この空の向こうに
(ネット最強)

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塔矢先生との対局日の前日アキラから短いメールがあった。

>君と父との対局楽しみにしてる。

ヒカルは勲に頼んで返信を送った。

>お前と当たる前に負けるわけにいかねえから。

ヒカルもアキラも短いそのやり取りだけで今は十分だった。





対局当日5分前にログインするとすでに2千を超える数の観戦者
が待機していた。
この棋戦中は観戦者のチャットは出来なくなっていて
それは幸いだった。

「すごい数だね、
この観戦者の中には和谷先生や伊角先生それに塔矢
先生もいるんだよね。」

「ああ、そうだろうな」

そんな会話をしてるとtoya koyoが入室した。
いっきに緊張感が高まりヒカルは心を鎮めるため目を閉じ
深呼吸をした。

勲が対局開始をクリックするとヒカルが白だった。

「兄ちゃんが白だ」

開始と共に塔矢先生が1手目から長考してきた。
勲は画面を見入った。

勲もヒカルも固唾をのんで見守る中、塔矢先生がチャットを
送ってきた。

「時間の限られるネット碁でチャットって?」

勲の言い分はもっともだった。

>君は誰だ?saiは進藤ヒカルのハンドルネームだ。
その名を使うに相応しいのだろうな。


先生が貴重な持ち時間を割いて送ったチャットは各地の観戦者に
どよめきが起こった。

しばらくの間があってsaiはkoyoからのチャットを無視するの
だろうと思われた時saiからのメッセージが画面に流れた。

>オレはsaiも進藤ヒカルも背負って今ここにいる。
その覚悟はある。

観戦者の動揺はますます広がった。
研究会でその様子を見ていた和谷がつぶやいた。

「それってまさかこの対局に負けたらsaiは正体を明かすって
事か?」

「いや、saiはそんな事言ってないだろう。」

「だったら覚悟って?」

伊角と和谷の疑問はそのままネット戦観戦者の疑問と好奇
になり、この中継はますます観戦者を増やす。


『ならばその覚悟とやらをみせてもらおう。』

行洋は盤面を前に一喝した後一手目を放った。
それは『静なる動』だった。



一進一退を繰り返した。
ヨセに入り、互いの持ち時間もなくなり1手30秒になる。
読み上げ10秒前にkoyoが放った石は逸機だった。
その隙を見逃さなかった。
ノータイムでsaiが放り込んだ石から盤面に輝きが広がる。

碁盤に石を置いた伊角が呻いた。

「この石・・・。」

「難しいな、難しすぎてわかんねえよ」

「いや、すごくいい場所じゃないか?」

頭を抱える和谷に伊角は胸が震えるのを覚えた。

「これを返せるのか?」

koyoの30秒のカウントが点滅する。
時間切れ直前に『投了』が画面に流れた。





勲は胸を撫で下ろしてヒカルを見た。
ヒカルは放心したようにまだ盤面をじっと見つめた。
koyoの投了の後しばらくの間があってチャットが届いた。

>いい碁だった。君と対局出来てよかった。
流石に『彼らを』背負っているということだけはあった。

「オレも先生と対局できてよかったです。」

画面にそうつぶやいたヒカルに勲が聞いた。

「兄ちゃん、チャットの返事は?」

ヒカルはただ首を横に振った。
勝者が敗者に掛ける言葉なんてない。

ヒカルは初めから用意されている
『ありがとうございました』を送信して盤面を閉じた。




アキラから電話があったのはその夜だった。
勲は自室の子機を取った。

「塔矢先生?」

「ああ勲くん、今大丈夫かな?」

「はい、っていうかこの間はすみませんでした。
電話取った場所が悪くて兄ちゃんにつなげなくて、」

「いや、いいんだ。」

アキラはやはりそうだったのかと思った。と同時に
そのおかげでヒカルと直接話すことも出来たのだと思った。

「ちょっと待ってくださいね。」

勲はそう言うと電話をスピーカーホンに切り替えた。

「これで塔矢先生の声兄ちゃんにも聞こえるから、」

「ありがとう。」

勲のこういう気遣いがアキラは嬉しかった。

「父との対局みたよ。良い碁だった。」

『お前がオレの碁を褒めるなんてな。』

勲がすかさずヒカルの言葉をアキラに伝えた。
アキラは受話器越しに苦笑した。

「辛口でも僕は君の碁を認めてるよ。」
それよりあの対局の後に父から電話があったんだ。」

『先生今中国にいるんじゃないのか?』

「国際電話だ。それでsaiに思い当たる人はいない
のか?と聞かれたんだ。」

『緒方先生みたいにお前のネット成績を不審に思ったんじゃね
えのか?』

「いや、そういうわけじゃなかったみたいだけど、
もちろん知らないと言ったよ。」

そう言ってアキラは言葉を切った。

「進藤、僕はこの先棋戦が進めばそうそう誤魔化せるとは
思えないんだ。」

『だからオレにこの棋戦を降りろって?』

「そんな事は言わない・・・が僕には君が
急いている気がして仕方ないんだ。」

リスクを冒しても出場しなければならない棋戦だったろうか?と。
アキラは思う。
そしてあの頃のヒカルに今のヒカルがどうしても重なってしまう
のだ。
生き急ぐように、駆けのぼり一人逝ってしまったヒカルを・・・。

ヒカルは小さく溜息をついた。

『お前のただの不安だろ?』

「本当に僕のただの杞憂なのか?君には時間があるのだろ?」


そう問われた瞬間ヒカルの表情が崩れた。

今ヒカルは確実に自分の存在が希薄になったのを感じたのだ。
今まで漠然と感じていたものとはそれは明らかに違っていた。

アキラに返事を返さないヒカルに勲は困って兄の顔を見上げた。
それと同時に急に胸騒ぎを覚えた。

『兄ちゃん?!』

「どうかしたの勲くん?」

「先生ごめん、兄ちゃん返事ないんだ。」

「進藤はそこにいるの?」

「すぐそばにいます。でも
あの・・・塔矢先生が今言ったことって・・・。」

勲を心配させたことをアキラは悔いた。もっと言い方があった
かもしれない。ひょっとしたらヒカルもそれで怒ったのかも
しれなかった。

「勲くんにまで心配かけるような事を言ってすまなかった。
でももしお兄さんのことで
気になることがあったらどんな些細なことでもいいんだ。
すぐに連絡くれないかな?」

「オレ先生にしか兄ちゃんの事相談できないし直ぐ連絡
します。」


物言わぬヒカルを勲はもう1度見た。だがヒカルはもう背
を向けていてその表情さえ読めなかった。

「進藤、君を止めるのは僕だ。未練を断ち切らせたりしない。」

背中越しでもアキラの叫びはヒカルに響いた。

アキラと対局するまでこの身が持つのか・・・。
それは今のヒカルにもわからなかった。
     
    
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