NO 6

      平成20年1月4日(金曜日)
今年初めの読書は
重松 清著     「きみの友だち」
この物語は和泉恵美(11歳)の誕生日から始まる。 去年の誕生日には同級生が5人、別のクラスからも3人遊びに来た。 でも今年は誰も来ない。あの日までは恵美にも沢山友達がいた。昨年誕生日が終わった数日後、その日は朝のうちは良い天気だったのに午後から急に雲行きが怪しくなり、下校時間になると雨が降り出した。傘を持ってきていたのはあいにく恵美一人だった。帰ろうとすると友達が「私も入れて」と駆け寄ってくる。二人のうちは良かったが、次々に「私も!私も!」と5人も集まった。そしてまた一人。「もう無理」と断ったが、「いいじゃない、友達なんだから」と無理やり割り込んできた。恵美は押し出されて傘が使えなくなってしまった。ふと前を見ると一人で傘をさしている子がいる。前後のグループからポツンと離れたひとりぼっち。隣の友達に聞くと、「隣の組の楠原由香ちゃん。でもどんな子かわからない」と答える。他の子に聞くと、身体が弱くて学校はしばしば休む、おとなしくて無口で、勉強もあまりできないらしい。雨は相変わらず降り止まない。 髪や顔がびしょぬれになった由香は我慢できなくなって「「わたし、由香ちゃんの傘に入れてもらうから」と車道に飛び出した。そこへ車が来た。入院生活は3ヶ月に及んだ。左足の複雑骨折だった。車がもう少しスピードを出していたら、飛び出した位置がもう少し車道の内側だったら、恵美の命はどうなっていたかわからない。しかし恵美は運が良かったことに感謝せず、あの日、傘に入ってきた友達を恨んだ。連れ立ってお見舞いに来た友達を、泣きながら責めた。謝っても許さなかった。お見舞いに来るたびに何度も何度も責めた。そして誰も見舞いに来なくなった。秋になって恵美が退院したときもう謝ってくる子はいなかった。交通事故が奪ったものは左足の自由だけではなかった。友だちがいなくなってしまったのだ。5年生になって初めて楠原由香ちゃんと一緒のクラスになった。由香ちゃんは相変わらず一人ぼっち。恵美にも誰も声をかけてこない。いつしか二人は一緒に登下校するようになる。
この物語は恵美と8歳下の弟文彦、通称文ちゃんをとりまく子供たちを一章ずつ主人公を代えて構成されている。クラスの中で人気者の子供、意地悪な子供、ボス的存在の子、強い子のご機嫌ばかりとる子供、そして誰にも相手にされない子供などさまざまだ。そんな中で本当の友だちとは何かを物語のテーマとしている。この本を読んで厳しい子供の世界の現実に驚かされる。いじめ問題に悩む世の親にとって参考になる本だと思う。

         1月10日(木曜日)
乃南アサ著       「凍える牙」
正月休み明けの寒い夜、深夜零時ごろ繁華街の外れにあるファミリーレストランで事件は発生した。一人で入ってきた客が客席に座った直後、突然猛火に包まれて燃え出した。火は猛烈な勢いで燃え広がり、レストラン全体を包み込み更に階上の貸事務所や店舗などにも延焼した。被害者の身元割り出しは難航した。 火の勢いが猛烈で上半身は殆ど炭化していて原型をとどめない。この為顔や指紋に頼ることはできない。警視庁の特捜本部は徹底した捜査の末、被害者がこのビルで密かにデートクラブを経営していた男と確認した。また火災の原因となった燃焼物は特殊な化学物質と断定し、これを何らかの方法で被害者に携帯させ時限発火装置を用いて発火炎上させたと推定した。それ以外に被害者には下半身に大型動物に咬みつかれたと思われる深い傷跡が2ケ所見つかった。警視庁機動捜査隊音道刑事はこの特別捜査本部勤務を命じられる。この捜査本部には女性警察官は音道のほかわずかに1名。音道は大勢の男性捜査員に混じって過酷な捜査活動に専念することになる。刑事という職種は従来から、警察官の中でももっとも男性優位の仕事であり、まわりの好奇の目と故無き偏見とも戦わなければならなかった。放火殺人事件の後、第二、第三の殺人事件が連続して発生する。第二、第三の事件はいずれも大型動物により、頚部を食いちぎられ、頭蓋骨を噛み砕かれるという凄惨なものだった。この大型動物は何なのか。殺人の動機は、目的は。放火殺人との関連性は。今後も殺人事件は起こりうるのか。捜査は難航する。そして大型動物による第四の咬殺事件、化学物質による第五の放火殺人事件が連続して発生する。音道刑事はオートバイを使って、秘密裏に犯人を追跡する「トカゲ」と呼ばれる特殊任務に付くよう命じられる。そして音道刑事の大型動物追跡が始まる。
この作品によって作者は1996年第115回直木賞を受賞する。近年の推理小説による直木賞の受賞は第109回の高村薫、第110回の大沢在昌、第120回の宮部みゆき、第134回の東野圭吾など以前に比べると結構受賞者が多い。人気推理作家である宮部みゆき、東野圭吾などより受賞が早いベテラン作家とは知らなかった。

          1月13日(日曜日)
瀬尾まいこ        「幸福な食卓」
冒頭 「父さんは今日で父さんを辞めようと思う」。こんな文句で始まるこの物語に一瞬あっけにとられた。中原家は中学校で社会科を教えている教員の父さんと、現在は別居しているが家には頻繁に顔を出す母さん、進学校で学年一番の成績を続けながら大学進学を嫌って、今は無農薬野菜を作る農業団体「青葉の会」で働いている兄の直ちゃん、それに中学生の私(佐和子)の4人家族。毎朝家族がそろって朝食をとるのが中原家の習慣になっていた。そしてこの席でみんなが重要な決心や悩み事を告白することになっている。直ちゃんが大学進学を断念したのも、母さんが別居を決意したのもこの席だった。今日は父さんが「父さんを辞める」ことを宣言した。父さんは21年間勤めた教員の仕事もやめ、もう一度受験勉強をして大学の薬学部に入りたいという。5年前まで中原家は世間にはどこにでも見られる、平凡ではあるが幸せな一家であった。5年前の梅雨時、父さんが風呂場で自殺を図った。幸い発見が早くて大事には至らなかったが、母さんはそれ以来父さんが自殺を図った原因が自分にある、として精神的に不安定になってしまった。月日が経過しても母さんの症状は一向に良くならない。父さんといると呼吸が乱れ、イライラし、不安になり、感情的になった。カウンセリングを受けたり宗教団体のごときものに頼ってもだめだった。そしてとうとう母さんは別居を決意した。母さんは近所でアパートを借りパートで働き始めた。別居すると母さんの症状は改善に向かい、現在は落ち着いている。直ちゃんは時々失恋する。整った顔してるし背も高い。頭もいいしやさしい。だけど彼女ができて付き合っても3ヶ月ともたない。妹の私から見るとそれが不思議でならない。今は小林ヨシコさんと付き合っている。私も中学2年のとき、坂戸君と付き合ったが坂戸君の転居でだめになった。現在は進学塾で知り合った他校の大浦君と付き合っている。
この物語は父親放棄を宣言した父と、別居している母、それと二人の子供。一見家庭崩壊と疑われる環境の中で、家族がお互いをかばいあい、支えあって生きてゆく姿を暖かく、ほのぼのと描いている。テーマからして暗くなりがちな状況を、ユーモアを交えて淡々と綴られている。読後感の爽やかな作品である。2007年に映画化上映されている。

           1月16日(水曜日)
藤堂志津子         「かげろう」
白沢弘道と出会ったのは雪江が大学を出て2年目、将来は学芸員の資格を得るのを目標に美術館でアルバイトをしていたときのことである。当時彼はタレント文化人としてよく知られた存在で、テレビ、新聞、ラジオや雑誌などにたびたび登場していた。その美術館では、美術館の今後のあり方や、方針などについて識者の意見やアドバイスを受けるため会議を開いており、その出席者の一人として白沢が参加していたのである。雪江はこの参加者たちを案内する役目であったが、こういう会議の参加者は年をとった人が多く、笑顔など見せない堅苦しい人が多かった。白沢はこの時雪江より25歳年年上だったが、屈託のない笑顔で「ご苦労さん」とねぎらいの言葉をかけてくれた。これで雪江はいっぺんに白沢のファンになった。会議はその後2回開かれたが、直接会話をするチャンスは訪れなかった。しかし白沢の行方には常に注目の視線を送っていた。会議が終わって何となく寂しい思いをしていたところ、10日ほど経って思いがけず白沢から電話がかかり食事に誘われた。雪江にとって夢のようなすばらしい夜だった。洗練されたマナーや豊富な話題、場慣れしない相手に対するそれとない思いやり。雪江の目からすると、白沢は非の打ち所のない紳士であり、尊敬の念は更に深まった。その後何回となく一緒に食事をしたが白沢は雪江をただの友人という位置から変えようとせず、期待させるそぶりも見せなかった。二人が知り合って5度目の春を迎えた。雪江は29歳、白沢は54歳になった。ふた月近く連絡が途絶えていたため雪江は何気なく白沢の自宅に電話した。すると白沢は「誰にも言っていないのだが、明日簡単な手術をすることになった。」と打ち明けた。雪江は病院に見舞いに行き思い切って、自分と結婚してくれるよう懇願した。手術は大腸のポリープを除去すると言う比較的簡単なものであった。翌年白沢と雪江は結婚した。新郎55歳、新婦30歳だった。雪江にとって白沢は明朗快活で、長い独身生活から自分の身の回りのことは自分でできる、理想的な夫であった。雪江は極力目立たないよう裏方に徹した。夫婦の公私にわたる二人三脚は13年続いた。68歳になって白沢は癌の病に倒れ、そして死亡した。年をとってからの結婚であったため、白沢の希望で子供は作らなかった。生前白沢は、自分が先立った後の雪江の身の振り方を心配して、高額の生命保険に加入していた。そのため生活の心配は必要なかった。雪江の手にした遺産は思いのほかの高額であった。白沢は生前交際が広く、多くの人が周りに集まったが、白沢が入院後、そして死亡してからも最後まで雪江の心配をしてくれたのは乙彦、紅子の夫婦だった。雪江は夫を亡くした悲しみと喪失感、それに伴う無力感から容易に立ち直れない。それを少しでも和らげようと熟慮の末思い立ったのが乙彦夫婦と養子縁組することだった。ところが養子縁組した後、夫婦の態度は豹変し、悲劇的な結末を迎える。
この本にはこの他「あらくれ」「みちゆき」の2編の中編小説が含まれる。

