NO 8

          1月5日(火曜日)
今年誕生日を迎えると満71歳になる。昔の人は短命で、諺にもあるように70歳は稀な長生きだったようだ。今は周囲を見回しても年寄りばかりで、70歳なんか珍しくも何ともない。しかし最近は肉体の衰えをはっきり自覚する。若い頃は何ともなかった寝転ぶ動作、立ち上がる動作が一気には出来ない。階段の上り下りも膝が痛くて出来れば避けたい。やはりそれが終末に向かって走っている証拠なのだろうか。
ところで今年最初の読書は

 田辺聖子     「姥勝手」
私は読んだことがないが、「あとがき」によるとこの本は「姥シリーズ」四巻の最終巻だそうだ。主人公は今年80歳になる山本歌子という一人暮らしの老婦人。80歳とはいへ教養もあり気力も充実した年寄りである。東神戸の高級マンション最上階に居をかまへ、市民講座で集まった生徒に書道を教えている。若い頃船場の老舗服地問屋に嫁ぎ、舅、姑に仕え、坊ちゃん育ちの夫と共に店を経営してきた。戦時中は病床の夫に代わって、老舗の暖簾を守るのに必死であった。古くからの番頭と共に得意先や銀行と渡り合って、何とか自分の城を守り通したのである。今はその服地問屋「山勝」は長男良一が受け継ぎ、次男清明は鉄鋼会社の部長である。三男は箕面に住んでいる。店を長男に譲り引退するに当たっては、息子三人にそれ相当の財産を渡している。一人暮らしとはいへ息子三人や、その嫁からしょっちゅう電話がかかってきて、適当に賑やかである。歌子さんの主義は生きているうちにせいぜい楽しんでおこう。やりたいことをやり、会いたい人に会う。着たい物を着、食べたいもの食べる。既に息子達には財産は渡してあるのだから、これ以上残す必要がない。と思っている、まことに結構な身分のお年寄りである。それでも息子やその嫁は歌子さんの財産が気になるのか、しょっちゅう電話で探りを入れてくる。歌子さんの住む高級マンションで起こる出来事や、友人、知人を巡る話などが述べられている。いずれの話も歌子さんの識見と行動力、独自の人生観がうかがえて痛快な物語である。

           1月11日(月曜日)
 北 重人     「汐のなごり」
東北の湊町、水潟を舞台にした六篇の短編小説が集められている。その中から何篇かを取り上げる。
       [海羽山]
水潟で古手扱いの問屋を営む木津屋喜三郎は、今日も炊き出しの大釜の側にいた。長源寺の境内にはまだ三十人ほどが列に並んでいる。米一升を壱斗の水で炊き、米を買えぬ者たちに、一人一日一升の粥を施しているのだ。天保四年奥州は飢饉に襲われた。夏に入っても気温は低く、稲の実りは悪かった。加えて十月には大地震が起きた。水潟は広い水田に囲まれ、津軽や南部のように冷たいやませが吹くこともなく、これまで多くの餓死者を出すことはなかった。しかし天保四年の飢饉では米穀が底をついて、大勢が飢餓に苦しんだ。財力のある商人や地主は金や米を集め、各所で、救米、施粥をおこなって困窮者の餓死するのを防いだ。喜三郎は水潟の出ではない。生まれは北津軽で、名を辰吉といった。天明四年、津軽は大飢饉で、稲はまるで実らなかった。村人の多くが土地を捨て逃散した。辰吉の一家も村を捨てた。津軽にいれば飢えて死ぬ。食い物を求めて乞食のように山野をさまよった。辰吉一人だけが、水潟に流れ着いた。浮浪者の仮小屋に容れられ、施粥を受けて命を助けられた。仮小屋で炊き出しを統べていたのが、先代の木津屋喜三郎であった。仮小屋での生活態度を見込まれて、辰吉は小僧として木津屋に引き取られた。辰吉は店でも闇雲に働いた。先代はそんな辰吉に目をかけてくれた。商才もあった。筆頭手代になったとき、木津屋の娘婿になった。三十五で木津屋の跡目を次いで、喜三郎の名も譲られた。水潟に流れて五十年。喜三郎はふたたび大飢饉に出くわしたのだ。黙ってはいられなかった。かって先代が施粥したように、自分も身を粉にして飢えるものや、流浪の者を救わなければと思ったのである。喜三郎には天明四年の飢饉で一家五人、村を捨て食を求めてさ迷った記憶が、頭にこびりついて離れない。父、母、兄それに妹。まず妹が痩せ衰え寒ぅ、寒っと言いながら死んだ。弘前、大館、能代、秋田と羽後の町々をさ迷った。途中、海羽山の南、羽前の物成りがよいと耳に挟んだ。それで羽前を目指すことになった。しかし海羽山を越すことは出来なかった。母はすっかり衰弱しきっていた。父も弱っていた。そして母は死んだ。父は「母のなきがらを守ってここに残る。お前達は羽前を目指せ」と命じ、別れ際に母の着ていた着物の袖に包んだ物を二人に手渡した。「食い物だ。精がつく。だが一度に喰うな。物乞いして、どうしても食い物が手に入らなかった時にな、少しずつ食え。大事にだいじに食え」と言い添えて。兄と二人、食うものがなくなって、初めて包みを開いた。燻った木のにおいがする黒いものが幾枚も重ねられていた。すっぱい味がしたようだった。だが、すぐに涙が溢れ黒いものをぬらした。辰吉は噛んだ。噛むたびに母を思い浮かべまいとして。これは極限に追い込まれた人間の悲惨で、切なく、恐ろしい物語である。
        [歳月の舟」
酒出藩は家老江本友右衛門と中老高山典膳の二人が、この二十五年ほど、先代義晃の支持を得て藩政の権を握っていた。二十五年は長い。当初改革を掲げていた江本、高山の政権も功罪相半ばし、家中にも批判がくすぶるようになっていた。五年前義晃が隠居し、その子義忠が後を継いだ。守旧派といわれ長く藩政から遠ざけられていた、長谷川一門の者も少しづつ要職につくようになっていた。そこへ先代の義晃の病状が悪化し、中老の高山が中風で倒れた。重職会議でも家老の江本が孤立しているという。藩内では政権の流れが変わるのではと噂されていた。水潟町奉行の喜田十太夫は、江本が政権を担うようになってから家の後を継いだ。それからは、お城の御番、郷目付け、御徒目付け、郡奉行、水潟町奉行と御役についてきた。家老の江本や中老高山に忠義を尽くしてきたわけではない。ただ、役についた仕事をその時々、手を抜かずに勤めてきた。それを認められて、引き上げられたのだと十太夫は思っている。それでも、それは、江本、高山の派にいたからこそのことだ。しかし、いまさら長谷川一派に鞍替えして役を守ろうとは思わない。今から三十年前、十太夫は梅が丘城下の三好道場で剣術を学んでいた。そのころ同門に箕輪伝四郎がいた。その兄の与一郎が何者かに斬殺された。与一郎の屍が発見された日、家中から姿を消した者がいた。當麻桑次郎である。桑次郎も三好道場の同門である。歳は伝四郎より三つ上、与一郎より二つ下である。気性が激しく、常に人の上に立とうとする。人望の有った与一郎に、いつも逆らい、一度、皆の面前で強く叱責された。これを恨み桑次郎が夜道で待ち伏せて、与一郎を斬殺したものと思われていた。兄を慕っていた伝四郎は藩に敵討ちの許可を願い出たがなかなか許可が出ない。それで、政争に絡んで暗殺されたのではないか、という噂も立った。痺れを切らした伝四郎は脱藩して敵討ちに旅立った。今から十五年前、十太夫が大目付になって二年目のことである。當麻桑次郎らしき者の屍が見つかった。与一郎の死体が見つかった付近の土中より発見されたのである。屍の側に當麻家に伝わる刀、及び家紋のある印籠。更にもう一振り刀が見つかり、これは刀の鍔から与一郎の物と断定された。これはどういうことか。見つからないように埋めた者がいたということ。複数の者が与一郎を襲い、斬り合いとなって、桑次郎は斬られたが、他の者が与一郎を斬殺し、桑次郎とその刀を埋めたと推測される。桑次郎を埋めたのは、襲撃したのは桑次郎の仕業と思わせる為であろう。とすれば与一郎が斬殺されたとき、桑次郎は既に死んでいた。箕輪伝四郎はこの世にいない桑次郎を追って、敵討ちのため流浪していることになる。十太夫はこれを中老高山典膳に報告した。典膳は「箕輪与一郎の件はこれまでだ。調べたことは秘せ。今波風が立つと藩政が滞る」と捜査の中断を命じた。その箕輪伝四郎が三十年ぶりに城下に帰って来た。そして十太夫のもとに現われた。十太夫は自分の知っている限りの捜査結果を伝四郎に伝える。三十年無為に仇を追った伝四郎のため。
         [合百の藤次]
水潟には米会所がある。会所では正米市場に加え帳合米市場が立つ。正米市場は酒出藩が出す一枚十石の米札をその場で売買する。米札を蔵元に持ち込めばいつでも実米と交換できる。一方、帳合米取引は先物取引で、期限が来たところで決済する。現物の米を動かすことなく売り買いの差額を清算するのである。砂越屋芳五郎は水潟米会所の仲買人である。帳合米取引は信用取引である。誰もが相場商いを出来るわけではない。仲買株を持つ三十人だけだ。最近帳合米市場の値上がりが目立つ。仲買人の河北屋寅造が買い上げているようだ。河北屋だけでなく他の仲買人とも語らって買いあおっているようだ。河北屋は一代で成り上がった廻船問屋だ。やり手で力もあるが、裏でいろんな画策をする嫌われもんである。酒出藩の要路ともつながり、河北屋に引きずられている商人や仲買も多い。その河北屋が目の上のたんこぶのように嫌っているのが、米会所年寄りの唐仁屋宇左衛門である。水潟米会所はこの年寄りが仕切っている。唐仁屋がいる限り、この米会所は自分の思うままにはならない。河北屋は何とかこの唐仁屋を蹴落とそうとして、裏で画策しているようだ。砂越屋芳五郎は手堅い商売をしている。持ち越せばまだ利が出ると思っても、適当なところで決済する。あまり欲に目が眩んで頑張らない。今までもこの方針で成功してきた。芳五郎が幼い頃藤次郎という男がいた。芳五郎より三つ年上だった。幼い頃の芳五郎は弱虫で同年輩の子によく虐められた。藤次郎は何故か芳五郎を気に入り、虐められているとよく助けてくれた。当時水潟では、あちこちで相場が張られていた。相場好きが多く、それぞれの財力に応じて相場を張るのである。合百という相場があった。これは手代、職人、船頭などあまり金を持たない者がやる。米会所では百両を一口として相場を張るのだが、合百では一合について百問を張る。それで合百と呼ばれた。藤次郎の家は川舟衆相手の宿屋をしていた。藤次郎は宿屋を手伝ううちに、船頭たちが始める合百を覚え、相場に慣れ親しんだ。そして藤次郎は十二、三歳でその才を知られるようになった。十五、六歳で親父は藤次郎に金を持たせ、他の合百相場に出向かせた。芳五郎と藤次郎の付き合いは続いた。芳五郎は閑を見つけては藤五郎のもとに通い、相場の教えをこうた。藤次郎の名はいつしか、合百の藤次と呼ばれるようになった。そして河北屋寅次郎にスカウトされる。河北屋では期待にこたえて、大いに稼ぎまくった。しかし、出るくいは打たれるで、河北屋は策略をかまへて、藤次郎を破綻に追い込んだ。藤次郎は夜逃げをして、大阪の堂島米会所でまた相場の仕事を見つける。藤次郎の息子が、身元を伏せて水潟の米会所に帰って来た。はじめは手堅く商売をしていたが、河北屋寅造の強引とも思える買い上がりに、売り浴びせで応じる。河北屋が買えばそれ以上に売りで応じる。河北屋との白熱した勝負が続く。しかし最後に引導を渡したのは堂島の米相場だった。水潟米会所の相場は暴落に続く暴落で、河北屋は再起不能のダメージを受け、水潟から姿を消した。

