顔へと囁きかけても、返る言葉はない。常ならば、ころころと山の天気のように変える表情で、ピサロの目を楽しませてくれると言うのに、今はそれすらもない。
 胸を抉り出されるような気持ちになり、ピサロは顔を伏せた。身体に障ると解りながらも、衝動的にその身体を抱き寄せる。ロザリーが身じろぐのは解ったが、放せようもない。この身体が暖かいのだと確かめなければ、息もできそうになかった。血に汚れた緑葉の髪へ顔を埋めれば、ふと鼻先を覚えのある香りが過ぎる。
 ピサロは、顔を上げた。
 死にかけているかつての勇者を見下ろし、名を呼んだ。
「アドン」
 部屋の隅にと控えていた甲冑の男が、僅かに頭を垂れる。
「ここに」
 ピサロはそれを振り返ることなく、静かに凪いだように思われる声で告げた。
「占い師と踊り娘を呼び戻し、伝えよ。邪気を祓う香を焚き、風を入れるよう」
「陛下は?」
 まるでその場には自分がいないような口調で告げるピサロに、甲冑の奥で赤い目が瞬く。言葉少なに、だが明確に問う眼差しを省みず、ピサロは身を翻した。
「ピサロ様…」
 思わずと言ったように縋るエルフの娘へ告げるでもなくピサロは言う。
「魔界へ行く」
「そんな…」
 忙しくベッドの上とピサロとを見比べるロザリーの手を払い、ピサロは部屋の出口へと急いだ。後を追うロザリーが、憤りも露に追いかけてくる。
「ユーリル様があのような状態であるのに、魔界へ戻られると仰るなんて…この期に及んでまでお仕事を優先させられるおつもりですのっ? こんな時くらい、ユーリル様のお側についていらっしゃって下さいまし! ピサロ様がお側にいらっしゃらなければ、ユーリル様は!」
「私が側にいようとも死ぬものは死ぬ」
「そんな…ひどい! あんまりな言い方ですわ!」
「だが、私が行けばそれは生き延びるだろう」
「陛下、お心当たりが?」
「邪香を嗅いだ。アンドレアルの居城にあったものと同じ香だ。恐らくあれの従兄弟になるアンドロマリウスが調合するものだろう。何の酔狂かは知らぬが、余計なことを……」
 低く呻くような言葉に、アドンは甲冑の奥で息を飲む。ロザリーを省みず部屋を出るピサロの後を追ってくるアドンが、部屋を退出間際にロザリーに黙礼していたのをピサロは目の端に捉えていた。
 ロザリーを匿うために設えた長い階段を下りるピサロの後に続くアドンが、潜めた声で尋ねる。誰の耳目もないことはアドンとて解っているが、心境的には声を潜めずにはいられなかったのだろう。
「陛下。確か、アンドロマリウス様の妹君は、先の王妃選びの際の候補に残られていた方では…」
 諸般の事情で妃候補を選ばなければならなかったことがあった。ピサロは魔界から思しき女を選び、妃候補として登城させたのだが、その中に確かにアンドロマリウスの妹の姿もあったことを思い出し、ピサロは軽く顎を引いた。
「アンドレアルの口利きで登城させたが、およそ妃の器ではなかった」
「まさかそれを恨みに?」
「妃に選ばれなかったことを恨んで兄に泣きついたか? 確かにあの女ならばやりかねんが、アンドロマリウスがそれに応じるとは思えんな」
 足早に塔を降りたピサロは、そこかしこからロザリーヒルに住まうドワーフや魔物からの視線を感じたが、あえて顔を向けることもしなかった。
「私は魔界へ行く。そなたは占い師を呼び、邪気を祓う香を焚くように言え。あの女は気に食わんが、呪いを祓うことにおいては他の者よりも長けている」
「御意に」
 ピサロが移動呪文を詠唱すると、すぐさまその身体は光に包まれ掻き消えた。
 すると遠巻きに見守っていたロザリーヒルの住民が、おずおずと近寄ってきて、ユーリルの安否を尋ね、何がしかの贈り物を差し出してくる。滋養に良い食べ物、増血に効果がある薬草、傷を癒すのに長けた飲み物、どれもが村人の心の篭ったものばかりだ。心底案じる眼差しに、ユーリル様も喜んで下さると思います、とアドンは甲冑の奥で穏やかに微笑んだ。


<舞姫の祈り>