NO 7

  平成21年1月9日(金曜日)
 乃南アサ     鎖
警視庁の機動捜査隊音道刑事の登場する作者の人気シリーズの第何作目になるのか。正月休みはこの長編作品を読むのに費やした。  機動捜査隊は重要事件が発生した際、初期捜査活動に従事することを任務とする。まず目撃者や第一発見者、事件関係者の聞き込みに回るらなければならない。重要事件の発生を認知した時から、おおむね現場観察終了の間まで現場で捜査活動を行うことを任務としている。正式に捜査本部が設置されると本部に事件を引き継ぐことになる。今回の事件は通報により現場に駆けつけると、四人の男女が仲良く枕を並べて布団に横たわっていた。いかにも穏やかそうな光景に見えるが、室内に立ち込める臭いと、どす黒く染まった敷布団の色は容易ならざる事件の発生を告げていた。掛け布団をめくってみると周りは血の海となっていた。四人は手足を粘着テープでがんじがらめに縛られた上、いずれも頚部を刃物で切り裂かれて惨殺されていた。ただちに捜査本部が設置され、音道は捜査本部要員として召集された。捜査本部では星野という32歳の男性警部補とペアを組んで聞き込みに回ることになった。被害者宅は夫婦二人暮しで占いや、除霊等を生業としていた。そのため妻は常に巫女のようないでたちをしており、殺された時もその装束のままであった。家族が2人とも殺されたので被害品が分からない。家の中を捜索するうちに、銀行がお得意先に配布する景品が沢山出てきた。しかもこれまで被害者のものとして発見された預金通帳以外の銀行のものである。音道はその銀行に架空預金があるのではないかと疑った。星野にそれを伝えると、星野はそれを捜査本部に報告することなく直接銀行に出向いて調査すると言う。音道は疑問を感じたが星野が階級が上なので止む無くそれに従った。しかし銀行は確たる証拠のないこの捜査に協力的でなかった。星野はあっさりこの捜査を打ち切った。ところが別のベテラン捜査員がこの件を発見して追及し、ついに2億円の架空預金が、殺人事件があった当日何者かによって全額引き出されていることを掴んだ。星野は捜査技量が未熟な上、とんでもない男であった。音道がバツイチであるのを知ると、自分も離婚して独身であることを理由に交際を申し込む。音道がこれを断るとこれまでの態度を豹変させて、上司風を吹かせ音道の行動をことごとく束縛する。堪らなくなって音道は星野と別行動を取るようになった。事件捜査では常に2人で行動しなければならない。これが守られなかったため音道は犯人グループに拘束され、以後生死をさまよう苦労をすることになる。

         1月15日(木曜日)
 小林信彦       東京少年
作者の自伝的体験をもとに書かれた作品。東京日本橋の両国で代々和菓子屋を営む家の長男として生まれた僕は、それまで大事に育てられ苦労などしたことがなかった。太平洋戦争が始まったが、その影響は昨年(昭和18年)の夏ごろまではあまり感じなかった。昨年の暮れ突然文部省が、学童の縁故疎開を促進すると言い出した。縁故疎開とは文字通り血縁をたどって地方へ移住することである。僕の家は地方に全く親戚がなかったわけではないが、僕を引き取ってくれるほどの親しい付き合いはなかった。学校が縁故疎開か、集団疎開かどちらかを選べと言い出したとき、答えはおのずと決まっていたようなものだ。昭和19年の8月29日、僕と弟は埼玉県の入間郡名栗村に集団疎開することになる。疎開先は竜源寺というお寺であった。この竜源寺にたどりついたのは53人でそのうち僕たち6年生は45人、残りは弟妹ということになる。これまで僕たち兄弟は家が比較的手広く食べ物商売をしていたので、食べ物に関して苦労したことがなかった。ところがこちらに来ると共同生活で皆が平等である。特定の者だけが親の援助を受けるわけにはいかない。ひもじい時は誰も一緒である。食事はまかないの小母さんが出してくれるが、南瓜やジャガイモが飯の中に混じり、盛りきりのご飯である。勿論お替りなど出来ない。育ち盛りの僕たちにとってこれは苦しい。このため食べられると思われるものは何でも口にした。川で取れる小魚やえび、かにの類。しまいには田んぼの蛙まで焼いて食べた。それでも足りないと近所の農家の芋や、柿などを盗み食いした。これが見つかって農家の苦情が絶えない。それに集団生活をしているといろいろ嫌なことが発生する。集団による弱いものいじめ、盗み。不衛生から発生するしらみや蚤の類、流行り病など。僕はいずれいつかは家に帰れると思ってそれに耐えた。ところが昭和20年3月10日の東京大空襲によって、我が家は全焼した。幸い両親とも無事だったが一家の行くところがなくなった。僕たちは遠い親戚に当たる新潟の大高さんと言う人を頼ることになった。ここからまた僕たちの苦難の生活が始まる。

太平洋戦争による縁故疎開は我が家も体験者である。農地も何もなかった我が家は文字通り明日の生活の目途が立たなかった。こんな苦しい思いは二度としたくない。その当時の苦しい生活を思い起こして身につまされた。

          1月21日(水曜日)
 岩井志麻子      べっぴんじごく
明治20年代後半、女の子を連れた母親の乞食が食い物を求めて村々を歩き回っていた。オンボロ、サンボロ、アラメの行列…。四国でも乞食(ほいと)をはやし立てる子供の唄は同じだったと思うが、岡山に渡ってきてからは更にこの歌声が耳につく。瀬戸内海側を歩いている時は、そんなざれ唄を唄われ石を投げつけられれば、さすがにシヲも口惜しい気持ち、惨めな気持ちでずっと下を向いて歩いた。母はそんな時決して助けてくれない。「うちら乞食は、虐められ哀れまれてこそじゃ。惨めったらしい姿をしとったら、貰いが多いけんのう」。それが母の処世術である。岡山も北の山岳地帯に来れば乞食でさえ、施しが出来ぬかと迷うほどに貧しい。「お母。わし、こねぇな寒いひもじい村は嫌じゃ。南の、海のほうに戻りてぇ」。「南の方は乞食が多いけん。わしらの貰いもんが少ねぇ」。母は引返すことなく貧しい村々をさ迷い歩く。よくは知らないが母は施しを貰うだけではなく、貧しい百姓相手に色香も売って歩いているようだ。そんなシヲに思いもかけぬ幸運が訪れる。ある村を物乞いで回っている時、村一番の分限者の一人娘がシオを気に入った。この娘は東京で教師の男と恋愛をしたが逃げられたとかで、村に帰ってきたがそれ以来気が狂ってしまった。シヲが村を歩いているのを見つけると、奇声をあげて駆け寄り頬を摺り寄せてくる。シヲはこの娘のお相手役としてこの金持ちの家で暮らすことになった。ところがこの娘が事故で死んでしまった。それを嘆き悲しんだ母親は、気がおかしくなりシヲが娘の生まれ変わりだと信じてしまう。反対するものも多かったが、こうしてシヲはこの家の養女となった。養女としてきちんとした服装をさせ、身だしなみを整えると見違えるような美人に生まれ変わった。これまで乞食で学校にも行ってなかったが、学校で勉強させると頭も良かった。こうしてシヲはこの家の後とり娘になる。この間シヲの母は知り合った座頭とねんごろになり、シヲには何も知らせずどこかに消えてしまった。やがて母は変わり果てた姿で見つかった。絞め殺されたうえ、片っ方の足を切り取られていた。シヲには誰にも知られていないが死んだ人の姿が見えるのである。昔亡くなった父親や、先ほど殺された母親がシヲに纏わりついてくる。この作品は明治中期のシヲ7歳の頃から、生死の境をさ迷う104歳の平成の世まで、波乱に満ちたシヲの一代記が綴られている。この作者の作品は現代の怪談の如く死者や亡者、化け物とおぼしき者が頻繁に出てくる。そして人権主義者が読むと目をむくような、差別用語や一般人でも嫌悪を感じる侮蔑的言葉もぽんぽん出てくる。これが歯に衣着せぬこの作者の特徴でもあり、魅力でもあるのだが。

          1月30日(金曜日)
 山本兼一        利休にたずねよ  平成21年第140回直木賞受賞作
堺の大きな魚商の息子として生まれた千与四郎は家業の干し魚の商いも、納屋貸し業も至って順調で、暮らし向きには何の不自由もない。大店の主人がたしなむ茶の湯に凝って宗易、あるいは抛筌斎と号している。初め北向道陳という男について東山流の格式ばった茶を習ったが、それに飽き足らず侘び、寂びで著名な武野紹鴎の教えを受けた。その後堺の大店の旦那衆と茶の湯を通じた交わりが始まり、時の実力者織田信長の知遇を得る。信長が亡くなると、後を継いだ豊臣秀吉に気に入られ茶道の指南役である茶頭となる。天正15年秀吉は島津征伐のため筑前筥崎八幡の客殿に本陣を張った。或る日、秀吉は「ちくと、かわった趣向で茶を飲ませよ」と利休を呼んだ。利休は「少しお歩きいただけますか」。わずかな供廻りを引き連れて松原の浜を歩いた。松の木陰は海からの風が爽やかだ。「このあたりに致しましょう」。枝振りの良い松の木陰に緋毛氈を広げ、虎の皮をひいた。 「どうぞおくつろぎくださいませ」。利休に言われて秀吉は腰を下ろした。「これはよい」。海を眺めて、波の音、松風の音を聴いてみれば心の雑念は消えた。「湯を沸かしますのに、しばらくお時間をいただきます」。秀吉は腕枕でごろりと横になった。利休はといえば、松の枝に鎖をかけ雲竜釜を釣っている。石を三つ、その下に置いて、松葉を燃やしはじめた。白い煙がもくもく湧きあがった。「これは良い。これは良い趣向だ。気に入ったぞ」。起き上がって手をたたいた。「座興でございます。お許しくださいませ」。「いや愉快だ。こんな愉快なことを、どうしてこれまでせなんだのか」。松葉をふすべながら、利休は金蒔絵の重箱を広げた。なかは握り飯だ。「およろしければ」。手にとって口にはこぶと塩だけで握った飯が、ことのほか美味く感じられた。大きな握り飯を食い、青竹の筒から酒をニ、三杯飲むと、腹がくちく眠くなった。うつらうつら、一眠りして目が覚めたとき、湯の沸く音が聞こえていた。気分が爽快である。「薄茶をもらおう」。さらにもう一服所望した。腹の底から漏れたため息が、永年の間たまっていた不満や鬱屈をすべて吐き出してくれた。ほんのひと時、こんなゆっくりした時間が持てるならば、また明日から力いっぱい突き進めると思った。「美味かった。いや、よい茶であった」。利休は人の心の奥に潜む欲求を、的確に掴みそれを形として表現した。不足することなく、過剰でもなく。利休はまさにそれしかないと思われる方法でふさわしい表現をする。秀吉はこんな利休の能力を高く買いながら、次第に小面憎く思いはじめた。あるとき、秀吉は茶の湯に関心がなく、むしろ茶の湯の批判者である黒田官兵衛に相談を持ちかけた。何とか利休に一泡吹かせる工夫はないものかと。官兵衛は引き受けて工作をするが、利休は平然としてこれをしのいだ。かえって官兵衛は利休の的確な処置に感銘を受け、弟子入りを希望する。こうして秀吉の利休に対する不満は次第に蓄積されていく。関白として絶対的な権力を握る秀吉が、茶の道ではとても太刀打ちできない。それがくやしい。一度でもその鼻を明かして溜飲を下げたい。それに近頃は利休の持つ茶道具で、気に入ったものがあって所望しても絶対譲ってくれないものがある。万金を積んでも駄目である。それも腹に据えかねる。橋立の壷はわしが譲れというと、大徳寺に預けてしまった。密かに所持していた緑釉の香合を、目ざとく見つけて所望したがこれも断られた。あの緑釉の香合はなんとしても欲しい。しかし利休は無理に所望すると破却しかねない。こうして秀吉と利休の溝は修復できないほどに深まっていった。そして利休の切腹という悲劇的な最後を迎えるのである。

          2月4日(水曜日)
 志水辰夫       みのたけの春
榊原清吉は現在の兵庫県北部、但馬の郷士の家に生まれた。もともと狭い農地を耕す農家であったが、近年は少しでも生活の向上を求めて養蚕も始めている。郷士として苗字帯刀は許されているが、武士との差は厳然として存在している。家族は母と清吉の二人、他に父の代からの奉公人与助がいる。父の代には郷士としてそれ相応の暮らしをしていたが、母が大病を患いその手当てのため借金を重ねた。父が急な病で亡くなった後、財産の整理すると思いのほか多額の借金があり、その返済のため家屋敷を手放し、あばら家へ引っ越したが、それでも借財が残った。郷士の間には入山衆と呼ばれる共助組織があった。清吉の家の借金はこの組織に肩代わりしてもらって、今は少しずつこの借金を返済している。そのため"つぶれ”と呼ばれる破産状態にならずすんだ。入山衆の組織の中には三省庵と呼ばれる教育機関があって郷士の教育に携わり、他に郷士に武道を教える尚古館という道場もある。三省庵では現在塾生が6名おり、諸井民三郎は清吉のもっとも親しい友人である。民三郎は勉強は得意ではないが、剣の腕は確かで尚古館の代稽古が勤まるほどの腕前である。或る日民三郎は三省庵からの帰途、代官所の役人と悶着を起こし、役人を三人切って逃亡した。代官所の役人は侍風を吹かし普段から郷士に辛く当たっていた。その日は悪いことに役人が三人とも酒気を帯びており、逃げる民三郎にひっこくからみ、刀を抜いて切りかかった。防ぎきれなくなった民三郎が止む無く抜刀して応戦し、一人が即死、一人は手当てを受けたがその後死んだ。非は明らかに代官所の役人にあるが、役人を切ったとあってはただではすまない。代官所は民三郎の身柄の引渡しを入山衆に求めた。入山衆の間で協議した結果、民三郎の親友である清吉に、民三郎の居場所の探知と、自訴の説得を指示されてしまった。時はあたかも尊皇攘夷運動が燃え上がろうとしている幕末の動乱期。但馬の山奥にもこの影響がひたひたと押し寄せる。こんな中で清吉は困難な使命を全うするため、家業に従事しながら全力を尽くす。さて結果はどうなるか。

