神様が創った特別な人  <アネイル>


 アネイルは確かに、ミネアの言う卵の腐ったような匂いに多かれ少なかれ満ちていた。町の一角に作られた温泉は男女別のものと混浴のものとがあり、マーニャは折角だからみんなで入ろうと、嫌がるミネアと戸惑うユーリルを引き連れて湯に身を浸していた。さすがに混浴に人の姿は少なく、あってもお年寄りの姿ばかりだ。
「あー…染み渡るわー……」
 豊かな髪を一まとめにし、どっぷりと顎まで浸かるマーニャの呻き声に、ユーリルも思わず溜息を吐く。身体の表皮を包む暖かな湯は骨の髄まで染み渡り、砂漠で枯れた身体を癒してくれるようだった。
「……あったかい泉って気持ちいいかも」
「でっしょー? これがまたあんた、お肌にいいのって。あんたも明日になったらすべすべよ、きっと。あたしゃ顔に塗り込んどこ」
 ばしゃばしゃと派手に湯を散らすマーニャを妹は迷惑そうに眺めている。
「ちょっと姉さん、周りに迷惑じゃないの」
「あんた、口に塗りこんだらどう? ちょっとは柔らかくなるんじゃないかしら」
「ちょっと姉さん、それ、どー言う意味よっ」
 素っ裸で取っ組み合いの喧嘩を始める二人を、ユーリルは呆れた気持ちで眺めていた。気付けば、天然の岩を組み合わせた広い浴槽の離れた場所で、のんびりのほほんと湯に使っているご老人たちが、どうにも微笑ましそうな眼差しでこちらを見つめている。
 一頻り湯を撒き散らして暴れ、気が済んだらしい姉妹が、はぁ、と大きな溜息を付き、長い髪を揃って纏めている。変なところで気があっているようで、ユーリルは少しおかしくなった。
 似た二人の似た仕草を眺めているユーリルに、先に髪をまとめ終えたミネアが顔を向けた。
「これからどうするか、考えた方がいいんじゃないかしら」
「それならここよりもコナンベリーの方がいいんじゃない?」
 ほんのりと肌を上気させたマーニャに、ねぇ、と相槌を促され、ユーリルは戸惑いながら首をかしげた。
「コナンベリーって…町の名前?」
「ああ、そっか…あんた知らないんだっけ…。ここより南にあるのよ。港町だから、その分人も多いし、情報も多いしね」
「ふぅん」
「あれ、でも…なんであんた、コナンベリーを知らないわけ?」
 感心したように頷くユーリルを見て、マーニャが目を丸くした。化粧などしなくても十分に綺麗な顔がまじまじと見つめてくるのに、ちょっぴりどぎまぎしながらユーリルは答えた。
「それは…だって、村にいた詩人の人に教えてもらって…」
「よく考えれば、おかしな話だわね」
 ミネアまでもがそんな風に首を傾げるので、ユーリルは困ってしまった。何がどうおかしいのか、説明をしてもらわなければ解らなかったし、二人がおかしいと思うことを自分は今まで何の疑問も抱いていなかったので、また物知らずだと思われるかもしれないと思ったからだ。
 だが二人は、ユーリルの知識不足を馬鹿にすることはなかった。
「あんたに町の名前を教えた詩人って、結構な距離を移動してんのよ。キングレオでしょ、サントハイムでしょ、イムル、エンドール、ブランカ、アネイル。それから場所は知らないけど、リバーサイド…だっけ?」
 指折り数えるマーニャが伺う眼差しを上げるので、ユーリルは折られる綺麗な指先を見ながら頷いた。
「うん」
「エンドールとブランカとアネイルは、大陸を歩いて移動できるけれど、イムルは同じ大陸でも、人ではとても越えられない山に阻まれているの。それにキングレオからはハバリアの町を通らなければ、どこへも出られないのよ。すべての船はハバリアから出港するから」
 丁寧に教えてくれるミネアの言葉尻にかぶさるように、マーニャが間延びした声を洩らした。
「それにねぇ、このご時勢でしょ。魔物がうじゃうじゃいて、誰も船を出さないのよ。定期船ならともかく……あんたの村に詩人が来た時期にはもうハバリアの港は封鎖されてんだもん。それに、その詩人がコナンベリーを知らないってことは、アネイルにまできたってのに、コナンベリーに行かずにまたブランカにとって返したってことになるわけよ。いくら気ままな旅の詩人でもさ、ちょっとばかしおかしくない? 港町の方が稼げるし、海を渡ればミントスよ。そっちのが稼ぎ出があるわよ」
 ねぇ、と話を向けられたミネアが頷き、そうねぇ、と不思議そうに首を傾げている。姉と同じ色の髪が一房、頬に落ちかかるのを耳へ上げながら、ミネアは言った。
