神様が創った特別な人  <イムル>


 イムルの宿で、夢を見た。
 深い深い森の中、それはまるで山奥の村にも似た村だった。人だけでなくホビットや動物が住まい、高い塔が聳え立っている。一部の狂いもなく組まれた石組みと磨きあげられた外壁、複雑な意匠さえ凝らされた尖塔には小さな窓があり、一人の少女が物憂げな眼差しを夜空へ向けていた。
 星の数を数えるのでもなければ、月が織り成す数多の物語を思うのでもない。ただただ、何かを案じる眼差しは憂いを帯びた勿忘草に彩られていた。その瞳と、尖った耳朶はひどくシンシアに似ており、ユーリルはそれだけで戸惑った。まるでシンシアが生き、そこにいるかのようだった。良く見れば、顔立ちもそこはかとなく似通っている。無事だったんだね、と駆け寄ってしまいそうになるユーリルを留めたのは、窓際に寄った一人の男だった。
 夜風を取り入れるために開いた窓から、冷えた空気が室内に入る。窓にかけられた紗のカーテンが翻り、シンシアに似た少女の亜麻の髪と、そして近付く男の銀色の髪もそよがせた。
 闇夜に浮かぶ月のような冴え冴えとした髪は真っ直ぐで長く、光を帯び輝いていた。風が吹くたびに揺れ、纏う黒衣の上で鮮やかに翻る。
 どうしてこの人が、とユーリルが目を激しく瞬く間に、密やかな声が男に向かってかけられた。
「ピサロ様」
 ピサロ。
 少女の淡い色をした唇が零した言葉に、ユーリルは目を見開いた。
 ピサロ……デス、ピサロ?
 山奥の村で聞いた、仇の名の一部を少女は男に向かって呼んだのだ。驚愕に打ち震える身体を支え、ユーリルは男を見た。
 少女と似た白い肌、すべてを射抜くような赤い瞳、それらはすべて少女に向けられていた。同じ室内にいるはずのユーリルには一片の視線もくれず、存在にも気付いていなかったに違いない。
 何しろこれは、夢なのだから。
 ユーリルの心臓が壊れそうなほど脈打っているというのに、その世界はひどい静寂に満ちていた。男が歩む音のほとんどを絨毯が吸い取ってしまっているはずなのに、それすらも音高に聞こえるほど静まり返っている。
「ピサロ様、お願いです」
 少女のたおやかな身体が、黒衣を纏う男の腕の中に滑り込む。そうすることは当然のようで、男の腕が少女の背に慣れたように回される。亜麻の髪に男はくちづけた。その横顔はいとおしい娘を腕に抱いているはずなのに、なぜか寂しそうだった。
「…お願いです。どうか、馬鹿な考えなどお止めになって…」
「それは、できん」
 男の唇から漏れる声に、ユーリルはきつく目を閉じた。いや、そうしようとした。だがそこは夢の中でユーリルの思い通りに動くものなど何ひとつない不思議の場所だった。見たくないのに目は閉じず、聞きたくないのに耳は塞がれなかった。
 海、と少し微笑んで告げた男の声が蘇る。
 山を下り、南へ下ればブランカに………。
 ユーリルの世界を少し広げて見せた詩人の声が、今はシンシアに似た誰かを抱く男の唇から零れている。
 ピサロと呼ばれた、男の唇から。
「私は、人間を滅ぼすと決めた。今に世界は裁きの炎に焼かれるだろう。それまでそなたはここへ隠れているのだ」
「…ピサロ様。どうかそんな恐ろしいことなど、お止めになって……」
「そうせねば、いずれここも人間に見つかるだろう。愚かな人間どもめ……己の分がいかほどのものか思い知らせてやらねばならん」
 違う、とユーリルは知らず呟いていた。
 あの詩人は、山奥の村に不意に訪れた詩人は、こんなにも恐ろしい言葉を紡がなかった。世界の美しいものをすべて集めたような存在で、萌える若葉に目を細め、ユーリルにいくつかの街の名を教えてくれた。いつか行ってみたいのだと言えば、行けると良いですねと微笑んだ。
 あの人が、まさか村を滅ぼしたデスピサロその人だったとは。
 そんなはずがない。
 そんなはずは、決してないのだ。
