神様が創った特別な人 <エンドール> |
「…イムル……」 くるりと、赤いインクで印をつけた。真ん中の大陸の上のほうの海沿いにある。 「………サントハイム…」 真ん中の大陸とは繋がっていないけれど、地図で見れば泳いで渡れそうなほどの距離しか離れていない西の大陸の、左端に見つけた。側に小さな村がある。 「……アネイル……」 砂漠の側。ブランカにも近い。 「キングレオ……」 「何してるの?」 呟きながら地図を指で追うユーリルの後ろから、ひょいと顔を覗かせたのはマーニャだった。踊り子装束で恥ずかしげもなく町を歩く姿は、すでにエンドールで知らぬ者はいない。カジノに興じ、気が向けば踊りを披露しては金を稼ぎ、そしてまたカジノに興じる。町占にたっては地道にコツコツと稼いでいる妹とは雲泥の差だったが、ユーリルはどちらも変わらず好きだった。知り合ったばかりではあるが心底から信頼のできる仲間であり、兄弟だった。 「あー! 地図にこんな悪戯して!」 ユーリルの手の中のペンと地図とを見比べて、マーニャが目を吊り上げた。 ユーリルは慌てて取り上げられた地図を取り戻そうと手を伸ばしたが、扇を軽やかに操るマーニャの手癖には叶わない。ひらりひらりと逃げる地図を、思わずわたわたと追いかければ、同じ部屋の中で水晶を覗いていたミネアもくすりと笑みを浮べた。 「駄目よ、ユーリル。地図はこれからずっと使うのだから、大切にしてくれないと」 「悪戯じゃないよ!」 幼い子供を諭すようなミネアの口ぶりに、ユーリルはカッと頬を赤くした。出会ってからまだ間はないけれど、いつだってジプシーの姉妹はユーリルを子供扱いする。まるでシンシアのように。 「俺が知ってる町が、どこにあるかと思って……」 「あら、あんた、町の名前知ってたの?」 マーニャが踊るように逃げていた足と手を止め、ユーリルの印をつけた地図を見下ろした。妹と同じアメジストの瞳を瞬かせて、どっかりと椅子に腰を下ろす。それはユーリルがさっきまで座っていた椅子の隣で、テーブルの上にはユーリルが指を動かし地図上の町を探した時と同じように地図が広げられた。 「うん、教えてもらったんだ」 ユーリルも椅子に座って、地図の上を指で辿る。 「ブランカとエンドールはトンネルで繋がっていて、俺の村はここ。ブランカは俺の村から見て南だったから、ブランカから見たら北にある。サントハイム、イムル、アネイルは見つけたんだけど、キングレオがどこにあるか、探してたんだ」 地図の上を辿る指をマーニャが掴んだ。驚いて顔を上げると、険しい表情をしたマーニャがユーリルの指を引き摺り、ひたと南西の大陸の右上の方に押し当てた。 「キングレオは、ここ」 マーニャの強張った顔の理由を聞こうとしたが、それよりも先にミネアが穏やかな口調で話しかけてきたので、ユーリルは地図を見るのに夢中になった。 「キングレオのすぐ上にあるのがハバリアよ。エンドール行きの定期船が出るの。大陸のずっと下にあるのがモンバーバラ。姉さんはそこで一番の踊り子だったの。大陸の真ん中辺りにあるのがコーミズ。私達の村よ」 慌しく指で地図を辿るユーリルに、ああもう、とマーニャが声を上げる。 「トロ臭いわねぇ。いーい? ここがキングレオ、ハバリアはここ。コーミズがここで、モンバーバラがここよ」 ぱっぱっぱ、と綺麗に彩られた指先が地図の上を走る。とりあえずユーリルはキングレオの地名に印をつけ、後はゆっくりと自分の指で辿った。 ハバリア、コーミズ、モンバーバラ。 ひとつずつの地名を確認するユーリルに、マーニャがつと立って茶を入れてくれた。ありがとう、と礼を言うと、あたしが飲みたかっただけよ、と素っ気ない答えが返ってくるが、ミネアは静かな笑みを浮べている。 ユーリルは暖かい茶を飲みながら地図を眺め、もうほとんどの場所に指を這わせたのに、出てこない地名に眉を寄せた。 