            1月20日(日曜日)
領家高子           「言問(こととい)」
「あとがき」によると作者の祖母は戦後、向島で芸者置屋をし、料亭を経営していた時期もあったそうだ。
この作品はそれが下地になってか、向島の若い芸者、芳恵とその旦那である上野で三代続いた老舗和菓子屋の主人、それに芸者の心の恋人である若いエリート官僚の恋愛物語。芳恵は向島で三代続く芸者置屋の娘として生まれた。高校を卒業後踊り、三味線、唄などの修行を積んだ後地元で若手芸者としてのデビューを果たした。 半玉時代から芳恵を贔屓にしていた建築家矢野の紹介で老舗和菓子店主人、黒川を知る。黒川は芳恵を熱心にくどき、芳恵は25歳でその世話を受けるようになる。やがて芳恵は妊娠し、女の子千寿を出産する。しかし千寿は籍を入れぬまま突然死する。そんな折芳恵は妹芸者葉子から、黒川には他に女がおり、それが近じか出産する予定、という話を聞いた。赤子の死亡と、恋人の不実行為という二重のショックを受けて芳恵はパリに旅に出る。一方旦那の黒川は精力家で芳恵と交際する前から六本木のクラブのママ真奈美と肉体関係がある。その真奈美を妊娠させるが本人はそれを気づかない。真奈美は目立つようになるまで妊娠を知らせなかった。そして正式な結婚を要求する。結末を迎えないまま物語は終わる。

            1月24日(木曜日)
荻原 浩            「押入れの千代」
三ヶ月前まで恵太は大手百貨店に勤めていた。職場は本店の外商部。出身大学は社内でも羽振りの良い学閥を形成していたし、営業成績も優秀で出世コースの片道チケットを握っていた。流通不況の折から、恵太の百貨店にもリストラの嵐が吹いていたが、全くの他人事だった。木曾が外商一課の課長として赴任して来るまでは。たぶん木曾は就任早々開いた自宅の完成披露
パーティに、課内で恵太一人が参加しなかったのを根に持ったに違いない。 新築祝いの翌日から、木曾は恵太にトラブルメーカーの客ばかりを押し付けるようになった。そしてその商談が失敗すると無能だとなじる。おかげで社内の評価は散々なものものになった。リストラ要員となったと聞いた翌日、自分から辞表を叩きつけて退社した。以来就職活動は続けているのだが、不況のせいでなかなか就職先が決まらない。来月になると失業保険も切れる。今住んでいるワンルームマンションは家賃が11万円もする。とても払いきれないので転居することになった。「家賃5万円以下で浴室付き、礼金はなし」が条件だった。不動産屋は「うーん、そりゃー無理だわな。外れといってもここは一応都内だしさ」と話しに応じない。それでも何とか、と粘っているとしばらく思案した末、「一つありましたな」と手書きの間取り図を出してきた。「これでなんと、家賃三万6千円。礼金なし。管理費なし」。恵太は驚いたが「なぜこんなに安いんです」と聞いてみた。不動産屋は「まぁ、なんというか、一つだけ欠点が。少しばかり古いのが難点でして」と答える。恵太は結局、家賃の安さに惹かれて現地も見ずここに決めた。さあ、この物件は如何なる物件か。如何なるトラブルが発生するか。
作者 荻原 浩について前回読んだ「明日の記憶」が強く印象に残ったので、この本を読んでみた。結果、作風が全く違う。これが同一作者かと疑った。この作品は怪奇小説というか、ホラー小説というか、幽霊とか、怪奇現象とかが頻繁に出てくる。私にはもう一つ馴染みにくかった。

            1月29日(火曜日)
村田喜代子        「鍋の中」
私たちの祖母、花山苗は今年80歳になり、体重は30キロほどしかないが大変元気である。田舎で生まれ、田舎で育って兄弟が13人もいたそうだ。今年永らく音信不通だった弟、春野錫二郎が思いがけずハワイで見つかり、しかもパイナップル農園を経営する大金持ちらしい。その弟は今重い病気に罹り病院に入院中である。私たちの親たちは錫二郎さんの息子クラークさんと電話で連絡を取り、何十年ぶりかでいとこ同士の旧交を温めあい、今夏錫二郎さんの見舞いに行くことに相談がまとまった。おかげで私たち、孫4人がこの夏休み、おばあさんの家で暮らすことになった。孫四人とは、わたし高校生のたみ子と中学生の弟、信次郎それに大学生のいとこ、縦男と同じく高校生のいとこ、みな子である。ある夜おばあさんが信次郎の寝巻きにと、亡くなったおじいさんの着物を出してきた。それを信次郎が着ると、おばあさんは「まあなんと、軸郎に似ていることだろう」と呟いた。今まで聞いたこともない名前なので尋ねると「一番下の弟だよ」と答える。そして軸郎は中学校に入る前に気が違って、格子のはまった部屋に閉じ込められていたという。おばあさんは軸郎のことについては鮮明に話すのに、ハワイの弟錫二郎についてはいくら思い出そうとしても思い出せないので写真を送ってほしいという。その後もおばあさんは私や、いとこの縦男の身の上についても気に掛かる話をして、私たちを落ち込ませた。おばあさんは小学校の先生を何十年も勤め上げたしっかりした人なのだが、今となってはその記憶は、おばあさんが作る鉄鍋の中身のように混沌として雲が掛かったような、状態ではないのだろうか。
作者はこの作品により昭和62年第97回芥川賞を受賞した。

            2月1日(金曜日)
乃南アサ          「花散る頃の殺人」
はやらないビジネスホテルの一室で二人の死体は見つかった。壁紙のはがれかけた部屋、正方形に近い室内は、二つのベッドがそのスペースの大半を占めておりベッドの足元に申し訳程度の三点セットが置かれている。ベッドの隙間に倒れていたのはモスグリーンのポロシャツにグレーのズボンという服装の痩せた老人だった。もう一方のベッドの隙間には殆ど真っ白といって良いほどの髪で、茶色いブラウスにえんじ色のスカートを身につけた老女がむなしく宙を見つめる格好で倒れていた。いずれもスリッパを履いている。出血もないし、首を絞められた跡もない。年齢はどちらも70代の後半だろうか。瞳孔は散大し、口元に涎がたれている。それに口元からあんずの匂いに似た刺激臭を発していた。チェックインした際に書き込まれたカードには、新潟市に住む窪谷恭造74歳、同妻睦子75歳と記されていた。このホテルに来たのは一週間前で以後逗留している。ホテルの従業員の話ではいかにも仲の良い夫婦という感じで、毎日連れ立ってどこかに出かけていたという。機動捜査隊音道刑事はホテルの通報により同僚と共に現場に急行した。明らかに自殺とわかれば所轄署の担当であり、機動捜査隊の任務からは外れる。現地を検分した限りでは自殺の疑いが濃いが、覚悟の自殺であればふつうちゃんとベッドで死ぬのではないか、という疑問も浮かぶ。二人の所持品はごくわずか。現金数万円と残高200万円ほどの預金通帳、それに着替え用の質素な衣類少々。他に古い写真が一枚。捜査は自他殺両面で行うことになる。新潟県警への問い合わせで、二人は1ヶ月ほど前まで新潟市内のアパートに住み夫は駐車場の管理人として務め、妻も飲食店で働いていたそうだ。その後アパートは引き払い、どちらかに引越したという。二人の死因は青酸カリによる中毒死だった。残された所持品の写真から二人の過去が明らかになる。二人とも若い頃金沢の同じ老舗料亭で働いており、睦子はその頃仲居をしていたが、遊び人の店の主人と良い仲になり子供を宿す。しかし一緒になれず子供は料亭主人の正妻が引き取り育てることになる。睦子は料亭を出され、一緒に働いていた恭造と夫婦になる。そしてこの夫婦は以後全国を転々としながら、引き取られた子供の養育費を送り続ける。写真に写っていたのはこの子の幼い頃のものだった。今その息子が都内で写真店を開業している。写真店では写真を現像するのに青酸カリが必要である。恭造はこの義理の息子に頼み込んで青酸カリを入手した。恭造は自分が末期の癌に侵されており、妻の睦子も白内障で日々視力が衰えつつあるのも知っていた。
これからようやく夫婦でのんびりしようと思っていた矢先であった。治療費のため細々とした蓄えも見る見る消えてゆく。将来を悲観した恭造が妻には知らせず無理心中を図ったものである。若い頃から夫婦働きづめでせっせと仕送りを続ける、そしてやっと余裕ができたと思ったら次は病魔。この夫婦に幸せは有ったのだろうか。音道貴子は春の盛りの道を歩いた。今度の休みには杏の花を見に行こう。