            1月16日(土曜日)
 宇江佐真理       「ひょうたん」
江戸、本所北森下町の「鳳来堂」は古道具屋である。古道具と言っても由緒あるお宝があるわけではなく、文字どうり中古の鍋釜、鉄瓶、漆器、花瓶、シミのある屏風、箪笥、長持ち、布団などが店の中に乱雑に置いてあるだけだ。家族は亭主の音松、女房のお鈴に、十歳になる倅の長五郎の三人。長五郎は音松の兄が営む質屋に小僧として住み込んでいる。音松の兄のところは娘ばかりなので、いずれ兄は長五郎に自分の店を継がせるつもりでいるようだ。今日もお鈴は店の前に七輪を出し、その上に鍋をかけて大根を煮ていた。道を歩く人々も、いいにおいを漂わせている鍋に恨めしそうに視線を投げて通りすぎてゆく。そこへ亭主の音松が帰って来た。芝居の定式幕で拵えた綿入れ半纏をまとっている。音松はこの半纏を気に入っている。「この臙脂と緑と黒の取り合わせが滅法界好きなのよ」だそうだ。お鈴は半纏を三枚拵えた。単衣と袷と綿入れだ。音松の喜びようは一方ではなかった。年中離さない。お陰で、鳳来堂の音松は「幕張りの音松」と言う、あまりありがたくないあだ名を頂戴した。晩飯時になると、決まって来客がある。皆、音松の子供の頃からの友達で、もてなしたところで、さっぱり見返りの期待できない客ばかりだ。
酒屋「山城屋」の房吉、駕篭かきの徳次、六間掘りで料理屋「かまくら」を営む勘助の三人である。鳳来堂は音松の父親が開いた店で、当時は結構な品物も置いていた。客も大店の主人や高禄の武士等であった。音松は湯屋の二階で仲間とつるみ、賭場にもちょいちょい顔を出す怠け者だった。頼りの父親が中風で倒れ、鳳来堂を任されたものの、相変わらず遊び暮していた。賭場での借金が払えづ、店に有っためぼしい品物は洗いざらい取られてしまった。知り合いだったお鈴は見かねて注意するうちに、いつの間にか音松に口説かれて女房になってしまった。音松が弱音を吐くたびに、力づけ励ました。そして現在の鳳来堂に至っている。音松はお鈴と一緒になる前、「ダチと酒がありゃ、女もいらなかった」と言うほど友達を大事にする。現在でもそれが続いて、夕方になると友達が寄ってくる。お鈴は毎日店の前に七輪を出して、料理の支度をしている。若い頃は仕事に身の入らなかった音松も、最近ではまっとうな商人に育ってきた、とお鈴も安心している。先日も道端で浪人がガラクタを売っているのを覗いて、織部の茶碗を見つた、と大喜びで帰って来たが、のちにそれが盗品と分かって無償で持ち主に返してきた。また、女房の病気で金に困った浪人が、先祖伝来の刀を買ってくれと持ってきた。刀の価値は分からないらしい。音松は鑑定には自信がないので質商をしている兄に見せたところ、助広の名刀だという。音松は僅かの金で売り払うと、後で後悔することになる、といって金一両を貸し与えた。それからまもなくその浪人は仕官がかない、音松は大変感謝された。こんな人情話が集められていて読後感の爽やかな作品である。

             1月22日(金曜日)
 阿部和重         「グランド.フィナーレ」 平成16年第132回芥川賞受賞作品
この男、沢見は娘千春の8歳の誕生日のプレゼントに洋服を買う。ところが妻との諍いから離婚訴訟を起こされ、DVが認定されて、裁判所から接見禁止を言い渡され娘に会うことが出来ない。本人は妻の陰謀に嵌められたと語っているが、物語を読み進むうちに、この男がとんでもない男であることが判明する。プレゼントを娘に渡してくれと依頼された友人が暴露した。友人は妻とも交流があり共通の親友であった。沢見は教育映画の製作会社で働いていたが、娘千春の裸の写真数百枚を撮り貯めていた他、他所の子の裸の写真も撮り貯めていた。そして裏でそれを同じロリコン趣味のある者に売っていたのである。秘密にしていた妻にそれを気づかれ、パソコンのハードディスクに保存されていた裸の写真を証拠としてコピーされてしまった。さらに大量に写真が保存されているポータブルストレージを密かに持ち出されようとした。このため妻と喧嘩になり、妻に大怪我を負わせてしまう。沢見は妻と離婚が成立し、慰謝料を払ったうえ、娘の養育費も負担することになった。その上これまで付き合いのあった仲間にも、事情がばれて愛想づかしされ、もう東京では行くところが無くなった。ここで第一部は終わる。
東京を追われた沢見は、故郷の田舎に帰る。ここで父母や、兄家族と同居するが仕事は見つからない。仕方なく家業の文房具店の手伝いをすることになった。ここで小学六年生の亜美と麻弥に出会う。 二人は沢見に小学校の体育館で行われる、芸能祭の劇の演技の指導をして欲しいという。 小学校の教師をしている沢見の同級生黒木が、沢見を元教育映画の監督と紹介した為である。二人には出来ないと断ったのだが、あまり熱心に頼まれるので、黒木に事情を聴いてみた。すると、黒木は「亜美の兄が殺人事件を起こし、地元では一家が村八分のような状態で、家業の蕎麦屋も立ち行かなくなり、亜美の小学校卒業を待って遠くへ引っ越すことになっている。亜美も学校で虐めに遭い、幼い頃からの仲良し麻弥だけが唯一の友人だという」。その二人がお別れに芸能祭で劇をやるというのだ。沢見は劇の指導を引き受けることにした。しかし、不気味なのは沢見のロリコン趣味が完全に納まったのか、それともそれがまだ隠されていて、隙があればまた表出するのか、分からない点である。もしその趣味が少しでも残っているのであれば、亜美、麻弥の二人は格好の餌食になるのだから。

