空を行く雲






     
チャイムの音に母さんが玄関へむかう。
俺も慌ててリュックを背負うとその後を追った。

「おはようございます。早朝から押しかけて申し訳ない。」

深々と頭を下げた先生に母さんは頬をかすかに染めた。
長身で2枚目の緒方にかなり度肝を抜いたようだ。

「あっ、いえ こちらこそ。ヒカルがいつもお世話になっています。」

「先生久しぶり。じゃあ母さん行ってくるから。」


緒方の愛車RXー7に乗り込むやいやな車が発進した。

「どうだった。中国は?」

「うん。楽しかったよ。なんだか俺今、手ごたえ感じてる。」

「だろうな。いい面してる。向こうでいい勉強をして来たわけだ。
が・・・反対にアキラくんは寂しそうだったがな。」

「塔矢が?」

「お前がいない間随分な。心ここにあらずと言った感じだったさ。
碁の方は誰も近づけないほどの強さだったけどな。」

「そ そう?」

なんと答えてよいのかわからず俺は曖昧な返事を返した。

「王星との棋譜も見たが、惜しかったな。」

「惜しくないさ。王星さんには歯がたたなかった。」

「そりゃ王星も必死だっただろう。日本のひよっこ留学生にまさか
タイトルを奪われるわけにはいかんからな。だが、お前の実力は
証明されたさ。いずれ俺との公式試合も実現させてくれよ。」

「俺もそのつもりだよ。」

自信に溢れたヒカルの横顔を緒方は眩しくかんじた。




「ところで進藤、残念だがしばらくアキラくんとは会うな。」

「塔矢となんで?」

日本に帰ってきてから1番に塔矢の家に電話した俺だったが
何度かけても留守電だった。
その事を口にすると緒方が小さくため息をついた。

「しらないのか。アキラくんは今芦原の実家にいる。家にファンが
押しかけて大変な目にあったんだ。
本当はセキュリティーのしっかりしたマンション
を借りた方がいいんだがあいにくあいつはまだ未成年だ。親の名で
ないと部屋も借りれん。俺の名で借りてやってもいいんだが、
それはアキラくんが良しとしないしな。」

「そっか。塔矢随分ひどい目にあったんだ。」

「ああ。まあこんな事は長続きはせんさ。もうしばらくの
辛抱だ。せっかく帰ってきて会えんのは寂しいだろうが
我慢するんだな。」





棋院近くまできて緒方先生がいったん車を止めた。

「先生ありがとう。じゃあ俺。」

車から降りようとしたヒカルを緒方が制す。

「待て棋院まで送るといっただろう。」

緒方は後部座席からごそごそと何やら探り出し
小さな袋を取り出した。

「何これ?」

袋の中身は黒っぽいニット帽と同系色のサングラスだった。

「お前の前髪は異常に目立つからな。かぶっとけ。」

「ええ〜こんな季節外れの帽子!?」



「つべこべいうな。追っかけられたいのか。棋院には
警備員のいる裏口から入るように手配してある。
だが、そこだって駐車場からは数十メートルある。」

緒方に怒鳴られてやむなく俺は帽子を深くかぶりサングラスを
かけた。助手席のルームミラーに写った俺はまるで子供が
これから銀行強盗にでも行くのかというほどに不釣合いな
容姿だった。

「これでいい?」

「ああ 上出来だ。」

先生が再び車を動かしだす。

塔矢もこんな事をやってるんだろうか。
想像するとなんだかおかしくてくすりと声が漏れた。

「塔矢のやつもこんな変装してるの?
あいつ髪型あんなだし俺以上に目立つと思うけど。」

「アキラくんは何もしていないさ。
言い出したら聞かんからな。容姿もいいし人当たりもいいから
随分もててるぜ。進藤は気にならんか?」

「ならないよ。ライバルは緒方先生だけだと思ってるから。」

自信たっぷりにそういってのけたヒカルに
緒方は思わず笑いを漏らした。

「俺がライバルとは・・・。随分自信をつけたものだ。
まあ 楽しみにしてるよ。」

棋院の裏口に横付けるように車が止まった。

「対局が終わったら俺のところに電話して来い。」

「先生いいよ。帰りは俺何とかするから。」

方法は何かとありそうだった。
タクシーを拾うとか 走れば何とかなるとか。

「用心に越した事はない。まだお前が日本に帰ってきてるとは
一部のものしか知らないわけだし。たまにはライバルに甘えろ。」

「先生ありがとう。」

裏口には人影もまばらで 俺はそれが単なる先生の危惧だと
思っていた。


だが、裏口から棋院に入る直前ぴかっとカメラのフラッシュがひかり
俺は腕を掴まれていた。

「な・・・いきなり何すんだよ!」

「進藤 ヒカルくんだよね?」

「そうだけど・・・」

俺は掴まれた手を払いのけた。光った方に目を向けると
カメラだけでなくVTRが回っていた。

それはGOGOTV局のものではなかった。

「対局までまだ時間あるよね。取材させて欲しいんだけど。」

「えっとその・・・」

全くどうしてよいのかわからず困り果てているとドスの利いた
声が背中越しからした。

「困るな。取材は棋院を通してしてもらわないと。」

「緒方十段でいらっしゃいますよね。今進藤くんを車で
送っていらっしゃったようですが・・・」

先生は俺の腕を掴むと数メートル先の入り口まで
早足で歩いた。
俺と先生を囲むように周りの取材陣も動く。

「待ってください。お話しを少し聞かせてください。」

扉のところまで来て低い声で緒方が唸った。

「邪魔だ。どけ」っと。

背筋が凍るほどの声にやむなくというぐらいに入り口を
あけた取材人。

だが、俺には先生が神のようにも思える瞬間だった。


棋院に入った途端俺は力が抜けた。

「先生ありがとう。」

「大丈夫だったか?全く大事な手合いの前に・・」

「ちょっと驚いたけど大丈夫だよ。手合いには響かないから。」

「そうだな。」


それだけいうと対局室に駆け出したヒカルの背を緒方は見つめた。

それは何かを待ちきれない子供のように輝いていた。
その背に向かって緒方がつぶやいた。

「早く俺のところまで駆け上がってこい」・・・と。


     
      


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