「凍える牙」に続き音道刑事が活躍する推理小説。こちらは6篇の短編からなる連作もの。いろいろの人生、いろいろの家族、それに複雑な人間関係。面白かった。

           2月6日(水曜日)
諸田玲子        「其の一日」
人生の転換点となるその日もしくはその前日、あるいはそれに近接する日に起こる出来事を四つの話にまとめてある。
  第一話「立つ鳥」
貧乏旗本萩原家の次男として生まれた彦次郎は、部屋住みの身、出世はおぼつかない。何度もくじけそうになりながら、貧しい暮らしの中、勉学に励んだ。万に一つの運にかけるのだ、とわが身を叱咤激励した。努力の甲斐あって十七のとき勘定所下役に登用された。更に九年余りの下積みをへて、勘定組頭に昇進した。貞享四年幸運な事件があって、彦次郎は勘定頭指添役に抜擢される。そこからはとんとん拍子だった。折りしも、金銀の採掘量が減少し、幕府の財源は逼迫していた。金がないなら、新たな貨幣を作ればよいー。財政難を打開するために提言した案は将軍の賛意を得た。彦次郎は時の権力者である側用人柳沢保明と手を結び貨幣改鋳に乗り出した。その成果は勘定奉行という地位と、千坪以上はある役屋敷と、家臣郎党と、妾。そして分け前に与ろうとして擦り寄ってくる者たちがもたらした富、蔵に満載された金品である。しかし彦次郎は現在窮地に立っている。貨幣改鋳の際、後ろ盾になってくれた柳沢保明は、前将軍が死去するや幕閣を退き引退してしまった。貨幣改鋳がもたらした効用は省みられず、弊害だけが強調され、追及されている。彦次郎はこれまで二度城中に呼び出され糾弾を受けている。明日はいよいよ三度目の呼び出しである。おそらく明日は、お役御免を言い渡され、罷免されるだろう。屋敷内には動揺が広がっていた。二人いた妾もいとまごいに来た。最後まで残って運命を共にしようとは言わなかった。家臣や郎党の中にも暇を取って出てゆくものもいる。残っている者も彦次郎には、腫れ物に触るように視線を伏せる。苦しいときの神頼みで大老の井伊掃部頭に嘆願のため面会を申し込んであった。大老は会うという。彦次郎はしかし、他人にこびへつらうことが大の苦手であった。大老に会うためいったん家を出るのだが、結局引き返した。そして呼び出しの当日が来た。彦次郎は二度とは帰られないであろう役宅を後にした。
  第二話「蛙」
四千石の大身旗本藤枝家は、姑の淑子が嫁いで二年目に夫に先立たれ子がなかったので、旗本徳山家より16歳の教行を養子に迎えた。旗本山田家の三女として生まれた弥津は18歳で藤枝家へ嫁ぐ。そのとき夫の教行は同年の18歳、姑の淑子は24歳であった。姑の淑子は後家になってから本光院と呼ばれており、藤枝家の実権を握っていた。教行の嫁選びをしたのも本光院であった。夫との夫婦仲は良好で、大身旗本の妻として何不自由のない生活をおくっていた。そんな或る日、弥津にとって思いもよらない大事が出来した。夫の教行が郭の女と無理心中したのである。それまで夫に女があるとは全く知らなかった。またこれを巡って、姑の本光院と夫との間に確執が続いていたことも知らなかった。夫も漏らさないし、姑も言わなかった。旗本の妻として二男一女の子育てだけに専念していたようなものだ。家臣や侍女も一切告げなかった。屋敷内の出来事に対しつんぼ桟敷に置かれていたようなものである。夫に対して、姑に対して、また家臣共に対しても激しい怒りがこみ上げてきた。弥津は今後の善後策を巡って、藤枝家の当主の妻として主導権を振るうことを宣言する。
 他に第三話「小の虫」第四話「釜中の魚」が収録されている。

            2月12日(水曜日)
長嶋 有        「猛スピードで母は」
母は白いシビックに乗っている。ヘッドライトは丸く、フロント前部についたミラーは昆虫の触覚のようだ。母が本当に好きな車はワーゲンのビートルで、走行中に見かけると、ハンドルを握ったまま顎で僕にも見るように促したりする。だから何度か買い替えの話が出ると、今度こそ念願のワーゲンにするかと思ったがそうはしなかった。ただ好きなだけらしい。慎が暮らすM市は北海道の南岸沿いの小都市である。空はいつも曇っていて快晴の日は珍しい。母は東京で結婚に失敗し、幼い慎を連れて祖父母の住む実家に転がり込んだ。実家のあるS市はM市から車で90分近くかかる、だだっ広いだけの辺鄙な土地だ。わずかだが温泉が出たので別荘地として売り出していたが、雪深いせいかあまり人口は増えない。母はここで夜はガソリンスタンドに勤めながら、昼間は保母の資格を取るため学校に通った。慎の面倒は祖母が見てくれた。母はいつまでも両親と一緒に過ごそうとは思わなかったようだ。程なくしてM市に引っ越した。両親に迷惑をかけたくないからといったがそれは建前で、うるさいことを言われずに自由にしたいという思いが強かったのではないか。慎は最近そう感じるようになった。慎が今住んでいるのは小学校に上がる前くじで引き当てたM市の公団住宅である。団地はM市の海岸沿いの埋立地に建てられた5階建てでABC三棟のうちの、C棟の四階四号室である。母は学校で資格までとって始めた保母の仕事も長続きしなかった。その後いくつか職を転々とした末、市役所の社会福祉課というところに非常勤待遇で勤めている。事情があって働けない家庭に貸し出す生活一時金というのがある。母が担当するのはその返済を促すという仕事だった。「まあつまり借金取りだね」と母は言う。本当は返せる能力があるのに返さなかったり、踏み倒そうとする人がいる。母はしばしば帰宅してからも電話口に立ち、側で聞いている慎も震えるような声で取立てをしている。これまで学校の行事に母が参加したことは一度もない。6年になって新担任になった先生は学級活動にことのほか熱心である。来週の参観日に母に是非来てほしいという。もし来なければ先生が来訪するそうだ。母はどうするのだろう。母は参観日に遅れてやってきた。面談を済ませて何故か母は上機嫌で帰ってきた。「どうだった」と聞くと、「うん。如何ってことなかった」ととぼける。母に最近恋人ができた。慎にも「結婚するかも知れないから」と言い、相手を何回か家に連れてきたし、二人で旅行にも行った。しかしその後恋人は尋ねてこなくなったし、母もその話をしなくなった。9月の始めに祖母が交通事故で亡くなった。歩道を歩いていて車にはねられたのだ。祖父と母が病院に駆けつけたとき意識はなかった。一時は持ち直したかに見えたが結局だめだった。手術室から出てきた母の目は涙で一杯だった。続いて心労から祖父が倒れてしまった。母は看病のため実家からM市の勤め先に通うことになる。母は毎日往復3時間の移動で徐々に疲労していった。或る日母が「おじいちゃん一人暮らしで寂しいから、私たち引越ししなきゃ」といった。慎は「いいよ」と答えた。
左手のほうで信号待ちをしている車はワーゲンだった。信号が青に変わると次々にワーゲンが続く。全部で10台のワーゲンの新車である。どこかで展示会でもあるのか。母も慎もうれしくなった。母は煙草をくわえながら、アクセルを思い切り踏み込んだ。先行するワーゲンを次々に追い抜いてゆき、とうとう10台のワーゲンの先導役になった。母は満足そうにバックミラーを覗いている。

作者は本作品で2002年第126回芥川賞を受賞した。 

            2月16日(土曜日)
堀江敏幸         「熊の敷石」
私は翻訳出版が可能かどうかを判定するための、原書の部分訳と梗概を提出する賃仕事をいくつか引き受けており、パリに到着してからすでに気乗りのしない小説の要約を二つ片付けていた。ノルマンディー地方の小さな村にやってきたのは全くの成り行きだった。数年ぶりに訪れたパリでこなす仕事はまだ残っていたのだが、仕事が順調に進み多少の余裕ができたので、旧知の誰かに会いたくなった。この2年ほど音信不通になっていたヤンの実家に電話してみた。何度か会って話をした事のある父親が出て「あいつは親にさへ連絡をよこさない。2年前にパリを離れて、いまはノルマンディーの小村に“停泊”している」という。そして連絡先の電話を教えてくれた。ようやく彼から電話がかかってきた。「きみの手紙はちゃんと転送されて届いているよ。いろいろあって、返事が書けなかった。じつは明日の朝アイルランドに発つんだ。しばらく帰ってこないし、会えるとしたら今日しかない」という。時間と場所を決めてヤンと再会し、やがて彼が今住んでいる家に連れて行かれた。その村はあの「フランス語辞典」を書き上げたエミール.リトレが住んでいたアヴランシュの近くだった。またアヴランシュからはかの有名なモン.サン.ミシェルの僧院が見られる海岸も近かった。ヤンがこの村に"停泊”したのもモン.サン.ミシェルに近いと言うのが決定的要因だった。早速モン.サン.ミシェルが一番すばらしく見える場所へも案内してくれた。彼はプロの写真家であり被写体を求めてあちこち旅をする。彼が今まで撮リためた写真を見せてくれた。その中に豚肉の燻製を作る小屋の写真があった。彼はそれが気に入っていたのだが、プリントが出来上がったのを見て、なんだか急に不快になったという。四つの窓が上げ下げする特殊な作りで独房のある収容所を連想させる。また写っている土管の列はガス管の排出口を想像させた。彼はユダヤ人で父母や祖父母は戦前ポーランドに住んでいた。ナチスの収容所には耐え難い悪い記憶がある。そしてヤンはこの写真を捨てるのもいやだし、持っているのもいやだから貰ってくれと言う。続いてヤンは家族写真を出してきて語り始めた。ユダヤ人が共通の言語であるイデッシュ語を語る時代は遠い昔の話になりつつある。収容所を知っている世代とそうでない世代では決定的に何かが変わる。なぜ両親は僕に大事なことを教えてくれなかったのかって、それが不思議だ。理由を問いただしても詳しく聞いてないと言うだけなんだ。とにかく僕が知りたかったのはポーランド時代の彼らの姿なんだ。でも話してくれない。何があったのか、どういう暮らしをしていたのか、子供の頃の話なんか聞いたことがない。そのあとヤンは自分でもいい出来映えだと認めた花崗岩の舗石工場の写真をくれた。そこには立方体の石の山が積まれている。私はこの積み上げられた敷石をリトレは「フランス語辞典」でどう説明しているか知りたくなった。辞典には「舗装に使う砂岩や固い石の塊」と簡単に説明されているだけだった。その代わり私の目は、最初に掲げられているラ.フォンテーヌの引用に釘付けになった。「忠実な蝿追いは敷石を一つつかむと、それを思い切り投げつける」。これはどういう状況なのか。これを知るためには出典であるラ.フォンテーヌの「寓話」第8巻第10話を読まなければならない。そこには「熊と園芸愛好家」という題名が付されていた。熊が園芸の好きな老人と仲良くなり、老人が昼寝をしている間、老人に近づく蝿を追い払う役目をしていた。熊は老人の顔に止まった蝿を追うため、敷石を手にとって投げつけ、蝿もろとも老人の頭もかち割った、という寓話である。無知な友人ほど危険なものはない。賢い敵のほうが、ずっとましであるという訓話だそうだ。転じて今ではいらぬお節介の意味で「熊の敷石」という表現があるのだという。ヤンがこの寓話を意識して舗石工場の写真をくれたのかどうかはわからない。しかし私はヤンにとってフォンテーヌの熊のようにお節介が過ぎたのかもわからない。 