              1月28日(木曜日)
 椰月美智子         「未来の息子」
理子は親友のさやかを誘って占いをすることにした。日は十三日、友引か仏滅。それが今日。場所は放課後の中学校の教室。北向きの窓が理想だけど、二年三組の教室の窓は南向きだ。でも廊下には北向きの窓があるから、それでいいと思った。 私はA3の画用紙を手提げかばんから取り出して、さやかに見せた。「やだ、すっごい本格的じゃん」。画用紙には「鳥居」の赤いマークと「はい」「いいえ」の文字。その下には、数字と五十音の文字が書いてある。「ねえ、理子。本当に誰かが憑いちゃったらどうするのよ」。「心配しなくて平気だよ。あたしはただ、野中先輩の気持ちが聞きたいだけだもん。すぐ終わるからさ」。「じゃあ、早くやっちゃおうよ。日が暮れてきたし、やだよ、あたし」。教室の前の戸をしっかり閉めて後ろの戸だけを半分開け、その後ろの戸と同じくらいの位置にある廊下の窓を一箇所開けた。窓際の後ろから二番目の席を借りて、机の上に例の紙を用意して、その上に十円玉を置いた。「コックリさんコックリさん、いらっしゃいましたら北側の窓からお入りください」。しばらく静寂の後、なまぬるい風がどこからともなく、入ってきたような気がした。「コックリさんコックリさん、お出でになっているのなら「はい」の方へ動いてください。十円玉は「はい」の方へ動いた。「私は、バドミントン部の野中先輩が好きです。先輩が私のことをどう思っているか教えてください」。その結果十円玉は好きで、「はい」の方に動いた。次に何時告白すればよいかを聞くと、14の数字を指し示した。14日と言うと明日である。翌日の午後、さやかが野中先輩を校舎裏に連れてきてくれた。さやかはそのまま姿を消した。私はどきどきしながら、以前から先輩が好きでしたと告白した。しかし、先輩は僕には他に好きな子があるから、とあっさり断られてしまった。私はコックリさんなんか信用できないなぁ、と少しがっかりした。しかし、振られたことに、思ったほどショックは受けなかった。以後コックリさんにお伺いを立てる気はしなくなった。ところがその翌日の夜、奇妙なことが起こった。二階の自分の部屋で宿題を済ませ、ぼんやりラジオを聴いていると、耳元で小さな声がした。「ばあーさん」と言っているのだ。よく見ると机の上に親指ほどの生き物がいる。私は金切り声を上げた。階下にいたお母さんが跳んで来た。ところがお母さんにはこの生き物の姿が見えない。こうしてこの生き物は私の部屋へ住み着くようになった。そして、自分は未来から来た理子の息子だと言い、理子をお母さんと呼ぶ。名前は中西俊介で母さんの長男だそうだ。それから何日かして俊介は未来に帰っていった。
この他、この本には短編小説が4篇収められている。いずれもファンタジックな作品で、以前に読んだ「静かな日々」とは別人の作のような趣である。

                2月1日(月曜日)
 宇江佐真理           「十日えびす」
富沢町に住む錺職人、三右衛門が急死した。二月に入って江戸は底冷えする日が続いていた。心の蔵が弱っていた上に、折からの寒さで急激に発作に見舞われたのだと医者は言った。女房の八重は三右衛門の後添えになるまで、母親のおしずと同じ町内の富沢町で小間物商を営んでいた。八重は妾腹の子だった。三右衛門と八重は幼馴染で、年頃になると将来を誓う仲であった。ところが三右衛門の父親の反対でそれが適わなかった。妾の子は嫁にできないという理由だった。三右衛門はその後、親戚の勧めでおとせと言う女と一緒になり、三男三女をもうけた。おとせは家計を助けるため内職をしていたが、無理がたたり労咳で倒れた。そしておとせは四十二歳で亡くなった。おとせの四十九日が過ぎた頃、三右衛門が末娘のおみちを連れて、八重の家を訪れた。四十九日にお供えしたお花のお礼かと思った。ところが、三右衛門はお八重を女房にしたいという。お八重は断ったが三右衛門は怯まなかった。おとせが死んだ今、誰にも遠慮はいらない。子供達はみな一人前になって、今家にいるのはこのおみちだけだ。何とか家に入ってくれと執拗に縋った。三右衛門は五十、八重は五つ下の四十五歳になっていた。お八重は自分のことを忘れていなかった三右衛門の気持ちが嬉しかった。「子供達は何て言ってるの」。「親父の好きにしろってさ」。そして二人は一緒になった。その三右衛門が死んだ。初七日の日、子供たちは富沢町の家に集まった。家を出た長男の芳太郎が「まあ、おっかさんには世話になったが、これから俺が家に帰って仏壇の世話をすることにするよ」と宣言した。他の子供たちもそれに反対する者はなかった。お八重は体よく家を追い出される形になった。ただ一人、末娘のおみちだけはおっかさんと一緒に家を出る、と言ってくれた。富沢町の近くに住むのは嫌だったので、あちこち捜し歩いた。探し当てたのが堀江町の裏通りのしもたやだった。裏店並みの家賃でいいという。小間物屋を開くつもりでいた八重にも好都合の物件だった。引っ越してみると廻りは商家が多かったが、向かいの家に住んでいる体格の良い四十がらみの女が早速文句をつけてきた。「おかみさん、おれに挨拶はないのかえ」。この女は町内の鼻つまみもんで、敬遠されている、相手になるな、ということだった。周囲への嫌がらせなのか、干している布団を布団叩きでしばしばたたく。この女お熊には二十歳過ぎの息子がおり、病弱で殆ど家に篭りきりで外に出ない。以前は絵師のもとで絵の勉強をしていたらしいが、身体をこわして親の元に帰って来たそうだ。聞くところによると労咳だそうだ。八重はここでささやかな小間物商を営む。商いはそこそこで、親子二人の生活が出来る程度である。富沢町の家を追い出された際、疎遠になっていた義理の息子や娘達も訪ねてくるようになった。ただ、跡取りの芳太郎は怠け者で、夫婦別れしその後消息を絶っている。ところが、縁は異なものというか、おみちがふとしたことからお熊の息子鶴太郎と知り合い、互いに好意を抱くようになった。
この物語は町内で起こる出来事や、八重の身辺で起こること、良いこと、悪いこと、喜怒哀楽取り混ぜて綴られる。

                2月5日(金曜日)
 乙川優三郎           「武家用心集」
          [ しずれの音]
二戸家の当主二戸佐三郎は、先妻との間に練四郎という子が有ったが、離縁して子をとり、夫と死別した吉江を後妻に迎えた。
寿々はその連れ子だった。夫婦として暮したのは僅かな年月で、ある日突然逝ってしまった。夜中に心の臓の発作が起きたらしく、家族はもとより本人も知らぬ間の臨終だった。以来、二戸家は吉江が事実上の当主と成って切り盛りしてきた。縁があったとはいへ、子連れの女子が他人の家と子を引き受けることに世間の目は冷たかったし、錬四郎が相続できた家禄も半分の十五石だったので、吉江は世間の目を盗んで日雇取りまでして働いた。吉江の体調がおかしくなったのは、錬四郎が妻帯し、寿々が内藤家へ嫁いでから間もなくであった。ようやく楽が出来るようになって、母は急速に老いてしまったのである。今では母は寝たきりで、手足が思うように動かない。食事はもとより、排泄の面倒を見るのが大変で介護をする者は、身体的、精神的負担が重い。
今はその介護を錬四郎の妻房が主に受け持っている。時々房から母の病状について、使いの者をよこす。今のところ命に別状はないようだが、母の元に見舞いに行くたびに、兄嫁房の疲労困憊した様子が見て取れる。寿々も時々看病の手伝いをするのだが、嫁いだ身で夫に気兼ねがあり家のことをほったらかしには出来ない。そんな或る日、兄錬四郎から、妻が実家に帰って戻ってこない。母の世話をするものがいないので、しばらくの間母を預かって貰えないか、と連絡があった。夫周助に相談すると、家を出て他家へ嫁いだ者が何故引き取らねばならぬと、ひどく叱責された。その後、間に立つ人があって周助は一月だけと言う約束で、しぶしぶ吉江を引き取ることを承知した。ところが一月経っても引取りに来ない。督促すると、妻が妊娠したので一年待ってくれという。吉江の介護にかかる費用を二戸家がすべて負担すると言う条件で、やむを得ず承知した。しかし一年待っても、錬四郎は迎えに来なかった。周助は激昂して寿々を叱り付けた。それを聞いていた吉江は、私が出てゆくので二戸家まで荷車で送りつけてくれと言う。雪の降り積もる寒い朝だった。
           [九月の瓜」
宇野太左衛門は久しぶりに妹の婚家を訪ねた。作事奉行の片山晋太郎とは城で幾度も会っているが、妹のけいにはあれが嫁いで二十年になるかと言うほど会っていない。年に一、二度けいが家に訪ねてくることがあっても、顔をあわせる機会がなかったのである。太左衛門はこの春勘定奉行に上り、それ以前は勘定方で筆頭組頭を務めていた。順当に出世を重ねてようやく得た地位である。それまでには働きすぎるほど働き、藩の重職たちにつながる人脈を築いてきた結果の昇進である。勘定組頭で終わった亡父を追い抜き、家禄も八十石から百三十石に増やした。城でも家でも人から見上げられる立場になった。それだけに男として上るところに上ったという満足感が、今の太左衛門の心を満たしている。妹のけいの娘が婿を取ることになったのだ。姪のいそは一人娘で片山家に婿に入るのは片山の遠縁に当たる家の次男だという。その祝宴の席に太左衛門も列していた。太左衛門より身分の高い客はいないらしく、彼は当主の片山晋太郎に型どおりの挨拶をしてから、空いていた上座の席に着いた。その席で末席に座る一人の男が目についた。「あの若者は...?」。「作事方の職人支配で、桜井淳平殿と申されます」。その記憶が鮮明に蘇ってきたのは、思いがけず息子を見たせいだが、太左衛門が桜井捨蔵を思い出したのはそれが初めてではなかった。いつも心の片隅にこびりついていて、無理に忘れてきたといったほうがいいのかもしれない。捨蔵とは五年前彼が隠居するまで同じ勘定方に勤め、若い頃には仕事で鎬を削りあった仲であった。藩内の政変が二人の運命を分けた。当時の太左衛門は勘定組頭の下で支配勘定を務めていた。捨蔵も同役だったが組頭が違っていた。政変で太左衛門の仕える組頭が勘定奉行に昇進し、太左衛門は勘定組頭の後釜に座った。一方捨蔵は権力闘争で敗れた側についていたため、降任し以後浮き上がることもなく、ひっそりと隠居したのである。こののち、太左衛門は隠居してひっそり暮らす捨蔵を訪ねる。