「それに山奥の村にまで迷い込むほど、山の中を歩くというのもおかしな話だわね。詩人だもの。人の集まる場所に行くのが普通だと思うけれど……」
 心底不思議そうなミネアとは打って変わり、突然目を輝かせたのはマーニャだった。ぐいとユーリルに身を近づけ、きらきらと輝く目で覗き込みながら尋ねる。豊満な裸の胸が腕に当たって、ユーリルはますますどぎまぎした。
「ね、ね、その詩人ってさ、どんな奴だった? カッコイイ?」
「姉さん!」
 相変わらずのマーニャの質問に、ミネアは目を吊り上げたけれど、ユーリルは苦笑して村で見た詩人の姿を思い出した。
 宿の裏手に座り、萌える木々に目を細めていた美しい人は、ひょっとしたら彼が歌う詩を練っていたのかもしれない。あの人の声ならばさぞや美しく詩を奏でただろう。竪琴の類は持っていなかったから、宿の部屋の中に置いていたのかもしれない。あの整った指先が紡ぐ音は、どんな音楽となって人々の耳を楽しませるのだろうか。
 ユーリルは思い出した名も知らぬ詩人を思い出し、ひっそりと微笑んだ。
「すごく綺麗な人だった」
「なんだ、女なのォ?」
 途端にがっかりした様子のマーニャに、ユーリルは首を振って否定する。
「男の人なんだけど、俺が今まで見たこともないくらい綺麗な人だったんだ。銀色の長い髪をして、肌だって雪みたいに真っ白で、柘榴みたいに綺麗な瞳をしてた」
 詩人に会ったのは二ヶ月も前のことではないのに、ユーリルは何か懐かしい思いで言葉を尽くした。ユーリルの話を聞いていたマーニャは頬に両手を当て、とろんと蕩けた瞳を遠くへ向けて夢見るような顔をしている。ミネアが、訝しく眉を寄せた。
「柘榴みたいな…? 赤い目をしていたの?」
 ユーリルはミネアの真剣な眼差しに、実はミネアも旅の詩人に興味があるのかな、と可笑しく思いながら頷いた。いつだって彼女は、姉の破天荒な行いに悩まされ苛立ち、男だなんだとそう言う華事には極力関わるまいとしていたからだ。
「うん、すごく綺麗な赤い目だった。整った顔で、妖精かもしれないって思ったんだ」
「嘘、本当にそんな男がいるのっ? お会いしたいわぁ! ねぇ、ひょっとして何か歌ってくれた? 旅の詩人でしょ?」
「ううん、何も…でも綺麗な声をしてた。小さいのによく響く…染み渡るような」
「いいじゃない、素敵! ね、それで、その人って恋人いるみたいだった?」
「そ、そんなの解んないよ! 俺がその人と話したのは一回だけで、その時に町の名前を教えてもらったんだ。その人に恋人がいるかどうかなんて解んないよ」
「馬鹿ねぇ、それを一番に聞かなくちゃいけないってのに!」
 マーニャが心底から落胆したような顔をするので、ユーリルはくすくすと笑い声を洩らしながら言った。
「でも、指輪はしてなかったよ」
「あらっ、じゃあ独り身かもね! いいわねぇ、銀髪! 銀髪って魅力的だと思わない? 長かったら最高よ。神秘的で、魔法的で、なんだか神様が創った特別な人みたいじゃない、銀髪って言うそれだけで! 金髪よりは銀髪ね」
 マーニャの弾む言葉を聞きながら、ユーリルは確かにそうかもしれないと考えていた。
 山奥の村を出て、世界を少し旅するようになってから、ユーリルは様々な人々を見た。マーニャやミネアのジプシー、エンドールの町で暮らす裕福な人たち、ブランカの片隅に家と畑とを設け、山奥の村と変わらぬような生活をする人たち、そしてこのアネイルで硫黄の匂いを嗅ぎながら日々暮らす人たち。一国を治める王様にも会ったし、結婚式の最中だと言うお姫様や王子様にも会った。だが、その誰をとっても、あの旅の詩人よりも美しい、いや、彼と並ぶほどの美しい人はいなかったのだ。
 神様が創った特別な人。
 マーニャはあの詩人をそう形容した。見たことがないのだから、ユーリルの説明だけで彼女は想像したのだろうけれど、正にユーリルにはあの人を称するにはその言葉がぴったりだと思っていた。
 何をとっても美しく、どれをとっても他と同じものなどひとつもない、特別な美しい人だ。
 詩人の微笑を思い出しこっそりと微笑みを浮べていたユーリルは、ミネアが気遣わし気な眼差しで自分を見ていた事に気付いていなかった。

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