上場の履歴書

これは第1回目の会報から連載されている読み物です。

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第1章
第1部
  昭和25年4月26日、これが俺の誕生日。
生まれたのは大阪市西淀川区、阪神電車の「姫島駅」のとこですわ。ウチのオヤジ(もう死んでもたけど)は阪神電鉄の社員、要は『鉄道員』ですわ。なかなかの男前で制服制帽がよお似合ってたナー。
上原謙(ケンはどのケンやったかなー)に似てると言われてたなー。上原謙って知ってまっか?
 あの加山雄三のオヤジですわ。ところが俺は母親似でオヤジほどの男前には生まれへんかった。
そやけど母親もマアマアのベッピンでっせ。家はかなりの貧乏やったような記憶があるなー。
まああの頃は日本中貧乏やったんちゃうかなー?あんまりええ服着てなかった様な気がする。
どっかの家の二階を間借りしてましたなー。小学校1年の頃までそこに住んでたけど、その家の1階の玄関で、下校して来てトイレに間に合わずウンコちびった記憶があるなー。
ヒヨコ買ってきて近所の猫に食われて泣いたこともあったなー。
ほんであの頃の子供てなんであない赤切れやらシモヤケができたんかなー?栄養状態が悪いんか、不潔やったんか、今時の子供にはほとんど見ーへんなー。鼻もよー垂らしてたなー。 何や汚い話ばっかりになってきたな。もう止めよ。ファンの数へるわ。 
小学校1年生の後半に家の都合で甲子園に引越しです。甲子園の海の近くに阪神電鉄の社宅があって、そこに住み始めました。小学校は今津小学校です。一番最初に『へっ?』と思たんわ、『おいや!』という言葉。西淀川区では使わん言葉やったなー。『昨日、阪神勝ったなー』ゆうたら、『おいや!逆転勝ちや!』ってな具合ですわ。オヤジが阪神電鉄の社員なもんやから、阪神タイガース応援せな、どつかれるもんな。しゃーけど記憶に残ってるのは、長島や王や柴田やねんけどなー。家にテレビがなかった頃やから、よう、近所の家へテレビ見に行ったわ。スーパーマンやってたなー。もちろん白黒ですわ。
 小学生の間は、音楽に関しては何にもなし。6年生の時に鼓笛隊に入って小太鼓叩いた事はあるけど、それは今ジャズドラム叩いてる事とはあんまり関係ないと思う。  
第2部
 さて家にテレビが来て、小学生のころに最初に好きになった女優さんは松原智恵子さんやったなー。確か『山のかなたに』ってゆうドラマ番組があって、相手役の津川雅彦さんと二人とも学校の先生同士やった。あの潤んだ瞳が堪らんかったなー。
その後の歌謡番組でオンチやとわかった時はショックやったー。
 小学生の頃の音楽に対しての思い出って言うのはあんまり無いなー。例の鼓笛隊に入ってた言うぐらいで、ラジオとかに凝ってた事も無い。唯一つだけ強力に脳裏に焼きついてる事はあります。

ある日近所の友達ばかり集まって、カクレンボをしたことがあって、近くの野原にまだ防空壕の残骸が残ってた。たまたまそこに隠れたんやけど、地下に下る階段を下りて中に入るともう真っ暗。何の音も聞こえない。幽霊でも出てきそうなくらい怖い。その時、水滴が水溜りに落ちる音が聞こえてきた。
「ピチョーーーーンッ」中はコンクリート壁で出来てるのか、すごい残響効果。静寂の中でその水音だけが、異常に長い余韻を作っている。しばらくそれを聞いていたが、今度は自分でポンッと手を叩いてみた。「ポーーンッ、ポーーンッ、ポーーンッ、」おおっ、すごい!
今度はそのポーンのこだまが無くなる前に「パシーン」という音を入れてみる。
「ポーン、ポーン、パシーン、ポパシーン、パンポーーン」おおおーっ!なんとすごい世界じゃーっ!
石を拾って床を叩いてみた。「コーーンッ、コーーンッ、コーーンッ」ぬおおおーっ!カッコええ音じゃーっ!足で床を踏んでみる。『ドゥーーンッ、ドゥーーンッ、ドゥーーンッ」ああーっ!もうたまらん!
床をゆっくりとしたテンポで踏み鳴らし、右手の親指と人差し指で石を持ち、合間に手でパシーンって音を出してみる。
『ドゥーーンッ、コキーーン・・・・・・ドゥーーンッ、ドゥーーンッ、コキーーン、パァーン・・・・・ドゥーーンッ、コパパーーン、ドゥーーンッ』