作者は早稲田大学文学部教授 佛文学者。2001年本作品により芥川賞受賞。

           2月21日(木曜日)
椎名 誠         「走る男」
数十人の男が深夜パンツ一枚で走っている。その後を追っかける多数の犬。こういう異様な状況から物語は始まる。何で犬に追っかけられているのか。パンツ一枚なのはなぜなのか。一切説明がない。俺は逃げる男の3番目を走っていたが犬に追いつかれそうになり、途中で鉄橋から川に飛び込んだ。男の集団は逃げる途中バラバラになり、川に飛び込んだのは俺一人だった。追っ手に捕まらないように行動するのは夜だけだ。俺の行動を追って物語りは進むが、状況説明が殆どなされないので、何がなんだかわからない状態が殆ど終盤まで続く。それでも読み進むと、これが近未来のわが国の姿を象徴しているのだとおぼろげながら分かる。そこには人口の高齢化や、過疎化の進行、そのため耕作をあきらめた田畑、住むことを放棄した廃村、町でも人口減少が著しい。また、経済の衰亡もはなはだしく、就労人口は全人口の10%未満。失業者が町に満ちあふれている。そしてわが国は最貧国として中国や、タイ、ベトナムなど周辺国から経済援助を受けている有様。俺が追われているのは失業者収容所から脱走したため。勿論この物語はパロディでその実現性は殆どないであろうが、人口減少の進むわが国への警鐘として心に留めておきたい。

           2月24日(日曜日)
岩井志麻子       「嫌な女を語る素敵な言葉」
朱美と真佐子という二人の女がいた。朱美は当時人気のあったグラビアアイドルにそっくりだと噂される美人。対する真佐子は象みたいに太って、ブスの代名詞にもなるくらい有名な或る新興宗教の教祖に、顔も姿かたちや声まで似ていると評判だった。ところがこの二人は同じ短大の出身で学生時代からの親友だった。対照的な二人が親友であることに周囲は興味を持った。 その朱美が殺された。犯人は真佐子だった。    二人を知る関係者3人の証言。
最初は、二人の初めての就職先の経営者。  "うちは化粧品店なんですがエステサロンや美容室も併設しています。特に上手いスタッフにはテレビ局などにも派遣して、アナウンサーやタレントの方々のメイクもさせて貰ったりしてます。  最初に二人を見たときは、朱美ちゃんはミーハーにテレビ局に行きたくて、真佐子ちゃんは堅実に手に職をつけたくて応募したのだと思いました。私だけでなく他のスタッフみんなもです。ところが、意外に堅実な現実を思い描いているのは朱美ちゃんで、真佐子ちゃんの方が夢見がちだったんですよ。ええ、私が最も信じられなくなったのは事件そのものよりも真佐子ちゃんが、「図々しい性格、強引で強気でハッタリとホラの多い仕事振り、あの容姿でいつも男を追い回していた」そんなふうに、噂される人になっていたことです”
次は、真佐子が出入りしていたテレビ局の関係者。     "俺、渡辺朱美ってのは知らないんだけど、脇田真佐子のほうは以前から知っているよ。当時から胡散臭い女だとは思っていたね。でも、話は面白いし、ハッタリが多いにしても仕事もなかなかできるみたいだし。芸能プロの女社長って触れ込みで、うちの局に出入りするようになったみたい。あの人とにかく声がでかい、態度がでかい、ついでに顔も身体もでかい。みんな、呑まれてしまうんだ。脇田真佐子、自分がヒロインやアイドルをできないと知った日から、豪快キャラを演じることにしたんだろう。本来の彼女は小心者でいじけてる。でも、あの容姿で小心者でいじけてちゃあ、浮上する方法まるっきりないもんな。だから、女傑キャラを作ったんだ。豪快なおもしろい有能な女社長キャラクターの縫いぐるみをかぶって生きることにしたんだ”
三人目は、ゴルフ教室で知り合った朱美の知人。       “その頃朱美はちょっと有名な商社に勤めてて、それで仲良しになって、朱美の部屋へ出入りするようになった。問題の男とも、その部屋で会ったはず。そんな「取り合い」をされるほどの男じゃないですよ。どちらかというと冴えない方じゃないの。脇田真佐子ってのとも、朱美の部屋で会ったな。第一印象はブスのデブ。しかも図々しい。でも、図々しいのは朱美だったんだから驚き。その男はてっきり朱美の彼氏だと思ってたもん。普通思いますよね。ところがその男、脇田真佐子の彼氏だったんだもん。彼氏が面食いじゃなかった、すべての男が美人でなきゃ嫌だとなったら、人類は滅びちゃうよね。まあ彼が脇田真佐子と交際したとしても、とんでもない異常な話とはいえないと思う。そこそこ、ラブラブの仲だったらしいじゃないですか。それを朱美が盗っちゃった。「あんた達、学生時代から親友だったんじゃないの。その彼氏を盗るなんて、よっぽどのことがなきゃ」と聞くと「ううん、別にないよ」。あのときの朱美の顔、はっきり覚えてる。何のためらいも後悔もない、屈託もない笑顔だった。不気味だったよ。もちろん、殺されたほうが気の毒よ。週刊誌やワイドショーでも、そういうふうに報道されてた。三角関係になって殺された。被害者は美人で可愛くて人気者だった。加害者は醜くて肥っていて、仕事でも評判が悪かった。なんか真佐子が気の毒みたい”

この本にはこの話のほか、猛女、悪女が活躍する話が次から次へと出てくる。女性の本心がどこにあるのか、なんだか怖くなる物語が続く。

         2月27日(水曜日)
乃南アサ        「風の墓碑銘」
東京東部隅田川と荒川に挟まれた古い住宅が立ち並ぶ住宅地で、作業員が築後五十年を超える木造二階建て住宅を取り壊し作業中、敷地の一角地下70センチあまりのところで白骨死体を発見した。通報を受けて隅田東警察署の音道刑事は現地に到着した。音道刑事は隅田東署勤務となる前数年間、警視庁機動捜査隊に属し管轄区域を走り回り、凶悪事件の初動捜査に当たっていた。現在は所轄署の刑事として地道な捜査活動に当たっている。現場である古い住宅は築50数年といわれ、少なくとも昭和三十年代頃からは、貸家として使われていたものだという。建物の傷みが目立つようになり、最近では借り手がつかなくなったことから家主が新しく建て替えることにしたという。その解体工事中に、白骨死体が出たものである。発掘された遺体は3体。成人男子が一体、成人女子が一体、それに嬰児と思われるもの一体の合計3体。いずれも白骨化してから年月が経過しており、遺体からの自他殺の断定は困難だった。そのため捜査本部は設置されず、取り敢えず所轄署による捜査にゆだねられることになった。音道刑事は同僚と共に聞き込み捜査に従事する。早速家主を訪ねるが、80歳を超えた老人であり、しかも完全な痴呆ではないが、時々認知症の症状が出るため老人ホームに入所中であった。留守番として出戻りの家主の娘親子がいるが古い昔のことは分からない。当時の状況を知るものは家主の老人しかいない。このため音道は毎日老人ホームを訪れて、昔の話を聞きだそうとするのだが、はかばかしい成果は得られない。捜査が膠着状態に陥っていた或る日、今度は家主の老人が何者かに殴り殺された。警視庁本庁の応援を得て特別捜査本部が設置されることとなった。音道刑事は以前に放火殺人事件で一緒に組んで捜査活動に当たったことの有る、滝沢警部補と再び組んで仕事をすることになった。滝沢警部補は捜査のベテランであり見習うべきところの多い立派な先輩なのだが、女性刑事に対する偏見のようなものを感じさせ、気骨の折れる相手である。被害老人に対する聞き込みで老人ホームに通ううち、ホームの職員の一人長尾広士が過去の刑事事件の前歴の持ち主であることを確認する。この職員の過去の前歴を洗ううち、昭和56年3月6歳のとき長尾は父と妹を何者かに殺され広士自身も重傷を負ったことが判明、母は今も行方不明のままであることを捜査資料により知る。当時警察は懸命に捜査したが事実が解明できず父による無理心中事件として処理されていた。DNA鑑定の結果白骨死体のうち成人女子の遺体は、行方不明で処理されていた長尾広士の母であることが確認された。20数年前の無理心中事件は殺人事件の可能性が濃厚になってきた。また、白骨死体で発見された成人男子の遺体は誰か。捜査本部は色めきたった。果たして真犯人は誰か。家主の老人を殺した犯人との関連性は。滝沢警部補、音道刑事は真相解明に向けて活躍する。