          2月9日(月曜日)
 澤田ふじ子      茶湯にかかわる十二の短編
                  宗旦狐
裏千家の月刊茶道誌「淡交」に1年間連載されていた、茶湯に関する短編小説十二編が収録されている。作者は茶湯の造詣が深いらしく、この他にも茶道に関する作品が沢山あるようだ。
     「宗旦狐」
若狭街道の京口は寺町今出川に一軒の葦簾茶屋があった。この店は街道を通る旅客を相手に商いをしている。黍団子や焼餅を出していたが、ちかごろは串に刺した焼き団子も商うようになった。最近この焼き団子を目当てに相国寺のほうから毎日通ってくる客がいる。しかも一皿三本の串団子を三皿もぺろっと平らげて上機嫌で帰っていく。その人は古びた道服を着た、人のよさそうなお年寄りで、侍童を従えている。するとまた奇妙な中年の客が現われた。道服を着た客が食べた串団子の代金を、全部自分にこっそり支払わせてほしいという。「代金さへいただければ文句はありまへん。そやさかい、毎日相国寺のほうからきはるお年寄りには、お代金は結構どすと申し上げてます」。そのかわり、その奇特な人は「お年寄りが食べた団子の串を残らず貰いたい」と頼み込んだ。見た人の話によると、この道服を着た老人は太閤秀吉に切腹させられた、茶湯者の千利休の孫に当たる宗旦ではないかという。千宗旦は祖父利休の侘び茶を徹底して伝えるため清貧に甘んじ、その姿勢は数々の逸話となって残されている。このお年寄りの団子の代金を支払っているのは、その後富小路竹屋町に店を構える筆師「十四屋」の主人太左衛門だとわかった。千宗旦には何年も前から妙な噂がささやかれていた。京都相国寺の境内には老狐が棲んでおり、この老狐が宗旦に化けて近所に住む僧や茶人を尋ね茶を喫し菓子を食べて帰るという。「十四屋」の主人太左衛門はこの噂を知っていて、串団子好きの老人の食べた後の団子の串を密かに眺めたのである。すると団子の串何本かに狐の細い和毛(にこげ)が付着していた。太左衛門はこの毛を密かに集めて筆を作ろうと目論んだ。宗旦に化けた狐の毛を集めて筆を作れば、どこかの数寄者がきっと高値で買い取ってくれると信じたのだ。集めた団子の串からようやく筆一本分の狐の毛がたまって、太左衛門がにんまりしていると、当の千宗旦が店に訪ねてきた。「私に因縁のある筆だから是非私に譲ってほしい。代金は大判二枚で譲り受けたい」と。太左衛門は肝をつぶした。高値で売れるとは思ったが、まさかこれほどとは。千宗旦は「金は今持ち合わせていないので、屋敷まで一緒に取りに来てくれ」と言うので、筆を宗旦に渡し屋敷についていった。屋敷前に来ると、「金を取ってくるからここで待て」と言われ、宗旦は屋敷の中へ入った。ところが待てども待てども宗旦は現われない。結局またしても宗旦狐の餌食になったのであった

         2月26日(木曜日)
 白洲正子      やきもの談義  陶芸家加藤唐九郎との対談
「永仁の壷」事件で有名な瀬戸の陶芸家加藤唐九郎氏との対談。白洲正子は九州薩摩の明治維新の功労者の家に生まれ、成長するまで何不自由のない生活をおくる。成人して関西の名門実業家の御曹司、白洲次郎氏と結婚する。4歳の時から能を習い始め、女性として初めて能舞台に立つ。芸術に関する造詣が深く、著書も多数ある。やきものの収集も趣味で、知識は豊富。私が白洲さんを知ったのは何かの本で信楽か、備前かはっきりしないが大きな古い壷に、黄色い小さな花が大量にさりげなく活けてあるのを見てからである。白州さん自邸の玄関の端のほうにこの大きな壷はひっそり置かれていた。活けたのは白洲さん本人だそうだ。古い大きな壷と枝垂桜のように垂れる沢山の黄色い花は、私のような素人が見てもベストマッチングで、今でも強く印象に残っている。話は横道にそれたが、白州さんは歯に衣を着せずはっきり物を言う人なので「永仁の壷」事件の真相が明らかになるのでは、と期待した。白洲さんも前説で「永仁の壷」事件に触れ、「永仁の壷事件その他、彼の身辺には様々な噂が立った。それと比例するように、唐九郎の名は高くなり、作品の値も鰻のぼりに上がって行った。こういう現象は、多分外国では起こりえないことで、作品さえ良ければ他は問はないところに、日本人の面白さがあると思う。要するに、それは人間の信用の如何に関わることで、真贋の問題は、一般に考えられているよりはるかに複雑なのである。一つには永仁の壷の真相がしりたいこと、もう一つは、世間で怪物と言われている唐九郎が、果たしてそれほど化け物じみた人間なのか、私は自分の目で確かめてみたかった」と述べやる気満々なのである。ところが、唐九郎氏はさすが怪物で、白洲さんが「唐九郎は贋物作りで有名になっちゃった。悪名を轟かせているが、もういいんじゃないの。真相を話してよ」と問いかけても、「あれは軍部につながる問題なんだ。日本の戦争遂行のために頼まれて作ったものなんだ。それを僕を貶めるために利用されてああいうことになったんだ」と言うだけで詳細を語らない。重要文化財として国に指定を申請した小山富士夫氏も真相を語らないままに他界したし、加藤唐九郎氏も亡くなった。「永仁の壷」事件は真相を知る当事者が皆故人になってしまって事件は迷宮入りである。

         3月3日(火曜日)
 高野裕美子    あの日の櫻吹雪よりも
女性ファッション誌「リベルテ」の編集スタッフとして務める川名真由子は通勤の途上、何気なくエンタティメント情報誌を開いた。そこに高校時代のクラスメート、水上麻美の写真が載っていた。高級セレクトショップ<カルチャー.ウインドウ>が新しく出す店舗の店長としてその抱負を語ると言うインタビュー記事だった。高校時代から真由子は水上麻美にライバル意識を燃やされ、目の敵にされていた。麻美は同級生の中でもクラスで一番目立つ存在で、本人は女王さま気取りだった。勉強は出来なかったが、必要とあれば狡猾な知恵を搾り出し、人をひきつける不思議なオーラもあった。一方真由子は成績優秀で模範的生徒であり、容姿も優れていた。ある時、麻美のグループを仲間はずれにされた生徒を真由子は自分のグループに加えた。麻美を恐れて他の誰も彼女を助けられず、その生徒は孤立していたのだ。この事があって以来、二人はますます仲が悪くなった。真由子が大学時代、合コンで偶然高校の同級生鳥居夏樹に再会した。大学を卒業しても二人の仲は続き、お互いの住まいを行ったり来たりする間柄になっていた。夏樹は新聞社に就職し社会部の記者になっている。大学を卒業した翌年、高校の同窓会の案内状が来て二人は出席した。ここで久しぶり麻美に会うが、真由子は夏樹との仲を感ずかれてしまった。麻美は別に関心も無かった夏樹に近づくため、これまでの勤め先を退職して、夏樹の新聞社が入居しているビルの案内嬢として入社した。そしてどんな手段を用いたのか知らないが、真由子から夏樹を奪う。将来を誓い合っていた夏樹の突然の裏切りに真由子は途方にくれた。真由子の一家は真由子が生まれるはるか昔、50年以上も前鳥取県と境を接する岡山県の伊那江村という山里に暮らしていた。そこにダムが建設されることになり、住むところが無くなった一家は神奈川県に移住した。ダム建設については建設賛成派と反対派に分かれて激しく争っていたと言う。真由子の祖母は反対派の主力として最後まで戦っていた。そんな祖母にエピソードが残っている。同じく反対派でリーダーであった地元老舗旅館の若主人と激しい恋に落ちたのだ。ダムが着工されて二人の恋は終わったが、その後その若主人は行方不明になったと噂されている。真由子が夏樹と別れる一ヶ月ほど前このダムの底から白骨死体が見つかった。夏樹はこの事件を調べてみると張り切っていた。真由子の祖母がこの村の出身であることも知っていた。ところが夏樹は事件の経過を何も真由子に伝えないまま、突然麻美と交際を始め真由子のもとを去った。そして麻美とも半年あまりつきあったのち別れて故郷の北海道に帰ってしまった。真由子は夏樹が何か隠しているように思えてならなかった。こののち今度は真由子が麻美の恋愛を妨害するため、その恋人を誘惑することになる。物語は二人の恋の行方を追いながら、昔の殺人事件の経過も追跡する。

          3月19日(木曜日)
本を読んではいるのだが億劫になって感想はかけない。前回からこれまでの読んだ本の紹介だけ。
 山崎ナオコーラ   浮世でランチ
これまで何度も芥川賞の候補に挙がった作家なのだから優秀な物書きなのだろうが、わたしには相性が悪い。
 車谷長吉       物狂ほしけれ
作者独特の厳しい人生論が展開されている。
 岩井三四二      南大門の墨壷
兵火に焼けた大仏殿の再建のため命をかけた若き大工の棟梁の物語。

          3月24日(火曜日)
 森絵都        「風に舞いあがるビニールシート」 2006年第135回直木賞受賞作
外資系金融機関のエリートとして将来を嘱望されていた里佳が突然転職した。転職先は国連の関連機関である国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)。ここで里佳は上司である専門職員エドことエドワード.ウェインと恋仲になり二人は結婚する。UNHCRの管理職である専門職員はローテーションポリシーという決まりがあって、難民の多い危険度の高い地区の勤務を必ず何年か体験したのち、何年かは治安の安定した安全な国の事務所に勤務するという体制になっている。決して安全な国ばかりに留まっているわけにはゆかない。結婚するまではこの決まりを冷静に理解できた。しかし結婚するとエドの身に何か悪いことが起きはしないかと心配で堪らなくなる。里佳は少しでも安全な道を選べるよう夫に進言するが、夫は自身の任務を自覚していてそれを受け入れない。二人の結婚生活は7年間続いたが、結局任務に対する認識の違いから離婚することになった。こののちエドは危険度の最も高いアフガニスタン勤務となり、難民の一人の少女を助けようとして殉職する。そしてある新聞記者からエド殉職直前の状況を聴くことが出来た。今は亡き夫の崇高な任務に感動し自分も危険な地域への勤務を希望するようになる。

          4月4日(土曜日)
 山本周五郎     「栄花物語」
徳川9代将軍家重によって抜擢を受け、小身旗本から加増を重ね大名にまで出世した田沼意次は、続いて10台将軍家治の時代に老中筆頭にまで進んだ。その出世が余りにも異例であり、将軍の寵愛も深かったためその嫉妬からか、従来彼の評価は芳しくなかった。彼の執った政策も景気刺激のため商業を重視した進歩的なものが多かったため、保守的な層の反感を買っていた。賄賂の横行とか、武士が余りに金銭にこだわりすぎるとか悪評が高かった。この本では田沼意次の政治は武士が商業資本のこれ以上の進出に歯止めをかけ、形骸化した武士権力の回復を求めたものとして再評価している。

          4月18日(土曜日)
 村田喜代子      「人が見たら蛙に化れ」
美術評論家で骨董の稀代の目利きと謳われた青山二郎の言葉を題名にしている。心の底から惚れた骨董は、その素晴らしさを見出した己の前だけで輝いていればよい、他人なんかが見たら蛙になってしまえばよい、という意味合いだそうだ。
この作品も骨董の魅力に取り付かれた三組の夫婦、元夫婦が、ごくたまに巡ってくるお宝に目を晦まされ骨董の魔力から抜け出せないでいる。しかし幸運は一時的なもので長くは続かない。この三組も結局一組は妻が家出したうへ、自分はやきもの盗掘で捕まり、もう一組は妻が癌で入院したうへ、自分は贋物の絵画を売った罪で捕まる。最後の一組も人形に取り付かれた良いスポンサーを掴み、ヨーロッパに古い昔の日本人形を探しに行くが、目的物を見つけて喜び勇んで日本に帰ってみると、土壇場でキャンセルされる。おまけによりを戻しかけていた元妻にも逃げられる。この三組は果たして骨董界から足を洗うことが出来るのだろうか。

          4月27日(月曜日)
 森孝一編        「青山二郎の素顔」
 白洲信哉        「天才青山二郎の眼力」
どちらも稀代の骨董の目利きと言われた青山二郎に関する本。「青山二郎の素顔」の方は生前彼と交流があった人とか、彼を知る関係者の見た青山二郎の人物像。彼は麻布中学卒業後日本大学に入学、法学部に籍を置くが大学には通わず中学時代に覚えた骨董に興味を持ち、東京帝大で開かれた「陶磁器研究会」に通う。絵画にも興味を持ち中川一政に本格的に絵を習う。その傍ら文学書や哲学書を読み漁る。彼は大学は出なかったが、彼の周囲には帝大出の錚々たるメンバーが集まった。小説家で評論家の小林秀夫、同じく河上哲太郎、永井龍男、中原中也、などが頻繁に集い、「青山学院」と称された。その他にも大岡昇平、今日出海、宇野千代、白洲正子、井伏鱒二等とも交流があった。芸術家や陶芸家、陶芸愛好家では柳宗悦、河井寛次郎、横河民輔、北大路魯山人、秦秀雄、浜田庄司、加藤唐九郎等と親交があった。彼の遺骨は加藤唐九郎の焼いた壷に収められて谷中の墓地に眠っている。小林秀雄とは生涯の友人で、小林の骨董開眼は青山の導きと言われている。「.....の眼力」の方は青山二郎によって見出された美術品(主に陶芸品)の数々がそのエピソードと共に紹介されている。どちらの本も、やきもの好き、骨董好きには興味尽きない本である。

          4月28日(火曜日)
 群ようこ        「ネコの住所録」
ネコをはじめ犬、鳥、猿、熱帯魚、ハエ、蟻にいたるまでそのユーモラスな生態を捉えて、思わず微笑んでしまう随筆。筆者の動物好きが随所に窺われその観察眼も細かい。時のたつのも忘れて思わず読了してしまった。

          5月7日(木曜日)
 北重人        「鳥かごの詩」 
秋田県出身の鳥海康男は国立大学の受験に失敗した。国鉄に勤める父には息子を浪人させてまで大学に通わせる余裕はなかった。大学進学は現役合格が条件だった。康夫は働きながら予備校へ通うつもりで故郷を離れ東京に出てきた。住込みで働きながら予備校にも通える仕事はなかなか見つからない。しかも勉強を続けるためには個室が絶対必要である。そのために探したのが新聞販売店の仕事だった。就職した新聞販売店には大学に通いながら新聞の配達をしている人とか、康夫と同じく浪人をして大学を目指す人とか、挫折して大学進学をあきらめた人とか、行き先がなくてやむを得ず販売店に転がり込んだ人とか種々雑多な人が寄り集まっていた。康夫はこの販売店で一年間働きいろいろ苦労を積み、種々の人生体験を積む。途中暴力が絡んだ恐ろしい事件があり、それに恋愛も絡んで勉強がおろそかになり挫折しそうな時もあった。しかし一年間の努力が実って目出度く国立大学に合格し、世話になった新聞販売店を巣立つことになった。読後感の爽やかな作品である。

          5月12日(火曜日)
 火坂雅志       「骨董屋征次郎京暦」
加賀金沢藩のお買い物役を務めた柚木清右衛門は征次郎の父であったが、稀代の詐欺師が仕掛けた巧妙な罠にはまり、贋物の骨董を藩費で買い上げた。父はその責任を取り自裁して果てた。征次郎は藩を追われて浪人となった。幼い時から父が役目上取り扱っていた骨董に興味を抱き、今では骨董商を生業とし、京都夢見坂に遊壷堂という骨董店を構えている。時代は幕末から明治に変わった動乱期でまだ世の中は物情騒然とした状態が続いた。こんな中で征次郎は骨董商を営むことになる。西欧から新しい文化が押し寄せ、ともすれば日本の古美術などは誰も省みない時代であった。反対に渡来した西洋人は珍しい日本の古美術に興味を示し名品、優品を買いあさり、それをどんどん海外に持ち出しつつあった。征次郎はこんな時代の風潮を密かに嘆いていた。そんな征次郎の店に持ち込まれる骨董を巡って物語りは展開する。

