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院長コラム

糖尿病について

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藤原道長
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1.「コロナ糖尿病」の危惧

新型コロナウイルス感染症の流行により、外出を控えて自宅にこもる、いわゆる「巣ごもり」状態の人がふえてきた。そのため、食べすぎでカロリー過多の上に運動不足が重なり、カロリーの消費がこれまでよりも不十分なために肥満となり、コロナ肥満という言葉まで生まれるまでになった。そして、巣ごもりの期間が長くなるにつれ事態は深刻化し、肥満どころか、糖尿病を発症したり、糖尿病を悪化させたりする人がふえてきた。コロナ肥満からコロナ糖尿病へと事態の悪化が危惧されるようになってきたのである。

最近になって、普段は血糖コントロールが良好なのに、急に高い血糖値を示す人が多くなってきた。高カロリー食の過食や運動不足以外にも、巣ごもりのストレスによる酒の飲み過ぎなど、原因はいろいろ考えられるが、巣ごもり状態が糖尿病の発症や悪化の引き金になっていることは否定できないだろう。新型コロナによって日常生活を滅茶苦茶にされることは多々あるが、生活習慣病の発症にまで影響を及ぼすとは、憂うべき現象である。

2.昔もあった疫病との戦い

しかし、歴史を振り返ると、このような未曽有の感染症のために外部との接触を絶って引きこもる、という事態はこれが初めてではないのだ。遠く平安時代にもあった。そして、感染症のために人生を狂わされた人が多くいた。その中には糖尿病の人もいたのである。

その感染症とは痘瘡(天然痘)である。当時は「皰瘡」(もがさ)と呼ばれていた。三十年周期で流行していたと伝えられている。そして、その皰瘡(痘瘡)に翻弄された糖尿病の人物とは、
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の
かけたることもなしと思へば」
という歌で有名な、平安時代に空前絶後の権勢を誇った藤原道長である。

3.藤原道長と糖尿病

日本における糖尿病の詳しい記述は、一〇〇〇年頃に活躍した平安時代の貴族、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』(しょうゆうき)が最初だと言われている。そして、その日記に糖尿病の諸症状を持った人物として記されているのが、藤原道長なのだ。
1994年、一枚の記念切手が発行された。第15回国際糖尿病会議開催を記念したものである。その切手には、一人の貴族と糖尿病の治療薬であるインスリンの結晶が描かれている。そこに描かれた人物こそ、平安時代に摂関政治の最盛期を築き、わが世の春を謳歌した藤原道長だ。この切手により「世界のMICHINAGA」として、また糖尿病の代名詞的人物として記憶されることになったのである。

4.疫病による大被害

道長の時代の皰瘡の流行について、『栄花物語』には、
「世の中にもがさといふもの出で来て、よもやまの人上下病みののしるに」
と書かれている。身分の上下や貴賤を問わず多くの人の間で皰瘡が流行したのだ。995年の夏に大流行した。そのため、多くの貴族が死去した。納言以上の高官で死去した貴族は八人にものぼった。
「古今ニ未ダ有ラズ」(『扶桑略記』)
と言うように、古今未曽有の出来事だったのである。悲惨な出来事であった。ところが、これが道長にとっては幸いをもたらしたのだから、世の中は分からない。

