銀糸の檻 < 過夜 >


 びっしょりとかいた汗で緑葉色の髪をしどけなく額やら頬やらに張り付かせたユーリルを見下ろし、ピサロはあえかな息を吐いた。身を離し、張り付いた髪を指先で払ってやる。ん、と身じろぐユーリルの額に、ピサロはひとつくちづけを落とした。
 ふと見れば、部屋の中を侵食するように輝いていた赤い月は、厚い雲の向こうに隠れている。光を浴びずとも赤い月がどこかにあればそれだけで性欲は高まるが、赤い月そのものを目の当たりにしている時ほどではない。
 しばらく、意識を失ったユーリルを見つめていたが、ピサロは身を起こし、香炉の側に置いてある鈴を鳴らした。ちりんと涼やかな音が響き渡ると、瞬きをふたつする間に、お呼びでございましょうか、と続きの間からホイミスライムが顔を出す。いくつもの足を動かし、泳ぐようにやってくるホイミスライムはピサロが見下ろすベッドにいるのがユーリルであるのに気付くと、困惑したように動きを止めた。構わずにピサロは告げる。
「清めてやれ」
 ホイミスライムはとても一人では運べないと察し、アームライオンを呼び寄せた。まずは汗などの体液や乳香で汚れた身を綺麗にしなければならないと湯殿へ運ぶように言いつけている。汚れたシーツを剥ぎ、それでユーリルの身体を包んだアームライオンとホイミスライムとがピサロへ一礼して部屋を出てくと、ピサロもベッドから腰を上げる。寝室の奥の湯殿へ向かえば、常にピサロが使えるようにと準備は整えてある。ユーリルが運ばれたのはこことはまた別の湯殿だ。
 湯水で身体を清め、寝室へ戻ればベッドにはシーツがかかり、清潔な状態へ戻されている。そう長く湯殿を使っていたわけでもないだろうに、すでにベッドにはユーリルが横たえられていた。色味の薄い顔は安らかではあるが、裸のそこかしこに散る鬱血は痛々しい。
 ピサロはいまだ煙をくゆらせる香炉から香木を取り出し、火先を折った。しばらく待てば折れた香木は燃え尽き匂いも消えるだろう。魔族の自分には効かぬ香木も、天空人の血を半分継いでいる人間には効くようだ。抗う様子も見せず、ただぐったりとピサロのされるがままになっていたユーリルの痴態を思い出し、ピサロは眉を寄せた。
 部屋に、また赤い光が戻りつつあった。
 雲に隠れていた月が顔を見せ始めていたのだ。
 ピサロは部屋のカーテンをすべて閉め赤い光を遮断すると、ユーリルの眠るベッドに近付き、何ひとつ覆うもののない身に毛布をかけてやる。ベッドの縁に腰を下ろし、薄く開いた唇に手を寄せた。繰り返す呼吸が手の甲に当たる。そのままゆっくりと頬を撫でれば、女でもこうはいかないだろうと思うような細やかな肌理が心地よく手に返る。
 目尻がいくらか赤くなっていた。最中にもひどく泣いていたようだから、跡になるのも当然だろう。
 繁殖期ならロザリーの所へ行けばいい、と言いながら泣いていたのを思い出し、ピサロは目を細める。
 ユーリルのうちにある複雑な感情なら、旅の最中から気付いてはいた。だがユーリル自身がその感情に気付くまではと放っておいたのだ。気付かぬのならば気付かぬままで良い。むしろ、ユーリルの自覚という事柄によって、ユーリルとの関係のみならず、ロザリーとの関係までもがおかしくなることをピサロは案じていたのだ。
 他ならぬユーリルが、ロザリーを大事にしたがっていたからだ。
 彼の幼馴染と同じエルフであるからだろうし、それ以外にも何か考えがあってのことだったのかもしれない。だがピサロは、ユーリルがそう望むのであればと、自らは動かないつもりだった。
 それだと言うのにユーリルは繁殖期にのこのことやってきた。魔族の性質になど明るくはないのだろうと追い返そうとしたら躍起になって食ってかかってくる。そして自覚もなしにロザリーと自分とを比較しては、ロザリーに嫉妬をする。
 愛らしい生き物だ、とピサロは思う。
 複雑で、混沌に満ちていて、理解し難く、また逆に単純で、千年も生きた隠者のような考えを持つかと思えば、五つの子供にも満たない浅考に捕らわれてもいる。興味が尽かない。
 さらりと頬を撫でていたピサロは、身を屈め、額にひとつ、男にしては細い手首にひとつ、くちづけを落とすと、音を立てぬようにと気配を殺し、寝室を後にした。

NEXT <自覚>