こもれび:デージー
そこは未開の場所だった。辺りがどういう環境か、どんな道があるのか、どんな出会いがあるのか。もっとも、私にとって、という意味だけど。 自動車に揺られてやってきたその場所は、気さくな大家さんが切り盛りしている小さなアパートだった。数日前に渡された鍵を手に、その建物の入口へと向かう。入戸に小さな花壇があって、そこではデージーの色とりどりな花が咲いていた。その綺麗さに大家さんの手間の掛けようを感じてほっとする。 玄関を開けて中に入ると隣に靴箱があって、正面には開けた空間がある。曰く、共有スペースなのだそうだ。大きめの円卓の周りに幾つかの椅子があって、それを取り囲むように本棚がある。名作と言われるような小説や漫画が置いてあって、それらは恐らくいつでも読めるようにしてあるのだろう。その部屋の壁の一つはダイニングキッチンのようになっていて、隣にあるキッチンと繋がっている。つまり、食堂も兼ねているということだった。 下段から上がって古きを思い起こすような黒い板張りの廊下へと歩を進める。右手には二部屋と上の階へと続くやや広い階段、左手には短い廊下の先に一部屋があって、二階には共有スペースや台所がない代わりにもう一部屋あるらしい。お風呂とトイレは一階、二階それぞれ階段の側にある。私の部屋はその二階の一番奥だった。 階段を登って鍵を使ってその部屋のドアを開ける。大家さんが住み込みとはいえ、こういうところはちゃんと区別されているらしい。大家さんは掛けない人が多いから困るとか漏らしていたけれども、それはここの環境がそれだけいいということなのだろう。部屋は八畳間で奥に窓がある。それがちょうど東側にあって朝に陽の光が入ってくるのだろう。そんなまだ何も無い部屋はやけに広く感じた。 自動車の荷台から渡された荷物を前に抱えて運ぶ。一度たどった道のりを前の見えないまま歩いてゆく。荷物の隙間から見える足元の様子を伺いながら一歩ずつ。 玄関を上がって右へ折れ、向かい合った二部屋の前を通り過ぎる。中から灯りがもれていて、人の気配があった。階段の前へと差し掛かる手前、急に部屋の中から大きな物音がして思わず振り返る。何事かと思ってみるも中から人が出てくる様子もないので歩を進める。 「わっ! びっくりした……」 前から大きな声と踏み鳴らすような足音がして荷物の右脇に人の姿がちらついた。手に持つ荷物を少し左へずらして前の様子を伺うと、そこから私より幾らか背の高いさっぱりした顔の男の人が顔を覗かせた。 「もしかして、君が今日から奥の部屋に入るっていう子?」 彼は小首を傾げながら尋ねる。 「そうですけど……、って、あの」 急に軽くなったかと思えば、彼が私の持った荷物を持ち上げていたのだった。 「そうか。大家さんが可愛い子が来るって言っていたけど、本当だったんだね」 「ええっ、そんなことないですよ! ってそうじゃなくて!」 本当に大家さんがそんなことを言ったのだろうかと疑いながら否定して、手に重みのないことをはっと思い出す。 「これは僕が運んでおくから。君は次の荷物を取ってこればいいよ」 そう言って階段を登ってゆく。私はその後ろ姿をしばらく呆然と眺め、はっと我に返る。 驚かせてしまったのは恐らく突然階段の前に出たからだろうと思うけど、それにしても下の階へ降りてきたのは何か用事があったからなのではないだろうか。 そんなことを思って次の荷物を取りに行こうと踵を返すと、右側の部屋のドアが開いてショートカットの小柄な女の人が出てきた。 「うん? 見ない顔だね。誰かの友達?」 「あの、今日上の奥の部屋に越してきた鈴川美波です」 そういえばさっき会った人には名乗ってなかったなと思い出す。荷物を持って帰ってきたときにまた会うのだろうけど。 「美波ちゃんね。私はここに住んでる美月友里、よろしくね」 言いながら彼女はさっき出てきた部屋を指す。 「こちらこそ、よろしくお願いします」 話しぶりからして先輩なんだろうか。見た目私より幾らか若く見えるけれど。 「うん。それで美波ちゃんは何学部なの?」 「教育学部です」 「お、奇遇だね。