5.疫病に打ち勝つ

道長の兄である関白・藤原道隆の死後、その息子・伊周(これちか)と道長の間で、道隆の後継を巡って権力闘争が起こった。叔父と甥の骨肉の争いである。しかし、この争いで道長は手を汚すことなく勝利できたのだ。道長にとっては天の配剤、いや、病の配剤だったのである。
関白・藤原道隆の亡くなった長徳元年の皰瘡の大流行により、道隆と親しかった藤原済時以外にも、源重信、藤原道兼、源保光、藤原道頼など錚々たる重臣たちが一挙に亡くなってしまったのだ。道隆と親しく伊周の力になれる人や、序列が道長よりも上の人が多くいたのだが、それらの人々が一挙に亡くなってしまったのである。『大鏡』には、
「それもただこの入道殿(道長)の御幸ひの、上をきはめたまふにこそ侍るめれ」
と、この上もない道長の幸運であったと書かれている。また、続けて、
「かの殿ばら、次第のままにひさしく保ちたまはましかば、いとかくしもやはおはしまさまし」
とある。つまり、これら亡くなった人々が順序通り長生きしていたら、道長の栄達もなかったであろうというのだ。後の武士の時代になると、戦いに勝つことにより栄達の道は開けるが、平和な時代では、しかも貴族社会ではそのような事は望めなかった。名門貴族がひしめいている中では、年功序列による昇進をひたすら我慢強く待つしかなかったのだ。ところが、道長にとって、権力を握る上で目の上の瘤とも言えるライバルたちを、疫病が除いてくれるという思わぬ結果となった。まさにこの上ない「入道殿の御幸ひ」であった。
しかし、考えてみると、定期的に疫病が大流行する当時のことであれば、疫病をくぐり抜けて生き延びることは、後の時代の武将たちが戦いに負けずに生き延びるのと同じくらい大変なことだったのである。病気との戦いは貴族たちにとって、地位を守るための戦いだったとも言えるだろう。感染をさけるため、道長は周囲との接触を絶って我慢強く自宅にこもっていたと考えられる。しかし、そのために、糖尿病を発症、または悪化させたことは十分に考えられる。道長三十歳のことだ。
道長に比べて運が無かったのは、道隆の息子・伊周だ。頼りの父・道隆は亡くなるは、その友人たちで伊周を助けてくれたかもしれない人々も亡くなるは、まさに泣き面に蜂で、道長との権力闘争に敗れ去ってしまったのだ。

6.糖尿病の家系

道長の兄の道隆は『栄花物語』の中で、
「水をのみきこしめし、いみじふ細らせ給ひ」
と書かれている。水を飲み、どんどんやせて行く病気、後に飲水病と言われるようになった。糖尿病である。そして、四三歳という若さで亡くなってしまった。娘の定子は一条天皇の皇后となっていた。『枕草子』の作者・清少納言が仕えた理知的な中宮定子として有名だ。また、道長の伯父の伊尹(これまさ)も『栄花物語』で、
「水をのみきこしめせど、御年もまだいと若うおはしまし」
と書かれているように、糖尿病のために四九歳で亡くなった。このように、道長の家系には糖尿病の人が多く、道長自身も糖尿病であった。糖尿病の発症には、遺伝的素因と環境的素因が関係する。しかし、道長は糖尿病の種々の合併症に苦しみながらも、当時の貴族の平均寿命と言われる六十歳をこえて、何とか六二歳まで生きることができたのである。
道長の兄・道隆の一族が没落したのは、道隆の早死にが原因だが、早死にしたことには原因があった。酒である。『大鏡』には道隆の死因は、
「御酒のみだれさせたまひにしなり」
と書かれている。「酒のみだれ」つまり、酒の飲み過ぎだと言うのだ。大酒は糖尿病を重症化させる重要な原因であるが、『大鏡』の筆者には死因そのものに思われたのである。
コロナ禍でストレスもたまり酒量もふえている人も多いだろう。しかし、糖尿病には過度の摂食、運動不足とともに、過度の飲酒にも注意が必要なのである。コロナは去っても糖尿病が残ったでは、一生悔やまれることになる。

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源頼朝
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1.源頼朝と飲水病

2022年の大河ドラマがスタートしましたが、やはり時代劇が最高ですね。衣装のきらびやかさもさることながら、全知全能をふりしぼってサバイバル競争に勝ち抜く姿にしびれます。藤原道長の時代の後、藤原宗忠の日記『中右記』の寛治八年(一〇九四年)の項に、
「藤原朝臣師信卒去(中略)是年来之飲水病」
とあるように、糖尿病のことを「飲水病」と称するようになるのだが、道長の時代には
「酒のみだれ」病と思われていた。源頼朝もこの「飲水病」に悩まされていたのだ。
鎌倉時代の公家・近衛家実の日記『猪隈(いのくま)関白記』には、頼朝の病に関して、
「前右大将頼朝公依飲水重病去十一日出家」
と書かれている。飲水病はこの頃には「飲水」と略されるようにもなっていた。頼朝は糖尿病が持病だったのである。