         3月1日(土曜日)
重松 清          「ビタミンF」
郊外の団地に住む、所帯主の年齢が30代後半から40代の家族の物語。この年代になると自分の将来についての可能性が見えてくるし、若い頃に比べて体力の衰えも自覚される。今後の家族の心配や、そろそろ老後の備えについても考えなければならない年齢でもある。この作品には運命共同体でもある七つの家族の物語が収録されている。その中でも印象に残っている「セッちゃん」を取り上げてた。
高木家は雄介と妻和美、それに中学二年生の娘加奈子の3人家族。娘の加奈子は親バカだとあきれられても、素直でいい子に育ってくれたと思っている。小学生の頃から、クラス委員はもちろん、運動会の応援団長やクラブの部長など何かのリーダーを決めるときには必ず加奈子の名前が挙がった。本人もそういう役割が好きだった。中学生になっても一年生のときも、二年になってからもクラス委員を務めている。そんな加奈子が9月になって「セッちゃん」という子の話をよくするようになった。2学期の始業式に転校して来たのだという。「ちょーかわいそうなの、セッちゃんて」「ソッコーだよ、速攻で嫌われちゃったの、みんなから」「なんで」と和美が聞くと「さあ…よくわからない」と答える。「そんな、理由がなくて嫌われるわけないでしょう」とただすが「まあ、チョーかわいそうだけどね、やっぱ、あるのよ、そーゆーの」それが返事だった。セッちゃんは、9月の終わりになってもクラスになじめなかった。「生意気で、いい子ぶってるんだって。そーゆー子ってやっぱ、浮いちゃうジャン。シカトだよ。誰もしゃべらないもん」。加奈子はもともと学校での出来事は何でも話す子だった。しかし、セッちゃんの話は、聞いていてあまり気分のよいものではなかった。10月初めー運動会の数日前の夜、加奈子はいつものようにセッちゃんの話を始めた。体育の時間に、運動会でやる創作ダンスの練習をしたときのことだ。9月のうちにクラス全員で決めた振り付けが、昨日放課後になって大きく変わった。それを知らなかったのはセッちゃんだけだった。「わたし、誰かが伝えていると思ったのよ」「でも、マジ悲惨だったよ。セッちゃんだけがぜんぜん違う振りで踊っているじゃん」。セッちゃんも途中で振り付けが変わっていることに気がついた。だが、左右をきょろきょろ見ながらワンテンポ遅れて手足を動かすのは滑稽で、クラスのみんなはもちろん、先生まで笑い出した。加奈子はまだその話を続けようとする。。雄介は「もういいよ、やめろよ」と話をさえぎった。運動会の前夜になって、急に加奈子は「お父さんも、お母さんも明日来なくていいよ」と言い出した。両親が仕事や用事で見に来られない一年生と一緒にお弁当を食べなければならなくなった、という。加奈子の言うとおり運動会には行かないつもりであった。運動会の代わりにデパートに出かけることにしていた。学校のグラウンドは通り道にある。何気なくグラウンドを覗くとちょうど加奈子たちのダンスが始まったところだった。加奈子は秋晴れの日差しを浴びるグラウンドの真ん中で立ちつくしていた。ダンスの輪から、一人だけ、はじきだされていた。激しいリズムとうねるようなメロディーの音楽に乗って、加奈子以外は皆、手をつないだり,脚を上げたり、飛んだり走ったり、と流れるように踊っている。加奈子は泣き出しそうな顔で左右をきょろきょろ見回している。雄介は呆然と加奈子を見詰めた。目をそらしたかった。それがセッちゃんの正体だった。

作者は本作品により2001年直木賞を受賞した。

         3月5日(水曜日)
奥田英朗         「町長選挙」
この本は「オーナー」「アンポンマン」「カリスマ稼業」「町長選挙」の四つの中編小説からなる。いずれも日本医師会の理事の息子を名乗る名(迷)医が登場する。
   「オーナー」
日本一の発行部数を誇る「大日本新聞」の代表取締役会長である田辺満雄は、同時に「ナベマン」とも呼ばれ、プロ野球中央リーグの人気球団「東京グレート.パワーズ」のオーナーでもあった。ここ数週間はパワーズのオーナーとしてマスコミ各社の集中砲火を浴びていた。経営が苦しいと訴える太平洋リーグの数球団に合併を勧め、一リーグ制への移行を推進しようとして、世間の反発を買ったのだ。今日も社用車のベンツが自宅マンションのエントランスに横付けされると、いきなりライトが照らされ、視界が真っ白になった。記者の群れが車を取り囲む。田辺満雄は、その様子を見ながら、「この馬鹿どもが」と舌打ちしながら呟いた。ステッキをついてベンツから降り立ち、「こらぁ、どかんか」葉巻をくわえたまま、満雄は一喝した。この3年ほど、満雄はしらふで普通に寝付けたことがなかった。不安なのだ。今日も寝入る態勢に入ったのだが、なにかキーンという耳慣れない音がして、そこからパニックに陥った。翌日、満雄は会長室に主治医を呼んだ。そして、不眠症の専門医を紹介してもらった。日本医師会の理事を務める伊良部氏の息子で神経科医だという。早速秘書がその神経科医に電話して往診を頼んだ。ところがその医者は「いやだよーん」と答えて、往診に応じない。どうしても診てほしければ、診療所まで来いと言う。満雄は腹立たしい思いをしながら、しぶしぶ出かけた。ここからワンマン経営者と風変わりな神経科医の関わりあいが始まる。珍展開に思わず笑ってしまう。
どこかで聞いたような実在の人物が思い浮かぶ。
    「アンポンマン」 
32歳の安保貴明は東大の学生時代、インターネットによるホームページ作成サービスの会社を設立した。籍は文学部にあったがパソコンはお手の物で、ビジネスのセンスにも長けていた。アパートの一室でスタートした会社は、風船が膨らむように急成長し、信じられない額の金が転がり込んできた。成功は確信していたが、ここまでとは思っても見なかった。インターネットという打ち出の小槌があるのに、気づかない者が沢山いる。馬鹿がいるうちに稼ぐに限ると、思うようになった。ライブファストは企業買収を重ねて成長を続け、早期に株を上場したしたことも手伝って、I T業界のみならず経済界全体からも注目を浴びる存在となった。今日は安保貴明の著書「稼いで悪いか」のサイン会が大型書店で開かれている。貴明が書店に到着したときには、すでに200人ほどのファンがならんでいた。初めはサインだけだったのだが、そのうちファンの求めに応じて一言書き添えるようになった。ところがファンが求める言葉の漢字が出てこない。その場は付き添っていた秘書に尋ねて急場をしのいだが、しばらくするとひらがなの文字まで思い出せいものが出てきた。仕事では普段パソコンばかり使っていて文字など書いたことがない。自分では度忘れしただけで何ともないと信じているのだが、秘書がひつこく医者の診療を勧める。秘書が探してきたのは日本医師会の理事が経営する老舗の「伊良部総合病院」だった。なんでも院長の息子が神経科医で、知己を得ておけばあとあとのために得だそうだ。「ちわ。安保といいます」と軽く頭を下げると「知ってる。アンポンタンだよね、グフフフ」と笑い「あのね、アンポンマン。冗談は時間の無駄だから、さっさとやりましょう」むっとしたが感情は奥にしまった。「安保さん金持ちだってね。うちとどっちが金持ちかなぁ」伊良部はなれなれしく言った。この後二人の珍妙なやり取りが続く。
これも、ついこの間まで話題になっていた、実在の人物をモデルにパロディ化しているようだ。

        3月8日(土曜日)
なかにし礼          「長崎ぶらぶら節」
松尾サダは10歳のとき判人さんと呼ばれる、芸者や遊女を置屋や妓楼に斡旋する仲買人に連れられて、長崎市丸山の芸者置屋島田家へ届けられた。明治16年のことである。サダの実家は長崎県の日見村網場にあり、父親は棒手振りの魚屋であった。網場というところは耕す土地もなく、漁をするにも船のない人が肩を寄せ合って暮らしている貧しい集落であった。網場を歩いていると三味線の音が絶えない。女の子のいる家では、どこでも娘に三味線と歌の稽古をさせているからだ。いずれ長崎や博多に芸者として出すためである。網場が異常に芸事が盛んな背景には貧しさがあった。女の子は貴重な収入源なのである。松尾家には3人の娘がいる。サダが6歳になった年、四つ上の長女マスが家からいなくなった。丸山に売られていったのである。マスは歌も三味線も特に優れてはいなかったが、人も振り返る器量よしであった。サダは男の子と間違えられることはあっても、きれいとか、可愛いとか言われたことがない。サダが丸山の芸者になるためには、芸を磨くしかないと人にも言われ、自分でも思った。六つになったとき三味線の稽古を始めた。長唄のお師匠さんのところへ毎日通った。撥でぶたれて泣きながらも稽古に励み、同時に始めた子供連中の中でも群を抜いて上達した。特に歌が得意だった。サダが歌う小唄や民謡、三味線の腕前は網場でも評判になった。サダが10歳になった正月あたりから、判人さんと呼ばれる男が長崎からやってきて親達とひそひそ話しをするようになった。そして丸山に連れてこられた。丸山には芸者と遊女の区別があった。芸者は芸を売り、遊女は色を売る。世間ではよく混同されるが、その違いは歴然としている。丸山の芸者は常に白足袋をはいているが、遊女はたとえ花魁という位にあがっても足袋をはくことは許されない。サダは見習い期間2年間を経て、12歳で念願の舞子になった。名前は愛八である。同じ置屋の島田家に姉のマスが、増吉という名で舞子に出ていた。姉の増吉は18才で芸者のお披露目をした。そして21歳のとき、その美貌を見初められて造船所の上級職員の正式な妻となった。これは当時新聞種になるほどの珍しい事件だった。愛八は17歳で芸者のお披露目をした。明治23年秋のことである。20歳を過ぎて愛八はめきめき売り出した。名だたる美人芸者と肩を並べて丸山五人組ともてはやされた。なぜ愛八がそれほど人気を得たのか、愛八自身分かりようがないが、あえていうなら、芸の力であろうか。長唄、清元、常磐津、小唄、民謡、どどいつ、何を歌っても人に負ける気がしなかった。愛八は家の中を見回した。家の中には何にもない。間口一間半6畳二間の長屋で、しかも借家である。家具らしい家具もない。着物は全部質屋に預けてある。30年この稼業を続けてこの有様である。では稼ぎがないかというとそうではない。200人いる丸山芸者の中でも常に三番と下がらない売れっ子である。金は入ってくるのだが、気前のよさが病気である。宵越しの金を持ったためしがない。困っている人や、弱い者を見るとつい手を差し伸べてしまう。特に辻占売りや、花売り娘に行き合うと売れ残りを全部買ってしまう。また、自分が贔屓にしている大相撲が来ると、その若い連中を大勢引き連れて大盤振る舞いをする、といった状態である。だからいつも財布はすっからかんである。或る日、ふとしたことから街中で町検番一の売れっ子芸者、米吉とつかみ合いの喧嘩になった。それを仲裁してくれたのが、古賀十二郎という人だった。古賀十二郎は代々黒田藩御用達の万屋という大店の跡取り息子だった。東京外国語学校で英語を学び、ポルトガル語、スペイン語、ドイツ語、フランス語などにも通じており、長崎では先生として尊敬されていた。先生は現在、長崎学とでもいおうか、長崎の対外交渉史や、文化を徹底研究することに情熱を傾けていた。万屋の十二代当主でありながら、養父が死ぬと商売を忘れて、学問や遊びのために金を湯水のごとく使い始めた。文化の研究の一環として、古くから伝わる長崎民謡で、今は忘れ去られつつあるものを、発掘することを思い立つ。そしてその相方として、音曲に詳しい愛八を選ぶ。古賀と愛八は埋もれた民謡を訪ねて長崎中を歩き回る。その結果発掘されたのが「長崎ぶらぶら節」である。