「リバーサイドって…どこにあるか知ってる?」 「……リバーサイド?」 マーニャは首を傾げ、妹を見た。皮袋の中から金貨や銀貨、銅貨を取り出しては数えていたミネアも、勘定の手を止め眉を寄せた。 「聞かない名前ね。小さな町なんじゃないかしら」 「名前の感じからして、川の側ってイメージだけど…川なんざ世界中にたっくさんあるからねぇ」 マーニャが呆れるように言ったのは、ユーリルが川の側を指で探り始めたからだ。きりがないわよ、と忠告されながらも、それ以上探す宛てもないので、ユーリルは大陸のひとつひとつに描かれた細い青い線の周辺へ目を凝らす。 「そろそろ十分な資金は溜まったみたい」 ミネアが皮袋の口をきゅっと縛って顔を上げた。 「エンドールからそろそろ移動した方がいいと思うわ。ずっとひとところにいても、得られる情報は限られているし、私達は導かれた小さな光を集めなければ……」 「えーっ! エンドールから出るなんて嫌っ! だって次行く町にカジノがあるとは限らないじゃない!」 むき出しの肩を庇うように自分で抱きしめるマーニャの言葉を、ミネアはさらりと無視をした。長く連れ添っているだけあって姉をあしらう事も堂に入っている。 「何も宛てはないのだし、折角だからユーリルの知っている町に行ってみましょうか。実際に行ったことはないのでしょう?」 ユーリルはパッと顔を上げた。 「本当に? いいの?」 「ええ」 ミネアは微笑み、マーニャが隙あらば掠め取ろうとしている路銀を自分の手元に引き寄せている。 「エンドールから近いとなると……『旅の扉』を使えばサントハイム大陸に上陸できるわね」 ミネアの言葉の中に、聞きなれない単語があった。村を出てから、本当に自分は今まで何も知らなかったのだと思い知ることになった。大して年の違わないミネアは世の中のたくさんのこと、例えば町の事情であったり、物の使い方であったり、政治であったり、太古から伝わる古の何がしかを知っていたりするのに、ユーリルはそれのどれかひとつでもミネアよりも物を知っていると言う事はなかった。 少しばかり悔しい思いもあるが、知らないことは知らないのだから仕方がないのだと口を開いた。 「その『旅の扉』って何?」 「なんて言ったらいいのかしら。どういう原理なのかは解らないのだけれど、人を一瞬で違う場所に運ぶ…魔法陣みたいなものかしら。失われた文明の遺跡だと言われているけれど、遠くから遠くへ移動するのに便利だから今でも用いられているのよ。エンドール大陸からサントハイム大陸へ繋がる『旅の扉』がこの近くにあるの。でも『旅の扉』を使えば大回りになるわね。海を行く方が山を越えるよりも近いんだもの。エンドールから定期船は出ていないのかしら…」 ミネアが思案するように考え込めば、駄目駄目、とマーニャがぱたぱた片手を振った。 「前はあったらしいんだけどさ、なんでもサントハイム城に人がすっかりいなくなったんで定期船も取りやめになったんだと。山越えしなくちゃ駄目らしいわよ」 「あら、そうなの。サントハイム城に人がいないだなんて、何か良くない事でもあったのかしら」 「それに『旅の扉』も使えないみたい。なんでも関所が壊れてて通れないとか何とか…」 意外と情報通のマーニャが顔を顰めている。 「よく知ってるね、マーニャ」 思わず感心しそう呟くと、マーニャはふふんと鼻を鳴らして豊満な胸を張る。 「このマーニャ姐さんを馬鹿にしないでもらいたいわね。エンドールの情報で知らないことは何もないわ」 「へぇ」 「カジノで聞き込んでくるだけなのよ。褒めちゃだめよ、ユーリル」 「あーら言ってくれるじゃないのよ、ミネアちゃん」 唇を曲げるマーニャの表情を見て、ユーリルはくすりと笑い声を零したが気付かれそうになって慌てて生真面目な顔を取り繕った。 