神様が創った特別な人  <世界が広がる>


 初めて会った時のことは、驚くほど鮮明に良く覚えている。
 今思えば、どこよりも野暮ったく、どこよりも素朴で、どこよりも温かみに溢れた村の中で、彼の姿だけはまるで切り取った絵画のように美しく洗練され、人とはあり得ぬほど冷たく、何よりも研ぎ澄まされているようだった。
 客など一人とて訪れたことのない宿屋のおじさんが、迷い人を泊めてあげたんだよ、と秘密を明かしてくれた時、一体どんな人なんだろうと興味を抱いた。外の世界からきた外の人は、この村を一体どう思うんだろうと思ったし、また世界には何があるのかを、ひょっとしたらこの村で一番の博識な老人でも知らぬことを、その人は知っているかもしれないと仄かな期待を寄せた。
 宿の裏手に回れば、萌える若葉の影からかすかに零れる光を浴び、何かを探るように虚空を見つめるその人がいた。
 月の夜の光よりもなお冴え冴えとした銀色の髪は長く、肌は真冬に降り積もった雪よりも透けるように白い。それと対比する黒い衣を纏い、ユーリルの踏んだ小枝の音に振り返った眼差しは血のように赤かった。
 目と目が合ったと思ったその瞬間に、ユーリルは彼に尋ねたかったあらゆることを忘れた。生身の心臓を氷の手で掴まれているような感覚に陥り、ひどく足元が心許なかった。気を抜けば倒れてしまうのではないかと思うようなそれは、畏怖の念に良く似ていた。ユーリルがその時よりももっと押さなかった頃、下らない悪戯をして仕置きに村の食料庫に一晩放り込まれた時に感じた恐ろしさが、その時の彼に持てる感情表現の中では一番近かったように思う。
「ああ」
 迷い人だと言うその人は、ふと唇を歪めた。眩しそうに目を細め、呆然と立ち尽くすユーリルに微笑を向ける。
 この世のものとは思えぬ、美しい笑みだった。
「この村には、あなたのような子供もいるのですね」
 唇から零れる言葉は磨きこまれた刃の上を滑る雫のように、つるつると淀みなく流れていく。
「私は、旅の詩人です。道に迷い、この村に辿り着いたのです。しかしこんな山奥に村があったとは……驚かされました。どうやら、子供はあなただけのようですね」
 ひたと見据えられた眼差しに、ぞわりと総毛だった。思わず後ずされば、引いた足が小枝を踏む。パキッと鳴った乾いた音にユーリルは飛び上がる心地だった。
 ユーリルの気持ちを見透かしたのか、血のような瞳はふと細められる。
「名は?」
 命令することに慣れた声だった。
 ユーリルはじりと後ずさりながら、それでも逃げ出せずにいた。いや、逃げ出したかったのではないかもしれない。見知らぬ美しいものを見て、知らず緊張していたのかもしれなかった。痛み出した腹の辺りをきゅっと押さえ、ユーリルは答えた。
「ユ、ユーリル」
 発した声は小さく、震えていてみっともない。恥ずかしくてかぁっと頬に血が昇るのを感じ、ユーリルは俯いた。見目麗しい旅の詩人の目から、野良仕事で汚れた足先や顔、ろくに梳いてもいない髪を隠したかったのだ。
「ユーリル」
 旅の詩人は、一度ユーリルの名を呼んだ。甘い声色に聞こえ、ユーリルがちらりと視線を上げれば、旅の詩人は微笑を馳せる。
「…そう、それは良い名だ……」
 それきりふいと逸らされた目に、ユーリルは詰めていた息を吐き出した。ほうと吐き出した大きな息の音は、おそらく詩人にも聞こえていただろうに、何を言うでもなく風が揺らす葉の音を聞くように目を伏せている。
 邪魔をしちゃいけないだろうか、とユーリルは心配をしたが、逡巡の後、結局は足を進めた。手を伸ばせば届きそうな場所に膝を付くと、赤い瞳がちらりとこちらを見やる。あの、と震える声を叱咤した。
「あ、なたの名前を、教えてもらっていいですか?」
「知らぬ方が良いでしょう」
 ユーリルのなけなしの勇気を振り絞ってのささやかな願いを、詩人はすげなく断った。項垂れるユーリルに詩人はひそりと乗せた笑みをそのままに告げる。
「どうせすぐに分かつ身、名など知って何になりましょう」
「……出て行くんですか」
 首を傾げたユーリルに、詩人は歌うように答えた。
「行く宛てのある旅の途中、一晩の宿を願っただけのこと。明日にもここを発つつもりです」
 そしてまたふいと視線は逸らされる。向けられるのは若木萌ゆる森の奥だ。何があるわけでもないのに、何を熱心に見るのだろう、とユーリルは不思議に思いながらも、当初の目的を思い出し口に上らせていた。
「あの、外のことを、教えてもらえませんか。この村から出た事がないので、外ってどうなってるか、知りたいんです。海って、どんなものですか?」
「海」
 詩人は森の奥を見据えたままひっそりと微笑んだ。夜に羽ばたく鳥のようにゆったりと瞬きを繰り返す。そのたびに、髪と同じ色をした煙るような銀色の睫が白い頬に影を落とした。
「……人の言葉で知るよりも、実際に目にした方がいいでしょう。山を下り南へ向かえば海があります。どこまでも続く、青い海です」
「近いんですか? いつか外に出られたら、行ってみたいな」
 はにかむように微笑んだユーリルに、詩人は、そう、と少しばかり考えるように言葉を途切れさせた。
「旅慣れた者ならば二日か三日。ブランカと言う町があり、この村とは比べ物にならぬほどの人間が生活をしている。田畑を作り、城を築き、近頃はエンドールへのトンネルもできたとか……」
「ブランカ…エンドール……。あなたは、行ったことがあるんですか? その、エンドールに」
 エンドールが何なのか、ユーリルには解らなかった。詩人の言葉から察するにどうやら町の名前らしいけれど、その『町』がどういったものを指すのかが解らなかった。この村よりも多い人の住む場所の想像もできず、けれど詩人が語る言葉には何か胸が騒いだ。
 詩人は微笑み、僅かに顎を引く。
「エンドールには二度…」
「他の町には? ブランカ以外にも、世界には一杯、人の住むところがあるんですよね?」
「そう。サントハイム、キングレオ、イムル、アネイル。リバーサイドは遠目に見たことがあります」
「……へぇ」
 詩人の口から語られる数々の町の名に、ユーリルは目を輝かせた。
「すごいんですね…。一杯あるんだ……」
 ほぅと感嘆の溜息を吐くユーリルは、高鳴る胸を押さえるように胸に手を置いた。どきどきといつもよりも早く脈打つ心臓の鼓動が手のひらに返ってくる。
「いつか行ってみたいな。見たこともないものが、たくさんあるんだろうなぁ」
 赤い瞳がすうと翳った事にも気付かず、ユーリルは高揚した気持ちのままに言った。
「…行けると良いですね……」
 囁かれた言葉の裏に気付くことなく、ユーリルは微笑む。名も知らぬ詩人に、村の誰も教えてくれぬ外の事を聞くことができ嬉しかった。静かに見据える赤い眼差しの中に、一体どんな感情が含まれているかなど、察することはなかった。
 ユーリルは少しだけ、自分の中にある世界が広がったように思えて嬉しくてたまらないまま、詩人の言葉に頷いた。
「俺、いつか行ってみたいです」
 いずれそうなればいいと無邪気に信じて疑わなかった。
 その時までは。

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