作者は本作品により1999年第122回直木賞を受賞した。

        3月11日(火曜日)
坂本 司          「切れない糸」
新井和也は大学卒業を目前に控えた4年生。1月になっても就職先が決まらない。就職試験には落ちまくっていた。家業は小さな町のクリーニング業。父母とアイロン職人のシゲさん、それにパートで働く3人の熟年女性、これが「アライクリーニング店」のメンバーである。1月の或る日集荷と配達に出ていた父が、家に帰ってきてから倒れた。脳溢血とか、くも膜下出血とかいうそうだ。そしてそのまま亡くなった。家業をどうするか、呆然として決まらないうちに1ヶ月が過ぎた。これ以上店を閉めていると得意先は逃げてしまう。職人のシゲさんやパートのおばさん達の応援で店を再開させることになった。和也は自分の進路についてはまだ決めかねていたが、取り敢えず洗濯物の集荷と配達を受け持つことになった。いままで商売のことはまるで無頓着であったが、仕事として関わってみると、結構他人のプライバシーに触れる部分が多い事に気づく。この物語はこのクリーニング業を通して、人が殺されたり、重傷を負ったりという派手な事件や事故は起こらないが、当事者にとっては人生を左右するような場面にも直面する。和也の大学時代の友人沢田直之が、近所の喫茶店でアルバイトとして働いている。この沢田は大学時代から優れた洞察力と、鋭い推理力で、みんなの相談相手として頼りにされていた。和也も大学時代はもとより、今でもそれを頼りにして助言を受けている。
  第一話  「グッドバイからはじめよう」
近所のマンションに住んでいる河野さんは、古くからのお客ではないがよく洗濯物を出してくれる上得意だ。家族は夫婦と男の子一人。去年の暮れごろまでは家族三人で出かける姿がよく見られた。最近出される洗濯物が少しおかしい。普通、家で洗濯できるものや、食べこぼしのミートソースの付いた子供の服を、何の処理もせずに洗濯に出したり、今がシーズン中であまり汚れてもいない衣類を洗濯に出す。主婦であればシーズンが終わってからまとめて洗濯に出したほうが経済的だと思うのだが。それに和也は夕方配達と集荷に行くのだが、いつも最近は主人が出る。奥さんは午前中に急ぐからといって、店に洗濯物を取りに来る。そして今日、洗濯物を集荷に行くと、河野さんと一緒に出てきた男の子が「パパには内緒で、今日出した洗濯物のうち、洗わないでほしいものがある」という。それは女物の布製の手袋だった。和也は男の子と河野さんの中に入ってその処理に悩む。そして沢田に相談した。沢田は河野家に起こっている出来事をどう判断するのか。
  第二話   「東京,東京」
糸村麻由子は高校時代からの同級生。大学も同じだったが、学部が違うので全く会ったことがなかった。卒業式の日に偶然顔を会わせたが高校時代と殆ど変わっていなかった。彼女はまじめ系の学生で、おしゃれには関心がない。在学中も真面目に勉強して資格もいろいろ取得し、就職も一流広告会社に決まっている。実家は和也と同じ町内にあり不動産会社を経営している。糸村家はアライクリーニング店の古くからの得意先で、また糸村の母親と和也の母親は友達でもある。麻由子が就職を機に近くのマンションで一人暮らしを始めた。毎週末は自宅に帰ってくることを条件に、一人暮らしを認めたのに最近家に帰ってこなくなった。心配だからクリーニングの集荷のついでに、様子をそれとなく知らせてほしい。先日麻由子の母親にそう頼まれた。麻由子を訪ねると、長かった髪を切り、色も染めている。おしゃれはしているようだが、何となく服装に違和感を感じる。表情もうっとうしそうだ。クリーニングの注文を聞くと「今はない」、という。何回か訪れたが断られ続けている。どうやらクリーニングに、不信感を抱いているようにも見受けられる。学生時代はほとんどスカートをはいていたのに、最近はいつ行ってもズボンをはいている。この状況を沢田に説明して助言を求めると、彼女が抱えている悩み事を的確に指摘する。その悩み事とは。
   第三話   「秋祭りの夜」 
   第四話   「商店街の歳末」
クリーニング店手伝い和也と、その友人沢田をめぐり次々に小事件が起こる。名探偵「沢田」は小さなことから、鋭い判断をくだして事件を解決に導く。それはあたかもコナンドイルの名探偵シャロック.ホームズのように。

       3月14日(金曜日)
朱川湊人        「いっぺんさん」
今はもう30年近くも昔、僕が小学校4年生のとき、そのころ一番仲良しだった友達のしーちゃんと自転車で冒険旅行をしたことがある。しーちゃんには是非かなえてほしい願い事があった。しーちゃんから相談を受けていた僕は祖母に聞いてみた。「一番願い事を叶えてくれる神社ってどこかなぁ」。祖母は「それだったら何といっても“いつぺんさん”だね。前にばぁちゃんが住んでいた村にあった小ちゃな神社だよ」と教えてくれた。ところがその村は、住んでいる人が都会に出てしまって今は寂れ果てている。以前はあった路線バスも、とうに廃止になってしまった。行くとしたら自転車に頼るしかない。おまけに山をいくつか越えなければ、行き着けない遠い場所であった。幼かった僕達は実際の距離も、神社の場所も地図で確認せず、行けば何とかなると楽観していた。冬休みになってすぐ、朝早く家を出た。目的地の袴須に着いたのはすでに昼の2時を過ぎていた。村はすっかり廃れていた。野良道には草が伸び放題、人の姿も見えない。 すっかり心細くなっていた僕達だが、さいわい老人が一人通りかかったので、"いっぺんさん”の場所を聞いてみた。そこはかなり森の奥で、光もあまり届かない陰気な場所であった。老人はただお参りしてお願いしただけでは駄目で、祠の前の地面を掘って白い石を探し、それを持ち帰って毎日願い事をお願いしろ、と教えてくれた。願い事は一つだけ、生涯に一度だけ願いを叶えてもらえるという。しーちゃんの願い事は"早く大人になって、白バイのお巡りさんになることだった”。ところがそのしーちゃんは、お参りして2ヶ月ほどたって、身体に異変がおきた。頭の中に、できものができたらしい。病院に入院したが間もなく死んだ。しーちゃんが死んだ後、僕は寂しくて寂しくて仕方なかった。たまらなくなって、数日後僕一人で"いっぺんさん”に出かけた。そして白い石を見つけ、願い事をした。その願い事とは"もう一度しーちゃんに会わせてください”というものだった。しかし間もなく、その願い事を変更しなければならないような出来事がおこった。しーちゃんが死んだ後、ふさぎこみがちな僕を見て、その年の夏両親が家族で、山の中へキャンプに行くことを計画してくれた。山へは、僕と両親、小学2年生の妹、それに幼稚園の弟の5人が参加した。キャンプは楽しかった。なかでも弟は大喜びで、キャンプ二日目、はしゃぎすぎて高いところから落ち、頭を強打した。はじめ意識はあったのだが、次第に昏睡状態になり、意識がなくなった。すぐ、山の中から車で救急病院に向かったのだが、夏休み中で行楽地の道路は混雑していた。救急車の手配ができなかったので、仕方なく父の車で病院に向かったのだった。渋滞を掻き分けるため、大声で叫びながら進んだのだが、なかなか進路を譲ってくれない。僕は"いっぺんさんの石”に「弟を助けてくれるよう」お願いした。「しーちゃんに会わせて下さいという願い事」を変更したのである。その効果のためか、突然白バイが現れて僕達の車を救急病院へ先導してくれた。そして白バイのお巡りさんは僕に向かって「きっと"いっぺんさん”が助けてくれるよ」と言ったのだ。びっくりした僕が、お巡りさんの顔を見ると、それはしーちゃんが大人になった時の顔のようであった。さいわい弟は命をとりとめ、現在元気で働いている。

この本にはこの他、昭和40年代の貧しい少年と、小鳥のヤマガラを使う片腕のない小父さんとの交流を描く「小さなふしぎ」。不老長寿の水を使って、若返ったり、年をとることが、自由に調節することができる「逆井水」。現代でも行われているという人身御供を扱った「八十八姫」など7編が含まれる。作者の本は昭和40年代を題材にしたどこか懐かしい、メルヘンチックなホラーが多い。