 『まーっちゃん見つけ!』『えっ!なんでここに居るのんわかったん?』
【第3部
 いよいよ中学生です。
甲子園に住んでたので、学校は今津中学校。そう、あの吹奏楽部日本一のクラブがあるとこです。
当然音楽の先生は、あの有名な得津たけし先生。でも俺は吹奏楽部には入ってないのです。なぜかというとあの頃はまだ自分で何がやりたいか、判らなかったし、スパルタ式の練習について行けるかどうか自信もなかったしね。そりゃーすごい練習量でっせ!朝、登校するともうとっくに、あちこちでプカプカドンドン音がするし、夜遅くまでアンサンブル聞こえてるしね。
結局やりたいことしようと思って、遊んでばっかし、町内会の野球チームに入ってライト守ってました。中学生の後半は、友達同士で鉄棒に懲り出しまして、当時「飛行とび」とか言うのが流行りだし(前方回転から手を離し、後方1回転して着地するやつ)、そればっかしやってたら、今度は大車輪が出来るようになり、あっという間に逆車輪も出来るようになり、器械体操にのめりこんでいきます。
 そして市立西宮高校入学と同時に、体操部に入部してしまうんですよねー。
身体は柔らかいし、運動神経もそこそこやし、いけるかなーと思ったんですけど、腕力が足らんかった。吊り輪で沈没ですわ。
この沈没があるから、今の俺がある。ベンチャーズさんと加山雄三さんに出会うんですよねー。エレキ少年へまっしぐらです。
【第4部】

 エレキ少年になった俺は、ベンチャーズ、加山雄三、寺内タケシ、はたまたグループサウンズ、フォークグループと、のめり込んで行きます。高校一年生、当然、恋もします。市立西宮高校は阪神香櫨園駅を降りて、夙川堤みを海の方へ下って行きます。この夙川堤みと、海とが、恋の舞台になるんですなー。登下校の、朝と夕方の日が暮れるまで、風が、木々が、花々が、海の輝きが、夜空の星が、全てが俺の為にあるんですなー。ギターを弾きながら『ふたりを〜ゆーうやみがぁ〜、つーつむー、こーの窓辺に〜』ってなもんですわ。(カミさんには内緒やけど)。『夜空を仰いで』『旅人よ』、ワイルドワンズの『思い出の渚』、あ〜っ、泣けてくるな〜。

 この頃にエレキバンドを組みます。バンドの名前はバルチャーズ(Vultures)、この時のドラムスが、後々まで俺に影響を与える、あの、村上“ポン太”秀一ですわ。メンバーはサイドギター・伊藤公一、ベースは吉田正憲。ある日の朝、この4人が登校する時、誰からともなく、『おい、学校サボって、練習しようやー!』ってな事になりました。俺とポン太はクラスが違うんですが、学校の先生が、『上場とポン太が、同時に休んでる?ちょっとおかしい!調べてみよう。』って事になり。家に連絡が入って、あっさりバレました。

それで文化祭出場停止ですわ。何の為にサボってまで練習したか、意味あれへん!

 そうそう、思い出した。この頃高校生やし、お金ないしエレキギターもギターアンプもなかなか手に入れられへんかったなー。バイトしてお金が貯まるまでの間、西宮戎商店街の中にある、新響楽器店へ学校の帰り、毎日寄って、ショーケースの中のエレキギター眺めてたなー。