          5月16日(土曜日)
 阿刀田高       「影まつり」
短編小説の名手と言われる作者の短編小説集。短編小説が12編収録されている。さすがにどれも洗練された作品であるが、中で印象に残った「女系家族」を取り上げた。辰治は30年近く前寿子と結婚し、今は都内の3LDKで妻の寿子と二人で暮らしている。一人娘の祥子が結婚して近くに住んでいる。3歳の孫娘がいてとても可愛い。幸いこれまで家族や他の血縁者にも目立った事件、事故に遭遇した者はいない。辰治はこれまでは無事で済んでいるが、ぼつぼつ不幸が襲ってくるのではないかと内心漠然と思うことがある。今、気がかりなのは結婚した当初妻と交わした約束である。それは一年に一晩だけ妻を自由にさせると言うことだった。そしてその理由を尋ねないという約束。妻は毎年忠実にこの約束を実行している。一晩だけで翌日には妻は帰ってくるので、これまで別に差し障りはなかった。幾年か経って妻に行き先を尋ねたが、「約束でしょう」と笑って答えない。それで今まで過ごしてきたのだが近頃気になりだしてきた。約束の日が年によって違うというのも気がかりだ。そして辰治はとうとう妻の後をつけることになった。サテその結果は。

           5月25日(月曜日)
我が住む町もこの一週間余の間、新型インフルエンザの流行で生活のリズムが狂ってしまった。ようやく兵庫県の感染者の発生も昨日はゼロとなった。まさかこんな短期間にこれだけの感染者が発生するとは夢にも思わなかった。私の町は感染者数は少ないが、発生源の神戸市に隣接していることで人が集まる公共機関は閉鎖されている。私の利用している図書館も明日まで閉館となっている。まだインフルエンザの終息が確認されたわけではないので、明後日はマスク着用で久しぶりに図書館に行こう。

 青山七恵        「やさしいため息」
まどかは学校を卒業すると両親の住む家を出て一人で暮らしている。今は派遣会社の事務の仕事をしている。内気で孤独を好む性格のため友達はいない。会社には女性社員も多く、入社当時は同僚が昼食時や終業時、あちこち誘ってくれたが何となく気後れしてその都度理由をつけて断っていた。いまでは誰も誘ってくれない。昼食は公園や会社の屋上で一人でとっている。そんなまどかでも寂しくなる時がある。そんなとき同期に入社した女性社員を誘うのだが誰も本気にしてくれない。或る日そんなまどかの家に弟が訪ねてきた。弟はまどかに似ず人懐っこくて誰とでもすぐ友達になる。弟はまどかより4歳年下で、大学生なのだが
いまは学校に通っていない。放浪癖があって今はどこに住んでいるのか家族は誰も知らない。弟はしばらく泊めてくれとまどかに頼んだ。その代わり食事の支度や家の手伝いをするという。弟はまどかの生活に興味があるのか、毎日その日一日のまどかの行動を聞き出し、それを簡潔に日記につける。まどかはいかにも自分が会社で同僚とうまくやっており、友人も沢山いるように作り話を告げる。弟はそれを飽きもせず几帳面にノートに記録する。まどかはこの偽りの記録を時々盗み見る。この作品には孤独な姉と、何を考えているのか分からないつかみ所のない弟の生活が綴られているだけで、他に変わったことは起こらない。淡々とした作品だが奇妙に印象に残る。

            5月30日(土曜日)
 辻仁成          「海峡の光」 1997年第116回芥川賞受賞作品
かって斎藤は青函連絡船の乗組員であったが、青函トンネルの開通によりいずれは職を失うことになることを恐れて陸に上がった。いろいろ就職先を探した末、法務省の刑務官の仕事に就いた。今は故郷の函館少年刑務所に勤めている。この刑務所には全国で唯一船舶訓練教室と呼ばれる船舶職員科が設けられ、受刑者の職業訓練に当たっている。斎藤はこの船舶訓練教室の副担当官の職務についていた。今年訓練を受けるため全国から集まった受刑者10名の中に、かっての小学生時代の同級生花井修の名前を見つけた。花井は小学生時代同級生であったが、彼が小学校を卒業して父親の転勤で他校に転校するまで、陰湿ないじめを受けていた。花井は優等生でクラスメートの人望も厚く、表面上は誰に対しても優しく申し分のない生徒であった。ところがこれは人が見ている外面だけで、内に回ると自分の手下である生徒を使って、弱い者を徹底的に虐めた。しかもいじめには自分は直接参加せず傍観者の態度をとり、ときには被害者を庇うようなゼスチャーを示した。このため事情を知らない第三者には優しくて模範的な優等生として写った。斎藤は花井のためクラスで仲間はずれにされ、小学校卒業まで辛い毎日を送った。花井の転校によりいじめから開放された斎藤は、再びいじめに遭わぬよう高校ではラグビー部に所属し心身を鍛えた。学校を卒業すると国鉄に入社し、故郷の函館に帰って青函連絡船の乗務員となったのであった。花井と別れて18年の歳月が経つ。当時の美少年の面影はなく痩せこけていた。今では身長も斎藤の方がずっと高く、体格も勝っていた。花井は斎藤に気づかなかった。府中刑務所から送られてきた花井の身分帳を見ると、花井は国立大学を卒業したのち外資系の銀行に勤め、周囲の人望も厚く杉並の実家で父母と3人で暮らしていた。それが彼が24歳の秋、路上で会社帰りのサラリーマンを所持していた登山ナイフで刺し重傷を負わせた。そのサラリーマンとは初対面で、何の理由もなくいきなり犯行に及んだという。そのため精神鑑定に回されたが何の異常も認められなかった。こうして斎藤と花井の関わりが再開された。斎藤には幼い頃のトラウマが付きまとう。

            6月2日(火曜日)
 川上未映子       「乳と卵」 2008年第138回芥川賞受賞作品
東京で暮らしている私のところに姉の巻子とその娘の緑子が訪ねてきた。大阪に住む姉はこの夏3日間休みが取れたという。この休みを利用して前から念願だった豊胸手術を受けたいそうだ。姉は今年40歳を迎える。なぜ今更豊胸手術を受けるのか分からない。10数年前離婚し今は娘と二人、大阪の京橋で暮らしている。仕事は転転と替わって現在は場末のスナックでホステスとして働いている。生活は楽ではないらしい。その姉が娘の緑子とここ半年ほど会話がない、とこぼしている。今では口で話すのでなく緑子が持っている会話ノートに記載して、必要最小限度の意思の疎通を図っている。なぜこんなことになってしまったのか巻子には分からないので、緑子に尋ねるが答えが返ってこない。  本書の題名の乳とは豊胸手術のことを指すが、では卵とは。それには緑子が苦労している母親に対して抱く深い思いが込められている。読み進むうちに親子の絆の深さに感動を覚えた。

            6月11日(木曜日)
 山本甲士         「わらの人」
6篇の短編小説が収録されている。登場人物は全く違うが、全編共通するのがこれまでかかり付けの美容院や理髪店でなく、初めての理髪店でカットや理髪をして貰う点である。この理髪店の店主は離婚暦のある女性で一人で店をやっている。話し好きで明るく良くしゃべる。それにマッサージが上手くて気持ちよくなっていつの間にやら寝てしまう。店主に終わりました、と声をかけられて目を覚ますと目の前の鏡に、思いもしなかった自分の姿が写っている。これまでの自分と180度違う自分の顔にびっくり仰天してしまう。それから主人公の人生が一変する。その変化や如何に。

            6月17日(水曜日)
 半村 良          「江戸打入り」
尾張足助の鈴木家は代々続いた武門の家柄だった。よね16歳の時金兵衛のもとに嫁ぎ、三年続けて男子を出産、そのあと一年あけてまた年子、六男金六郎を生んだのは二十五の年だった。祖父祖母とも家の栄えをもたらす嫁と喜んでくれた。その後一男一女を出産して合計8人の子を産んだ。ところが徳川家に仕えて今川、織田、武田と戦火は絶えず夫金兵衛をはじめ長男から六男まですべて戦死した。今家に残るのはよねと七男の金七郎、長女のえんそれに戦死した息子達の嫁五人(後家)。そこへまた金七郎に出陣の命令が下った。よねは鈴木家が絶えることを恐れて、武士としてでなく足軽として戦場に赴くよう運動する。関白秀吉は徳川家康に北条家との戦いの最前線に出撃することを命じた。秀吉は小牧.長久手で家康と戦火を交えており、今は臣従しているものの心から家康を信頼している状態とは言えない。家康は全軍を率いて戦地に出発した。金七郎もこれに従った。戦闘要員としてではなく、工兵として陣地の設営にあたった。徳川軍の後には数十万の上方勢部隊が続々と続いた。このため徳川の本拠尾張、三河は上方勢部隊で埋まった。城も田野も。北条軍の抵抗は大規模な戦闘とはならず、城を包囲する篭城戦となった。初めは何年にもわたる長期戦が予想されたが、圧倒的な兵力の差はこれを許さなかった。北条軍が降伏して部隊が故郷に撤収する段になって、突然徳川家の国替えが命令された。尾張.三河から武蔵.相模.伊豆など六カ国を授かるという。徳川勢は旧領地の尾張に帰らずそのまま新しい領地の関東に向かった。尾張には留守を預かる年寄りや女子供がいる。これを呼び寄せて新しい領地の江戸へ住まわせなければならないのだ。金七郎は初め工兵だったが陣中での活躍が認められて、今では家康の側近本多佐渡守の家臣となっている。金七郎も母や姉一族を呼び寄せなければならない。新しい天地で徳川家の活動が始まるのだ。物語はこれで終わる。金七郎の行く手にどんな運命が待ち受けているのか。

            6月22日(月曜日)
 乃南アサ         「嗤う闇」 
作者の人気シリーズ音道刑事の活躍する警察物。今回は中編小説4編が収録されている。本作では巡査部長に昇任した音道は機動捜査隊から隅田川東暑に転勤している。明るくて人情深く世話好きの56歳になる主婦が何者かに襲われて頭部に瀕死の重傷を負う「その夜の二人」。犯人は意外な人物。情けが仇で反される。  「残りの春」 音道が当直勤務の夜、一人の女が相談に訪れた。これまで警察を訪れるのをかなり迷った様子。事情を聞けば、最近自宅に誰かがしょっちゅう侵入している形跡があり、何か事件が起きないかと不安で堪らないとのこと。家族は独身の相談者と子ずれで出戻りの妹、それに母親の4人暮らし。当初離婚した妹の夫を疑ったが、そうではなかった。ほかに出世街道を外れた大新聞の記者が引き起こす連続レイプ事件を扱った「嗤う闇」。かって音道が指導を受けた先輩刑事の家族が絡む「木綿の部屋」が収録されている。

            6月29日(月曜日)
 奥田英朗         「マドンナ」
 岩井三四二        「はて、面妖な」
どちらもよく読む作者。現代物と時代物。両者とも短編小説は達者である。面白かった。

            7月6日(月曜日)
 あさのあつこ      「夜叉桜」 
非情でひねくれものの常回り同心とそれに従うベテラン岡引の物語。岡場所の娼婦ばかり4人がのどを切られて殺される。事件を探るうちに意外な事実が次々に判明する。  作者あさのあつこはもともと児童文学畑の出身。それに関連する文学賞も受賞している。最近は時代推理物に手を染め結構楽しめる。

            7月10日(金曜日)
 富樫倫太郎        「堂島物語」
吉左は大阪近郊の水飲み百姓の長男に生まれたが、母が亡くなり継母が来て子供が生まれるとお寺の小僧として追い出された。10歳の時だった。和尚はよい人で読み書き、そろばんやお経、論語や和歌まで教えてくれた。しかし父親が大病を患い家に働き手がいなくなると、継母はお寺にやってきて強引に吉左を引き取って帰った。その後父親が運良く回復すると継母はまたまた吉左を邪魔者扱いにし、吉左16歳の時今度は大阪の米問屋に丁稚として奉公に出した。当時丁稚は10歳前後から上がるもので16歳では遅すぎる。このため前途を危ぶまれたが、お寺の小僧時代に仕込まれた教育が助けとなり、それにもって生まれた商才が生かされて順調に仕事をこなす。吉左の商才を見込んだ後援者が何人も現われ、とうとう吉左は丁稚から米問屋の主人にまで出世する。時は堂島に米会所ができた享保年間。米の商いは現物取引だけでなく、先物取引も行われ価格の変動も激しく売り手、買い手の力量が商売に直ちに反映される厳しい世界であった。

            7月14日(火曜日)
 宮尾登美子        「湿地帯」
「あとがき」によると作者が初めて女流文学賞を受賞した翌翌年、高知新聞に約5ヶ月間連載された新聞小説。文壇にデビューしたごく初期の作品で後年の作者の活躍を思うとやはり少し物足りない面がある。物語は最初作者には珍しいサスペンスタッチで展開され男女3人が青酸カリ中毒で死に、殺人事件かと思いきや、いずれも過失による中毒死と判定される。最初期待を込めて読み進んだのだが終盤にかけて物語の展開が雑になり、いつの間にか話が終わっていた、という感じ。少し物足りなさが残る。

            7月18日(土曜日)
 乃南アサ          「いつか陽のあたる場所で」
同じ刑務所で服役していた二人の女が出所してひっそり暮らしている。芭(は)子は大学生当時好きなホストが出来て夢中になった。好きなホストに貢ぐため親の金や弟の金を盗み、それでも足りずに携帯サイトで見知らぬ男を誘い出し、ホテルに連れ込んで飲み物に睡眠薬を混入して眠らせ、その隙に金品を強奪した。5件目で足がつき昏睡強盗として逮捕された。もう一人の女、綾香は結婚後夫の暴力に苦しめられ、永年にわたって辛抱したが、それが我が子に及ぶようになって耐え切れず夫を殺した。結婚後10年目だった。刑務所を出所した二人にシャバの風は冷たい。前歴が周囲に漏れないように、出来る限りひっそり暮らしている。地道に真面目に暮らしていればいつか良いことにめぐり合えると信じて。

             7月22日(水曜日)
 諸田玲子          「希以子」 
希以子は明治の終わりに口入れ屋稼業の家の次女として生まれた。母は髪結いをしておりよく繁盛していた。父は母の稼ぎを当てにして働かず、夕方になるとめかし込んで颯爽と家を出てゆく。たいていは夜中に泥酔して帰ってくるが、時には泊まってくることもある。夫婦仲は悪く生活も楽ではなかった。夫婦喧嘩の末父が暴力を振るい、母は子供を残して出て行った。ここから希以子の波乱の人生が始まる。関東大震災で無一物となり、希望してなった芸者も長続きせず、挙句結婚にも失敗して子供二人を連れて離婚。日本では生活できず満州に渡る。満州で初恋の男と結婚するが、男が罪に問われて別れることになる。その後も男運に恵まれず、満州から北京に移りここで日本の敗戦を迎えた。再び無一物になり命からがら日本に引き上げてきた。日本でも苦難の人生が彼女を待っていた。
作者は誰かの話を聞いてこの作品を執筆したものと思われ、冒頭に断り書きが載っている。

             7月25日(土曜日)
 今野 敏           「隠蔽捜査2 果断」 2008年第21回山本周五郎賞受賞作
警察のエリート、キャリア官僚である竜崎伸也は家族の不祥事のため、警察庁総務課長から所轄の警察署長に左遷される。その赴任先である警視庁大森署で事件は発生した。高輪署管内の消費者金融で強盗事件があり、実行犯は3人。うち二人は緊急配備の網に係り逮捕されたが、一人が大森署管内の民家に押し入り住民を人質にとって立て籠もるというものであった。被疑者は実弾10発が装填された拳銃を所持している。このため大森署に特別捜査本部が設置され、本庁から狙撃班まで呼んで対応に当たった。被疑者は全く説得に応じず、かえって拳銃を発砲して威嚇してきた。時間だけがどんどん経過していく。人質の体力の限界を考えて現場の監督官であった竜崎はついに狙撃班の突入を指示した。無事人質は救出されたが被疑者は射殺された。被疑者死亡により事件は無事解決したと思われたが最後にどんでん返しが待ち受ける。
本音で事件の処理に当たる竜崎の真摯な態度には共感を覚える。「隠蔽捜査1」でもそうだが読後満足感、充実感を覚える作品

