The 1st story 美琴と柚愛《その1》

イノーの明かりに照らされて、露草は綺麗に映えていた。
ベンチは光沢を帯びたかのように輝いていて、そこに、一人の女性が座っていた。
彼女の名前は、戸宮 美琴。
群生する露草や、宇宙(そら)高くにあるイノーの見せる美しさとは、また一味違った美しさをもって、そこにいた。
「もう、そろそろかな……」
空高くにあるイノーを眺めながら、そう言った。
彼女が、膝に置いた手を僅かに移動させたその時、彼女の背後にある湖面が微かに揺れた。
でも、彼女はそんなことには気がつきはしなかった。
相変わらずイノーを眺めて、時折、疲れとはまた違う溜息を出すだけだった。
いよいよこの時が来た。
宇壱柚愛はそう思っていた。
そして、自らの立てた決心に自分を奮い立たせていた。
彼女は、湖面の上を何も音を立てずに、静かに移動してる。
水面は僅かに揺れ、それは風のせいかとも思わせるほどだった。
しかしそれは、彼女が水面を歩いた、その痕跡……。
二人の距離はゆっくりと、だが確実に、縮まっていた。
風は僅かに吹き、二人の間を抜け、二人の髪を微かに揺らした。
美琴は、ベンチに座り、ある人を待っていた。
柚愛は、湖面を歩き、ある人を目指していた。
目的は違えど、在る場所は同じだった。
二人の距離が、美琴が背伸びをすれば届くというほど迫った時、柚愛は突如としてその場から消えた。
しかし、あたりには静寂が漂い、美琴は先ほどと同じように輝くイノーを眺めていた。
寸秒経って、微かな風に露草が揺れた時、美琴の前に、柚愛はいた。
その存在に気づいて、僅かに驚いた美琴が、彼女の顔を見る。
そこには僅かな愛惜と悲しみの念が浮かんでいた。
「やっと、逢えた」
柚愛は、その瞳に美琴を映してそう呟いた。
「あなたは、誰……?」
怯えともとれる震えを含めたその声は小さかったが、柚愛の耳に届くには十分だった。
そして、彼女の決心をより強固たるものにするためにも。
「記憶を消す魔法?だとしても、結果は同じこと……」
柚愛はそう呟いて、美琴に軽く手を翳(かざ)した。
そして、小さな声で聞き慣れない言葉を紡ぐ……。
一方の美琴は、それに対して、本能的な危機感を感じてはいたのに、何故か体が動かなかった。
それは、金縛りにでもあったかのようで、眼球に乾燥を感じても、瞬(またた)くことさえできなかった。
それから、何かが自分の中から抜けていく感覚と共に、不思議な呪文が体の中を通過していく感覚があった、ような気がしていた。
その感覚はどこか懐かしいものであったのにも関わらず、それが一体何なのか、彼女は微塵も思いだすことができなかった。
ただ、今は、名も知れぬ突如目の前に現われた黒装束の為すがまま、抵抗したい意思はあるのに、それを行使することができなかったのだった。
そうして、しばらく時が経った。
柚愛は未だ不思議な呪文を唱え続けていたが、美琴はそれがもうすぐ終わるのだと核心めいたことを感じていた。
公園には人通りがなく、ただ遠くで気紛れな鳥の鳴き声が響いていた。
空高くあるイノーは、不思議なくらいに明るく輝いていた……。
その公園を散歩する、一つの人影があった。
彼──宇壱未徠は、夜風に当たるためにこの時間帯に散歩をすることが日課になっていた。
今日も、いつもと同じコースを辿り、いつもと同じ時間に自らの家へと帰る予定だった。
しかし……、今日は何か不穏な気配を感じていた。
それと同時に、少し懐かしいような雰囲気も漂っていて、彼はその方へと歩いていった。
それは、導かれたというよりも、少しばかり興味があったからだった。
公園の外れには、一本の大きな木が立っていて、その周囲にはベンチがあった。
そこに、二人の人影を見つけた彼は、自らに魔法をかける。
対象を隠す魔法、ハイド
何となく気配から分かっている、二人のうち一人はあの美琴さんだろう、と。
しかし、もう一方は……。
彼は、隠れたまま彼らにゆっくりと近づいていく。
そして、月明かりでようやく顔が認識できる距離まで来て、彼はやっと気がついた。
そこにいるのがあの柚愛で、彼女が美琴に対してある呪文を今、唱え終えたことに。
延々と呪文を唱え続ける柚愛に、隠れて近づいている彼の姿は当然映っていなかった。
ただ、その呪文を唱えることに集中していると共に、自らの前で硬直している彼女に、昔日の日々を重ねていた。
夜風が吹くと共に、鳥が鳴き声を放った時、彼女はようやくその呪文を唱え終えた。
それと共に、柚愛には急激な疲れが襲い、彼女は少し足をふらつかせてしまっていた。
一方の美琴は、束縛するものがなくなったために、隠れていた未徠に向けて倒れた。
瞬時、それに気がついた未徠は、なんとか倒れ掛かってきた彼女を支え、ベンチへと寝かせることに成功した。
もっとも、柚愛はその行為にはまったく気がついていなかった。
彼女には、相当の疲労と共に、過度の達成感があったからだった。
「柚愛!美琴さんに一体何を!?」
その突然の発声に柚愛はたじろぎ、そして声の主の居場所を求めた。
未徠は自らにかけた魔法であるハイドを解き、彼女に正体を明かす。
「……未徠。同じ町にいるとは、聞いていたけれど……、こんなにも早く、遭えるとは、思ってなかった……」
彼女は、息遣い荒く、肩で呼吸しながら、突如現われた未徠に向かってそう言った。
「ああ、こっちもだ。お前がそんなに早く、美琴さんのところに来るとは思いにもよらなかった」
「美琴……か。探すのには、苦労したけど……、彼女に、やっと……、ラブレスの魔法を、かけることができた……。これでもう、何も憂うことはない……」
未徠には、空を見上げて達成感に満ちた声でそう言う彼女が、どこか淋しげな笑みを浮かべているように見えていた。
それと同時に、彼女の言った魔法に対して、ある男の顔が浮かんできていた。
ラブレス……、あの魔法は、お前の……」
柚愛は、そう言いかけた未徠を制して、
「言われなくても、分かってる。それを承知で、やったのだから」
「お前、何故そこまでして、美琴さんを……」
「そんなこと、未徠の知る由もない。教えるような義理もない」
彼女はそう冷たく言い放って、軽く跳んだかと思えば、その姿を夜の闇へと暗ましたのだった。
「また、面倒な魔法を……」
未徠はそう呟いて、ベンチに寝る──正確には気を失っている美琴を、自らと共に、転位の魔法であるトランスディーティへと飛ばしたのだった。

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