 だってあの日、あの時、旅の詩人はユーリルに微笑んだ。ユーリルの名を聞いて良い名だと言ってくれた。神様が創った特別な人に違いないその人は、ずっとユーリルを支え続けていたのだ。彼の言葉がどれほどユーリルを勇気付けただろう。村を焼かれ滅ぼされ、村人の墓を作り、旅立つ決意をした。山を南へ下ろうと思ったのも、詩人の言葉があったからだ。詩人が南に町があると教えてくれなければ、ユーリルはマーニャやミネアたちにも出会えず、森の中で朽ちていただろう。
 あの人がユーリルを生かしたというのに、目の前で繰り広げられるまるで誰かが作った歌劇のようなやり取りは、あの人がユーリルの仇だと告げている。
 嘘だ、と呟く言葉は、だが互いの身体に縋るように抱き合う二人には届かなかった。
「お願いです、ピサロ様。そのようなことは…」
「良いか、ロザリー。私が戻るまで、そなたはここに隠れているのだ」
 少女の懇願を男は容易く押しのけた。亜麻の髪を掻き分け、額にひとつのくちづけを残し、男は部屋を去っていく。
 待って、とユーリルは声を上げた。男を追いかけようとして、そこから逃れられぬことにユーリルは気付く。
 夢は夢でしかなく、ユーリルの意思によって動くものは何もなかったからだ。その夢の中でユーリルは傍観者であり、少女や男にとってはいない存在だった。
「誰か…誰かピサロ様を止めて……彼が恐ろしいことをする前に……彼が、世界を滅ぼしてしまう前に……!」
 少女の慟哭に、夢の世界は大きく揺らいだ。耳障りな不協和音を響かせて、少女の声がユーリルの身体にまとわりついた。少女が泣き崩れる部屋からユーリルは遠ざかる。身体は窓から外へ抜け出し、夜空高くへ舞い上がる。眼下に素朴な村があり、いくつかの小さな灯かりもぐんぐんと遠ざかった。そして気付けば、ユーリルは簡素なベッドに横たわっていた。
 濡れた頬を拭いながら身を起こすと、同室だったクリフトもブライも、そそくさと頬を拭っている。クリフトなどは、悲しいですねぇ、あんまりですねぇ、と繰り返しているがその声も言葉にならない有様だ。
 ユーリルはそっと夜具をはぐった。
「あの、俺、ちょっと歩いてきます」
 ブライにそう声をかけると、ユーリルは返事も待たずに部屋を飛び出した。宿を抜け出し、小さな村のあちこちを歩き回った。冷たい風が身体を突き刺し、早くユーリルに宿に帰るように促したが、ユーリルは立ち止りもせず、踵を返すこともしなかった。
 止まったら何か恐ろしいものが背後から襲い掛かってきて、ユーリルの混沌に満ちた胸の中を余計に引っ掻き回しそうで、足を止められなかったのだ。
 ぐるぐると村の中を歩きまわり、ユーリルはようやく、学校の裏の井戸の側で足を止めた。水をくみ上げ、ざぶざぶと顔を洗い、頭から水を被る。寒さにぶるりと身体が震えた。
「……ユーリル」
 そっとかけられた声に驚いて振り返れば、そこにはタオルをひとつ持ったミネアが佇んでいた。いつから後をつけていたのだろう。きっと顔を洗い始めたのを見て、宿へ取って返してそれを持ってきたに違いない。それなのにまったく気付いていなかった自分に恥じながらも、ユーリルは何も言えず、ただタオルを受け取った。
「…あなたも、見たのね」
 ミネアの静かな声に、濡れた髪を拭いながらユーリルは頷いた。
「……では、あなたの詩人が、あなたの仇である事も知ったのね…?」
 囁くような小さな声に、ユーリルはカッと目を見開いた。驚愕に打ちのめされながらミネアの顔を見れば、ミネアは少し困ったように微笑んでいた。
「………そう、知ったのね」
「な、んで…なんで…? ミネアは、知ってたのか? お、れの…俺が言ってた旅の詩人が、村を滅ぼした奴だって……ミネアは知ってたのかッ? 知ってて、黙って…!」
「しっ。静かに」
 ミネアの伸ばされた手がそっとユーリルの唇を押さえた。
「まだ夜明けも遠いわ。村人を起こしてしまっては可哀相よ」
 ユーリルが思わず唇を噛み締めると、いい子ね、とミネアは穏かに微笑んだ。そして握り締めるユーリルの手に、そっと両手を添えた。包み込む手のひらが思いの他冷えてる事にユーリルは気付いた。ミネアはずっと起きていて、外で待っていたのだろうか。水晶で先を見て、ユーリルが夢を見て宿を飛び出し、井戸で水を使うことを予見していたのだろうか。だから先回りして、タオルを持って、待っていた?