             7月30日(木曜日)
 井上荒野           「切羽へ」 2008年第139回直木賞受賞作品 
セイはかっては鉱山で栄えた島の小学校の養護教員として働いている。小学校といっても生徒は9名、先生は校長を含めセイを入れて4名の小さな学校である。この学校に新しく独身の男の先生が赴任することになった。学校にはセイの親友である月江先生がいる。彼女は東京生まれであるが、これまでの男とのしがらみを断ち切るため、自ら志願してこの島にやってきた。ところがそれを追って本土から男が通ってくるようになる。男は商売をしているが、それを妻に任せてちょいちょいこの島にやってくる。月江はこの男から逃れられず、今でも付き合っており島の中では公然の秘密となっている。島民はこの男を"本土さん”と呼んでいる。セイは同じ島出身の画家と結婚して、かっては島の診療所であった家に二人で暮らしている。夫は時々個展の打ち合わせや画廊との折衝などで東京へ出張する。これまで寂しい思いはしたことがあるが夫との仲はまず円満だと思っていた。そんなセイが新しくやってきた先生に心が揺れる。月江も最初は無視していたが関心があるようだ。そんな或る日、衆人環視の中で新しい先生(石和)と"本土さん”が殴りあいの喧嘩を始める。原因は月江が石和と寝たと言ったことだった。結局"本土さん”は妻の元へ帰り石和は学校を辞める。セイも平静を取り戻し夫の子を宿す。

             8月10日(月曜日)
 乙川優三郎         「むこうだんばら亭」
銚子のとっぱずれにある飯沼村に「いなさ屋」という小さな居酒屋がある。ここの亭主は孝助と言いよそから流れてきてここに住みついた。店には他に年の離れた上品な女がいる。「たか」と呼ばれるこの家の女将だ。二人の関係は不明だが夫婦者ではないようだ。飯沼村は利根川の河口に面し漁師の町である。鰯の豊漁の時は町中が沸き立ち活況に賑わう。一方不漁のときは漁師は仕事にあぶれ火の消えたようになる。利根川の水が海とぶつかって生まれる大波をダンバラ波と呼び、川口に限らず銚子の海は急に魔物のような大波が立つことがあり、地元の漁師はその怖さをよく知っている。こんな「いなさ屋」に来る客は地元の漁師と銚子の醤油醸造元の職人達である。鰯の不漁のとき漁師や、それに頼って生計を立てている者達はたちまち生活に困窮する。孝助のもう一つの顔は生活に困った女に仕事を世話する、桂庵と呼ばれる仕事だ。ただ、孝助は阿漕な仕事は世話しない。できるだけ本人の身の立つような仕事を世話してやる。この物語はこの「いなさ屋」に仕事を求めて集まる女達と、居酒屋に酒を飲みに来る客達の人生模様や、亭主と女将の不思議な関係を中心に展開されてゆく。

              8月20日(木曜日)
 江國香織           「号泣する準備はできていた」 2003年第130回直木賞受賞作品
小説家の文乃には心も肉体もぴったり一致する相性の良い恋人がいた。だがその隆志が仕事を辞め、他の女と関係を持って、アパートから出て行って半年になる。隆志との出会いはイギリスのノフォーク。海辺のパブで隆志はビールを飲んでいた。私はその頃お金をためては、自分で土地を選び一人旅して歩いていた。寒さや暑さにうんざりし、孤独を苦痛に思いもう二度とこんな場所には来ないぞと思いながら、日本に帰っていくらも経たないうちにまた旅に出たくなる。隆志はそこに住み着いていた。隆志と身体を重ねることは、私の人生最大の驚きだった。あんなふうにらくらくとするすると、しかもぴったり重なり組み合わさるなんて。隆志と私は一緒に旅を終え日本に帰ってきた。帰国してアパートを借り一緒に暮らし始めた。その部屋で私は今一人で暮らしている。他の女と寝てしまった、と隆志が謝ったとき私は泣くべきだったかもしれない。でも私は泣かなかった。「知ってるわ」代わりに私はそう言った。隆志が出て行っても私は隆志が忘れられない。隆志との関係は今も続いている。 この作品は極短い短編小説である。こんなに短くても受賞の対象になるとは思わなかった。

              8月24日(月曜日)
 葉室 麟            「銀漢の賦」 第14回松本清張賞受賞
月ケ瀬藩家老の松浦将監は若かりし頃、岡本小弥太と言い父は側用人を務めていた。父は失態があって急死し、家禄は半分に減じられたうえ小弥太が元服するまで普請組入りを命じられた。その頃藩の剣術道場に通う仲間に二人の親友がいた。一人は同じ小普請組の子弟日下部源吾、もう一人は藩内の百姓のせがれ十蔵と言う男であった。小弥太は剣術のみならず学問の才能が秀でており、それを認められて藩の名門松浦家の婿養子に迎えられた。松浦家は現藩主惟常の生母の家であった。これが手がかりとなって小弥太改め将監は出世を重ね、今や藩の筆頭家老として絶大な勢力を誇っていた。将監は家老としてだけでなく、詩文や幼い頃から学んだ南画の才が江戸まで知られるようになっていた。三十を過ぎて月堂と号し、近隣の大名や幕閣の中にも高名な松浦月堂と交際を望むものが多い。今やその描いた絵は禁裏にまで知られている。将監が家老に就任する前、藩では飢饉が続き大規模な百姓一揆が発生した。当時家老として辣腕を振るっていた九鬼夕斉は、これを武力で鎮圧しようとして失敗した。その後一揆の代表と交渉し和解の任にあたったのが松浦将監だった。将監はその功績が認められ家老に昇進し、夕斉は失脚した。夕斎が失脚した直接の原因は一揆の鎮圧の失敗にあるが、長期にわたり政権の中枢を握っていたため失策を機会に藩主の支持を失ったことにある。しかし将監も家老に就任して20年、今は引退をせまられる立場にあり、自分自身もそれを自覚している。そんな或る日、絶えて久しく旧友の日下部源吾に藩内の見回りに同道を命じる。

               8月27日(木曜日)
 葉室麟              「いのちなりけり」
天源寺咲弥は水戸藩の隠居水戸光圀の奥女中取り締まりとして勤めている。今年38歳になるが、肥前七万3000千石、小城藩
の重臣天源寺家に生まれた。水戸家の奥女中となったのには複雑な経緯がある。咲弥は言わば小城藩鍋島家からの預かり者だった。女子ながら「孝経」「四書」を学んだ才媛であり、歌学二条流の伝授を受けている。雨宮蔵人が天源寺家の入り婿になったのは十八年前のことだった。咲弥の父天源寺刑部は御親類格730石の家中筆頭である。これに比べ蔵人は七十石の家の部屋住みに過ぎなかった。しかも齢二十六になっても取り立てて評判になったこともない凡庸な男だった。わずかに組み打ちの角蔵流を使うと言われている。何故か刑部はこの蔵人を見込み、咲弥の婿に選んだ。婚礼の夜、咲弥は蔵人に「わが夫となる人は風雅の道を心得た方こそ、と思っておりました。私がお聞きしたいのは蔵人さまが好まれる和歌でございます」とたずねた。「それがし浅学にて....」。蔵人はうめくようにうつむいた。「されば、蔵人さまがこれぞとお思いの和歌を思い出されるまで寝所は共に致しますまい」といって出て行った。その状態はその後も続いた。ところで蔵人は佐賀城内で行われた恒例の「鎧揃え」の日に衆目の面前で刑部が見込んだ片鱗を見せた。その日佐賀城内大書院の御座所には本家藩主の光茂、世子の綱茂が座り傍らに小城藩主、直能がひかえた。その席に一本の矢が射かけられた。綱茂にあわや矢が突き刺さるかに見えたが、その時綱茂の前へ飛び出し矢を防いだのが蔵人だった。矢はもう一本射掛けられたが大事には至らなかった。矢を射掛けた者が詮議され義父の刑部にその嫌疑がかけられた。天源寺家はもともと鍋島家の主筋にあたる竜造寺の一族に当たる。現在の境遇に対する遺恨があるのではと疑われた。小城藩世子元武は近習である蔵人に天源寺刑部を討ち果たせと命じる。蔵人は義父を討つこと拒否するが元武は厳命する。或る日蔵人が突然出奔した。後に刑部の遺骸が残されていた。鍋島藩主光茂は天源寺家の断絶を狙い咲弥を親交のある水戸藩に預けた。これにより咲弥は水戸家に奉公する事になる。咲弥が小城藩を去った後も蔵人は何とかして和歌の道を究めようとして京都の公家中院通茂のもとに滞在する。そしてついに念願の和歌を探し当てる。その歌は
     春ごとに花の盛りはありなめど  あひ見むことはいのちなりけり    と言うものであった。
蔵人は命の危険を冒して咲弥に会いこの短歌をつたえる。二人が別れてより二十年も後のことであった。

               8月30日(日曜日)
 奥田英朗            「東京物語」
田村久雄はたまたま入った会社が「新広社」という広告代理店だった。社長も含めて総勢五人しかいない小さな会社である。仕事で会社に泊まりこむのは珍しくない。社員全員が寝袋をキープし、出勤するとたいてい一人か二人は床に転がっている。昨夜はどうしても銭湯に行きたかった。四日も入っていなかった。このまま悶々としてもいいアイデアは浮かばないだろうと、自分に言い訳して終電で帰宅したのだ。しかし銭湯に入ってもいいアイデアは浮かんでこなかった。朝になって暗い気持ちで電車に揺られる。久雄の今考えなければならないのは、新しいカセットデッキのキャッチコピーだった。出勤すると早々先輩に別の用事を頼まれた。自分の仕事をする時間がない。コピーの締め切りは今日の午前中。それもクライアントの都合で早くなる場合もある。久雄はあせった。久雄は名古屋出身で、父親は小さな商事会社を経営している。自分の後を継いで欲しいらしく、息子の東京行きは大分反対された。ところが大学の在学中会社は倒産した。久雄は大学を中退して新広社に入社した。入社後一年でコピーライターの仕事を命じられた。最初は苦労するが次第に認められて、今では適職かなと自分でも納得している。久雄の元に回ってくる仕事は増え、収入も同年代の者より大幅に高い。やがて独立して知り合いのカメラマンとデザイナーの三人で事務所を構えた。大学を中退した若者が苦労しながらも次第に成長していく過程を暖かく描いている。年代がバブル全盛期の頃で、今では懐かしい景気のいい話がぼんぼん飛び出してくる。

                9月5日(土曜日)
 稲葉真弓            「海松」
それは十一年前の5月のことだった。たまたま三重県の志摩半島に家族で旅行に行ったとき、偶然通りかかった湾沿いの山の中、真っ青な斜面の草むらの中を、鮮やかな色彩をまとったオスの雉がぽつねんと歩いているのを見たのだ。雉の背後は、びっしりと生い茂った五月のシダと、斜面の北側に広がる広大な竹林。獰猛な緑が目に入る空間のすべてを覆い尽くしていた。東京のマンションで一人暮らしをする私はこの風景がいっぺんで気に入った。この場所に私は七十坪の土地を買った。海岸線が入り組んだ半島の一角、小さな湾に近い場所であった。そしてここに小さな別荘を建てた。以来私は東京で仕事が一段落すると、この別荘に来ることが習慣になっている。家で飼っている猫も同伴で。都心のマンションに一人暮らしを始めて20年が過ぎようとしていた。十年前には周囲にわんさといた友人達も、海外勤務や結婚生活に潜り込み、何の予告もなく命を絶った友達も、これじゃああんまり悔しいよぉと言いながら病死した友人もいた。私は東京が好きかどうか分からなくなりかけていた。
家が完成した当時病弱だった母や、時間が比較的自由になる妹がよく訪ねてきた。愛知県に住む弟の子供も夏休みにはよく訪れた。今はこの家もひっそりしている。もう母も妹も勇んでくることはなくなった。意気揚々としているのは猫だけだ。東京ではマンションの部屋から出ない猫は、ここでは日に何度も家を出入りする。一度外に出たらもう猫缶などのえさで気を引くのは不可能だ。冬の或る日私は浜辺に散歩に出た。桟橋から波立つ遠くの海面を眺める。ときおり何かがゆらりと動く。暗みを帯びた緑色だ。近くで海苔の養殖作業をしている老夫婦に聞いてみた。「あれは海草の一種で海松(ミル)とゆうんだ。昔は食べたけど、今は滅多に採らないね。ただ年寄りは懐かしいと言って採りにゆく人がいる」と返答が返ってきた。今回ここを訪れた日、有線放送で行方不明者の老女の捜索願の放送をしていた。今日もまた放送が続いている。私はふとこの老女が海松を採りに出かける姿を幻想する。
この作品を読んでいると人生で一仕事終わり、これから老いを迎える人の寂寥感のようなものが、ひしひしと伝わってきて身につまされる。

                9月9日(木曜日)
 帚木蓬生            「千日紅の恋人」
時子はアパート扇荘の管理人をしている。扇荘は木造二階建て二棟で十四戸ある。今は亡くなった父親が設計して建てた家で、建てた当時からの仲介斡旋業者が空き家が出るとすぐ客を世話してくれるので、長く空き家のままの部屋はない。母がこのアパートの持ち主で自宅で一人で暮らしている。時子は現在38歳、これまで二回結婚しているが今は独身で、マンション暮らしである。最初の夫は死に別れ、二度目は生き別れのバツニである。母親の峰子は70歳に近く管理人の仕事はきついので、時子が代わって管理人をしている。峰子は八年ほど前からカラオケ教室に通い、時子も四年ほど前から通うようになった。扇荘の管理人をするかたわら時子はヘルパー2級の資格を取って、ふだんは介護施設のヘルパーの仕事をしている。アパートの管理人も家賃の滞納や、入居者同士の諍い、周囲の苦情など結構大変である。身寄りのない入居者の葬式まで執り行うこともある。そんなアパートの一室に時子よりいくらか若い独身の好青年が入居してきた。近くのスーパーマーケットのエリート社員だった。時子は介護施設のヘルパーの仕事を通じてつながりが出来、またアパートの管理人としてもしばしば顔をあわせるようになった。そんな或る日この好青年有馬さんからプロポーズを受ける。しかし広島への転勤の辞令が出た。時子は峰子を置いて広島には行けない。時子は心ならずもこの話を断った。その後どう展開するか。