この本は上記作品のほか6編の短編小説から成っている。どの作品も読み応えのある作品で余韻嫋々といった趣がある。

               2月8日(月曜日)
 阿刀田高           「佐保姫伝説」
幼い頃、戒造の父は電力会社の技師で、一時家族は山麓の町で暮らしていた。多分小学四年生のとき、山へ遊びに行って仲間を見失い、はぐれてしまった。どっちへ行っても山道ばかり、途方にくれていたところ川を見つけた。下流を目指せば人家があるだろう、足が痛むのも忘れて走った。日が暮れかかっていた。畑が見え始め、少し気持ちにゆとりが生じたのだろうか。目を上げて水の行方を眺めたとき、美しい風景がそこにあった。暮れ始めた空の下に満開の桜がボーッと広がり、川面に花を少しずつ散らしている。しかも周りには誰もいない。見ているのはただ一人。本当に美しい、嘘のように美しい。こんな美しいもの、他にない。呆然と見惚れていた。そこからの帰り道はただ、とぼとぼと歩いた。いつの間にか日が暮れ,ようやく知った道にたどり着いた。何度か思い返した。夢にも見た。この世の物とも思えない光景だった。あれはどこだっただろう。夢でないならまた行けるはずだ。そう思いながら結局は行けなかった。子供心にも山道に迷うのが怖かったのだろう。その内に父の勤務地が変わり、東京に戻ってしまった。ふたたび行って見ようと決心したのは、高校2年の終わりのことだった。七年以上前の記憶を頼りに目的地に向かったが、以前に見た絶景は探し当てられなかった。そのまままた長い長い歳月が流れた。まず思い立ったのが一昨年のこと。花の便りに心を配り、東京の桜が散る頃を選んだ。電車を乗り換へ、バスに揺られて四十年以上も前の記憶を頼りに大川を探り当てた。川土手を上流に向かって歩いた。支流の注ぎ込む地点に出た。支流の水面を見ると櫻の花びらが水面一体を覆っている。「遅かったか」と思いながら支流に沿って上流に向かった。山と川の風景はぎりぎり戒造の期待にこたえてくれた。「悪くない」、花の盛りであればもっと素晴らしいだろう。川上の方から女の歌声が聞こえた。写生の道具を片付けている若い女性だった。それから一年待って、つまり昨年の春またここを訪れた。時期は昨年と同じ頃だった。既に桜の花びらが水面を覆っている。女性の画家は見当たらず、農作業をしている年配の女性を見かけた。この人に女性画家のことを尋ねると、「それはひょっとしたら佐保姫さまでは」という答えが帰って来た。「佐保姫さま?」。
「ああ、春の女神さんだ。佐保姫さんは毎年春を撒きに来る」。今年こそは昔見た絶景を探し当てようと、ベストの時期を選んでまた現地に出発した。
              [初詣で]
新年の初詣に日枝神社に参詣した。去年も初詣ではここだった。今年もあの人は来ているのかな。思い返してみれば、去年はこのあたりで声をかけられた。「本間さん」。大久保彩子とは高校の同級生で、大学も同じ学部だった。勤勉で頭がよく、何かしら目標を据えて努力するタイプの人だった。本間とは出来が違う。そこそこ親しい時期もあって、学生の頃は傘マークの下に二人の名前を連記されたりしたけれど、そういう仲ではなかった。恐らく彩子の方も、本間を恋愛や結婚の対象として考えたことは一度もなかっただろう。ここで出会ったのは久しぶりである。彩子は絵馬に願い事を書いていた。「なに書いてた?」。「内緒」。「本間さんも何か書いたら」。「いや、書ききれないので止めて置く」。彩子の手にしているのは濃紺の軸の美しい万年筆だった。本間がその万年筆の色を褒めると、思いがけず、気にいったのならあげる、という。一旦は断ったのだが、本気で呉れようとするので受け取った。そして彩子の書いた絵馬を境内に生えている木の高いところに結びつけた。その後、近所の喫茶店で話をしたのだが、それによると、半年ほど前仕事を辞め暢気に暮すことに決めた、何にもしないで、好きなことだけやって...と言うことだそうだ。それに“ねば”、“べき”を捨てたと言った。ねばならない、べきである、そういうこと全部やめることにした、とも言った。“ねば”、“べき”から開放されて暢気に暮らすのだそうだ。今年は彩子の姿を見なかった。それから何日か経って高校時代の級友に出会った。そして彩子の亡くなった事を聞いた。去年の11月だったそうだ。二年ほどすい臓を病んで死んだと言う。去年の初詣の風景が脳裏に浮かぶ。あのとき彩子は自分の病気のことを知っていたのだ。思いついて彩子が書いた絵馬はずして見た。そこには
“どうぞ苦しまずに、ゆらゆらと残りを生きて逝きます”と書かれていた。

この本には短編小説12編が収録されている。いずれの作品も興味深いしゃれた作品ばかりである。

                 2月12日(金曜日)
 大道珠貴              「たまたま」
正社員でも契約社員でもアルバイトでもパートでも、職があるだけこの世は素晴らしい。働いてみて分かった、この世はわたし一人でもちゃんと生きられる仕組みになっていることが。コツコツって、やるとやめられなくなる。あれは一人でやるもんだ。わたし、きっとずっと一人だろうと思っていた。この秋から、わたしの2DKの部屋に、山形鉄彦の荷物が増えはじめた。「男の人と住むの、お姉ちゃん、二十七歳にして初めてだね。よく決心したね」。妹の市子はそう言ったけれど、わたしと鉄彦は一緒に住んでいるんじゃない。彼が居候というのでもない。彼はうちには帰ってこない。ただ、やってくる。やってきたって、どうせ帰っちまう。この四ヶ月間、ずっとそう。「おじゃまします」と入ってくる。そして、「また来るね」って出てゆく。そのたんびに何かしら荷物が増えている。
出会いは路上、仕事帰りにときどきキリギリスみたいな痩せっぽちの路上詩人を見かけるだけ、鉄彦にとってわたしはただの通行人だった。頻繁に見かけるので、目が会った時、どちらからともなく会釈をし、しばらく会釈をする期間が続き、やがてどちらからともなく口を利いたのだった。四ヶ月の間に、鉄彦は週五回くらいうちにやってくる。一日中セックスしていたのが一回あった。「でももうこれ一回でいい」と鉄彦は言った。そしてその日以来、セックスはない。「一緒に住みたいね」鉄彦は言い、「それはあんた、便利だからでしょう」と言ったら、「ズバリ。ここだと、交通の便、いいものね。あっちは都心まで一時間だよ。マジだんだんあっちに帰りたくなくなるだよね。あっちが嘘でこっちが本当のような気がしてくる」。奥さんのいる家庭をあっちなんて、ちょっとよそよそし過ぎるとわたしは思う。でもわたしだって、今じゃ、鉄彦のそれだ。奥さん。鉄彦がそう言うんだから間違いない。「何で結婚なんかしたのよ」市子から問われたわたしの答えはあっさりしたものだ。「たまたま.....」。鉄彦はその後も自分の都合に合わせて、あっちに行ったり、こっちに来たり定まらない。わたしはあっちを一号、こっちを二号と呼ぶことにした。そのうち一号の奥さんの仕事の都合で広島に転居してしまった。鉄彦もそれに合わせて広島に行ってしまった。何時こちらに帰ってくるか分からない。ひとりの生活に戻って、ホッとする気持ちと、何となく寂しい思いと気持ちが揺れる。

