答志島いろは

鳥羽の佐田浜から定期船で20分 島の大きさは東京ドームの15個
分人口は3,000人弱 その80%が漁業従事者である
島は「人のみ」受け入れ 車での渡航は出来ない 従って渡航者や
観光客は少ないが その分自然と人情が残っている 住民同士の
強い結びつきが離島の特殊事情を克服して独自の生活様式を生み
出している 
歴史にまつわる島

答志島は九鬼水軍を率いた戦国 時代の武将・九鬼嘉隆(1542-1600)が関ヶ原の戦いに敗れ、この島で切腹した終焉(しゅうえん)の地としても知られている。
波切城主だった嘉隆は永禄年間に織田信長につき北伊勢攻略で戦功を成し、志摩一国を与えられた。長島一向一揆や石山本願寺攻めに加わって活躍、大名に取り立てられた。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、1594年鳥羽城を築き、鳥羽湾を九鬼水軍の本拠地にした。
離島へのアプローチ

鳥羽市佐田浜港から市営定期船に乗り20分で答志島和具港へ到着
風光明媚な和具港へ
答志港

答志島には三つの漁港があるがここは一番大きな答志漁港シラス漁が盛
んで 一家で4〜5艘の船を持っている漁師もいるとか
答志町はタコ漁も盛ん タコ壺がユーモラスに見えました
家が寄り添う路地

二人がやっと通れるくらいの細い路地 これでも立派な町の通り 家が
寄り添って建ち迷路みたいになっているのでよ「そ者」はは入れない
従って鍵は要らないそうです
ここでは犯罪や いじめは なさそうです 昔の下町の風情や人情が
残っていますが 会話はぶっきら棒 みんな仲間なのでそれで当たり前
だそうですが よそ者には怒られているように聞こえました

路地の自家用車「じんじろ」

車が入れない 狭い路地で活躍する手押し車「じんじろ車」 昔 鍛冶屋の
甚次郎さんが考案したので その屋号がそのまま名前になったとか
 
変った風習−1 「まるはち」

答志島を歩くと家や船至るところに黒墨で書かれたマルハチマークを
見かけますが マルハチの八は八幡神社の印で「魔よけ」として書かれ
ている様です
この墨は年に一度の八幡神社大漁祈願祭(旧1月18日)の時に運ばれる
神聖なる墨を男らが奪い合う縁起物の墨だとか
変った風習−2 「寝屋子」

一定年齢に達した男子数名を預かり寝屋親を決め世話をする制度 仕事
食事以外を同じ寝屋で過ごし 生涯義兄弟の縁を結び 冠婚葬祭はもとより
何事にもお互い助け合う この制度は百年以上前から続き 一説では九鬼
水軍の船の漕ぎ手集めに始まると言われている

(S60年市の無形民族文化財に指定された) 
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歴史とロマンを感じる島の旅

答志島

島では冷凍ものは使わない 新鮮な魚介類がてんこ盛りでした