                9月14日(月曜日)
 川上弘美             「古道具 中野商店」
「アルバイト募集.面接随時」の張り紙を見て私はこの店に入った。髭を生やして痩せてニット帽をかぶった男が出てきた。それが店主の中野さんだった。骨董でなく古道具、の中野さんの店は、文字通り古道具で埋まっている。ちゃぶ台から古い扇風機からエアコンから食器まで、昭和半ば以降の家庭の標準的な道具が、店の中に所狭しと並んでいる。学生の多い東京の西の近郊のこの町で中野さんは二十五年ほど前から古道具屋を営んでいる。店にいるのは中野さんと私、それに品物の引き取り要員として、私よりほんの少し前雇われたタケオの三人。他に店主の中野さんの姉のマサヨさんがよく訪れる。店は忙しからず、閑でもなく、そこそこ順調である。店で古道具を売るだけでなく、引越しなどでいらなくなった品物を引き取ってくる。引き取り値段は中野さんが適当につけるが、客は道具が有っても邪魔だから殆ど文句を言わない。そんな中にときどき掘り出し物が出る。それが市で高値がつくと中野さんはホクホク顔で帰ってきて、時にはおこぼれをくれることもある。中野さんは妻帯者だが彼女がいる。ときどき銀行に行ってくると出かけるが、それは彼女に用事があるときだそうだ。タケオはいま彼女イナイ暦四ヶ月、私は二年以上彼氏がいない。初めタケオのことを何とも思っていなかったのだが、最近少し気になりだしてきた。そんな中、中野さんが彼女と別れた。浮気がばれたらしい。そしてしばらくすると中野さんは経営方針を変えるとかで、しばらく休業する、と宣言した。私たちは職を失った。中野商店が解散して三年が過ぎた。突然私の元に中野商店新装開店の案内状が舞い込んだ。

                9月17日(木曜日)
 諏訪哲史              「アサッテの人」 2007年第137回芥川賞受賞作品
一人暮らしの叔父明が家を出て行った。兄つまり私の父宛に、はがきで「しばらく旅行に出ます。仕事は戻ったらまた探します。万事心配無用 明」の短い便りを残したまま。私は幼い頃から叔父と一緒に暮らした期間が多く、年もあまり離れていないので親しみを持っていた。叔父は孤独を好み一風変わった性格を持っているため、私は以前から叔父をモデルにした小説を書こうと計画していた。叔父の父母は若くして亡くなったので、年の十五も離れた兄(私の父)の援助で大学を卒業し、就職した。一人っ子だった私と年若い叔父は実質、一対の兄弟のように育てられた。叔父は幼い頃から私の一番の話し相手であった。私の記憶する少年期の叔父はドモリのきらいがあり、内気な性格のため外に遊び友達を持たなかった。子供のj時分部屋を覗くとしょっちゅう本を読んでいた。叔父はドモリの癖には相当悩んだようで、自分でも努力し、カウンセリングの教室にも通ったりしたが、一向に効果がなく、かえって悪化してゆくように見えた。ところが大学入学後20歳の冬、あれほど悩んだドモリがうそのように消えた。それが何月何日だったか覚えていない。突然消えた。叔父は大学の工学部を卒業してビルの管理会社に入社した。空調衛生機器や電気機器、エレベーターの管理監視のため監視モニターの画面を監視する業務についた。そして何年かして、大学時代家庭教師として教えていた、教え子の朋子さんと結婚した。朋子さんにとって叔父はあこがれの人だった。新婚時代は夫婦仲もよく順調だったが、朋子さんは叔父が時々突然意味不明の言葉を口走るのにびっくりする。意味不明の言葉はいろいろあるが、比較的よく出てくる言葉は次の四つである。
  <ポンパ>、<チリパッパ>、<ホエミョウ>、<タポンテュ>
こんな言葉が、どんな場面でどう使われるか全く分からない。どういう意味かも理解できない。朋子さんを訪ねて客が来た場合など、叔父がその場に居合わせていきなりこんな言葉が出てくると取り繕うのに苦労する。そんな朋子さんも数年前交通事故で死んでしまった。叔父は今まで暮らしていた街中のマンションから、郊外の古い団地に引越し一人暮らしを始めた。それ以後以前にも増して訳のわからない言葉を使うようになった。これは私の想像だが、叔父は常識的な世界の外、つまり「アサッテの世界」、ありきたりな出来事、習慣、、一般常識といった諸々の凡庸が溢れている世界から離反し、どこか無重力の場所に憩うことを願っていたのかもしれない。     作者はこの人物が極通常の一般人で、時々通常の世界から外れた「アサッテの世界」へ逃避するというが、書かれた内容を見ると常識的な一般人より狂気に近い人のように見えるのだが。
それにしても純文学作品というものは肩が凝るものだ。何が書いてあるか分からなくて何度も繰り返し読み直した。

                  9月22日(火曜日)
 島本理生               「大きな熊が来る前におやすみ」
徹平と暮らし始めて、もうすぐ半年になる。だけど今が手放しで幸せという気分ではなくて、むしろ転覆するかも知れない船に乗って岸から離れようとしている、そんな気持ちが常にまとわりついていた。隣で徹平はさっきから本を読んでいる。「やっぱり眠れない?」と尋ねてくる。「大丈夫。そろそろ眠くなってきた」。私はうそをつく。「早く寝ないと大きな熊が食べに来るんだっけ」徹平がまた言った。私は目を開けて真っ暗な天井を見つめた。
「早く寝ろ。子供がいつまでも起きていると、大きな熊が来て食われるぞ」
私がいつまでも暗がりで本を読んでいると、急に部屋の外から大声で近づいてきて、父が勢いよくドアを開ける。父は別室で母と眠るから見えないはずなのに、そういうときに限って勘が良かった。父は北海道出身で私が言うことを聞かないと、しょっちゅうこの言葉で脅す。父にとって何か都合の悪いことを私が尋ねたり、変に大人びた口を利いてしまうと、途端に父は不愉快そうに押し黙る。そして母が出かけてしまうと、さっきは親に生意気な口を利いたと怒鳴って、壁を蹴る。その一撃で私はもうすべての言葉と動きを奪われる。そして長い長い恐怖の時間。
私は徹平に無頓着に愛情を感じているわけではない。彼と私は考え方や性格が微妙に20度位ずれていて、だから日常会話の細かいところで突っかかるところも多く、二人でいることは我慢比べをしているような面もある。あの夜に引っ張られて抜けた髪の痛さ、背中を蹴った足の強さ。髪をつかまれて壁に打ちつけられた後、床に倒れた時暗闇のそこから見上げた徹平の目。きっかけは本当につまらないことだった。徹平の言った言葉に私がむっとして、思わず手元のクッションを投げつけ、そのクッションが徹平に当たった。それから徹平の暴力が始まった。ようやく暴力が納まった時、徹平は呆然とした顔をしていた。「ごめん」。「謝るくらいなら、どうして」「そうだよな。だけど、一度始めたら途中でやめるわけにはいかないと思って」。一度始めたら途中でやめられない、という一言が恐ろしい呪文のように聞こえた。
その後私が身体の調子が思わしくないので、徹平の勧めもあり病院を受診した。すると妊娠三ヶ月だといわれた。それを聞いて私は途方にくれた。徹平が喜ぶはずが無い。黙っていたのだが徹平がひつこく聞くので妊娠を告げた。果たして徹平は部屋に閉じこもり鍵をかけ出てこない。私は簡単な身の回り品を持って家を出た。夜遅くまで町をうろついた。家に帰るのは気が重かった.
家の扉をあけた私は息が止まりそうになった。割れたコップや壊れた家電、破れた本が散らばっている。その量は途方も無くて住み慣れた自分の家が廃墟に思えた。「どうして帰ってきたの」。「死んでないかと思って」。「死んでた方が良かった。そうしないと俺、いつかおまえのこと殺してしまいそうだ」。「私言ってないことがあった。父親が大きな熊のことを言うたびに、早くその熊がきてくれるよう願っていたの」。「目の前にいる父を食い殺して欲しかったから。この家に早く来てください。私も一緒に食べられてもかまいません。だからお父さんを殺してください。そんな風に毎晩願っていたの」。「わかった、分かったから」彼は初めて心の底から苦しそうな声を出した。「死にたいと思ったことは一度も無かったけど、私が徹平の側にいたのは、あなただったら、きっと私を殺してくれると思ったから」。「そんなこと、俺には出来ないよ」。「俺、もう二度と殴ったりしないから。本当にもうしないから。約束する」。こういう台詞を信じようとする私を、多分殆どの人は馬鹿だと思うだろう。だけど先のことは分からなくて、今は言葉で約束するしかなかった。

                    9月29日(火曜日)
 村松友視                 「帰ってきたアブサン」
作者夫婦と21年間時を共にした"伴侶”猫の名がアブサン。人間の寿命にすると百歳を超える長寿猫である。このアブサンにまつわる話を虚実取り混ぜた6篇の短編小説が収録されている。巻頭の「帰って来たアブサン」ではアブサンが死んで一年以上経つのに、未だに死んだ実感が沸かない妻はまだ深い思い入れに浸っている。アブサンの墓の見える廊下を線香の供え場所に定め、日に何度もその場所に座って追憶に耽っている。作者も街を歩いていて猫の姿を見るとアブサンを思い出し、時にはすぐそこにアブサンが潜んでいるような幻覚を感じることがある。子供のいない作者夫婦はアブサンの赤ん坊時代から、老衰して死に至るまで生活を共にしてきた。それだけに思いでも尽きないものがあるようだ。なを、この作品の前に「アブサン物語」という作品があるのだが都合でこの作品を先に読むことになった。

                    10月7日(水曜日)
 村松友視                 「アブサン物語」
子供のいない作者夫妻が、21年間伴侶として生活を共にしてきたアブサンが亡くなった。出版社の依頼でアブサンの生涯を本にすることになった。手始めにアブサンの出生から紐解くことになる。当時作者は中央公論社の編集部員として勤めていた。部署は違うが同じ中央公論社に勤めるYさんが、日比谷公園の三笠山なる築山の一角に捨てられた子猫を拾ってきた。拾ってきた子猫は営業のH嬢のもとに預けられ、社内の猫好きが見物にやってきた。作者にも声がかかり見に行った。生後二ヶ月ぐらいの子猫で、目が大きくて瞳の周辺が緑色をしていた。縞猫、虎猫、鯖猫と言われるもようの猫だったが、その縞が何ともきれいだった。両足を揃えると左右の足の縞がぴったり合っていた。作者はこの子猫を見た途端、これは我が家に来る猫だと、直感した。
作者はすぐ家の妻に「あのね、猫を飼うから」と電話した。ところが妻は今まで猫を飼ったことが無い、「猫....」と言ったまま何もしゃべらない。突然の電話にかなり驚いたようだ。猫を飼い始めたのだが、妻はこれまで経験が無いので要領を得ない。妻が疲れきった顔で座り込んでいるので、聞くと「猫が怒っていて、どうしていいか分からない」と言う。「怒っている?」。「そう、ゴロゴロのどを鳴らして怒ってるんだけど、なぜ怒ってるんだか分からなくて」。作者は妻が冗談を言っているのではないかと疑った。
最初はこんな風だったが、日がたつにつれて慣れ、今ではどちらが飼い猫のベテランか分からなくなってきた。アブサンは最初から家猫として飼われ、屋外に出たことは数えるほどしかない。したがって土に足をつけると、怯えるような仕草をする。他に外猫と言うのがいて、庭に来ると餌は与えるが、家の中に入れない猫が何匹かいる。外猫は何軒かの家を掛持ちし、あちこちの家で餌を貰っているようだ。外猫は生活環境が厳しいらしく、次々に子猫を生むが、バタバタと死んでいく。作者の家の庭にも、大人にならず死んだ子猫の墓がいくつもある。アブサンは外に出ないので、外猫の悪い病気を貰うことも無く、丈夫で長生きしていた。しかし、さすがに21年も生きると体力の衰えは著しく、ベテランの獣医を頼んでもどうしようもない。猫の21歳と言うと人間にすると107歳に当たるという。まず眠る時間が極端に長くなった。一日の殆どを眠っている。身体が痩せてきて、歩き方もヨロヨロした感じになる。そしてオネショをするようになった。食事も殆どとらない。獣医さんに見てもらっても「21才だからね」と言われるだけで、特別の治療はされない。或る日アブサンの様子を見ていた妻が「アブサンが動かない...」と言った。妻は「後30分抱いて寝ていいかしら」と私に聞く、まだ身体に温かみはあるようだ。私はうなずいた。それから30分ほど経って、妻の鋭い声が聞こえた「アブサンがおしっこをした」と言っている。「たった今、すごい勢いでおしっこをした」。「失禁、じゃあ今死んだんだ」。「この野郎、達人の死に方をしやがって」。作者は憎まれ口をきいたが、その死に方にほとほと感服してしまった。猫は人に見られないところに行って死ぬ。それは何度も聞いた話だった。だが、「アブサンは妻に抱かれて息を引き取った。名人、達人だ。私は感嘆の声を上げずにはいられなかった」と作者は言う。いかにアブサンが作者夫妻に愛されていたか。この作品を読んで思いを新たにした。

                      10月14日(水曜日)
 熊谷達也                    「邂逅の森」 2004年第131回直木賞受賞作品
明治23年の晩秋に、富治は秋田県北秋田郡荒瀬村で、松橋富左衛門の末子として生まれた。同じ村で生まれた殆どの男がそうであるように、気がついてみるとマタギになっていた。生まれた村は山間地で、山襞にへばりつくほどの耕作地しかなく水田を開こうにも開拓する土地が存在しなかった。生きるために必要な現金収入をもたらしてくれるものは、山に住む獣達だった。マタギの獲物はテン、狸、ウサギやアナグマ、猿なども獲るが、もっとも大きな収入源になるのは熊、アオシシと呼んでいるカモシカだった。富治が初めてマタギを経験したのは14歳になった年だった。初マタギで山に入る前から、野うさぎを罠で獲ったり、兄から鉄砲を借りて山鳥を撃ってみたりと、自分なりにマタギになるための鍛錬をしていたつもりであった。しかし現実に初マタギに出てみて、これまでの鍛錬が何の役にも立たないことを痛感させられた。マタギには厳しい山の掟がある。山入りする前には必ず水垢離をとって身を清めることや、山へ入る前は女気を絶つこと、話す言葉も山言葉を使うとか、道具類を肩に担ぐとか掟に反する行為をするごとに水垢離させられる。また、頭領(スカリ)の命令には絶対服従である。それに、地元だけでは獲物が不足するので冬季は旅マタギといって他の地区に狩猟の旅をすることになる。富治18歳の夏、祭りの行事の際地主の娘と知り合い、夜這いをかけた。娘は文江といい、これを拒まなかった。初め富治は文江が地主の娘とは知らなかったが途中で気がついた。しかし彼女が好きで諦めることが出来なかった。地主は一人娘を傷物にされたと怒鳴り込み、富治は村にいられなくなった。富治はマタギを廃業して同じ地区にある阿仁鉱山に鉱夫として働くことになった。鉱山で7年以上働くがマタギの仕事が忘れられず、鉱山時代同じく狩猟好きだった弟分の小太郎を訪ねる。小太郎の家で元女郎をしていた姉イクを知り、色々経緯はあったが彼女を女房にする。この土地でマタギの経験をつみ、いよいよマタギの頭領になった。そして、この地のヌシと呼ばれる伝説の大熊と対決することになる。富治達マタギが使用している銃は丸玉と呼ばれる一発弾を使用する。ところがライフルとは違ってたまに回転がかからないため、有効な射程距離はせいぜい三十間がよいところ。クマ撃ちでは出来る限り至近距離で発砲する必要がある。不慣れな射手はクマとの距離が十間くらいになると、こらえきれなくなって引き金を引いてしまう。が、富治の場合五間まで接近しないうちは決して引き金を引かない。出来れば三間、理想は二間と自分では思っている。つまり、そこまでクマをひきつけても動じない度胸と、それ以上に、クマに気づかれずに気配を消す技術が要求されるのだ。だが、ヌシと呼ばれる大熊は百戦錬磨の大物だった。狩に当たっている二十人以上のマタギを相手に、神出鬼没の早業で翻弄し、こちらの狙いどおりには決して動いてくれない。そればかりか、弟分の小太郎は大熊に襲われ、左手小指を食いちぎられ、爪をかけられた左半分の頭の皮が、べろりと剥ける重傷を負った。この日はいったん狩を中止した。そしてマタギたちは相談した結果この狩猟の中止を決定した。しかし富治は一人このヌシと対決する。富治は全神経を集中してヌシ追ったつもりだが、背後に回られて突然襲われた。体当たりを受けて富治は十間ほど吹っ飛ばされ斜面を転げ落ちた。態勢を立て直して富治は銃を次々に発射した。五発発射して、全部命中しているのに熊は倒れない。そしてこちらに向かって来る。六発目の弾をこめようとして、愕然とした。五発目の弾の空薬きょうが銃に残っていて弾が込められないのだ。富治は熊の前足の一撃で意識を失った。意識が戻ったのは、熊が富治の右足を食いだした激痛によるものだった。富治は熊に食い殺されるのを覚悟したが、最後の抵抗を試みた。熊が噛み付こうとして口を大きく開けた瞬間、持っていた山刀を右腕ごと熊の喉元深く突っ込んで、心臓をえぐった。熊はこの攻撃で致命傷を受け死んだ。しかし、富治も右足を喰われ、見るも無残な状態だった。あらかた肉を失い骨が露出している自分の足を見て吐き気を覚えた。