 そうこうして、ギターは手に入れたけど、今度はアンプが無い。近所の兄ちゃんが、古いステレオからスピーカーはずして、増幅装置とヴォリュームのつまみを付けてくれて、それで家で鳴らしてた。ところが入れ物の箱がないので、外には持っていけない。困ってたら、親戚のおじいちゃん(大工さん)が、『正俊、わしが作ったろか?』って言ってくれた。『うん!おじいちゃん頼むわ!』数日後スピーカーとかを、入れたモノが届いた。(もちろん、おじいちゃんは、エレキバンドが、どんなにカッコいいものかは知らない。)モノを見ると、まるで鳥の巣箱。四角い木の箱にポッカリと丸い穴が空いているだけの物やった。取っ手も付いてないので、風呂敷に包んで運ばなしゃーない。肩にエレキギター、手には風呂敷包み。カッコ、えーのんか、悪いのんか、ようわからん高校生やった。でも、おじいちゃん、ありがとー!

【第5部】

 高校1年でエレキギターを始めて、恋だの、体操部だの、エレキバンドだの、受験勉強だの、あっという間に3年間が過ぎていきます。気が付けば高校卒業。大学受験は失敗。浪人生ですわ!
親父に相談して、予備校に通わせてもらい、三宮の
YMCAに入ります。春夏と遊び呆けてました。三宮のパチンコ屋通い。朝YMCAに行くと、先生が来る前に、黒板に昨日よく出たパチンコ台の番号が書いてある。それをメモに書きとめ、パチンコ屋へすっ飛んでいく。今思えばアホやったな〜。
 ところがさすが上場君!『このままではイカン!』と、突然勉強を始めます。よお勉強したな〜。殆ど寝ずに片っ端から、試験問題集を片付けていきました。次の春には関学
3学部、立命1学部に合格し、関学の英米文学部を選びました。

 ちょっとここで浪人時代の話に戻ります。この時代、親友のポン太(日本を代表するドラマー、村上ポンタ秀一の事です)はすでにドラマーとしてプロ入りしてました。ポン太とは、しょっちゅう逢ってたんですが、ある日、ポン太の家でジャズトランペッターのマイルス・デイヴィスのレコード(当時はLP)《Four & More》というのを聞きました。
 当時の僕はジャズなんか聞いた事も無い青年で、拍子の
1,2,3,4の、この音楽ではどこが《1》なのか、全く判らんかった。ちょっと難しい曲で《So What》という曲などです。そのどこが1,2,3,4かも判らんのに何かこうゾクゾクしてくるものがそこにあったんです。『ウワァー!絶対、俺、ジャズドラマーになろっ!』と思ったのはこの時です。

 これが僕とジャズの出逢いです。そのレコードのドラマーは、Anthony Williams、通称、トニー・ウイリアムスです。だから今でも1960年代のトニーは大好きです。トニー・タニーとちゃいまっせ!
Miles In Berlin》《My Funny Valentine》《Four & More》この辺のレコードは聞きまくりました。
 そして、そして、関学入学と同時に、軽音楽部に入るわけです。軽音楽部の話は次回にして、とりあえず、ゼミの話。 高校生のときは英語が嫌いで苦手で、成績もあまり良くなかったんですが、受験勉強でその苦手の英語をやってると、いつの間にか好きになってきてしまいました。それで英米文学を選んだんですが、大失敗!なんとゼミに出席してみると、男は
2人だけで、後20人くらいは、みな女!違和感と化粧品の匂いに圧倒されて、殆どやる気なし。学部は軽音楽部、クラブは文学部という状態でした


【第6部】
   ゼミが、そんな状況でしたので、授業は殆ど出ずに、軽音の部室にばっかり居ました。それでも一応、単位は取るようには努力したんですよ。第2外国語はフランス語。これはフランスとスイスへ行った時、ちょっとは役に立ちました(ほんのちょっとですヨ)。

まあとにかく、ドラムというものに真っ向から取り組みだしたのはこの時からです。朝、関学の正門は通らずに、いきなり部室のある学生会館の方へ向かいます。先輩がドラムセットを使っていない時を狙って練習しに行くのです。誰かがドラムを使っていたら、部室の外へ出てゴムの練習台でパコパコ、トコトコ、やってました。軽音楽部では結構硬派で、人の3倍くらいは練習してましたね。よく他のあまり練習しない連中と、『練習量が、足らんのとちゃうのん!』ってもめてました。