                 2月17日(水曜日)
 津村記久子            「ポトスライムの舟」 平成20年第140回芥川賞受賞作品
ナガセ(長瀬由紀子)は三時の休憩時間の終わりが間もないことを告げる予鈴が鳴ったが、パイプ椅子に手を掛け背後の掲示板を見つめたままだった。そこにはA3サイズのポスターが2枚ならんで貼られていた。一枚は軽うつ病患者の相互扶助を呼びかけるポスター、もう一枚はさるNGOが主催する世界一周のクルージングのポスターだった。ナガセが眺めていたのはクルージングのポスターの方だった。その参加費用が163万円と書かれている。ナガセは四年前、時間給八百円でパートとしてこの工場で働きだした。薄給とはいえ、ここは人間関係が悪くない。特にラインリーダーの岡田さんはいい人で、何くれとなく面倒を見てくれる。おかげでナガセはパートから月給手取り十三万八千円の契約社員に昇格している。かってナガセは大学新卒で入った会社を、上司の凄まじいモラルハラスメントが原因で退職し、そのご一年間働くことに対する恐怖で棒に振ったことがある。その体験からすると職場の空気が良いということは、得がたい美点と言わざるをえない。ナガセには大学卒業後、現在も付き合っている友達がある。その一人、ヨシカは大阪出身だったがカフェを開店するに当たって、ナガセの地元である奈良に移り住んできた。大学を卒業して五年間総合職として働いた後、その時貯めたお金でカフェを開店した。ナガセの家に何度か遊びに来て奈良が気に入ったらしい。二年前ナガセの家を訪ねてきてそのまま数ヶ月居候し、その間に店舗用の物件を見つけ、部屋を見つけてナガセの家から旅立っていった。そのよしみで、ナガセはここ一年ほど、ヨシカの店でアルバイトをしている。時給850円で、月〜土曜の午後6時から9時まで働いている。それ以外にも土曜日にはパソコンの講師の仕事もしており、閑があればまだ仕事を増やしたいとも考えている。ただいずれの仕事も薄給で思うほど収入は得られない。自分が母親と住んでいる家は、築50年以上経つ広いだけがとり得の家で、雨漏りの心配もあり、そろそろ改築が必要だと思っている。そのためにもお金が必要だ。ナガセが大学を卒業した年代は就職の氷河期で、仕事のえり好みを出来る時期ではなかった。そのため辛い仕事にも就かざるを得なかった。そして一旦職を失うと、パートとか契約社員とか将来の保証がない、しかも薄給の仕事しかない。ナガセがいくら仕事を増やしても、生活を切り詰めても蓄えは僅かしか増えない。このままでは母親と暮すだけで結婚も出来ない。そんな或る日大学時代の友人、りつ子が娘の恵奈を連れて訪ねて来た。夫と不仲で家出してきたという。僅かな手回り品を持って、就職口が見つかるまで娘とともにここにおいてくれと頼まれた。専業主婦であったがお互いに意思の疎通がなく、耐え切れないという。来年から小学生になる恵奈はナガセの母親によくなついた。母親が世話をしていた観葉植物のポトスライムに目を留め、これは何と聞いた。ポトスライムは丈夫な植物で、しかも手間がかからない。水さえ替えてやれば勝手に育ち、そして繁殖力も旺盛だ。若い茎を切って器に水をいれ差し込んでおくと勝手に繁殖する。水さえ与えておけば、勝手に育つ。ナガセはその生命力を、いつもすごいと感心していた。ナガセの家にはポトスライムを入れた器が沢山並んでいる。そのポトスライムの水替えを恵奈に頼んだ。ナガセの頭から世界一周のクルージングのポスターが離れない。この一年間必死で働いて金を貯めクルージングに参加して見ようか等とも考えた。生きるために薄給を稼いで、小銭で生命を維持している。そうでありながら、工場でのすべての時間を、世界一周という行為に換金することも出来る。ナガセは首を傾けながら、自分の生活に一石を投じるものが、世界一周であるようような気分になっていた。たとえ最終的にクルージングに行かないことになっても、これからの一年間で百六十三万円を貯める事は少しもいけないことではない。こうしてナガセはお金を貯める決心をした。その後、りつ子に就職口が見つかり、家も探してりつ子親子は出て行った。ナガセの百六十三万円も、紆余曲折は有ったが予定より早く目的額に達した。このお金を最終的にどう使うかはまだ決めていない。

                2月20日(土曜日)
 石田衣良           「シューカツ」
水越千晴は鷲田大学の三年生。「勝負の春が来た」。いよいよ就職活動、シューカツが始まるのだ。これからの一年で一生の仕事を決めなければいけない。今日は大学の友人たちが集まったシューカツプロジェクトチームの結成式の日だ。最難関であるマスコミへの就職を目指す男女七人が、今日から一斉に活動を始めるのだ。同じ目的を持った学生が、受験のための情報交換や模擬面接試験の実施、エントリーシートの効果的な書き方、グループディスカッション対策の研究等や、就職活動に関する悩みや不安を話し合うことによって、精神面のストレスを少しでも解消することを目指している。今は就職氷河期といわれた数年前と比べると、やや緩和しているとはいへ、やはり競争は厳しい。特にゴールデンチケットと呼ばれる大学新卒で、就職できないと一気に希望する企業への就職は困難になる。千晴がアルバイトとして働いているファミリーレストランに、海老沢という三十台前半の男性アルバイト店員がいた。勤務態度に裏表があり、店長の目の届かないところでは手を抜く問題店員であった。或る日客とのトラブルがあり、その処理を巡って店長に厳しく叱責された。これが原因でこの男性は店を辞めたが、その退職の日千晴は偶然駅でこの男性に出会った。そしてこの男性が十年前、同じ鷲田大学の経営学部を卒業した先輩であることを聞かされた。この先輩はあいにくの就職氷河期で、目指していたマスコミ関係の会社に就職できず、就職浪人した。翌年もマスコミを目指したが駄目だった。
その後はマスコミ関係をあきらめて、一般企業の正社員の仕事を求めたがそれも駄目だった。今も正社員の仕事を求めているが絶望的状況である。海老沢からは「きちんと新卒のゴールデンチケットを使った方がいい。無理してマスコミに拘ると悔いを残すよ」とアドバイスを受けている。秋になって、いよいよ就職活動が具体化してきた。千晴は就職希望の出版社三社と、テレビ局二社に会社の先輩訪問のはがきを出した。そして目指す会社の情報を収集した。年が明けてすぐ最終的に応募する会社を決定し、出版社三社、テレビ局三社に応募書類を送った。この段階でシューカツプロジェクトチームに脱落者が出た。シューカツの不安に押しつぶされて家に引きこもり大学に出てこなくなったのだ。皆で相談した結果、シューカツの傍らグループの参加者が交代で悩みを聞いたり、励ましたりするためこの学生の家を訪れることになった。千晴は紆余曲折は有ったが目出度く出版社一社、テレビ局一社に合格した。他のメンバーは途中脱落した学生と、新聞社四社、通信二社にすべて合格しながら、採用を辞退したリーダーを除いて全て合格が内定した。

                 2月27日(土曜日)
 川上弘美            「風花」
システムエンジニアの夫卓哉と結婚したのゆりはこの七年、殆ど家を離れたことがない。夫の仕事が不規則で、なかなかまとまった休みを取ることが出来ないせいもある。待ち合わせの相手はマコちゃんだった。真人(まこと)はのゆりの母圭子の末弟だった。
のゆりにとっては叔父に当たるが、姉である圭子と末弟の真人とは十三、年が離れているので、のゆりにとっては半分兄のようなものである。夫の卓哉には里美という恋人がいる。三年ほど前から卓也と恋愛している。卓也と里美のそういう関係を、匿名の電話でのゆりは知らされた。電話が会った日の夜、帰宅した卓也に電話の件を話した。決して詰問するつもりではなかった。ただ、どうしていいか分からず、報告しただけである。卓也は里美との関係を否定せず、かえって離婚のことまでほのめかした。のゆりは途方にくれ、ただ卓也の顔を見つめるばかりだった。翌日の昼、里美から電話があり、のゆりは里美と直接会うことになった。会うと里美は卓也は好きであるが、卓也とのゆりが離婚することを望んではいない。たとえ卓也が離婚しても卓也と結婚する意思はない。どうしてものゆりが卓也との恋愛をやめて欲しいと希望するなら別れても良い。ただ、それにはいくばくかの時間が欲しい。結論はそちらにお預けしますと言われた。途方にくれたまま一週間が過ぎ、この件を真人に打ち明けた。卓也はその後だんまりを決め込んでいる。「里美さんと別れて欲しいと言ったら、卓ちゃん別れてくれる」と聞いても、むっつり口を閉ざしているばかりである。何の進展もないままに二ヶ月が過ぎた。気分転換と今後の対処方法を相談するため、週末真人と東北の温泉に行くことにしたのだ。旅行では心に屈託があるので楽しくなかった。今後のことについても何の結論も出ないままに帰って来た。卓也はその後もきちんと家に帰ってくるが、遅い時刻帰ってきてシャワーを浴びてから、すぐ寝入る。ダブルベッドの、卓也の側に背を向けて寝るのでこのごろ肩が凝る。真人の紹介で医院の受付のパートとして働くことにした。その後下北沢の医療事務の講座に通うようになった。そこで同じ講座に通う瑛二と知り合った。瑛二は経済学部3年の大学生である。のゆりは瑛二とも付き合うようになるが、閑な折の話し相手程度で深い付き合いではない。卓哉との結論が出ないまま、また里美から電話があった。里美は卓哉と付き合うのをやめた、と通告した。しかし卓哉はその件については何も言わない。その内に卓哉の転勤が決まった。関西の支店である。のゆりは自分はどうすればよいか迷うが、とりあえず卓哉について行くことにした。卓哉は相変わらず別れようとも、別れないともはっきりした態度を示さない。転勤してしばらくして、卓哉が里美以外の女性とも交際していると聞き、のゆりは別れる決心をして、家を出た。

                 3月3日(水曜日)
 宮尾登美子          「錦」
宮尾登美子の作品を読むのは久しぶりだった。さすが期待に違わぬ力作でこの長編を一気に読了した。「あとがき」によると作者がこの長編を書こうと思ったのは、三十数年前のことだそうだ。この小説は和服を好む女性なら誰でも知っている、龍村の帯の創業者龍村平蔵をモデルにしている。ところが書きはじめても筆は遅々として進まない。その最大の難関は伝記と小説の違いだったと作者は述懐している。作者は龍村平蔵を独自に構築してゆかなければならない。その難しさに途中何度も挫折しかけたことがあったという。前置きはこれぐらいにして.....

