「ふざけるな!」
自分でも驚くほど荒げた声は震えていた。
ほんの1メートルほどしか離れてはいない君は僕の
瞳を逸らすことなく射抜いていた。
「ふざけてなんてねえ。」
ヒカルが言った言葉に僕の心は打ちのめされていた。
『もうプロは諦める。お前とは同じ道は進まない。』
彼はそういったのだ。
「何故だ。」
今までずっと一緒に歩いてきた。
当たり前のように、それはこれからも続いていくのだと
信じていた。
「この間のコンクールでわかった事がある。俺には
無理だって。努力だけではどうしようもないものが
あるんだって、」
次の瞬間 僕は思いっきり彼の頬をグウで殴っていた。
バタっとヒカルがその場によろめいた。
許せなかった。そんなことを言う彼が・・。
ヒカルのバイオリンも音楽性も僕はこの上なく惹かれていて、
それを彼自身に否定されたようで腹がたったのだ。
この間 僕が優勝を果たしたコンクールで、ヒカルは入賞
どころかノミネートさえされなかった。
だからと言って彼の努力が足りなかったとも劣っていた
とも思わない。
「アキラ 殴って気が済むなら殴ればいい。でも俺もう
決めたんだ。」
そういったヒカルの横顔はプロを諦めると言ったときと同じように
澄んでいた。
それが僕を一層いらだたせ悲しくさせる。
もう君が僕の傍にはいないようで。
僕はその苛立ちをこぶしを強く握る事で抑えた。
「それで君はバイオリンを諦めて何をしようというんだ?」
「俺バイオリン辞めるわけじゃ
ない。バイオリン作りになりたいんだ。」
はっとして僕は彼を見つめた。
ヒカルは2年前からバイオリンを作る工房へ通って
いた。
はじめは僕が誘って二人で出かけたのだ。
僕たちが使っているバイオリンがどうやって作られて
いるのか、歴史や音楽の勉強にもなるからと。
その時は興味も持たなかったように見えたヒカルがその後一人で
練習の合間や息抜きにと工房に通っていたことは
知っていた。
だが、そんなことを考えていたなんて今初めて知ったのだ。
「お前が怒っても仕方ないことだと思ってる。でも急な思いつき
で言ったわけじゃないんだぜ。ずっと・・・考えてたことなんだ。
実はな、もう藤原先生に弟子入りする事も決まってる。」
「藤原先生って ひょっとして佐為工房の?京都じゃないか!!」
「そう、京都なんだ。俺来週から京都にいく。佐為先生の
内弟子になるんだ。」
急な話に僕は絶句する。ヒカルは来週京都へ立つというのか。
「学校は?父にはもう言ったのか?」
「学校は転校。工房で住みこみしながら通わせてもらう。
先生にはもう言ってあるぜ。今年のコンクールが終わったら
弟子を辞めるって。」
「それをお父さんは承諾したのか?」
「ああ。佐為工房の先生に気に入られたんだったら
筋はいいはずだ。やりたい事をやりなさいって。」
佐為工房の藤原先生は日本ではまだ珍しいバイオリン作りの
一人者で。父もこの間のコンサートで名器ストラティウ゛ァリ
を選ばず彼の作ったバイオリンを選んでいた。
僕はそれでもヒカルの選んだ道を素直に喜んでやる
ことは出来ない。
君のバイオリンを愛してたんだ。君と同じぐらい。
耐えられなくなって僕は少し腫れた彼の頬を押さえた。
もう1度殴られると思ったのだろうか・・・
ビクッとヒカルの肩が震えて目を閉じて
その瞬間 僕は彼に唇を落としていた。
それは触れるだけのキス。
ヒカルの瞳が大きく見開いた。
「久しぶりだなお前とキスするの。」
子供の頃よくヒカルとキスをした。
それは頬だったり額だったり、唇だったり・・・
僕からすることもあれば君からされた事もあった。
いつの間にか羞恥心を覚えてお互いしなくなったけれど、でも
僕はずっと君の唇に触れたいと思っていた。
「ヒカル」
もう一度唇が重なる。今度は先ほどよりも長く激しく。
お互いの吐息を交換して・・・
自分の胸に強く彼を押し付けてようやく唇を解放した。
君の早い心臓の音が痛いほど僕を締め付ける。
「君のバイオリンの音が傍にないと僕は・・・僕でなくなって
しまいそうだ。」
ヒカルは腕を解くと音楽室に置いてあったバイオリンのケースを
僕に手渡した。
「アキラ このバイオリンで弾いてよ。」
言われるままにケースから取り出したバイオリンは見た目も
ごくシンプルで何の装飾もとりたててないバイオリンだった。
だが、グリップをつかむとそれは自然と手になじんだ。
僕が選んだ曲は 『カノン』
君とよく弾いた曲だ。
ヒカルがバイオリンを取り出すと1本だった
旋律は2重奏となって音を紡ぎだす。
君の音と僕の音が奏でるメロディーは同じ時間を
歩んだ二人でないと作り出せないハーモニーで
このままいつまでもこの曲が終わって欲しくないとアキラは
願った。
「そのバイオリンどうだった?」
「音が少し甘いけど、弾いていて気持ちよかったよ。」
「そっか。それ俺が初めて作ったバイオリンなんだぜ。」
「君が?」
「そう 正真正銘 俺が作った第1号バイオリン。俺
お前が俺のバイオリンなしでやっていけないなんて
思えないけど よかったらそれもらってよ。俺のかわり。
まだまだお互い技術不足だけどさ、いつかお前が国際コンクール
で優勝を飾る時には俺の作ったバイオリンだといいよな・・・
ほら、夢はでっかい方がいいだろ。」
笑いながらそういったヒカルが言葉を繋げる。
「なあ アキラもう一度だけさ 俺にキスしてくんない。」
「なぜ そんなことをいうんだ。」
ヒカルの表情が曇る。
「嫌だったらいいんだ。」
「嫌だなんていってない。僕がいいたいのはなぜ1度だけ
なんだと聞いてるんだ。」
困ったようにヒカルは俯いた。
「ほんというとさ お前といるとなごり惜しくなっちまうんだ。
甘えって言うか、ずっと傍にいたいって思っちまう。
だから・・・」
ヒカルは思いを振り切るためにキスをして欲しいというのだろうか。
もしそうならこれが最後のキスになど絶対にしたくはない。
僕は彼の手をひいてその身体をきつく抱きしめた。
「すきなんだ君が・・・」
激しいキスの往来にヒカルもアキラも互いに翻弄される。
吐息だけでなく唾液も舌も触れ合って頬を染めた
ヒカルが自ら僕との間に手を置いて唇を離した。
「アキラ ありがとうな。俺さ、お前が初恋だったんだぜ。」
「もうその想いは君にはないのか?」
「さあな。俺にもわかんねえ」
僕の手を揺り解きゆっくりとヒカルが歩き出す。
「アキラ。レッスンではそれ使うなよ。お前の評判落としちまうから。」
二人で奏でたメロディーが遠ざかっていく。
僕はもう1度君のバイオリンに手を伸ばす。
「いつか君の作ったバイオリンで国際コンクールに・・・」
僕と君の夢はいつまでも眠らない。
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