熊との死闘を描いたクライマックス部分は迫真力十分で、手に汗握るシーンの連続である。久しぶりに存在感のある力作を読んだ。

                10月16日(金曜日)
 朱川湊人             「花まんま」 2005年第133回直木賞受賞作品 
俺はフミ子の生まれた日のことをよく覚えている。その時俺は市立病院の待合室でテレビを見ていた。お父ちゃんはすっかり落ち着きをなくしていた。「もう二時間半や、早う生まれんかな」。「三時間過ぎたで。ほんまに大丈夫なんやろか」。お父ちゃんは俺の横を通るたびに、時間の経過を報告した。まだ3歳だった俺に何を言っても始まらないのに。六時45分、看護婦さんに呼ばれて、お父ちゃんは分娩室に入っていった。「俊樹、生まれたで。女の子や」。お父ちゃんは感極まったのか、俺の手を引いて病院の外へ出ると、大きな声で「ばんざーい」と叫んだ。俺も一緒に「ばんざーい」と叫んだ。子供のためなら親はアホになるというけど、あの瞬間こそお父ちゃんの幸せの頂点だったのではと思う。その二年後、お父ちゃんは三十ちょっとの若さで、交通事故に遭いアッサリ死んでしまった。それからはお母ちゃんが、女の細腕で家を支えることになる。生活は苦しかったが、親子三人力を合せる暮らしもそれなりに楽しかった。二つか三つのころ、フミ子は本当に可愛かった。そのフミ子の様子ががらりと変わったのは、あの冬の夜を境にしてである。その時、フミ子は四歳だった。その夜俺がトイレから帰ってくると、フミ子の様子が変だ。額に手を当ててみるとストーブのように熱い。慌てて母ちゃんを起こすと、母ちゃんはすぐ救急車を呼んだ。フミ子はすぐ入院したが、ただの風邪と診断されて、三日ほどで帰って来た。身体は良くなったが、入院する前とどこか雰囲気が違う。そのうちに、周囲のことを考えず、自分のしたいことを好き放題にするようになった。例えば保育園から“脱走”したこと等洒落にならない。先生の目を盗むようにしていなくなり、母ちゃんは勤め先から呼び出されるは、警察が来るは、大変だった。そのフミ子は夕方になるとひょっこり保育園に帰って来た。聞くと、隣町の公園で遊んでいたという。フミ子が小学校に上がると少し落ち着いてきた。しかしフミ子が小学校一年の二月、夕方になってもフミ子が帰ってこないので、大騒ぎになった。母ちゃんはあちこち探し回った。俺は家で留守番をしていたが、突然男の声で電話がかかってきた。京都の駅の駅員さんだった。フミ子を駅で保護しているというのだ。母ちゃんが早速迎えに行った。帰って来たフミ子に話を聞くと「自分は滋賀県の彦根に住んでいた、繁田喜代美という人の生まれ替わりで、自分が育った家を見てみたい」と思って電車に乗ったと答えた。そして俺が五年生、フミ子が二年生の時、フミ子が「一生のお願い、私を彦根に連れてって」といった。「何で急に行かなあかんねん」と言うと、「どうしても...。そんな気がするねん」と答える。俺は一生の願いだと言うので、ついて行くことにした。彦根に着くと、フミ子はまるで以前から住んでいたように、繁田さんの家に連れて行った。そこにはガリガリに痩せた骸骨みたいな老人と、がっしりしたおっちゃん、それに中年のおばちゃんがいた。今日は亡くなった重田喜代美さんの月命日で、家族が集まっているそうだ。ガリガリの老人がお父さん、がっしりした人が兄さん、中年のおばさんが姉さんだそうだ。お母さんはもう亡くなったそうだ。フミ子は家族に会いたがったが、俺は会わせなかった。するとフミ子はこれをお父さんに渡してと、小さな包みを俺に渡した。俺はフミ子の代わりに繁田さんの家族に会い、包みを渡した。包みの中は弁当箱で、中には公園に咲いていたつつじの花がきれいに詰められていた。それを見ておばさんは「これ..。花まんまや、喜代美が小さい頃、よう作っとったやつや」と悲鳴のような声で言った。繁田喜代美さんは21歳で死んだ。フミ子が22歳になったとき、俺は正直ホッとした。繁田喜代美さんは22歳を知らない。彦根の一件以来、フミ子は繁田喜代美の話を一切しなくなった。三年前に母ちゃんが死んだ。兄弟二人でささやかな葬式を出した。自分達を育てるために人生のすべてをささげてくれた母ちゃんのために、俺も、フミ子も泣きに泣いた。

               10月24日(土曜日)
 三浦しをん        「まほろ駅前多田便利軒」 2006年第135回直木賞受賞作品
多田啓介はまほろ駅前で“多田便利軒”という便利屋を営んでいる。まほろ市は東京の南西部に、神奈川に突き出すような形で存在する。東京都南西部最大の住宅街であり、歓楽街であり、商店街である。まほろ市民として生まれたものは、なかなか市から出てゆかない。一度出て行った者も、また戻ってくる。便利屋という商売は種々雑多な注文が来る。年の瀬の迫った今日も家族に代わって、病院に入院しているばあちゃんの見舞いを頼まれた。それがすんで事務所に帰ると40代前半の女が訪ねてきた。「家族で急に、主人の実家に帰省する事になりまして」と言って、持ってきたプラスチックの犬用キャリーケースを示し、「この犬を帰省している間、預かってください」と頼まれた。事情を聞くと年末でペットホテルは予約で一杯だと言う。犬はチワワだった。独身である多田は正月をチワワと共に過ごすことになった。正月三日の日に早くも仕事の依頼があった。バスの運行を監視してくれと言う。依頼者宅前がバス停になっているのだが、昨年からどうも間引き運転しているようだ。バスが時間どうり運行しているか監視してくれと言うのが依頼内容だった。一日バスの見張りをしたが異常はなかった。依頼者の思い過ごしのようだ。その帰り道、バス停に座っている男に会う。高校時代の同級生だった。行天晴彦といい、頭はすこぶる良かったが、変人として有名だった。彼は沈黙を貫いた。高校の三年間で、行天がしゃべったのはただ一度。授業時間中に裁断機を使っていて、右手小指を切断して「痛い」と叫んだ、ただそれだけ。高校卒業後も行天とは交際は無い。その行天が行くところが無いので泊めてくれと言う。以後行天は多田便利軒の居候になる。年末に預かったペットのチワワ、依頼者が引き取りに来ない。依頼者宅に行くと夜逃げをしていた。どうにか依頼者を探して事情を聞くと、借金に負われてペットを飼う余裕が無いので、優しい飼い主を探してと言われた。
新しい飼い主をもとめて努力しているのだが、なかなか適当な飼い主が見つからない。試行錯誤の末、犬を可愛がってくれることと、本当に必要としているかを検討して、駅前で娼婦として働く、ルル、とハイシーという二人のお姉さんに飼ってもらうことに決めた。しかしこのお姉さん達には怖いひもがついているし、クスリの売人も絡んでいる。これらを出来るだけ円満に処理することも便利屋の仕事である。多田も行天も仕事中、命の危険を感じる事態に遭遇するが、何とかこれを切り抜ける。便利屋は決して楽な商売ではない。

物語の進展につれて男やもめ二人の、切なく深い過去が次第に明らかになってゆく。

                10月31日(土曜日)
 吉田修一          「悪人」
JR久留米駅から程近いところに理容イシバシはある。店主は石橋佳男といい、家族は妻と一人娘佳乃の三人である。佳乃は今年の春短大を卒業し、福岡市内で保険の外交員をしている。自宅から西鉄で通えと説得したのだが、「家賃補助もあるし」と言い張って、結局職場に近い会社の借り上げアパートに引越ししてしまった。佳乃は博多に引越しして以来、殆ど家に寄り付かない。佳男はそれが不満であった。正月には帰ってくるものと思っていたが、友達と大阪に遊びに行くとかで、どうやら戻ってこないようである。佳乃の住む「フェアリー博多」は三十室ほどのワンルームマンションであり、その全室に平成生命で外交員をする女性達が住んでいる。このマンションの住人で佳乃がもっとも親しくしているのは沙里、と眞子の二人である。その日三人は夕食に鉄鍋餃子を食べに行くことになった。中州の鉄鍋餃子店に行くまで、男友達の話で盛り上がった。佳乃たちはこの年十月の半ば、天神のバーで騒いでいた増尾圭吾達のグループと知り合った。増尾は南西学院大学の四年で、実家は湯布院で旅館などを経営しているらしく、博多駅前に広いマンションを借り、車はアウディに乗っている。その席で佳乃は増尾からメルアドを訊かれた。メールをすると返事はあるが、これまでデートに誘われたことはない。しかし二人には、これまで何度かデートしたことがあると嘘をついている。先日「ユニバーサルスタジオって行ってみたいよねぇ」とメールすると「俺もすげぇ行きてぇ」と返ってきた。それを二人見せると、羨ましそうに、今度の正月休み、佳乃が誘えば大阪へ一緒に行けるかもしれない、という話になった。この日佳乃は人と会う約束をしていた。二人には誰に会うかぼかしていたが、勝手に増尾君だと想像しているようだ。佳乃が約束していたのは、長崎郊外に住む、二十七歳の清水祐一という土木作業員だった。出会い系サイトで知り合い、これまで二度ホテルに行っている。その後連絡がとり辛くなって、ようやく今日会う約束をした。場所は三瀬峠の近くにある東公園の正門前だった。約束の十時を過ぎても佳乃はやってこない。待ちくたびれた頃、やっと佳乃が姿を見せた。軽くクラクションを鳴らした。しかし佳乃は近寄っては来なかった。佳乃が声をかけたのは暗い歩道を歩いていた男だった。「増尾君」。増尾はその時偶然車でそこを通りかかったのだが、尿意を催して公園のトイレに入った返りだった。増尾は佳乃が待ち合わせをしていたのに気づいていた。「よかと?」。佳乃は「気にせんでいい」という。そして待ち合わせた男の車に駆けて行き、二言三言言葉をかけて、すぐ引き返してきた。貸していた金を返してもらう約束だった、が後で口座に振り込んでくれるよう頼んだという。佳乃は車に乗り込んできた。増尾はこういう厚かましいタイプの女の子は苦手だった。それにニンニクの強い香りが車内に漂う。車内では佳乃が一方的にしゃべりかけてくる。面倒なので無視していたが、それでも話を続ける。それではっきり言った「あんたタイプと違うし」。「あんた乗せているとイライラする、降りてくれんや」。増尾は身を乗り出して助手席のドアを開けた。「早う、降りれって」、しがみつくのを車外に蹴りだした。転げ落ちた佳乃が頭をガードレールに打ち付けて「ガツン」という音が響いた。翌日の朝、佳乃は死体となって発見された。増尾もこの夜から行方をくらましている。警察やマスコミは増尾を容疑者として追っていた。佐賀市郊外にある紳士服量販店に勤める馬込光代は、双子の妹、珠代と暮らしている。来年は三十になるが、彼氏はまだいない。三日前勇気を出して出したメールに返事が来た。清水祐一という男だ。三ヶ月前面白半分で知り合った出会い系サイトの男だ。三ヶ月前は「会おう」、と言われて尻込みした。その男と佐賀駅で待ち合わせ車に乗り込んだ。祐一は殆ど無口だが優しいところがあり、光代は惹かれるものがあった。祐一は何かひどく怯えているところがあり、後に光代に福岡で人を殺したと告白する。ここから祐一と光代の逃避行が始まる。

                11月4日(水曜日) 
 山崎ナオコーラ       「浮世でランチ」
丸山君枝は出版社に勤めているが、後一月ちょっとで辞める。昼休みの時間、階段で二歳年上のミカミさんに出会った。「又階段下りて、公園に行って、一人で昼ごはん食べるんですか?」と何気ない声で聞かれる。「階段下りると、足を使うので、気分が変わるんです」と答えると、「そうじゃないでしょう。エレベーターで下りると、他の人達と一緒になって気を使うから、嫌なんじゃないの」からかうように言ってニコッと笑う。三年前、私が入社したての頃は他の女子社員と一緒に、社員食堂で食事を取っていた。上司の悪口や、ダイエットの話やくだらない話題ばかりが出るので、嫌になって公園で一人で食べるようになった。ミカミさんとは時々組んで読み合せの仕事をすることがある。年が明けて七草粥の日、ミカミさんに会社を辞めることを伝えた。二月の初め、会社を辞める日、最後にガードマンに挨拶した。「あの...、私今日で最後なんです」。「あらまー、毎日深夜まで大変だったもんね」。これで終わった。あるのはタイ行きのフライトチケットのみ。二十五歳の私の手持ちカードはゼロなわけだ。このあと、君枝の少女時代の物語と、会社を辞めて東南アジアを旅行する話が、章を改めて交互に語られる。君枝は少女時代、犬井幸太郎と幼馴染だった。中学生になって、一年の終わりごろから犬井は学校に来なくなった。小学生の頃はいつだって明るくて、皆から好かれていたのに。中学になってクラスが離れてしまったが、犬井が学校を嫌いになるとは想像できなかった。中学二年に上がる日の朝、犬井を迎えに行った。犬井の家は神社の神主さんで、母親はミャンマー出身でニニさんと呼んでいた。犬井はまだ二階で寝ていた。「犬井いる。丸山だけど」と呼びかけると、「お迎えごっこ?。帰りなさいよ」冷たい返事が返ってきた。嫌がる犬井を渋々起こして学校につれて行った。犬井は小さい頃から、女の言葉を使って喋っていた。初めの頃はふざけてそうしていたのだろうが、だんだんそれが当たり前なってしまった。女の子っぽいことが好きな割りに、犬井の性格は男の子風で、恋愛対象は女の子みたいだ。学校へ行くと二年のクラス替えで、私は犬井と一緒の組になっていた。その後犬井は学校を休むことは無くなった。そのうちに学年内で気の合うグループが出来てきた。犬井に私、元吹奏楽部の高林蒼子通称タカソウ、学級委員をしている新田アスカ、それに野球部の鈴木君。この五人が毎週水曜日、犬井の部屋に集まるようになった。犬井の部屋は青や赤のビニールテープがあちこちに貼られている。犬井には犬井の決まりごとがあるようだ。赤のテープで囲まれたところを歩くのは良いこと。青のテープで囲まれた中へ入るのは絶対駄目だそうだ。私たちはこの部屋を宗教部屋と呼んでいる。祭壇を設けてローソクをつけたりした。お供えを用意したり花も飾った。皆がそれぞれお祈りをした。しばらくこの宗教ごっこは続いたが、犬井の両親が離婚し、犬井がミャンマーに帰ることになって、終わった。
私は退職して二日後にはタイ行きの飛行機に乗っていた。タイからマレーシアに向かう。ペナン島でインターネットカフェーに立ち寄った。メールが届いていないかチェックする為だ。ミカミさんから届いていた。タイから出した絵葉書が届いたらしい。マレーシアからミャンマーに向かった。ヤンゴンのホテルで思いがけない人に出会った。中学時代の同級生新田アスカだった。アスカはミャンマー人の男性と結婚してホテルで働いていた。ミャンマーを最後に私は日本に帰ってきた。
日本に帰ってまた出版関係の会社に勤めた。もう四ヶ月経った。今の会社は前の会社に比べて、驚くほど男女の格差がある。出版部とは名ばかりで殆ど事務仕事だ。どこにも理想郷はないし、理想の友達もいない。お昼休みに一人で近所の公園に出かける。そして買ってきた弁当を食べる。