菱村吉蔵は明治九年11月大阪の南船場菱村の家に生まれた。菱村は通称菱久の本家で当主は代々久兵衛を名乗っており、吉蔵はその孫に当たる。その昔大坂の金貸し十人衆というのがあって、それを率いる鴻池善右衛門の下で菱久も名を連ね、大いに羽振りがよかった時代もあった。世が変わるに連れて両替商も次々に看板を下ろす店が続いた。菱久は両替商と平行して砂糖を取り扱っていた。博労町の稲荷神社のならびに間口十間、玄関は二つ、蔵の棟は五つも数えられるほどの構えがあり、往年の大店の姿をとどめている。久兵衛には、吉蔵の父嘉助を頭に五人の男の子があり、それぞれ妻帯していたが、なぜか一人も子宝に恵まれなかった。そういう中での吉蔵の誕生だったから、誰も口に出さないが次代の久兵衛はこの子、と自然に決まっていたようなものであった。しかし吉蔵が小学校に上がる前から家産はすっかり傾きだした。祖父の久兵衛が亡くなる頃には、本家の家、屋敷と、多少の家作が残るのみとなった。その財産分けについては熾烈な争いがあったが、久兵衛の弟、心斎橋の呉服商太一の仲裁で、兄弟五人で財産を均等に分割するということで話がついた。ところが吉蔵の父嘉助は、何も仕事をせず遊郭に通って財産を蕩尽してしまった。このため吉蔵は通っていた中学を退学し、働かなければならぬ破目になる。心斎橋の叔父太一の世話で京都の呉服屋だ働くことになった。ここで帯用の反物を機屋を回って仕入れ、これを担いで小売屋に売り歩く、という仕事をすることになった。初めての仕事で色々困難にぶち当たるが、持ち前の研究熱心から機屋をあちこち見て回って、売れる商品の研究をする。そしてただ商品を仕入れて売り歩くだけでなく、自分で織物を製作してみようと思い立つ。工場を作り織機を入れた。出来上がる製品は創意工夫を凝らし、更に斬新な製品を目指した。染めも、織も専門家を雇った。各地で開催される博覧会や品評会に製品を出品し見事入賞を果たす。またこれといった製品や、技術には実用新案や、専売特許などの申請をして製品の模倣を防いだ。しかしそれでも模倣品は出回る。菱村の帯の評価が高まるに連れて、模倣品の数はふえる。そんな或る日、かって祖父と交際があった骨董好きの吉田というご隠居から声をかけられた。菱村の織物の技術を見込んで頼みたいことがあるという。帯に使う織物の裂で掛け物の表具や、袱紗などを作れないかという話が出ていたが、先日元大名家の執事から加賀の橋田家に伝わるおびただしい茶道具の仕覆と呼ばれる茶入れの袋の修復を、菱村の技術を見込んで頼みたいということだった。それも一瞥して分かる贋物では困る。あくまで本物そのものを復元してくれというのだ。これが出来るのは日本ひろしと言えど菱村だけだというのだ。吉蔵はこの話を引き受ける。そして元大名の侯爵が気にいるような仕事をやってのけた。この話を聞いて各地の元大名家からも仕事が舞い込んできた。その後機会があって、明治41年大谷探検隊が中国の楼蘭付近で発掘して、日本に持ち帰った発掘品を見せてもらった。その中に発掘されたミイラの顔面を覆っていた顔布と呼ばれる布があった。それを見たとき吉蔵は大きなショックを受けた。錦の裂とはいいながら、複雑極まりない紋様が交錯し、そこから名状しがたい霊気のようなものが漂っているように見えた。それは人をしてひれ伏さざるを得ないような、何物かが秘められているようであった。これと同じような錦の布を見たのは法隆寺の夢殿の御戸帳の錦であった。そして吉蔵は傷みの激しいこの御戸帳の復元を依頼される。しかし現代の技術をもってしても、この色、文様、織り方の再現は難しい。吉蔵はすっかり研究のとりこになってしまった。御戸帳の錦は菱村を始め、その技術陣の苦心惨憺の努力の甲斐あって完成した。のちにこれは獅子狩文錦と名づけられ世界的に有名になった。この大きな仕事をなし終えた後、今度はとうとう帝室博物館より奈良正倉院御物裂の研究復元を委嘱された。織物界、古美術界では吉蔵の評価は動かぬものとなった。吉蔵最後の大仕事になったのは今上陛下の弟君、上総宮の御成婚祝いに、陛下からタピストリーを贈られる事になり、そのタピストリーの製作を菱村に依頼されたのである。身に余る光栄に吉蔵は感激し、家業が疎かになるほど全身全霊を傾けた。試作品を何回も何回も作り直し、慎重の上にも慎重を期した。そのため完成時期が大幅に遅れてしまったほどである。吉蔵の仕事を陰で支えたのは織物技術者であり、卓抜した技術を持つ専務の永井進。永井は技術だけでなく、如何なるなる局面においても事態を冷静に判断し、ともすれば激しやすい吉蔵の行動をよく補佐した。おむらは吉蔵の妻として、家業には殆ど口をはさまないが、いざとゆう時には御寮さんとしての貫禄を示す。おふくは吉蔵の愛人であり、日陰の身であるが常に吉蔵のため全身全霊を尽くす。お仙は吉蔵の商売を始めた頃からの付き合いであり、生涯苦楽をともにした。吉蔵の身の回りの世話をする秘書的立場であった。お仙自身は吉蔵が好きで堪らないのだが、吉蔵は主人と使用人の立場を生涯貫いた。

                  3月6日(土曜日)
 瀬尾まいこ            「天国はまだ遠く」
千鶴はずっと前から決めていた。今度だめだと思ったらもうやめようって。いつも優柔不断で結局失敗してしまう。今度の決意は固い。もう終わりにしようと思ったら、本当に終わりにするのだ。今日の夜一晩過ごすだけだから、余計な荷物はいらない。今日のために買った下着、パジャマそれに携帯電話。それと全ての貯金を解約して手にした120万円。かばんの中はスカスカだ。ガスの元栓、水道、電気もう一度確認した。もう戻ることはないんだなあ、ともう一度部屋を見渡した。こうして千鶴は自殺の旅に出る。行く場所は決まっていた。濃い海と濃い空を持つ日本海地方。鳥取や京都のうんと奥。仕事も人間関係もきっとたいしたことではない。それは十分分かっている。でも、それは私にとって困難で重大だった。気楽にしようといくら頑張っても、私の頭や身体は深刻に考えすぎてしまう。会社に行かなければいけないと思うだけで、毎朝頭が痛かった。明日は上司に何を言われるのだろう。そう思うと不安で眠れなかった。休み明けの朝に会社に行くのが怖くて、玄関から出るのにどれだけ時間がかかったことか。それなのに私は会社を休むことも出来なかった。解決法は見つからず、ただただ日日をやり過ごすだけの生活だった。この生活も今日までだ。私は目的地の駅に着いて、駅前からタクシーに乗った。「北の端で出来るだけ人の少ないところ。観光地でなくて、民宿のようなもんがあるところに行ってください」と運転手に頼んだ。この漠然とした行き先に運転手は戸惑っていたが、連れて行かれたのが木屋谷という集落だった。集落といっても家は密集しておらず、田畑や林にに覆われたなかにぽつぽつと見えるだけだ。隣接する村もなくそこだけぽつんと浮かんでいるような集落。山に囲まれて地上から切り離されているような場所。月の明かりだけでぼんやりと照らされた集落は、時間が止まったように動かない。そのなかに「民宿たむら」はあった。横に広くどっしりとした古い建物、壁には民宿たむらと書かれているが、文字は殆ど剥げている。案内を請うと背の高い、髭が伸びた、頭髪もくちゃくちゃな、若い男が現われた。それがこの民宿の主、たむらさんだった。部屋へ案内されてお風呂に入ったのち、いよいよ自殺の実行に取り掛かる。病院から貰った睡眠薬を飲まずに摂り貯めた12錠の薬。医者は一日一錠、必ず用法を守ってください。危険ですよ、と言われていた。これだけ一気に飲めば間違いなく死ねるだろう。そしてそれを呑んで布団に横になった。ところが、目覚めは爽快。深い深い眠りの後、きっぱりと目がさめた。爽やかな朝、窓越しに太陽の光が差し込んでくる。部屋の中はすっきりと明るい。深い眠りは新しい朝をちゃんと連れてきた。主のたむらさんがやってきた。「飯できてんけど、どうする。今日は食べるやろ」。たむらさんの話だと私は丸32時間熟睡したらしい。こうして私は自殺に失敗した。一度失敗するともう一度自殺しようとゆう気は無くなった。以後私はこの集落で二十一日間暮した。集落の人は皆年寄りばかりで、若い人はいなかったが誰も親切だった。よそ者として避けるような人は誰もいなかった。皆以前から暮していた人のように、自然に接してくれる。でも、時が経つに連れて、この場所が自分が住む場所ではない、と言う意識が次第に強くなってくる。そして今後の人生がどう変わるか分からないが、また都会で暮そうという意欲が湧いてきた。

