ひかる茜雲


                            33




      
     
長屋に戻ったヒカルに美津子は驚きで顔を覆った。

「ヒカル、ひょっとして緒方様の屋敷から暇を出されたんじゃ」

「そうだけど」

美津子は顔をくしゃくしゃにさせた。

「あんたって子は・・・何をしたんだい」

そう言って泣きながら迎えた美津子にヒカルは苦笑した。
美津子はヒカルが屋敷から追い出されて帰ってきたと思ったらしかった。

「違う、違う、オレ今度緒方様の国に駿河について行く事になったんだ」

「小物のヒカルが?」

「オレ緒方様の小姓になったんだ」

「小姓だって?」

隣りのおばさんが顔を出す。小さな長屋では会話なんて筒抜けだ。

「ヒカルくんすごい出世じゃないか、小姓なら禄だけじゃなく、石ももらえるんじゃな
いのかい?」

「あはは、そんなのもっと出世して名を上げないと無理だって」

「名を上げるなんてそんなのいいのよ」

美津子はヒカルを人前だと言うのにぎゅっと抱きしめた。
美津子はヒカルの出世などどうでもいいようだった。
それより元気で帰ってきた事の方がずっと大切な事だったのだ。

そして本当はヒカルがお屋敷勤めなんか辞めて帰ってくることを望んでいたの
だろうと思う。
ヒカルは今自分が改めて生きている事に感謝している。
当たり前なんかじゃない。


「ただいま、お母さん」

「おかえりなさい、ヒカル」









明日はお屋敷に戻らないといけないという日にヒカルは兼ねてから佐為の屋敷
に行こうと思っていた。

「駿河に行く前に佐為に挨拶に行ってくる」

「ヒカルがお世話になったのよね。母さんも一緒に行った方がいい?」

ヒカルは慌てた。余計な事を母が知ってしまうかもしれなかったからだ。
両親にこれ以上煩わしい心配をさせたくなかった。

「いいよ、いいよ。照れ臭いし。それに碁も打つから遅くなるって」

「そう?わかったわ」

美津子に見送られ佐為の屋敷にヒカルが着いたのは昼前だった。
およそ2か月ぶりの佐為の屋敷だ。
その間にヒカルの起こった出来事は大きすぎて、この門をくぐるのを
躊躇う程だった。

そこをくぐれば子供たちの声が聞こえて、佐為がいて、アキラが
いて、その中にヒカルがいて。

当たり前だったあの日が蘇ってきて、胸が疼く。

アキラはいないだろうが、伊角や和谷はいるはずだ。
ヒカルが屋敷の門をくぐると佐為の側用人がすぐヒカルの元に掛け付けてきた。

「ヒカル様!?」

「ご無沙汰してます。あの佐為は今日はいる?」

門番は奇妙に顔をしかめ、ヒカルから視線を逸らした。

「ヒカル様、ご存じないのですか?」

「えっとアキラとのお城碁は明後日だって・・?」

「・・・。」

側用人は躊躇するように口をつぐみ、だが思い立ったようにヒカルに告げた。

「佐為様は八百長の疑いを掛けられて明後日のお城碁まで碁所に幽閉されて
おります」

「な、なんだって、だってアキラと打つんだって・・・」

佐為に棋譜を見せて貰う約束をしたのは今月の始めだった。
その時は佐為は何もそんな事を言ってなかった。

「このお城碁で負ければ佐為様は自害を決意されてます」

「自害・・。」

絶句するヒカルにもっと恐ろしい真実が側用人から告げられる。

「それは・・・アキラ殿もです」

「アキラもって、アキラも負けたら自害するって事なのか?!」

側用人は静かにそれに頷き、ヒカルは目の前が真っ暗になったような気がした。
明後日のお城碁の勝敗でどちらかが死ぬ。
考えただけでも発狂してしまいそうだった。
ヒカルには何が何だかわからなかった。

「どうして、どうしてそんな事に!!」

側用人は口を押え頭を小さく振った。

「ヒカル様、ここには時々碁所の役人が来ます。どうか今日はお帰り下さい」

側用人の視線に気づきヒカルは門の外を振り返った。
確かに遠目だが、ちらちらとこちらを伺っているものがいた。

「あっ・・・」

何か言おうとして口を閉じた。
佐為が八百長なんてありえない。でもどうしてそれでアキラと佐為が命を
懸けて対局する事になったのかヒカルにはわからなかった。



「ヒカル様・・・」

側用人はヒカルに文をそっと手渡した。
その手は震えていた。

「どうか今は袂に・・・」

言われるままに袂に入れると、側用人は微笑んだ。
いや笑った演技をしただけだとヒカルはすぐにわかったが。

「緒方様に今回の件どうかご助力頂いたことよろしくお伝えください。
もしわが主の疑いが晴れましたら、駿河にもお礼に伺います」

側用人は丁寧にお辞儀し、ヒカルは追われるよう外に出た。

ヒカルの目の前に道はなかった。昼間だと言うのに真っ暗で何をどう歩いたのか
わからず足が勝手に進んでいた。

「こら坊主何してる!!」

ぼうっと歩いていたらお侍にぶつかりそうになった。

「ご、ごめんなさい」

ヒカルは反射的に謝り脇へと体を寄せた。
緒方の先日の譫言はこの事だったのかもしれないとヒカルは過る。

緒方が『この件で助力した』と側用人は言っていた。屋敷の者はきっと皆
知っていたのだ。

「どうしてこんな事に・・・。」

ヒカルは側用人から貰った文の事を思い出し懐から取り出した。
そこには住処が書かれているだけであったが。

ヒカルにはそれが誰の家なのかすぐにわかった。
きっとアキラだ。

屋敷のある千駄谷はまではここからだと結構な距離がある。
だがどんなに距離が遠かろうともヒカルはアキラに会おうと決意する。
今会わなければ、ヒカルは後悔してしまう。

決心すると真っ暗だった道端に色が戻り始める。

「行こう」

自分を勇気づけるように声を出し一歩一歩を噛みしめ前を向いた。

まだ佐為もアキラも生きてる。
ならば自分にも出来る事がきっとあるはずだ。



                                      34話へ

                         
         



新橋と千駄谷の距離を実はよくわかってない(汗)
次回はラストまで書き終えてからUPしようと思ってます。今週中には完結させます!!




目次へ

ブログへ