当たり前ですけど、他の人は好きで、趣味で、軽音に入ったのに、こちとらはもう最初から、『日本一になってやる!』ってな意気込みですから、話が合いません。1年間猛練習して、プロの道へ首を突っ込みました。ここで我が人生の転換期を迎えるわけですが、今思うと笑い話の様な事を御紹介しましょう。

場所は大阪北区の北新地、『花の北新地』ですわ。ドラムスを探してるバンドがあると、人に聞いて、そのナイトクラブを訪ねていきました。当時の僕は、まだボサノバのリズムもまともに叩けないレベルでしたが、採用されて毎夜そこで叩くようになりました。店の名前は『Rose Room』。

プロになろうか、どうしようか悩んでいた時期でしたが、あっさり決断がついたのにはそれなりの理由があります。大学2回生の僕は、当時二十歳くらいでしょう。まだ綺麗なお姉ちゃんなんか見たこともない世代ですわ。それがその店に夕方行くと、お客さんが来る前だからと、ミニスカートのお姉さま方が、逆立ち競争してるんですわ。わかります?そのときの俺の顔。『世の中、こんなええ世界があるんやー!』『なに?好きなドラム叩いて、お金くれる?それもそこら辺の学生のバイト料の数倍はある。』これぞ俺の為にあるような世界じゃ〜!
   綺麗なお姉ちゃんが『上場ちゃん!飲みに行く?』『行きますとも、行きますとも』

これが人生の失敗ですわ。落ち着いて考えてみると、社会保険はない、ボーナスはない。ギャラは上がらん、身分は低い(ミュージシャンちゃいまっせ、バンドマンでっせ)。

『ああ〜、しもた事した〜』

 

【第7部】

   大学1年でプロ入り。聞こえはエエけど、酔っ払ったオッサンの歌の伴奏はあるわ、ホステスのネ〜チャンの歌伴はあるわ、ジャズなんか出来るの、1日のうち2〜3曲です。

   当時はカラオケというものが無かったので、客がナイトクラブで歌うのは全部、生バンドの伴奏です。しゃ〜から殆ど全てのクラブにバンドが入ってました。上手い下手はともかく、仕事はなんぼでも有りました。

   俺みたいなへたくそでも、休憩時間に又別のクラブへ演奏に行くんです。これ『モチカケ』と言います。『掛け持ち』のバンド用語です。クラブの通常の営業が、12時頃終わって、その後もう1件行く仕事も有りました。それは『ナイト』と呼ばれておりました。1日3件の仕事をする、すごい人も居てました。大学2年生で、日曜日以外は毎夜そのクラブで演奏するわけです。学校は遅刻だらけ、休みだらけ、単位も早々取れるモンではありません。まして一番上手くなりたい頃ですし、猛練習と言うのはこの時の事だとはっきり言い切れます。

   お店の鍵をお借りして、朝起きたらすぐに店に行ってドラムの練習を始めます。店に迷惑を掛けたくないので、冷暖房は使いません。灯かりも最小限に絞ってほぼ真っ暗の中でドラムを叩きっぱなしです。気が付いたらお見せのチーフが出勤してきて『よお頑張るな〜!』と、いっつもコーヒーをおごってもらってました。今でもこのチーフは覚えております、目尾さんて方で、優しくてイイ方でした。今どうしてらっしゃるのかなあ。

   朝から五時間やって、店に人が来出したら、今度は屋上へ行きます。屋上のドラム練習台で、また仕事が始まるまで練習。夜の7時くらいから演奏が始まって、休憩時間はまた練習台でトコトコ、トコトコ。バンドマスターも『そこまでやったら、お前絶対うまなるわ』と、あきれてました。深夜オネーチャンと飲みに行った後は、家へ帰って、レコードのコピーをします。うまくなる為の出来る限りの事はやったと言う時期でした。

【第8部】

   北新地の『Rose Room』でアホほど練習して、約2年位はそこで御世話になりました。

   大学に通いながら、そのうち関学の先輩ベーシスト前田徹さん、京大のピアニスト酒井君、立命大のテナーサックス小梶君の4人でバンドを組みました。結構4人で他の大学の文化祭に出演したりして、大きい顔してました。『ワシらは上手い』ってなもんです。