                   3月15日(月曜日)
 岩井三四二            「一手千両」
幼馴染の藤吉が死んだ。女郎とともに、お初天神の近くの川に身を投げて。吉之介とは六つで入った寺子屋から、十四から十七まで通った懐徳堂までずっと一緒だった。考えは深く冷静で、少なくとも女に狂って見境をなくするような男ではなかった。そして今は二人とも米の仲買となり、堂島の市場でしょっちゅう顔をあわせている。昨日も話をした。吉之介は心中の現場へ走った。川の岸に引き上げられた遺体は、女と着物の裾と裾を結び合っている。女の首は不自然な曲がり方をし、千切れそうになっていた。藤吉の首も赤い肉が見えた。「山城屋はん、もうあかんかもしれんな」と言う声が聞こえる。山城屋は藤吉の実家で堂島の米仲買としては中堅の店だ。吉之介は心中の姿を見ても事実を受け入れ難かった。藤吉とは昨日市場の近くで言葉を交わした。「あとで相談がある」と言っていた。あの顔は決して死ぬ前の人の顔ではなかった。懐徳堂に通っていた頃一緒だった仲間が集まった。懐徳堂は今は大坂学問所という大層な呼び名があるが、吉之介たちが入所した十五年ほど前は「あれは学問所ではなく、ごくもん所だ」という悪口があった程で、ろくな弟子は来なかった。集まったのは同業の弥五郎、代々の浪人で今は寺子屋で子供を教えている高岡作右衛門、小間物を扱っている善太郎、それに吉之介の四人。話してみると四人とも藤吉が死ぬ前日、「話がある」と声をかけられていた。心中の相手は山城屋でも知らない女だ。どう考えてもおかしい「何かある」、と言うのが皆の意見だった。あの心中は仕組まれたもんではないのか。何か裏に隠れた事情があるのではないか。四人は手分けして藤吉の死因を探ることにした。ところが弥五郎が探索中暴漢に襲われて、瀕死の重傷を負った。吉之介自身も一度は袋叩きに遭い、二度目は刃物を持ったならず者に襲われ、護衛してくれた作右衛門の助けを借りてやっと命拾いした。探索を続けるうちにこれらは米仲買の大物、十文字屋が裏で指図していることを突き止める。十文字屋は堂島の米市場で、仲買として先物取引をするとともに、裏で仲買人には禁じられている、現銀屋という米価の高低を対象にするバクチ紛いの商売をして儲けていた。藤吉にこれを突き止められ、仲買の免許を取り消されるのを恐れて、心中を装ってこれを殺したのだ。十文字屋の処罰を求めて米会所に届け出たが、証拠がないとして調査しようともしない。米会所の中には十文字屋に組する者がいるのだ。吉之介は米相場で藤吉の恨みを晴らそうと考えた。十文字屋は買いの大手である。吉之介はこれに売りで対抗した。吉之介が売っても売っても、十文字屋は徒党を組んで買い向かってくる。いずれは十文字屋の不正がばれ、殺人の罪にも問われるのは必至と見越して、吉之介は売って売って、売りまくった。それでも一向に相場は下がらず、十文字屋の身にも変化がない。そして、暑い夏なのに米どころの北国筋に雪が降ったと言う噂が流れて、米相場は暴騰した。吉之介は莫大な損を抱える。しかし、それは買い手が流したニセの情報だった。翌日から相場は暴落を続ける。加えて十文字屋が人殺しの罪で捕まった。買い方の大物が捕まったことで、買い方は大打撃を受け、収拾のつかないような大混乱におちいった。吉之介は藤吉の仇を討つとともに、巨万の富を手にした。

                    3月24日(水曜日)
 角田光代               「庭の桜、隣の犬」
だらだらと続くこの坂を上っていく。房子は勝手にナシング坂と呼んでいる。この町に引っ越してきた五年前、それは結婚した当初ということになるのだが、この坂を田所宗二と歩くたびに喧嘩になった。喧嘩の原因はくだらないことだったが、そのころ宗二は喧嘩の捨て台詞として「それじゃあオールオアナッシングじゃんかよう。オールオアナッシングじゃあ話になんねえよ」ときまって言い、それで房子はナッシング坂と命名した。宗二と結婚したばかりの頃、生活費のため房子は弁当屋でアルバイトをしていた。現在宗二はイベント企画会社で働いているが、結婚当時は塾の講師をしており、その賃金が安かったからだ。結婚から二年後、宗二は学生時代の友人に誘われ、塾より給与のいい今の会社に移り、房子のアルバイト代がなくても生活できるようになって、アルバイトはやめた。十一時過ぎて宗二は帰って来た。今の会社に移ってから宗二の帰りはいつも遅い。遅い夕食を食べながら宗二が突然「あのさあ、おれ、部屋を借りようと思うの」と話を切り出した。「はあー?部屋あ」房子は大声を出した。「げええ、何それ。別居しようっていうことなの?ここに帰ってきたくない理由があるの」。宗二が言うのは、これから一年と少し、今より仕事が忙しくなる。帰れない夜も増える。カプセルホテルに泊まっても、続くと結構な出費になる。それで近くに風呂なし、共同トイレの安い下宿を借りて、平日どうしても帰れないときはそこで寝る、ということであった。そして手回しよく不動産屋から間取り図のコピーまで持ち帰っていた。房子は「そういうのって夫婦でいる意味あるのかなあ。一緒に暮らすために宗ちゃんが働いているのであって、働くために別に住むなんて間違っていると思わない」と反対した。しかし房子は内心宗二のわがままが羨ましかった。できれば自分もそうしたい気持ちもある。結局、宗二の下宿するアパートの合鍵を房子が貰うと言う事で話がつく。宗二はさっさと下宿を決めてきて合鍵を房子に渡した。しかし下宿の場所は聞かなかった。宗二は案の定、帰宅するのが疎かになりだした。房子は閑な時間を見つけては近くの実家に帰り、母親と買い物に出かけたり、食事を共にする機会が増えた。そんな折、田舎で一人暮らしをしている宗二の母が訪ねて来た。「今まで子供たちののため尽くしてきたのだから、これからは自分の好きなようにさせて貰う」。宗二にそう伝えてくれとのことだった。よく聞いてみると、再婚の相手を探したいようだ。房子はその世話役を買って出た。自分たち夫婦の関係が空疎になっており、離婚も考慮しようかという段階にさしかかっているにも拘らずだ。そして宗二は反対したが縁談を纏めあげ、結婚式場、式の日取り、参加者の顔ぶれなどすべての段取りをつけた。この作品には幾組かの夫婦が登場し、夫婦とは何かを、考えさせられた。

                    3月30日(火曜日)
 椰月美智子             「坂道の向こうにある海」
朝子は正人君と付き合うようになって四ヶ月になる。同じ職場の同僚の歓送迎会で、正人君と気が合って何となくそういう風になった。好きとか恋とかそういうんじゃなくて、成り行きというか雰囲気でそうしただけだったのに、回数を重ねているうちに、いつの間にか好きとか恋とかになっていた。すったもんだした挙句、私たちはそれぞれの恋人と別れ、付き合うようになった。朝子はこれまで正人君と同じ職場、老人福祉介護施設、いわゆる特養で働いていた。正人君と付き合いだして、デイサービスセンター西湘に変った。正人君が今まで付き合っていた梓は職場の中でも一際目立つ美人、正人君も整った顔のイケメン男子。どこから見ても、誰が見ても似合いのカップルだった。それに比べて朝子は平凡な顔立ち、スタイルも取り立ててよくない。朝子はこんな自分をどうして正人君が好いてくれたのか不思議に思うとともに、いつかは他の女性に目移りして正人君が離れて行くかもしれないと不安に思うこともある。その点、これまで付き合っていた卓也は毒にも薬にもならないぼーっとしたタイプで、人の良いのだけが採り得の男で、将来も女性関係で悩むことは無さそうである。その卓也と梓が交際を始めた。傍から見ると何時別れてもおかしくない不似合いなカップル二組が、周囲の雑音を撥ね退けゴールへと近づいてゆく。