2.源頼朝の謎の死

鎌倉幕府の初代将軍として日本史上でもキー・パーソンの一人である源頼朝だが、有名な割にはその死は謎に包まれている。頼朝の死は、予期せぬ急なものであった。しかも、鎌倉幕府の事蹟を記した、幕府の準公式記録とも言える『吾妻鏡』(あずまかがみ)に、頼朝の死に至るまでの経過を記した部分が欠落しているのだ。『吾妻鏡』は、後に鎌倉幕府を源氏から奪い取った北条氏に不利なことは書かないので、頼朝の死の記述は北条氏にとって不利なために欠落させたという疑惑が強い。そのようなこともあり、頼朝の死は謎が謎を呼んでいるのである。
しかし、頼朝の死に関して客観的な事実だけを抽出すれば、単純なものだ。頼朝は、一一九八年十二月二七日、稲毛重成が亡き妻の追悼のために造った橋の供養の式典に出席した。そして、その帰路に落馬し、翌年一月十三日に死去したのである。五三歳であった。

3.落馬は原因か結果か

病気のために落馬して、その病気が重症化して死に至ったのか、それとも落馬による身体的ダメージにより死に至ったのか。つまり、落馬が死の原因だったのか、結果だったのかということになる。糖尿病の合併症として致命的なものに脳梗塞や心筋梗塞がある。それらの発作により落馬し、その後にそれらの病気が悪化したとも考えられるし、落馬後の身体的ダメージにより死に至ったとも考えられる。しかし、ここで重要なのが、落馬後死に至るまで十六日間あったということだ。脳梗塞にしても心筋梗塞にしても、発作後死に至るまでの期間が長すぎるのだ。
すると、落馬後のダメージが死の原因だと
いうことになる。落馬後の外傷によるものであろうか。しかし、ここでも頭部や内臓損傷による死にしては、死までの期間が長すぎるのだ。では外傷が骨折などを伴うほどのひどいものではなく、皮膚の挫傷程度の軽いものであったらどうであろう。汚染された土から皮膚損傷部に細菌が感染して敗血症を起こしたとしたら。糖尿病の場合、感染症に対して抵抗力が低下するので、そういうことも考えられる。しかし、その場合は十六日間というのは、逆に短すぎるのである。

4.慢性硬膜下血腫

すると振り出しに戻ってしまうのだが、そこで思いつくのが慢性硬膜下血腫という病気だ。これは、瘤ができるかできないかくらいの軽い頭部打撲後、三週間から六週間ほど経ってから、頭痛や手足のマヒ、認知症などを発症し、呼吸停止を起こして死に至る特殊な病気だ。普通であれば、頭部打撲後数日で頭痛も治まるのだが、慢性硬膜下血腫の場合は逆で、打撲後十日ほどしてから頭痛が強まってくるのである。高齢者の場合は直接頭部を打撲しなくても、転倒したり強く尻もちをついたりして、頭部に強い衝撃が加わって発症することもある。また、本人が頭部を打撲したという意識がない場合もある。
このように、慢性硬膜下血腫は、骨折を伴うような強い頭部打撲後数日以内に死に至るような、普通の人がイメージする頭部外傷とは違って、頭痛などを発症するまでの数週間は全く外見上も正常なのである。それが突然死に至るのだから、頭部打撲があったことを知らなければ、周囲の人には何が何だか分からない場合があるのだ。
落馬後もそれほど重症に見えない頼朝が急に頭痛や嘔吐を繰り返し、突然死に至ったのだから、周りの人々、特に北条氏は驚いたことであろう。そのような不審な死は、当時であれば毒殺を連想させるものであった。真っ先に疑われるのは北条氏であったので、『吾妻鏡』に、頼朝の死に至る経過を残せなかったのは当然であった。
慢性硬膜下血腫の治療は、脳神経外科の手術の中では比較的単純だ。頭蓋骨に穴を開けて、脳を圧迫している液状化した血腫を吸引除去するのである。現代であれば、このような治療法があるので救命が可能だが、頼朝の時代では待っているのは死しかなかったのだ。

慢性硬膜下血腫は比較的高齢者に多いのだが、中年でもよく見られたのは、軽い自動車事故でシートベルトをしていなかったために、ステアリング・ホイールで頭を打って発症した例である。現代の落馬とも言えるかもしれない。軽い頭部打撲後、二週間しても頭痛が続くようであれば、慢性硬膜下血腫を疑いCTなどの検査を受けた方が良いだろう。

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