                 11月11日(水曜日)
 越谷オサム          「陽だまりの彼女」 日本ファンタジーノベル大賞受賞作品
真緒が僕のクラスに転校してきたのは、十二年前中学一年の二学期の始業日のことだった。初めのうちは小柄で愛くるしい顔立ちから、人気が有ったが、そのうちに漢字テストがあり、大分前のことではっきり覚えていないが、零点に近い点しか取れないすこぶる付きの馬鹿であることが判明した。加えて学校生活に不可欠な団体行動が苦手だった。「周囲と協力する」という当たり前のことが、彼女には出来なかった。こういう状況からクラスの「真緒いじめ」が始まった。年が明けてしばらく経った或る日、一人の女子生徒が真緒に近づき、「真緒って髪だけは綺麗だよね」と言いながら、隠し持った給食のマーガリンを手に塗りたくって、真緒の髪をなでた。真緒はそれに気づかず喜んで撫でられている。そのうちに真緒の髪は異様な光沢を放ちだした。僕はこれを見て堪忍袋の緒が切れた。「いいかげんにしろよ!」自分では抑えたつもりだったのだが、クラスに響き渡るような大声で叫んだらしい。以後僕は、きれると何をするか分からない子、と恐れられ、真緒と共にクラスでは仲間はずれにされた。中学二年でも同じクラスだった。仲間外れにされた同士、真緒はよく「浩介」と呼びかけながら近づいてきた。勉強も真緒なりに努力し、分からないところはよく質問して来た。中学三年になってクラスが分かれた。相変わらず真緒はイジメにあっているらしいが、姿を見ると僕には近づいてくる。中学三年の夏、僕のうちは家を買って隣町へ引っ越すことになった。引越しが迫った或る日、真緒が訪ねて来た。来た時から帰るまでずっと泣いていた。それなのに僕は彼女に引越し先の住所を告げるのを忘れた。以後、今日まで彼女の消息を知らなかった。僕は大学を卒業すると中堅広告代理店に就職した。今日は、近年成長が著しい、女性下着メーカー「ララ.オロール」に営業に出向いてきた。出てきた女性社員の名刺には「渡来真緒」とある。微笑を浮かべてそつなく答える姿は、かって学年有数のバカと謳われた姿はない。髪型も大分変わっている。これがあの真緒なのか。真緒もすぐ僕に気がついた。仕事が終わると早速旧交をを温めるためレストランへ誘った。ここでお互いの、その後の十年について語り合った。真緒には以前には全く感じられなかった、知性と落ち着きが漂っていた。僕が中学三年で転校した後、真緒は猛勉強したらしい。そして中学を卒業する時には、以前馬鹿にしていた連中を追い越していた。高校は以前の真緒では考えられない県立高校に進学し、ここでも又猛勉強して、大学は東大こそ落ちたものの、名門女子大に進学し現在の会社に就職したらしい。それに比べると僕には取り立てて話題に出来るようなことは何もなかった。特色のない県立高校を卒業し、一浪して凡人の努力で何とかなる大学に入学、ギリギリの成績ではあったが何とか四年で卒業できた。そして広告代理店「日本レイルアド社」に入社した。中学時代、真緒が僕を好きだったことは間違いない。真緒に現在の気持ちを尋ねると、今も変わらないという。二人で真緒の両親の元に挨拶に行った。てっきり喜んでくれるものだと信じていた。ところが、真緒が過去のことを全然覚えていない、全生活史健忘(記憶喪失)の障害があることと、両親の分からない養女として育てられていることを理由に、「結婚はもう少し考えてからでは」と言われた。二人は意気込んでいただけに失望するが、駆け落ち同然にして結婚届を出し、新居を借りて同居する。新婚生活は二人とも理想的で楽しいものであった。しかし一年近くたって真緒にどこか元気がない。医師に診断を受けても異常は認められない。真緒が最近気になることを言い出した。「私はもう十五年生きた。もうそろそろ寿命が来る」と言うようなことを。そして或る日突然いなくなり、それきり帰ってこなくなった。そしてあとで調べてみると、真緒が生きて生活していたという痕跡も消し去って。

                 11月14日(土曜日)
 湯本香樹実          「夏の庭」 
六年生の同じクラスの仲良し三人組、木山、河辺、山下。先日から山下が休んでいる。河辺が僕に話しかけてきた。「山下、どうして休んでるか知ってる」。「いなかのおばあさんが死んだんだって」。僕は山下におばあさんがいるなんて全然知らなかった。「お葬式に行ってるんだって」。翌日、山下は学校に出てきた。なんだか元気がない。「お葬式、どうだった」河辺が聞いた。「お葬式そのものは、どうと言うことない。だけど、人は死ぬと焼かれるんだ。お棺が、大きなかまどの中に入って、そうして一時間後には、全部焼かれて骨だけが残る」。「その骨を、皆でお箸でつまんで、骨壷に入れる。それでおしまい」。「死んだら、その後どうなるんだろう」僕は言った。「それでおしまいなのかな.....それとも」。「おれ、ほんとに怖いよ。お葬式なんか行かなきゃよかった」と山下が言った。それからしばらくして、僕と山下が河辺から呼び出された。「何だよ、重要な話って」。河辺は興奮した面持ちで言う。近所に死にかけたおじいさんが住んでいる。そのおじいさんを監視しよう、と言うのだ。「木山、おまえ、死んだ人見たことことないんだよね」。「だからどうしたんだよ」。河辺は「一人暮らしの老人が、ある日突然死んでしまったら、どうなると思う」と尋ねる。どうなるんだろう。友達も無く、家族もなく、もし、何か最後の言葉を言ったとしても、誰にも聞かれることがなかったら。こうして僕たち三人組による、おじいさんの家の見張りが始まった。その家は、まるで手入れがされていなかった。外壁の板は半分はがれかけているし、ガラスの割れたところにはガムテープで新聞紙を貼り付けただけ。わけのわからないガラクタや、使われていない古い漬物桶やら、新聞紙の束やら、ゴミ袋なんかがずらっと家を取り囲んでいる。道路から家の奥までは見えないけれど、曇りガラスの向こうで青い光ががゆらゆらと動いて、テレビが付いているのがわかる。おじいさんはもう七月だと言うのに、まだコタツに入っている。おじいさんは三日に一度ほど近くのコンビニに買い物に行く。買うものは、たいがい決まっている。お弁当、パン、バナナ、パック入りの漬物、インスタントの味噌汁、カップラーメン。お弁当は必ず買い、その他の物は買ったり買わなかったり。僕たちはそのおじいさんを尾行する。おじいさんは、よれよれしているものの相変わらず生きている。見張りをすることは退屈な仕事だ。夏休みになって相変わらず、おじいさんの家の見張りを続けているのだが、家の周辺に置かれている生ゴミのビニール袋が臭い。臭いを吸い込むと、吐きそうで、目にも涙がたまってくる。あまり臭うので僕は、それを捨ててこようとした。そこへ河辺と山下が来た。「ゴミ出しをするから、手伝えよ」。初めは二人とも嫌がっていたが、渋々手伝いだした。その時突然玄関の戸が開いて、おじいさんが顔を出した。「お前ら何をしている」。おじいさんは気づいていた「お前ら、よくうろうろしているな」。僕たちは黙っていた。まさか、おじいさんが死ぬのを見張っている、なんて言えないし。こうして僕たちはおじいさんと顔見知りになった。以後僕たちは汚いおじいさんの家の掃除や、廻りの後片付け、荒れ果てた庭の掃除などを手伝うようになった。おじいさんの話によると、戦争に従軍して自分の生きるためとはいへ、残酷なことをしてしまった。家族に合わせる顔がないとして、以後家族の元には帰ってない。家族の消息は分からないと言っていた。おじいさんとは次第に打ち解けていった。仕事を手伝った後では、よく冷えた西瓜をご馳走してくれることもある。八月も最後の週になると僕たちもサッカーの合宿が待っている。僕たち三人とも合宿に参加した。新幹線に乗り、コーチの郷里の島に渡る。そこでサッカーの練習をしたり、海にもぐったりして四日間を過ごすのだ。
楽しくて苦しい合宿が終わり、僕たちは帰って来た。早速おじいさんの家に行ってみた。たった四日見なかっただけなのに、庭には僕たちの植えたコスモスが咲いていた。「おじいさん何してるかな」。「昼寝」山下が言った。「風呂掃除」河辺が言った。僕は「思いつかないよ」と言った。ほんの少し開いている窓から覗くと、布団の上におじいさんは横たわり、おなかの上で両手をゆっくり結んでいる。「オレの勝」山下がささやいた。でも次の瞬間、僕たちは同時に気がついた。奇妙なくらいはっきりと、おじいさんは眠っているのじゃない。翌日おじいさんの葬式が行われた。読経ののち焼香をすますと、お棺のふたが開けられた。おじいさんは信じられないほど小さくなってこわばっていた。僕も、河辺も、山下も泣いた。「これはおじいちゃんじゃない」。

                11月19日(木曜日)
 田辺聖子          「うつつを抜かして オトナの関係
        “すんだこと”
吉永くるみが辞めてから梶本はがくっとなった。梶本は泣きたいぐらいである。六年間も机を並べて仕事をしてきたのだ。頭のいい、腰の軽い、有能な部下だった。三十二だったが、いつまで経っても二十五、六にしか見えない。生き生きとよく動く表情や笑顔が魅力的で、声やものの言いぶりが可愛いから、会った印象は美人に見える。梶本はくるみが好きだった。何しろ六年間も一緒にいたのだ。九時から五時まで、来る日も来る日も共にいたというのは、人間関係の密度において妻より遥に深い。妻と結婚してもう二十年になるが、二十年対六年の比重は、だんぜん、くるみとの六年の方が重い。しかもくるみとは、好きではあったが、とうとう男と女の関係にはならなかった。梶本は最近不機嫌な日が続いている。その不機嫌は、くるみが「実は、わたし辞めようと思うんです」と言った半年ぐらい前から生じている。「田舎の母が病気で倒れて、一人暮らしなので、帰って看護してやるつもりです」。これまでくるみを誘って六甲山や、再度山にハイキングに行ったり、大阪の町を何度もうろついたことがある。何度か口説いたが、くるみはその都度「私、課長さんが大好き。でも好きな人とは3(スリー)フーの関係でいたいんです」という。スリーフーとは、身体に触れない、心の中に踏み込まない、それで不平を言わない、の三つのフーだそうだ。そういうわけで今だ男女の仲には至っていない。或る日梶本は酔っ払って家に帰った。翌朝、妻が「くるみさんって誰」と聞く。「辞めた吉永くるみだ」と言うと、「パパはね、昨夜おんおん泣いていたやないの。くるみおらへん、くるみおらへんって」。妻は固い顔をして言った。何日かして不意に妻がいなくなった。帰って来た妻に聞くと、くるみのところへ行ってきたという。まだくるみは前の住所にいたようだ。その後妻はくるみのことを何も言わない。くるみの話を聞いて何でもなかったことを納得したようだ。それからしばらくして、くるみから手紙が来た。発信先は帰郷した田舎だった。手紙には「半月前やっと郷里に帰ったこと。今まで大阪を離れずにいたのは、せめて同じ大阪にいられたらという、未練からだという。会社を辞めたのは、自分が3(スリー)フーの約束を破ってしまいそうになったから。母は元気でピンピンしていること。母を安心させるためこちらで、結婚相手を探すこと。それではお元気で」等と記されていた。くるみもくるみなりに悩んでいたんだと、嬉しくなった。「すんだことやないか」くるみを忘れる決心がつきそうだ。
         
この作品には8編の短編小説が収録されている。いずれも男女の恋愛というより、不倫っぽい大人の話ばかりであるが、男女の機微が上手く表現されていて興味深い。

                 11月23日(月曜日)
 江國香織           「間宮兄弟」
兄弟は生まれたときからこの町に住んでいる。初めは比較的大きな家に一家四人で、現在は二LDK家賃十三万八千円也のマンションに兄弟二人で。彼らはずっと一緒に暮らしてきたし、たくさんの思い出を共有している。明信にとっては三十五年分、徹信にとっては三十二年分の思い出だ。現在、兄の明信は酒造メーカーで、弟の徹信は学校職員として中学校で働いている。二人に共通するのは対人関係が苦手で孤独を好むこと。小学校、中学校時代はイジメに遭い、良い思いでは少ない。大学を出てからも仲の良い友人は殆どいない。女性関係でも,二人はもてたことがない。これまで、どちらも一方的に相手を好きになり、失恋の山を築いてきた。徹信の失恋は分かりやすい。町の外れにある新幹線を見に行くことだ。夕食の後、「ちょっと、新幹線を見てくる」と悄然と部屋を出てゆく徹信に、明信はかける言葉もない。徹信もまた、兄が恋を一つ失うたびに胸を痛めていた。明信には徹信の新幹線のような「きまり」はないが、喜怒哀楽が表に出やすい性格であるうえ、失恋すると分別を失うまで酒を飲んだり、自室に閉じこもってしまうという分かりやすい行動に出るので、一緒に暮らしているとすぐ分かる。明信にはこれまで静岡で別れて暮しす母から、十件を超える見合いの話が持ち込まれたが、そのことごとくを相手から断られている。明信は女性に対し自信喪失気味で、女性との交際をあきらめている気配がある。こんな兄に何とか女性を紹介しようと、徹信は勤めている中学校の教員、葛原依子に声をかける。そして自宅のマンションでカレーパーティーを開く計画を立てる。兄に相談すると葛原先生一人では出席しにくいかもしれない、ということで兄弟が行きつけのビデオ店のアルバイト店員、大学生の本間直美も誘うことにした。パーティには二人とも出席してくれた。間宮兄弟主催の「夏の夕べのカレーの会」はひたすらぎこちない雰囲気で進行した。明信は緊張し、ものの味もよく分からない。直美ちゃんは健気にも「おもしろーい」を連発し、場を明るくしようと懸命に努力してくれた。皆でゲームをしたり、音楽を聞いたりしたが終始重苦しい雰囲気が付きまとい、パーティは成功とは言い難かった。その後も兄弟二人は、何とか女性の友達を作ろうと努力するが今だ成果は上がらず、その間一度ずつ失恋する。亡くなった兄弟の父は弁護士で、二人も弁護士を目指したが挫折する。母は高齢の祖母を看病するため、静岡の実家に帰っているが兄弟二人も、よく静岡に行く。母の誕生日には二人が、母を東京へ招待する。家族は仲がよくその絆は強い。二人は子供時代から読書が好きで、教養も深い。優しくて,情が深く思いやりがある。第一印象が悪いだけで、深く付き合えば付き合うほど、その良さが分かってくるタイプである。
いつか兄弟二人とも,素敵な伴侶が現われることを確信する。 

