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<丸岡城> 2006.01.19更新








丸岡城の天守閣。古城という
風格があります。









2005.05 写す。

 今までにJRや北陸自動車道で丸岡を通るときに、小高い丘にこぢんまりとした城を車窓から眺めて、一度行ってみたいと、かねがね思っていました。
  この丸岡城は栞によると、現存する天守閣では最も古いそうですが、犬山城が最古の天守閣てあるという話を聞いたことがあります。まぁ、どちらも古いんでしょうが、この城と犬山城は外観に共通した部分があるようにおもいます。天守に高欄をめぐらせた望楼式というか、その構造など同時代の築城なんでしょう。この城の屋根は「笏谷石」というこの地方特産の石で、越前石ともいわれる石瓦で葺かれた珍しい造りです。
 この城も犬山城と同様に国宝に指定されていたが、惜しくも1948年の福井大地震で倒壊し、1955年の再建後に重要文化財に指定替えされたとはいえ、近世初頭の築城様式を今に伝えている歴史的な遺産ですね。城はどこも、その街のシンボルであり、観光資源でもあります。この丸岡城は2層3階の小さな城ですが、遠くから眺めると小高い丘に立つ天守は、丸岡町のシンボルに相応しい姿です。
 丸岡城は1575年、今から470年前に柴田勝豊の築城といわれています。江戸期には本多3代、有馬8代と続き維新となりますが、本多家は3代目のときにお家騒動で除封されています。また有馬家は本来、外様でありながら寺社奉行、若年寄など幕政の要職にかかわり、8代有馬道純は幕末に老中に補せられるなど、異例の扱いが目をひくが内憂外患、多事多難の幕末には譜代、外様を問わず、優れた人材の登用が必要だったんでしょうね。








丸岡城の天守から眺めた丸岡藩5万石の城下町。(本多在封時はは4万3000石)









2005.05 写す。

<上の写真>
 天守閣内部の様子。荒削りの柱、窓も少なく薄暗い。戦闘本位の
 雰囲気を感じます。

2005.05 写す。
<下の写真>
 笏谷石で造られた鯱瓦。福井大地震で倒壊し破損したもの
で比較的柔らかそうで加工しやすくみえます。笏谷石とは聞
きなじみのない名前で、調べてみたが明快な答えが見つから
なかった。この地方に産出する凝灰岩の一種で、越前石とも
いわれるそうです。
 天守の屋根もこの石瓦で葺かれているが、普通の瓦の4.5
倍の重量になると聞いたことがあります。

2005.05 写す。


  南西から見た天守。
2005.05 写す。


 南東から見た天守。
2005.05 写す。






もう15.6年にもなりますか、「日本一
短い手紙」募集で、新聞、TVでも報じ
られ話題となったり、「短い手紙」の募
集に寄せられた手紙を本にまとめて刊
行されたりで、全国区で公認された丸
岡町に、その記念碑があります
   「一筆啓上 火の用心
       お仙泣かすな 馬肥やせ」。
これは、丸岡藩初代藩主本多成重の
父、重次が戦場から妻宛に書き送った
手紙で「お仙」は成重のことで、幼名を
「仙千代」といったそうです。
この手紙は、小学校で習ったような消
えかかった記憶がありますが、その記
憶も曖昧で、わたしは足軽か、雑兵が
家族にあてた手紙と思っていましたが、
家康の信任厚い本多作左衛門重次の
書簡と知り。当時の足軽や雑兵には、
この文はとても無理だと納得した次第。

2005.05 写す。


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