月光交響曲

19話東京へ)







晃の初めての大会の日、お母さんが来てくれると期待していた晃はヒカルが仕事と聞いて項垂れた。
そんな晃にヒカルは苦笑した。

「母さんが行くまでは頑張ってくれよ」

「お母さん来てくれるの?」

「仕事さっさと終わらせないとな」

「うん」

それだけの会話なのに晃の顔は明るくなる。



晃は自宅が見えなくなる角で振り返るとそこにまだ見送る
ヒカルがいた。いったん立ち止まり、美津子の手をほどく。
大きく手を振るとお母さんも振ってくれた。
そうして、ようやく納得して美津子の手を握った。

「母さん今日来てくれるかな」

「大丈夫、きっと来るわよ」

晃にとって初めての大会だ。今からドキドキとわくわくで胸が高鳴っていた。

「みっちゃん、お母さんも大会に出たことあるの?」

美津子は苦笑した。

「ヒカルは中学生の時に2回ぐらいでたかしら」

「それだけ?」

「囲碁を始めたのも小学校6年だったし」

「母さん強いのに?」

「そうね。ヒカルは強いわね」

晃は高い空を仰ぐ。

「僕母さんより強くなれるかな」

「晃は本当にヒカルと囲碁が好きなのね」

「うん、僕母さん大好き!!囲碁も大好き!!」

純粋な晃の想いをヒカルに聞かせてやりたいと美津子は思う。。

「そうね、晃はきっとヒカルより強くなるわ」






ヒカルが自宅を出たのは昼過ぎだった。
思った以上に参加人数が少なく美津子から最後の対局と連絡があって慌てて来たのだ。

普段仕事では着ないワンピースに女性らしい髪型にするためウィッグまで重ねた。
これだと進藤ヒカルだとすぐにはわからないだろう。

自分の対局よりもずっとずっと胸が高鳴る。それは感じたことのない緊張だった。
会場で対局していたのはすでに一組だけで、そこには小さな輪
が出来ていた。

晃と対局していた相手は小学生にしては大きく見えた。
晃と向かい合うと親子ぐらいの体格差がありそうだった。

美津子が会場に入ったヒカルに気づき、歩み寄る。

「決勝戦なのよ」

「ああ」

「でも私じゃちっともわからないし」

ここからではヒカルもよく見えなかった。
自分の対局よりも遥かにドキドキと胸がなり、心臓を抑え
ぎりぎり入れるところまで歩き輪の中の見渡せない盤面を見る。

晃は戦っていた。その小さな体で、盤面の生きを必死に探していた。

「晃お前・・・」

晃は負けていた。ヒカルは胸に熱い思いがこみ上げてくる。
心の中で必死に叫ぶ、『がんばれ!!がんばれ』と。
何度も、何度も、何度も

そうして数十手が進み、晃は項垂れた。
もう勝ちがないと判断したのだろう。

小さな声で、それでも『ありません』と言った声を、ヒカルはどこかで確かに聞いた記憶があった。。

石を片付け立ち上がった晃と目が合う。

「母さん・・・」

「よく頑張ったな」

晃の瞳から大きな涙がぽろぽろと零れ落ちる。

「母さん」

もういいだろうとヒカルが対局場に足を入れると晃の方からヒカルにしがみついてきた。
ヒカルはしゃがみこみその背をぎゅっと抱きしめた。
号泣する晃に本当にまだ子供なんだな、とヒカルは少しほっともする。

「悔しかったか?」

「うん」

「そっか、負け碁は糧になるんだぜ。負けて悔しい思いが自分を強くするんだ。だから今の気持ち忘れるなよ」

「うん」

ヒカルのスカートから離れない晃に苦笑すると対局者や周りを取り囲んでいた観戦者から拍手が沸き起こった。
ヒカルは小さくお辞儀した。
対局者だった少年が晃の元までくる。

「5歳って本当ですか?」

まだヒカルにしがみついたままの晃に苦笑してヒカルが頷いた。

「ああ、本当だ」

「オレ、昨年全国大会で3位だから。でも来年は中学だし、きっと彼なら来年は代表に なると思います。楽しみです」

彼はしっかりとヒカルを晃を見てそう言った。

「ありがとう、晃、対局者が敬意を払ってくれたんだぞ。いつまでも泣いてないでお前も顔を上げろ」

ようやく顔を上げた、晃の顔はくしゃくしゃで可愛い顔は台無しだった。
それにヒカルのワンピースはすっかり晃の涙で濡れてしわくちゃっでヒカルはそれに苦笑した。

優勝した少年が晃に手を差し出した。一瞬迷った晃だったがその手を握り返えす。
手をつないで表彰式へと向かう二人にひと際大きな拍手が上がる。
少年の母親がヒカルの元に来た。