  ところがです!!ここからエライ人に出くわします。あのベーシスト宮本直介様です。

  ある日突然、自宅に電話が掛かってきます。(どうやらピアノの酒井君の紹介らしい。)

  『もしもし、ベースの宮本直介っちゅうもんやけど、あんたドラム上手いねんて?』(どう返事したらエエねん!)『今、うちのバンドのドラム探してんねんけど、1回オーディション兼ねて叩きにけーへんか?』『はい、行きます!』『ほな、甲子園の駅に車で迎えに行くから、待っといて。俺の顔わかるか?』『はい、わかります。』という事で甲子園の駅前で待ってました。なんと!バカでかい外国の車が横付けされ、バカでかい顔の直さんが現れました。テナーサックスの後藤剛さんの自宅へ連れて行かれ、あれやこれや練習して、一応バンドに入れてもらえることになりました。ここまでは良かった!

  宮本直介クインテットでライブハウスに出演するようになってからは、もうボロボロ!

  プロの世界の厳しさはここから始まるのでした。

  『スイングせんのー!』『その、盆と正月みたいなフィルイン、なんとかならんか!』(注:「盆と正月のフィルイン」とは、4小節・8小節単位で決まったようにオカズを入れる事)

  『走る!』(注:「走る」とは出たテンポより早くなってしまう事)『だるい!』(走らないように意識すると今度は、けだるくなってしまう)とまあ、訳の分らない世界へ入ってしまうのです。
  挙句の果てに東京のドラマーが遊びに来た日にゃ、『おい。誰かええドラムおらへんか?』などと言われてしまうのです。でも直さんの言い方はすごいオープンで、まったく根に持たなくていいので助かりました。いい勉強させてもらいました。今でも大尊敬している先輩です。
  そして、あぁー。生まれて初めて『クビ』と言うものを体験するのでありました。

 

【第9部】

 あまりにも難しく考え過ぎて、とうとうジレンマに陥ります。
『ジャズは、よう判らん!』『ジャズって陰険な音楽やな〜。
Soul ミュージックや Rhythm & Blues の方が、感情むき出しで、俺の性におうてるな。』ってな事を考え出します。

そんな時に出会うのが「キー坊」こと上田正樹です。「上田正樹とSouth To South」と言うグループに入ります。この頃のキー坊は今のように大スターではないですが、関西を代表するブルース・シンガーで、ブルースやソウル・ミュージックの全盛期をむかえていた関西で、京都のウエストロード・ブルースバンドと同じく超人気者でした。

ヤマハ主催の「8・8Rock Day」コンサート(びわ湖サンケイバレー)、小野ヨーコなんかも一緒に参加した福島県・郡山の「One Step Jazz Festival」などにも、「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」で出演しました。あの頃は俺もロングヘアーで、肩まで髪の毛を垂らし、それにバンダナ巻いて、ドラム叩きまくってました。シンバルは割れるわ、スティックなんか、しょっちゅう折れて飛んでいくし、金掛かってしょうがなかったな〜。

そうそう、キー坊と一番最初に演ったのは、京都の『拾得(じゅっとく)』という、蔵を改造したライブハウスでした。まだ曲も覚えてないので、譜面を見ながら叩いてました。

すると演奏中に、その譜面の上にブラジャーが飛んで来たではありませんか。一瞬、頭がめまぐるしく回転を始めます。『あ〜っ!譜面が見えへん。えらいこっちゃ。取らなあかん。 え! ブラジャーが飛んで来るという事は、誰か女の子が脱いでるゆうこっちゃなー。譜面見るか、前見るか、どっちしょー。』当然、前見ました。
  うわー!上スッポンポンの女の子が、何人も踊ってる。ライブの途中で救急車まで来ました。ジャズのライブハウスでは絶対に有り得ない光景です。

京都の京大西部講堂でライブをした事もあります。この時は、バンドも客も、もうノリノリで、キー坊が、『もっとかー!』って言うと、酔っ払った大学生が全員『もっとー!』

で、アンコールを延々とやって、俺もキー坊も息ゼイゼイ言わせながら、最後はえずきながら、倒れそうになるまでやりました。最高の思い出です。