 驚いて目を瞬くユーリルにミネアは穏かな笑みを浮べたままで告げた。
「そうよ、知っていたの。いいえ、違うわね。そうじゃないかって疑っていたわ」
「………村にいた詩人が、村を、滅ぼした奴だって…?」
 ユーリルはざわめく胸をどうにか押さえ、喘ぐように尋ねた。ミネアが手を握っていてくれなければ暴れ出していたかもしれなかった。見た夢に、例えようもなく打ちのめされ、ユーリルの心は混沌に満ちていたからだ。
「ええ…そうよ」
「……いつから?」
「覚えているかしら。アネイルで、あなたが詩人の姿を教えてくれたでしょう。温泉に浸かって、姉さんも一緒に聞いていたわ。あの時、あなたこう言ったのよ。柘榴みたいに赤い目だった、と」
 確かに、そんな事もあったかもしれない。
 だがそれは一年以上も前の話で、ユーリルにしてみれば克明に覚えているミネアの方が驚きだった。小さく顎を頷かせれば、ミネアは躊躇い躊躇い口にした。
「……赤い瞳は、純粋な魔族の象徴なのよ。だから、あなたが詩人の目が赤かったと告げた時…それも、柘榴のような赤だと言った時、私はそうじゃないかと疑ったの」
「だったら…どうして、今まで黙ってたんだよ…。言ってくれれば、良かったのに。俺が、ずっと、ずっと…あの人の言った町を…」
「ええ、だから言えなかったのよ……だってあなたは、詩人の言葉を拠り所にしていたわ。教えられた町に着くたびに嬉しそうにしていた。言えないわ。早く言わなくちゃって思ったけれど、そのたびにあなたの笑顔を奪いたくないって思いなおしたの。もう少し、もう少しって先延ばしにして、結局イムルまできてしまった。ここで何かが起こることを、私は解っていたのに…防ぐ手立てもないまま、あなたにあの夢を見せてしまった……あなたに、真実を教えてしまったのよ……」
 ごめんなさい、と水の上を走る風の音よりも静かに、ミネアは告げた。
 悲しみを孕んだ紫水晶の瞳を前に、ユーリルができたことと言えばただ首を横に振ることだけだった。
 その日以来、ユーリルが山奥の村に訪れた詩人の話をすることはなくなり、代わりに何度もデスピサロの名を呟くのを仲間達は幾度となく目にした。ユーリルの唇から漏れる彼の、そしてみんなの仇の名は、彼が紡ぐとまるで意味合いを変えて聞こえた。
 乞う人のように、求める人のように、その人こそが自分にとって一番大切な誰かであるように、ユーリルはデスピサロの名を紡ぐ。
 紡ぐことが、詩人が村の人々を死に到らしめた仇であったと思い込む唯一の彼にできる方法だったのだ。
 デスピサロ。
 それは銀色の髪と柘榴のごとき赤い瞳を持った男の名だった。

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