私もそうなんだ。もし何かあったら遠慮なく訊いてね」 先輩はにこにこしていた。同じ学部の後輩に会えて嬉しいらしい。 「ありがとうございます」 「あれ? まだここにいたんだ」 そんな声がして振り向くと、後ろにはさっきの男の人がいた。 「私としばらく話していたからね」 と、美月さんが後ろから言う。 「そうか。そういえば名前訊いてなかったね。僕は久保達実っていうんだけど、君は?」 「鈴川美波です」 「鈴川さんか。よろしく!」 彼はそう言って右手を差し出す。私は同じように右手を出してその手を握る。それは大きくて私の手を包みこむかのようだった。 「こちらこそ」 「さて、まだ引越しの途中だろう? よければ手伝うよ」 「私も! 私も!」 ここはどうやらそんなほっとできる暖かい場所のようだった。 「これで全部みたいね」 お母さんは自動車の後部座席と荷台を見渡してから自動車の後ろを閉めた。中には潰されたダンボールと空になったボックスだけがある。 「うん」 「また必要なものがあったら何でも言ってね」 自動車の運転席に乗り込み窓だけを開けて、 「それじゃ、頑張ってね」 「じゃあ、また」 それだけを交わして私はお母さんを見送った。いや、見送られたのは私の方か。 去って行く自動車の後ろをもの寂しく眺めて、それが見えなくなった頃合いにようやくアパートの方へと振り返った。そこにはいつの間にか美月先輩がにこにこしながら立っていた。 「美波ちゃん、真(しん)さんが呼んでたよ」 美月先輩が私に駆け寄りながらそう声掛ける。多分待っていてくれたのだろう。 「真さんって?」 聞き慣れない名前をアパートの入口へと戻りながら尋ねる。 「ああ、うちの大家さんね。西川真治さんだから、真さんってみんな呼んでるの。というか、真さんにそう呼んでくれって言われたんだけどね」 「あの大家さんらしいですね」 「でしょ? まあみんながみんなそう呼んでるってわけでもないけどね」 美月先輩は言ってはははと苦笑いしている。 「そうだ、もしよかったら中の片付けも手伝おうか?」 「流石にそこまでしてもらうは悪いですよ」 「いいって遠慮しないで。どうせ暇だから。それに、美波ちゃんとは話したいことも山ほどあるし」 玄関を上がりながらそんな話をする。 「手伝って貰えるなら助かりますけど」 「うん。じゃあ、真さんの用が済んだら声を掛けてね」 先輩はそう言って自分の部屋の方へと戻っていった。 真さんの部屋はアパートの入口から向かって左側の一番奥の部屋、ちょうど私の部屋の下にある。それは、うるさくすれば直接大家さんの部屋に響くことを意味するわけで……。 ちなみにここは比較的オープンな環境で、外から友人を呼ぶのも自由らしい。当然ある程度節度は持たなければいけないけれど。その辺りのことも含めての自由ということだろう。 私は綺麗に整った共有スペースを一見して真さんの部屋へと向かう。ここも真さんの手が行き届いているのだろう。 角の部屋の前に立ってそのドアを軽くノックする。返事があって少ししてから物音がしたかと思うとドアが開いた。 「おっ、来たね。まずはシキザクラにようこそ」 後ろ手でドアを閉めて廊下に出て来た、このにこにこと笑っている臥体のいい兄さんが真さんだ。見た目二十代後半くらいで大家さんとしては若いだろう。一般的には現役を退いた人がしていることが多いにも関わらず真さんがどうして大家さんをしているのかは疑問ではある。 「今日からよろしくお願いします」 「おう。まああんまり気張らずに気楽にしてくれていいからね。僕もここに住んでいるから結構顔も合わすだろうし」 「はい」 「それで、明日もう一人新しい人が来るから、その日の夜に二人の歓迎会をしようと思うのだけど、大丈夫?」 新しい人がもう一人……? 「あ、はい」 「ここは予定がない限り夕ご飯はみんなで食べるってことになってるんだけど、今晩は軽く自己紹介程度ということで、よろしく」 「はい」 「それじゃあ、また夜に」 真さんはそれだけ言って私が返事する間もなく部屋へと戻っていった。ちょうど忙しいときなのだろうか。 