         3月19日(水曜日)
高樹のぶ子        「せつないカモメたち」
卜部香代子は7年間の結婚生活の後、今は離婚してこのコスモシネマ館で働いている。36歳の私が正規の従業員として、採用されたのは幸運だった。むかし、モギリと呼ばれていた私の仕事は、以前は映画をタダで見ることができるのが魅力だったらしいが、私は特に映画が好きではない。コンビニでパートで働くより楽ができるということで応募した。それから大過なく過ごして、今年は四年目。今日映画を見に来た客のなかで、私立中学校の制服を着た5人の女子生徒が目に付いた。ロビーの片隅にある自販機の前に座り込んでひそひそ声で話をしていた。映画が始まって中に入ったが、終演10分前の一番大事なところで外に出てきた。四人である。しばらくして、残りの一人が青い顔をして出てきて、トイレに駆け込んだ。その後、客の一人が女性トイレで変な声が聞こえる、と届け出てきた。私は三つしかない女性トイレ右端の閉まっているトイレに声をかけた。「大丈夫ですか。気分が悪ければ事務所で休んでゆかれてもいいですよ」。しかし返事はなくて、ぶつぶつ呟くような声が聞こえ、軽いうめき声のようなものも聞こえる。しかし出てくる気配はないので事務所に引き上げた。私のすぐ後を追うように女子生徒が飛び出して、外へ走り出て行った。同僚にこの話をすると、イジメにでも遭ったのではないかと、言っていたが私にはよく分からない。次の日の日曜日、私は天気がよかったので散歩がてらに博多港にある、ベイサイドプレイスと呼ばれる船着場にやってきた。ここで偶然先日映画館に来ていた、5人組の中学生の内の3人に会った。そのうち一人はトイレに駆け込んだ子である。散歩を終わり食事を済ませて、自宅へ向かった。その途中何かが私の肩に当たって転がった。3センチほどの石だった。振り返ると道路の脇に少女が一人立っていた。「危ないじゃないの。何するのよ」。少女は返事もせず手に持った石を次々に投げてきた。石を投げ終わると無言で立ち去ろうとする。先日映画館のトイレに駆け込んだ子である。この子は松本アヤと言い、私立中学の1年生。自宅に連れ帰って話を聞いてみた。家族は両親とアヤ、弟の四人だが、一年前母は弟を連れて出ていった。現在父との二人暮し。成績はかなり上位のほうらしい。性格は勝気で負けず嫌い。今いじめにあっているが誰にも知られたくない。プライドが傷つくから。父も学校の先生も知らないし、知られるのは絶対嫌だ。2年経ったら自殺を考えるという。今死んだらいじめている連中に負けたことになる。2年辛抱して中学を卒業したら、あいつらの知らない町に行って死ぬ。意地があるから。アヤはその後時々自宅に来たり、勤務先の映画館を訪ねてくるようになった。こうして私は以後アヤと関わりを持つようになった。  この本は中学生の深刻な心の荒廃やいじめ問題の実態と、香代子の恋愛を中心に進展してゆく。

          3月25日(火曜日)
川上健一          「渾身」
今日は20年に一度水若酢神社で開かれる隠岐古典相撲、柱相撲の当日である。坂本多美子は朝から何となく落ち着かない。夫の英明が都万地区から選ばれて、正三役大関として出場するからである。隠岐の島は古来、相撲の盛んな土地である。島を挙げての祝い事には古典相撲がつきものとなっている。そして人々が最も情熱を注ぎ込むのが、20年に一度、水若酢神社境内で執り行われる隠岐古典相撲大会なのである。水若酢神社は隠岐一ノ宮として千年余の歴史を持ち、格式を誇る神社である。水若酢神社のある五箇地区が座元となり、他の地区が寄方となっての対抗戦を行う。隠岐古典相撲では古式にのっとって、最高位は大関である。大関、関脇、小結の三役があり正三役大関はもっとも名誉ある最高位なのである。しかし誰もが水若酢神社での古典相撲で役力士になれるものではない。20年に一度の開催なのだ。その年に実力が充実していて、地区のみんなの推薦を得、座元、寄方それぞれの総会の番付編成会議によって決まる。実力は勿論、各地区の思惑やそのときの雰囲気や運にも大きく左右される。古典相撲の番付決めは島を挙げての総意なのである。だから古典相撲の役力士は個人の名誉や誇りだけにとどまらず、地区の名誉と誇りでもある。しかも正三役大関は最高位である。神様に奉納する最後の取り組みに見合う、最高の相撲をとってほしいと、地区のみならず、座元、寄方、島を挙げての大きな期待を一身に背負うことになる。夫の坂本英明は隠岐では老舗の旅館の長男だった。京都の大学を卒業すると隠岐に戻ってきた。家業を継ぐことは既成の事実だったが、しばらくは世間の風に当たったほうがいいと、本人、両親納得の上で地元の会社に就職した。英明には両親に言い含められた婚約者がいた。地元の旧家の娘である。しかし英明は麻里と出会い、おたがいに一目ぼれして、家出同然に結婚した。二人の親達は激怒し、すったもんだの末に、英明は勘当を言い渡された。二人の結婚は結婚式も披露宴もなかった。しかし麻里は英明と結婚して長女の琴世を産むと一年後にこの世を去った。進行の早いガンであった。多美子は結婚前から麻里の親友であったが、麻里が琴世を残してこの世を去ったため、琴世を不憫に思い、毎日のように訪れて何くれとなく世話をやいた。琴世も多美子を「あの姉ちゃん」と呼んでよく懐いた。麻里が死んで3年経った半年前、多美子は英明との結婚を決意した。英明と麻里の結婚までのごたごたは、小さな島内にすぐ広まり、秩序と平和をみだす、女たらしとふしだら女の破廉恥夫婦という風評が流れて、一緒に暮らし始めた二人への世間の目は冷たかった。このため英明は生まれ育った西郷の町を出て、都万地区の集落の外れに小さな平屋の家を建て移り住んだ。そしてそこで相撲を始めた。相撲をとるということは、その地区に腰をすえて暮らすという意思表示でもあった。多美子が後妻として一緒に暮らし始めた頃には、英明は地区の行事には必ず声がかかるようになっていた。英明の相撲に対する一生懸命の態度と、地区の行事に積極的に参加し続ける誠実な姿勢が、地区の住民に受け入れられたのである。しかしまさか自分が正三役大関に推薦されるとは夢にも思わなかった。今日の結びの一番、正三大関の対戦相手は座元の田中敏夫である。田中敏夫は島で一番強いと噂される強豪である。地区の誇りと名誉を賭けて、水入りをはさんで大熱戦が展開される。果たしてその行方やいかに。

          3月27日(木曜日)
綿矢りさ            「インストール」
朝子は来年大学進学を控える高校3年生。予備校とのかけもちで最近睡眠不足。 朦朧としている。 そんな朝子を見て級友の光一が「もし疲れてるんなら、学校休んで休養とったら?あんた今まで無遅刻無欠席だから知らないと思うけど、人が働いているとき休むと、皆が休んでいるとき一緒に休むよりも二倍充実した一日が送れるよ」「休みたいけど、一回休んだら、次の日も、また次の日も学校に行けなくなる気がする」「いいじゃない休みたいだけ休んだら。あんたの母親には耳に入らないよう、工作するから」。私は光一のこの言葉に乗って、その日学校を早退し、家でこんこんと眠り続けた。夕方目覚めると、部屋の汚さが気になり大掃除を始めた。夜中、一睡もせず一心不乱に掃除しているうちに朝になってしまった。母が仕事で出勤した後、私はまた掃除にかかった。結局夕方までかかって、部屋にあるすべての家具と小物をゴミ捨て場に運び終えた。あと部屋に残るのは学習机とピアノ、それにおじいちゃんが買ってくれた、思い出のあるコンピューターのみとなった。おじいちゃんが年金をはたいて買ってくれたコンピューターは捨てきれない。ふだんは殆どこれを使ったことがない。無茶苦茶にいじくりまわしてエラー表示が出るようになったからだ。長い間迷ったのち、とりあえずコンピューターの電源を入れてみた。機械は眠ってしまうほど、とろい速度で起動し、画面にアイコンが並んだと思った瞬間、光が画面から消えた。それっきりコンピューターは完全に沈黙。動かなくなったので捨てることにした。重たいコンピューターをゴミ置き場に運び終えてほっとしていると、小学生ぐらいの男の子がやってきた。壊れていて使えないと伝えたのだが、欲しいというので進呈した。同じマンションの8階に住む子だという。ところがこの子は只者ではなかった。ソフトを再インストールして、コンピューターを使えるようにしていたのだ。その上、私が登校拒否で学校を休んでいるのを知って、僕と組んでアルバイトしないかと誘う。その仕事というのが、風俗嬢がネット上に持つホームページで、その風俗嬢に成りすまして、助平な客の相手をする、というものだった。青木君(その子の名前)は去年の春から携帯で、この風俗嬢と交際を続けており、彼女が忙しいのでその代役を頼まれたらしい。風俗嬢の名前は"雅”と言い、ホームページ上に"雅のお部屋”というチャットルームを設けているそうだ。そしてここに入室してくる助平客を相手にチャットをするのだ。青木君が小学校に行っている午前中と、帰ってくる夕方迄を、私が担当することになった。果たしてこの後の展開はどうなるか。