                    4月3日(土曜日)
 青来有一              「てれんぱれん」
九州の長崎あたりで使われる方言に“てれんぱれん”という言葉がある。それはなんとなくぶらぶらと過ごして、怠けている人を非難するときに使う言葉だそうだ。私は長崎で生まれ育ち、幼い頃城山で父母と、二つ違いの弟、三つ違いの妹と暮していた。父は身体が弱くてあまり仕事が出来なかったので、それに代わって母が城山小学校の裏でお好み焼屋の店を切り盛りしていた。幼い頃の記憶は他の事は殆どぼんやりしているのに、母がお好み焼きを焼く鮮やかな手つきは妙にくっきり覚えている。その頃お好み焼きは一枚二十円。卵入りは三十円だった。お客は殆ど小学生程度の子供が相手で、店の片隅で駄菓子なんかも売っていた。食べ盛りの子供三人を抱え、働きのない亭主とともに暮らすので生活は楽ではなかった。その頃の母親の口癖は「一億円貯めてやる」だった。子供心にもとても無理な話だと思ったが、母は自分の心に叱咤激励していたのだろう。父が身体が弱いのには理由があった。十二歳の時、原爆に被爆したしたのだ。被爆からしばらくして、髪は全て抜けてしまい、食べた物も吐き出す状態で、一時は家族も諦める重態に陥ったそうだ。戦後で食べ物が極端に不足した時期であったが、父の母、祖母が卵や鶏肉をどこからか手に入れてきて、それは献身的看病をしてくれたという。それでもはかばかしい回復が得られず、あれこれ民間療法を試した挙句、最後に原子野にすくすく育つニラを摘んで、粥に混ぜて食べさせた。科学的根拠があったのかは分からないが、ニラを食べるようになって、父は次第に健康を回復しだした。この経験から父はニラが身体に良いということをずっと信じている。父はお好み焼きの店を手伝っているが時々、店から抜けて奥で一服する。店が立て込んできたときなど、母が父を探しに来る。「あんた、また、てれんぱれんして」と言いながら。父はあまり仕事に身を入れなかったが、店に来る子供には優しかった。どちらかというと子供には母より父のほうが人気があった。近所にライバルのお好焼屋が出来て商売が上手くゆかなくなった。父、母は毎日思案に暮れていたが、父の発案で身体に良いという、ニラをお好み焼きに使ってみようということになった。ところがこれが子供には人気が無かったが、大人には「乙な味」として好評を博し、ビールや酒のあてとして人気が出た。店は次第に子供相手でなく、お酒を飲みに来る大人の店として繁盛するようになってゆく。そして店の名もお好み焼き屋でなく、ニラ焼き屋と呼ばれるようになった。また、父にはあまり知られていないが不思議な能力があった。原因が分からない病気や、医者でなおらない病気も父は霊感によってその原因を突き止め、その処置をすると嘘のように治ると言う事があって、事情を知る一部の人には感謝されていた。私もそれに関して思い当たることがあった。夕方銭湯からの帰り、浦上川の支流に架かる橋の上からぼんやり川を眺めていたときのこと、父が川岸に生えている葦の茂みを指差し「おるおる」と言う。私は何も見えないので「なにがおる?すっぽん?」と聞くと、「お前には見えんか?ほらっ、岸の葦のところにぼっーっと白いのが立っているやろ」。「鳥?」。「神さま。死んだ子供は、そこで神様になる。そこにしがみついておる。お父ちゃんやお母ちゃんが迎えに来るのを待ってるんや」。「原爆のとき、このあたりの川岸には、いっぱい水を求めてきた人が死んでおったんじゃ」。父にはその死んだ人の魂というか、姿が見えるらしい。しばらくすると、父の背中におんぶされている時には、私にもその白い、ぼーっとした神様の姿が見えるようになった。父はこの神様を「てれんぱれんさん」と呼んでいた。後には父がいなくても、私にも「てれんぱれんさん」の姿が見えるようになった。しかし、弟や妹には「てれんぱれんさん」は見えない。あの頃から何十年、父母ともに亡くなり、私は結婚したが亭主が「てれんぱれん」で離婚し、子供たち二人も独立して出て行った。そんな或る日、城山時代の古い知り合いに出会った。昔、父が霊感により、医術で治らなかった喘息の患者を全治させたことがあるが、その患者当人である。家に悩み事があるので是非相談に乗ってほしいと言う。私は長い間、霊感とかからは遠ざかっているし、とても相談には乗れないからと断ったのだが、相手の切羽詰った態度に負けて、この家を訪ねることになった。この人の家は閑静な住宅地であるが、そのすぐ近くの雑木林の木に、数十人、いや百人以上かもしれない「てれんぱれんさん」の姿を見たのだった。

                     4月24日(土曜日)
 乙川優三郎              「闇の華たち」
 佐藤亜紀                「ミノタウロス」
 藤沢周平                「漆の実のみのる国」
前回記載以後今日まで上記3冊を読了。書くのが億劫になったのでコメントは付けない。ただし、決して読んだ作品のせいではない。それぞれ力作であり、面白かった。

                     5月17日(月曜日)
 乃南アサ                「涙」
 山本周五郎               「樅の木は残った」
 阿刀田高                「おとこ坂おんな坂」
 朱川湊人                「あした咲く蕾」
前回より今日まで以上4冊読了。歴史小説あり、推理小説あり。短編あり、長編あり、バラエティ豊か。

                     6月4日(金曜日)
 岩井志麻子               「雨月物語」
 群ようこ                  「れんげ荘」
 乙川優三郎               「時雨の岡」
 岩井三四二               「あるじは信長」
前回よりの読了分。

                     6月12日(土曜日)
 佐藤雅美                 「幽斉玄旨」
 佐藤愛子                 「院長の恋」
 諸田玲子                 「楠の実が熟すまで」
前回よりの読了分 

                     7月9日(金曜日)
 角田光代                 「三月の招待状」
 山本一力                 「研ぎ師太吉」
 笹本稜平                 「駐在刑事」
 山崎ナオコーラ              「男と点と線」
暑くなると読書のペースが落ちる。

                     8月12日(木曜日)
 林芙美子                 「放浪記」 
 柳美里                   「石に泳ぐ魚」
 大沢在昌                 「風化水脈(新宿鮫[)」
今年もお盆を迎える。最近は一年が過ぎるのが年々早まるような感じがする。

                      9月15日(水曜日)
今年の夏は例年にない猛暑で気象庁でも異常気象であると公式に認めている。私も年齢的衰えもあるがこの夏は殆ど一歩も家を出ず過ごしたことが何日もある。読書も滞りがちであまり読んでいない。
 井上 靖                  「しろばんば」
 朱川湊人                  「わくらば日記」
 鳴海 章                  「微熱の街」
 井上 靖                  「夏草冬涛」

朝夕涼しくなったら永らく中止していた散歩もぼつぼつ再開したいと思っている。

                       10月15日(土曜日)
母が先日入院した。今年九十八歳になる。病床に臥して十年余り、出来れば我が家で看取ってやりたかったのだが今年になって痴呆が進み、それに妄想が加わって、われわれ夫婦二人では手に負えなくなった。食事や飲み物、服薬を拒否するようになったのでやむを得ず入院させた。しかし四十年以上一緒に暮らした母がいなくなるとやっぱり寂しい。病気が全快して退院できればと思うのだが年齢を考えるとそれは無理だろう。娘が去り息子が去り、とうとう母までいなくなった。これからは夫婦二人だけの生活になる。

 藤田宣永                 「空が割れる」
 山本周五郎                「風雲海南記」
 井上 靖                  「北の海」
 澤田ふじ子                「もどり橋」
 竹田真砂子                「桂昌院藤原宗子」

                       11月24日(水曜日)
毎週水曜日に母を見舞っているのだが、病状は一向に改善の兆しがない。医師や看護士にはおとなしくてしやすいおばあちゃんで通っているそうだが、私たち身内には見舞いに行くたびに悪口を吐く。何故こうなってしまったのだろう。
 大沢在昌                 「新宿鮫\ 狼花」
 葉室 麟                  「オランダ宿の娘」
 岩井三四二                「理屈が通らねえ」          

                       12月27日(月曜日)
今年もいよいよ押し詰まってきた。ばあちゃんの病状は相変わらず。正月は病院で迎えることになる。夫婦二人だけの正月。しかし息子や娘、孫達も帰ってくるのでそれなりに賑やかなのだが。
 浅田次郎                 「五郎治殿御始末」
 南條範夫                 「武家盛衰記」
 宮尾登美子                「きのね(析の音)」
きのねは今年マスコミを騒がせた歌舞伎役者、市川海老蔵の祖父十一世市川団十郎夫人がモデルの小説。貧乏な製塩職人の娘が生活のため桂庵(私設職業紹介所)の世話で役者の家の住み込み女中として働くことになった。地味で控えめな性格の光乃はこの家の長男雪雄のお付女中となった。歌舞伎役者の家には難しい古いしきたりがいろいろ残っている。まして時代は昭和の初期、使用人は家人の言うことには絶対服従である。光乃は雪雄のためわが身を犠牲にした献身的な態度で雪雄に仕える。雪雄がストレスから殴る、蹴るの暴行をはたらいてもじっと耐え忍ぶ。雪雄が大病を患い危篤状態に陥ったとき、二度にわたって我が血液を雪雄に提供して雪雄の命を救う。こんなことが何度もあり、雪雄は次第に光乃を事実上の夫婦として扱うようになった。しかし歌舞伎役者の家には古いしきたりが残っている。お付女中を正妻として迎えるには困難な壁が横たわっている。それを乗り越えて二人は正式な夫婦となったのだ。光乃の雪雄に対する終始変らぬ愛情とそれに答えた雪雄に感動した。 


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