それにしても、もう一人新しい人が来るというのは、この時期だから同い年ということだろうか。院生という可能性もあるけれど。 ともかく、今午後四時くらいで夕ご飯までは幾らか時間があった。その間に幾らか部屋の片付けを済ませておきたいと思い、美月先輩の部屋の戸を叩く。 「はーい」 中から気の良い声がしてどたどたと音がする。それと共にビニールや金物の音がするのは気のせいだろうか。 目の前のドアが開いたかと思うと、先輩は人が通れるぎりぎりくらいに留めて隙間を狭々と抜けてきた。 「それじゃあ行こう」 「……えっと」 先輩の背は私より低い。つまり何が言いたいかと言うと、その背丈を越えて部屋の中の様子が見えたわけで。 「それじゃあ、行こう」 「あの、先輩?」 「……何かな?」 「あとで先輩の部屋も綺麗にしませんか?」 それに少しだけ間があって、 「そうしてもらえると嬉しいかな」 先輩は小さい声を漏らして階段を登って行く。その後を私が追う。ちょうどこのくらいが同じ高さらしい。 「時々思い立ったように部屋の片付けをするんだけど、いつの間にか元に戻っちゃうんだよね……」 俯き加減でそう言う先輩は何故か可愛く見えた。 部屋に置かれたダンボールを粗方片付け、プラスチックケースの中に幾らかの小物が残っているものと幾つか買い揃えるものがあることを除いて、おおよそ部屋の片付けが済んだ頃。 先輩とは部屋を片付けながら、私が前に住んでいた場所──つまり実家のことや、中学校や高校がどんなところであったのか、どういう部活をしていたのか、先輩自身がどうだったのか、それからこれから生活の中心になる大学がどういうところなのか、どういうサークルがあって、どういう人がいて、どういう講義があるのか、そんな話をしていた。 先輩は中学校や高校でバドミントン部に所属していたそうだ。一方大学ではテニス部にいるらしい。曰く、他の種目もしてみたいということだったが、似通った種目なのは今もバドミントンに思い入れがあるからなのだろうか。 ちょうど一息ついた時に六時前でそろそろ夕ご飯の時間だった。私と先輩は作業を切り上げて共有スペースへと行くことにした。結局先輩の部屋の掃除は夕食後になりそうだ。 先輩の部屋の前を抜けて円卓のある共有スペースへと抜ける。そこには大家さんこと真さんと、久保先輩、それからもう一人男の人。 「すーくんとはもう会った?」 美月先輩の言うすーくんとは恐らくあの男の人のことだろう。座高で言えば久保先輩より幾分か高く痩身で、髪は少し茶色味がかっている。ゆるくではあるが、染めてあるみたいだ。 「俺とは、初めてだね」 と、すーくん≠ェ言う。それにしても美月先輩はすーくん≠セなんてやけに親しげに呼ぶものだ。 「俺は、堀越進。文学部で英語学を勉強していて、次で三年だな」 受けて、私も自己紹介をする。 「よろしくな。あと、一応断っておくけど、ゆりちゃんとは幼馴染で……、とはいえ、小学校のときに引っ越して以来、ここに入るまで会ってはいなかったんだけどな」 それにしても、それはまた奇遇な話だ。 「うん。手紙のやり取りはしてたんだけど、たまたま同じ大学だったんだ」 「というわけで、付き合ってるとかそういうのじゃないから」 大学に行ってもそうやって呼び合う仲でいながら本当にそうなのだろうか? しかし、ここで深く聞いても仕方ないか。 「ところで、お二人は何年生ですか?」 と、気になっていたことを美月先輩と久保先輩に尋ねる。 「そういえば言ってなかったね、私もすーくんと同じ三年生だよ」 つまり、二人は私の二つ上ということか。 「ああ、僕は工学部で化学やってて、鈴川さんの一つ上の二年だよ」 なるほど。美月先輩の方が年上だったのか。 「あと、今日は忙しいらしくていないけど、白山さんっていう工学部の院生の子がいる。それで全員かな」 真さんは言って頷く。 「そして、明日もう一人……」 これで七人。それがここのメンバー。 その七人で一年目が始まる──。 |
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