                   11月25日(水曜日)
 有川 浩              「阪急電車」
阪急電鉄宝塚線、沿線八駅を往路、復路で舞台とする物語。沿線に住む人、通学する人、沿線から近郊に通勤する人などが次々に登場して、短い話の主人公になっている。先ずは「宝塚駅」から。会社勤めの征志が宝塚駅で隣り合わせに座ったのは、宝塚中央図書館でよく顔を合わせる女性だった。征志は読書が好きで二週間に一度くらいのペースで中央図書館に通っている。この女性は征志と好みが似ているらしく、よく読みたい本を先回りして奪われてしまう。彼女が意識しているかどうかは分からないが、征志はよく知っている。勿論まだ言葉を交わしたことはない。電車で隣り合わせに座ったのが縁で二人は言葉を交わすようになる。この話はまだ先に続きがある。続いて「宝塚南口駅」。この駅の近くには宝塚ホテルという格式のあるホテルがあり、結婚式の会場によく利用される。その宝塚南口駅から、ウェディングドレスと見まがう白いドレスを着た女が乗り込んできた。友人の結婚式に招待された翔子である。翔子が花嫁と間違えられるような衣装を着たのには訳がある。今日の新郎とは恋人同士だった。社内公認のカップルで、三年が過ぎた頃から社内の人間は誰もが、新郎と翔子は結婚するものだと思っていた。新婦とは同期の友達だった。新婦はあまり目立たない極く平凡な女の子だった。新郎との付き合いが五年目に入り、いよいよお互い結婚を意識するようになった。おたがいマリッジブルーが入り喧嘩も増えたしすれ違いも増えた。その隙を突いたのが今日の新婦である。新郎に近づき、子供まで作ったのだ。新郎は泣きつかれて相手に寝返った。翔子は結果として、彼女に新郎を寝取られる形になってしまった。翔子は別れる絶対条件として結婚式への招待を持ち出した。それが今日であった。白は花嫁の色である。ゲストは白いドレスを着てはいけない。結婚式の基本中の基本である。敢えてその決まりを破った。それもよく目立つように思い切り華やかな衣装にして。翔子はどんな手段を使ってもあの二人を呪いたかった。一生に一度の晴れの日を、一生に一度の呪われた日にしてやりたかった。次は女子高生の話。「甲東園駅」から数人の女子高生が乗り込んできた。「なー、えっちゃんの彼氏すっごい年上なんやって?」。「大卒で社会人二年目やもん。年上言うてもたった五つや」。「でも社会人の人とかって一緒におって楽しいん?」。「なんか誤解しているみたいやけど、社会人でもけっこうアホな人はアホやで。うちの彼氏もアホの部類やもん」。この間アイロンのかけ方教えてくれと、電話がかかってきて、布の種類を聞くと「漢字が読まれへんって言うねん。大学も出た社会人がやで」。「アホや!」。「そんでな...しゃあないから、その漢字の形とか電話で訊いてん。そしたら糸ってかいてあるいうねん」。「糸の横にも何か書いてあるやろ?。それ何」聞いたら「月って書いてある」。「絹や、それは」。それでわたし言いにくいけど言うたってん「あんたな、こんな漢字読めんかったら、どっかで絶対大恥かくで。ちょっとは漢字の勉強しぃ」って。「分かった。今度漢字ドリル買うてくるわ」って。もうこの際やから漢字検定とかとらせた方がええんちゃうかと思うてんねん」。この奇妙でお笑いのような会話はまだ続く。彼氏と彼女の微笑ましい関係が浮かんできて、思わず応援したくなる会話。そのほか、「甲東園」では、かっこいい男にナンパされた女子大生が、男の粗暴な行為で車内の注目を浴び、恥ずかしい思いをした。この男は自分の意に添わない会話をすると、すぐキレル。そして人目につかないところだと暴力を振るう。彼女はこの男と交際していることを後悔し、別れようとするが暴力を振るわれ別れられない。とうとう同じ女子大生の友人で、兄が大学の空手部の副主将を務める男性に中に入ってもらって、ようやく別れることが出来た。他に集団で車内に乗り込んできた、厚顔無恥なおばちゃんの話とか、いろいろの展開がある。

                   12月5日(土曜日)
 青山七恵              「かけら」 2009年川端康成文学賞受賞作品
兄夫婦が喧嘩して、義姉が高崎の実家に帰ってしまった。兄は仕方なく娘を連れて近くの実家に帰って来た。結婚してから四年、兄夫婦は何回もこんな状態になっている。ただし、険悪なのは別居の始まった最初の三日ほどで、それを過ぎてしまうと、兄はわざわざ実家に泊まりながら、毎晩嫁のりか子さんと楽しそうに電話で喋っていた。別居は一週間で終わることもあるし、二ヶ月続いたこともある。今回の家出は、電話のやり取りでとりあえず二週間と期限が決まったらしい。電話を切った兄からりか子さんの熱海旅行計画を聞いた母は、何を思ったのかパートの帰りに、旅行代理店に立ち寄り“さくらんぼ狩ツアー”の申し込みをしてきた。自分達夫婦と、嫁に家出された息子と孫娘、それに家を出て神奈川の奥の大学に通っている私の合計五人分の席を予約して帰って来た。ところが昨日の夕方から孫娘の鞠子が熱を出した。母と兄は鞠子の看病のため行けなくなった。結局、ツアーに参加するのは父と私の二人だけになってしまった。朝7時に新宿に集合し、バスで長野県のさくらんぼ農園に行き、さくらんぼを好きなだけ食べ、高原を走る観光道路ののビーナスラインを走りながら車窓の景色を楽しむ、というものだった。母は「たまにはお父さんと二人もいいんじゃない」と言っていたけど、確かに父と二人で出かけたことなど記憶にない。元々父は子供の扱いが上手い方ではないし、口数も少なく冗談など口にしない人であった。父は家族の中でも存在感が薄く、居るのか居ないのか分からない希薄な、何処にでも隠れてしまいそうな存在である。「お父さん、そんな風だとそのうち全部忘れちゃうよ」。「ああ、そうだな」父は力なく笑った。「それに、もっと主張しないと、あたしたちからだって忘れられちゃうよ」。「いいよ。お父さんは実際、いない様なものだ」「何それ」今度は私が黙った。何種類あるか分からないグレーの背広を着て、朝八時きっかりに家を出、駅へ向かう人々の中にすぐまぎれてしまう父。今でも、父という人間は決してアルプスのようにくっきりとした形では見えない。「これはかけらだな」。父が出し抜けに言った。

                    12月18日(金曜日)
 諸田玲子               「木もれ陽の街で」
その昔、歌人与謝野晶子が住んでいた荻窪の町は樹木が多い。晶子の邸宅は今は住む人もなく、鬱蒼とした雑木林の中にその門扉は固く閉ざされている。私たち一家はこの荻窪の一角で暮している。家族は父母と三つ年下の妹、年の離れた弟二人がいる。商社勤めで戦前羽振りの良かった父は、所帯を持って間もなく、実家に近いこの家に移り住んだ。戦後失職して父はもう少し小さい所に引っ越そうとしたが、そのうちに職が見つかってどうにか持ちこたえている。父は由緒正しき尼子一族の末裔を誇りとする家に生まれた。戦中に死んだ祖母も気位は高く、叔母達も今もって士族の出であることを唯一の拠り所にしている。父は家族の猛反対を押し切って、平民生まれの母と結婚した。母が姑や小姑からいびられるのを見て、実家の近くに家を借りさっさと引き移ってしまった。父には戦前から家族を挙げて付き合う、親しい友人が居た。稲村さんは竹馬の友で、幼い頃からの親友である。言葉は悪いが戦争成金で、広告会社を創立した。家族は妻を亡くして、娘との二人暮し。もう一人は戦前は家具屋をしていた二六さん。戦後は売り食いや引揚者相手の「買受店」に変わった。我が家は畳の入れ替えから布団の打ち替え、家具の修理まで二六さんに頼む。休日になるとふらりとやってきて、父の将棋の相手をしてゆく。今日は稲村さんが娘の祥子さんを連れてやってくる。娘の縁談が決まったそうだ。相手は代議士先生の坊ちゃんらしい。稲村さんは大喜びで、二六さんも交えて我が家で酒盛りをするらしい。この物語は戦後間もない昭和25年から26年にかけて、荻窪に住む小瀬家の周辺で起きる出来事が述べられている。私は親友の祥子さんと同じ人を好きになり、結局祥子さんが妊娠したと偽ってこの恋を勝ち取る。しかし稲村さんは婚約が整い結婚式が真近に迫ってから娘が家出し、面目を失墜した。式場の解約やら招待客への断りやらで、それはそれは大変だったらしい。そのほか近所で一家心中があったり、小瀬家の向かいに住む会社社長のお妾さんが、出入りの学生と駆け落ちしたりといろいろの事件があった。一方私は周囲にやかましく言われながら相変わらず独身生活を楽しんでいる。

                     12月23日(水曜日)
 三浦しをん               「光」
東京都ではあるが離れ小島の美浜島に信行は育った。全島民300名足らずの小さな島である。暗い海から届く潮騒や、夜の森で降り積む椿の花。色とりどりの大漁旗を翻す漁船と、港に集う人のざわめき。陽光にきらめく幾重もの澄んだ波頭。美浜島ほど美しい場所は他にないと信行は確信している。この島はそんな静かで、穏やかで、美しい風景を保っていた。昭和62年5月5日までは。その頃信行は島の小、中学校の二年生。高校に進学するには島外に出なければならない。同じ二年生にはもう一人、美花がいた。二人はいつも教室で机を並べている。信行は岬の小さな灯台を目指して歩いていた。その後をついて来る者がいる。輔(たすく)だ。輔は父親の洋一に虐待されて身体には生傷が絶えない。衣服で隠しているが、隠しきれない顔面にまで傷ついていることがある。島民は皆知っていたが、誰も何も言わない。妻が家を出てからはそれが一層ひどくなった。いつかは輔が父親に殺されると噂されるほどである。信行は年下の輔が可哀想で、初めは庇ってやっていたが、「ゆき兄ちゃん」と呼んでまとわりつきだしてからは敬遠している。美花は美しい。いつも身近で見ているので気がつかなかったが、観光客の噂になり、芸能プロがスカウトに来る騒ぎになってそれに気がついた。その美花と最近では男と女の関係になっている。そんな時運命の日が訪れる。昭和62年5月6日深夜、美浜島は突然の津波に襲われ、島民271名のうち266名が死亡し、助かったものわずか5名。奇跡的に助かったのは信行、美花、輔、燈台もりの老人、輔の父親、それに観光客一人。その時信行と美花は高台にある神社で逢引をしていた。輔はそれについてきた。運良く釣りに出ていた観光客とそれを案内していた輔の父親。灯台は高所にあるので難を逃れた。これが助かった人のすべてである。そんな中で信行は美花が観光客に誘惑され、犯されているのを目撃する。美花の「助けて」の声に信行は躊躇なくこの男を殺す。誰も目撃者のないのを信じて。それから20年の時が流れる。信行は合コンで知り合った南海子と結婚し子供も生まれた。しかし自分の過去は明かしていないし、妻子を心から愛してはいない。愛している振りをしているだけだ。南海子も夫が自分に関心がないのをうすうす気づいて、誘惑してきた見知らぬ男と浮気をしている。ところがこの誘惑してきた男は輔だった。輔が消息不明だった信行を探し当て、目的を持って南海子に近づいたのだ。輔は「男を殺すのを見た」と信行をも脅迫する。しかし輔も居場所を隠していたのに父親にそれを探し当てられ、毎日のよう暴行を受け金をせびり取られている。輔は今では体格も体力も父親より勝るのを知りながら、幼い頃の虐待の恐怖から反撃できないで、父親の意のままになっている。信行は輔に大金を渡すが、輔が今では女優になっている美花にも金銭の要求をしていることを知って、これを殺すことを決意する。美花とはあの災害以来会っていないが、今でも昔の交友関係を信じている。美花に災厄を及ぼすものは誰であろうと排除すると心に決めていた。美花に再開して確認すると、やはり輔から脅迫と金銭を要求する手紙が届いていた。信行は輔を殺して土中に埋めた。良心の呵責など何も感じない。妻子にも嘘をついて家を出てきた。南海子の浮気も知っている。もう家には帰らないつもりである。ところが輔は自分が殺されるのを予感してか、南海子に手紙を出していた。そこには信行の生い立ちと、自分との関係、殺人者としての過去など、思いもよらない事実が述べられていた。南海子は家を出た夫の過去を知って絶望する。一方信行は輔を殺したことを美花に告げ、今後は脅されることなく平穏な生活送れるだろうと話した。ところが美花は喜ぶどころか、かえって迷惑がり今後は一切近づかないでくれと言い渡され、そして大金を手渡される。信行は家を出てから三ヶ月ほどして、ふらりと家に帰る。そして何事もなかったように前の勤め先である役所へ復職する。南海子は殺人者である夫に恐怖を覚えながら何も知らない振りをする。この物語は信行一家が自分が育ち、今は無人島となった美浜島を訪れるところで終わる。以後一家は平穏に暮せるのか、輔の殺人は発覚しないのか、第三、第四の殺人が起こるのではないか。とにかく読後感の悪い作品である。この作品に登場する人物はまともな人物はいない。すべて犯罪者や精神を病んだ人物ばかりである。作品の題名が「光」とされているが、どこからも光は見えてこない。希望も夢も失った暗黒があるだけだ。

                    12月29日(火曜日)
平成21年も残すところ後三日。どうにか家族そろって無事大晦日を迎えられそうである。母は現在97歳であるが、ここ二、三年衰えが目立つ。年末も迫った11月中旬、先年から断続的に続く下血が始まり入院。幸い下血が止まり一ヶ月で退院したが、原因不明のため何時再発するか分からない。不安を抱えたままの越年となりそうだ。とはいへ、97歳は長命である。後は天命を待つのみである。

ところで、恒例となっている今年読んだ本の中から、印象に残っているものを列挙することにする。
     山本兼一     利休にたずねよ
     川上未映子    乳と卵
     今村 敏      隠蔽捜査U 果断
     稲葉真弓     海松
     諏訪哲       アサッテの人
     熊谷達也     邂逅の森
     三浦しをん     まほろ駅前多田便利軒
     三浦しをん     光
     吉田修一     悪人
     江國香織     間宮兄弟
     有川 浩      阪急電車      


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