「ええっと、それなら、このボ、ンモール? ボンモールに行ってみたらどうかな。お城があるみたいだ」 「それよりもアネイルに行きましょう。この辺の情報なら姉さんが網羅しているはずだから、ボンモールに行ったとしても新たな手がかりは得られないと思うわ」 「アネイルなら行ってもいいわよ!」 それまではカジノがなければ嫌だと騒いでいたマーニャが、一転して目を輝かせる。 「だってアネイルって温泉町じゃないさ! ゆっくり骨休めしたいわねー。お肌もぴかぴかつるつるでさ!」 自分の頬に両手を押し当てて浮かれ調子のマーニャをミネアは眇めた目で見つめている。 「これ以上骨を休めたら、骨がなくなってスライムになっちゃうと思うけど」 「何それ。つまりあたしが休みすぎって言いたいわけ?」 「あら意外と聡明ですこと」 「まー、言ってくれるじゃないのさ!」 「本当のことだもの」 澄ました顔でちゃかちゃかとタロットカードを切って、ユーリルには理解できないものの、決まった形に並べていくミネアと、椅子から立ち上がって腰に手を当て、ぷんすか怒ってみせるマーニャのやり取りはいつもの事だ。出会ったばかりの頃には随分と気を揉んだものだが、今ではすっかりユーリルも慣れっこになってしまった。 地図の上のアネイルに指を置き、自分でつけた印を確認する。 「温泉って何?」 ミネアに食ってかかっていたマーニャが、すっきりと背筋を伸ばして振り返る。 「呆れた。あんた、温泉も知らないの?」 「…だって、村にはなかったし…」 長い睫を瞬くマーニャに見下ろされ、眉を寄せるも、マーニャは言葉ほどユーリルを馬鹿にしているようではなかった。椅子にどかりと腰を下ろすと、長い足を組む。 「温泉ってのはさ、あったかい水が沸いてくんのよ。あんただって泉は見たことあるでしょ? あの水があったかいの。お風呂みたいに」 「嘘だぁ」 「そんな事で嘘ついてどーすんのよ。大体温泉っつーと身体に素敵な効果があったりするわけ。お肌がつるつるになったり、筋肉痛が治ったり、リウマチがなくなったり」 「へぇ。薬湯みたいなものなんだ」 「んーまぁそんな感じかね。ちょっと匂いはアレだけどさ」 「匂い?」 ミネアは引いたタロットカードの図柄を見て顔を顰める。図柄が悪いのか、話題が悪いのかは判断できなかった。 「硫黄の匂いよ。私、あれ、嫌いだわ。温泉は好きだけど」 「臭いんだ?」 「卵が腐ったような匂いよ」 「そ、れは…俺も嫌だな…」 顔を顰めるユーリルの鼻面を、マーニャの指がぴしんと弾く。 「痛い…」 「いいから行くの! 温泉よ温泉! 美肌に磨きをかけるわよー!」 「ちょっと姉さん、遊びじゃないんだから……」 「解ってるわよ! だけど旅にも潤いは必要なんだから! そうと決まれば、あたし、もう一稼ぎしてくるわね! 勝ちまくって温泉で豪遊するわよー!」 借りるわね、とマーニャは素早く、ミネアの側に置いてあった皮袋を取り上げた。ちょっとっ、とミネアが血相を変えるも手癖の悪い姉はその中から銀貨を二枚抜き取り、残りの皮袋は放って寄越す。全部をギャンブルに注ぎ込む気はないようだ。 「じゃあね〜!」 投げキッスをひとつ残して宿の部屋を飛び出していくマーニャの、今はもうない後姿を見送り、ミネアは大きな溜息交じりに悪態を吐いている。 「まったく! 勝った試しがあるんならいいものの!」 姉のギャンブルの勝敗の行方をタロットカードで占い始めたミネアを横目に眺め、ユーリルはテーブルの上に広げた世界地図を見下ろした。赤い印がついているうちの、一番東寄りに位置する町の名を指で辿る。 アネイル。 詩人が告げた町の名のいくつもののうちのひとつだった。 |
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