「あの・・・失礼ですが、プロ棋士の進藤ヒカル先生ですよね?先生のお子さんですか?」

ヒカルは『はい』とだけ言って頷いた。

「強いはずですね。プロを目指しているのですか?」

「それはあいつ次第だから」

ヒカルは表彰式に臨む晃を見る。拍手はますます大きくなり、審査委員長から『先が楽しみですね』と表彰状が手渡される。

晃は迷うことなくその道を選ぶのだろう。
それがたとえ険しい道でも、




帰り道、ヒカルは晃の手をつなぎ、さりげなさを装いながら聞いた。

「晃、お前はプロ棋士になりたいと思ったことはあるか?」

「あるよ。僕ずっとプロ棋士になりたいと思ってるもん」

真っ白な迷いのない返事に羨望さえヒカルは覚える。

「そっか、晃お前小学校に上がる来年、母さんと一緒に東京に来るか?」

「東京に住むの?」

ヒカルは晃にいつか東京に戻るだろうと話していた。

「どうしてもこっちだと囲碁の勉強できないだろ?」

それを聞いていた美津子が困ったように言う。

「ヒカルあんた一人じゃ大変なんじゃ」

「母さんと、父さんが戻ってくるまで、じいちゃんとばあちゃん宅に
世話になるかもだな・・。オレも忙しくなってきたし。
プロの先生に弟子入りを考えてもいいころかもしれないな」

「弟子入りって、あんた晃を誰かに預けるの?」

美津子ははっきり言わなかったが、ヒカルが師をすればいいだろうと言いたいようだった。。

「弟子入りって言っても今すぐじゃないぜ。小学校上がってからだし。それに今は内弟子やってる人なんてほとんどないから」

美津子とヒカルの会話を聞いていた晃が、居てもたってもいられないように言った。

「僕プロの先生に弟子入りして学びたい」

「母さん一人思い当たる先生がいるんだけど、聞いてや
ろうか?」

「誰?」

「塔矢行洋先生だ」

「お母さんが一番強いって言ってた先生!!」

美津子は「えっ?!」と驚いたようだったが、それは内心で留めておいてくれた。
ヒカルは美津子の前でこの話をしたのは失敗だったかな、と思いつつ話を続けた。

「ああ、そうだ」

「でも・・・」

晃は少しもじもじして足の歩を緩めた。

「どうかしたのか?」

「・・・くれた先生がいる」

躊躇した晃の声は小さくて聞こえなかったが言いたいことはわかった。


「弟子入りしないかって声を掛けられたのか?」

「うん、」

「伊角先生か?和谷先生か?」

「ううん」

晃は少し言いずらそうに首を振った。
ヒカルは『はて?』と思う。思いつかなかったが、晃は教室で他にもプロの先生にお世話になっていた。

「言ってみろ、聞いてやるから」

「あの・・・」

晃は蚊が鳴くような声で『緒方名人』とつぶやいた。
予想だにしなかった名前にヒカルは心の中で盛大にため息を吐いた。

「晃、お前緒方名人と話したことあるのか?」

「一度だけ、そのごめんなさい」

「どうして謝るんだ」

「だって、その・・・」

「あの人は本当に油断も隙もないな」

ヒカルは心の中だった吐息を言葉に漏らしていた。
緒方は晃がヒカルの子だと、アキラの子だと知っていて声を掛けてきたのだろう。
今更考えてみてもしょうがない事だったが、大体いつから知っていたのだろうか?
いつ晃に接触したのか?

「それで、晃は緒方先生の事どう思ってるんだ?」

「よくわからない。でも強い先生の弟子になれるのは嬉しい」

ヒカルは晃の子供らしい返事に笑った。

「そうか、その緒方先生の師が塔矢先生なんだけどな」

「そうなの?」

「ああ、だから緒方先生の事はあまり考えなくていいと思うぜ?
もし晃が塔矢先生の弟子になるなら。緒方先生とは兄弟弟子
になるわけだしな」

「でも僕の事、塔矢名誉名人弟子にしてくれるかな?」

「それは母さんもこれからだからわからないけどな」

一旦会話の切れた二人に美津子がため息を吐く。

「ヒカルも晃も本当に囲碁の事ばかりね」

美津子は二人の話をずっと心配そうに聞いていた。
今まで母さんと、父さんにはめいいっぱい迷惑かけ通しなのだ。
ヒカルだってその自覚ぐらいある。

「ごめん、母さんオレやっぱり東京に戻りたいんだ」

「みっちゃん、ごめんなさい。僕も母さんも東京行ったら寂
しい?」

「ヒカルだけじゃなく、晃にまで謝られたらみっちゃん何も言えないわよ」

美津子は泣き笑うような表情をした。

「ああ、それにまだ1年近くあるしな。ひょっとしたら父さんがまた東京に戻るかもだよな」

「うん、それまでにもっと強くなって僕全国大会に出場する」

「そうだな」

まもなく家が見える所まで来て、晃は嬉しそうにヒカルの腕を解き走り出す。

「おい晃、鍵かかってるぞ」

そういっても晃は『平気!!』と走る。
ヒカルは苦笑して、小走りで追いかけた。

まるで二人その時が待ちきれないとばかりだった。



20話へ












碁部屋へ


ブログへ