          3月30日(日曜日)
湯本香樹実          「西日の町」
てこじいが母と僕が住むアパートにやってきたのは昭和45年の春、僕が10歳のときのことだった。その日、学校から戻った僕は、扉の前にへたり込んだ見知らぬ男を見つけるや「てこじい?」と声をかけたのだった。ためらいもせずそんな声をかけられたのは、以前から母が道端で寝ている浮浪者を見るたびに、「てこじいもああなっているに違いない」と話していたからである。てこじいはずいぶんきれいに汚れていた。全身まんべんなく、膜でも張ったように汚れているために、その姿は三月のうす曇の光にしっくりなじみ、溶け込んでいた。その頃僕達が住んでいた町は、北九州のKと言う町だった。町並みにはしっとりした温かみがあった。まだ決定的に寂れてはいないのだけれど、ある時点で進むことを止めてしまったようなところがある。そしててこじいも十分古びていて、少なくとも僕の目には謎めいた何かをどっさり抱え込んでおり、おまけにてこでも動かなかった。六畳の隅っこでタダじっとうずくまっていた。わずかな食事を取り、三日に一度ぐらい風呂に入る。あとはタダ壁にへばりついていた。夜になっても横にならず、膝を抱えたまま固くつぼんで眠った。「どうしてここが分かったのかしら」。てこじいが現れた数日後、母は東京の叔父に電話してため息をついた。母によれば僕の父は、繊維会社のサラリーマンだったらしい。離婚から二年ほどの間、母は僕を連れ、まるで西日を追いかけるように西へ西へと転転とする生活を続けた。母は僕を父にとられるような、強迫観念にとらわれていたらしい。てこじいが転がり込んできたのは、Kにようやく腰を落ち着けて半年ほどしてからのことだ。以前から母は僕のまだ会った事のない祖父について語っていたのだ。例えば、母はいつも冷蔵庫にお金を隠していて、てこじいに見つかったとか、祖母の臨終のさい、てこじいが居所不明だったのに、ひょっこり焼き場に現れて、香典から7万円抜いて姿をくらましたとか。戦前、北海道で馬喰をしたり、建設工事を請け負ったりと、もっぱら荒っぽいことばかりしていたてこじいは、終戦になるともう一花咲かせようと一人で東京に出てしまう。祖母はそのあとを追って、女学校に通いだしたばかりの母と、まだ小学校に上がる前の叔父を連れて上京する。北海道を出てからのてこじいについては、最初のうち魚市場にいたということ以外殆ど空白と言っていい。とにかく放埓な生活をおくっていたようだ。母のてこじいに対する態度はゆれていた。風呂に入るか聞きもせず風呂の湯を落としたり、掃除をしながら掃除機の先をてこじいにぶっつけたりした。かと思うと、食欲のないてこじいに少しでも食べさせようと、シジミの味噌汁にたこの刺身、春菊のおひたしという、てこじいの好物を並べたりする。また、壁に頭を持たせかけて寝ているてこじいの顔を、じっと見ていることもある。あるとき母が心配ごとで、ほとんど食が進まないことがあった。するとてこじいが突然いなくなった。信じられないことにてこじいは、夜中に目を覚まして電車でも3,40分はかかる隣町の浜に出かけて、アカガイが入ったバケツを両手に下げて帰ってきた。夜中にとってきたのだという。ふだん殆ど動かない、てこじいには信じられない出来事だった。アカガイは母の大好物だった。母はアカガイの刺身をたらふく食べて元気を回復した。8月の中ごろになるとてこじいは食事を取らなくなリ、救急車で病院に運ばれた。以前から心臓が弱っていたのだと言う。それに肝臓もかなり悪いので手術は無理らしい。そのままてこじいは入院した。母は毎日どんなに疲れていても、家でシジミ汁を作り病院に運んだ。肝臓にはシジミがよいと言われているからだ。母の熱心な看病の甲斐もなくてこじいは死んでしまった。あれから何十年、その母も亡くなり、私は今東京で医科系の大学に勤めて学生を教えている。

2002年本作品は第127回芥川賞の候補作品となった。

        4月2日(水曜日) 
宇江佐真理         「春風ぞ吹く」
幕府小普請組、村椿五郎太は無役の為生活が苦しい。同い年の乳兄弟伝助が、西両国広小路にひらく水茶屋「ほおずき」で、代書屋の内職をして小遣いを稼いでいる。伝助は商才があるのか、すでに水茶屋を経営し、美人の女房も持ち、3人の子の親でもある。それに引き換え五郎太には縁談の一つもない。無役の貧乏所帯が災いしているのだ。しかし無役から御番入り(役職に付くこと)するのは余程の特技があるか、強力なコネでもない限り至難の業だ。五郎太も御番入りを目指して毎月湯島の昌平坂学問所(略して学問所)に通っている。ここで学問吟味に優秀な成績を上げれば、御番入りの有力な武器になる。ところがこれが大変な難物である。四書(大学.中庸.論語.孟子)五経(易経.詩経.書経.春秋.礼記)の素読から始まり「復習」「初学」「諸会業」「詩文」と進む。五郎太はやっと「初学」の段階である。その先に進むには春秋の模擬試験大試業を乗り越えなければならない。そして小普請組から御番入りを果たすとすれば、さらに経史、刑政、天文地理、習字、算術、物産、有職故実を学び、三年に一度の学問吟味で優秀な成績を修めなければならない。今の五郎太の状況ではそれは無理と言うものである。ところが近所に住む、同じく小普請組の俵兵太夫の子息の内記が最近御番入りを果たした。平太夫には紀乃と言う19歳の娘がある。五郎太とは幼馴染であり、お互いに好意を抱いている。しかし平太夫は小普請組には嫁に出せないという。平太夫の妻と内記は五郎太に好意的なのだが、如何ともしがたい。五郎太は発奮して頑張る、そして母の里江にも大いに尻をたたかれる。これまで五郎太はよき師、よき友に恵まれてきた。学問所に通うまで教えてくれた私塾の師匠橘和多利、のちに和多利は備前岡山藩の儒官として召抱えられる。学問所の教授大沢紫舟。同じく二階堂秀遠。そして内職の代書屋をしていて、ひょんなことから知り合った、いわくありげな老人大田直次郎。この人こそ狂歌の作者として有名な蜀山人大田南畝であった。南畝はすでに狂歌で名を成しており、生活には何の心配もなかったが、46歳で一念発起、学を志し、学問吟味を一番の成績で合格した伝説の人であった。これらの良き師が陰から応援してくれた。また友として、乳兄弟の伝助は陰となり日向となって、五郎太を経済的に支えてくれた。俵内記も父の反対に梃子摺りながらも、妹と五郎太の仲を取り持ってくれた。そして五郎太は見事難関の学問吟味の試験に合格し、御番入りを果たし、表御祐筆役を務めることとなる。また念願であった紀乃と祝言を挙げた。南畝に学問吟味試験に合格した報告を、手紙でしたためたところ、狂歌が一首返ってきた。
   早蕨の握りこぶしを振り上げて山の横面春風ぞ吹く
村椿五郎太は表御祐筆役を務めることとなった後も、学問に精進することを忘れず、晩年には昌平坂学問所の教授方頭取勤方にまで出世する。

         4月6日(日曜日)
篠田節子            「秋の花火」
この本には5編の中編小説が含まれる。いずれも魅力的作品だが、そのうちの二つを採りあげた。
   「観覧車」
梅沢は食品会社の営業の仕事について、間もなく10年になる。同期の大半が課長に昇格し、中には次長になった者さえいるのに、彼だけはいまだに主任のままだ。同僚には「趣味と道楽でサラリーマンやってられる身分がうらやましいよ」とか「女にもてない男は仕事もできない」とか嫌味を言われている。彼が市会議長の息子で、建材業を営む実家が市内でも有数の金持ちと、噂されているせいもある。万事にテンポが緩く、反応の鈍い性格が災いしているのかもしれない。今日も、隣町で料理学校の校長をしている伯母に紹介されて、一人の女性に会った。これまでにも何度か見合いをしたが、断られ続けているので、今度の出会いについても一週間も前から綿密な計画を練っていた。しかし実際に会って見ると、計画どうりには進まず、レストランでの気まずい食事のあと、「友達と約束があったのを忘れていた」と言い残して相手は帰ってしまった。食事のあと遊園地に誘う予定で、前売りの入場券もすでに購入していた。仕方なく師走の遊園地で、一人でジエットコースターに乗った。そして次に観覧車のところに来た。木枯らし吹く正月前の遊園地は殆ど人影がない。あたりは薄暗くなってきた。閉園時刻が近づいたことを知らせる音楽が流れ始めた。しかし無人の観覧車はゆったりと回り続けている。突然背後から「おじさん」と声をかけられた。振り返るとスポーツバッグを持ったセーラー服の少女が立っている。「つきあってくれますか」少女が言った。「あの....二万でいいです。最後まで」。普段の梅沢なら「止めた方がいいよ、そういうの」と答えるだろう。しかし、昼間の出来事が梅沢の判断を狂わせていた。返事を曖昧にして、少女と目の前の観覧車に思わず乗り込んでしまった。ところがこの観覧車、頂上部分よりわずかに下がったところで止まってしまった。同時に園内の照明も一斉に消えた。閉園時刻がきて、まだ乗客が残っているのに気付かず、運転を停止したのだ。下に向かって「助けてくれ」と叫んだのだが、何の反応もない。遊園地の職員はすでに引き上げたようだ。この寒空に、火の気もない観覧車の中で一晩過ごすのかと思うと生きた心地がしない。二人で大声で助けを求めたがむなしかった。仕方がないので時間つぶしに話し始めた。実はこの女性、セーラー服を着ているし、背が低く幼顔なので、少女だと思ったのだが35歳の市立図書館の職員だった。化粧気もなく印象の薄い、何となく暗い感じ、はかな気な顔。彼女も職場では居場所のないタイプである。梅沢は趣味で小説を書いていた。これまで雑誌に投稿して三次選考まで残ったこともある。それにショートショートなら有名な文芸誌で入選も果たした。それでも職場では何の話題にも上らなかった。見合いの席でもこんな話をするとそっぽを向かれた。寒くてたまらないので、気を紛らせるため、彼女にこれまで自分が作った、ショートショートの話を次々披露した。彼女はそれを、目を輝かせて聞いてくれた。そして「すごい才能があるのね。あなた」。「そんなこと言われたのは初めてだよ」。梅沢は有頂天になった。梅沢は彼女と意気投合する。彼女が寒さのため喘息の発作を起こしだした。梅沢は決死の覚悟で観覧車から脱出し、地上に降り立って、救急車を呼んだ。
    「灯油の尽きるとき」
専業主婦の昌美は不動産会社に勤める夫と、義母の三人暮らしである。12年前脳梗塞で倒れた義母は最近痴呆も進んできた。昌美はその面倒を一人で見なければならない。夫はバブル崩壊後の不況で、仕事に手をとられ、休日も満足に休めない状況が続いており、義母の世話は全面的に昌美の肩にかかってくる。また介護に関する夫の理解は低く非協力的である。義母は寝たきりで排泄物の処理も自分ではできないし、入浴も昌美の介助がなければ到底無理だ。最近困るのは昌美が少し目を離すと、不自由な身体で部屋中を這い回り、排泄物を撒き散らすことである。少しでも介護の負担を軽くしようと、浴室と便所の改造を夫に相談したのだが、費用がかかりすぎると頭から反対された。このままでは自分のほうが先に倒れてしまうのではと、思うのだが誰も相談に乗ってくれる人がいない。そんな時、橋本という男と知り合いになった。食事をしながら介護に関する愚痴をこぼすと、「つらいだろうなぁ」と同情してくれた。これをきっかけに二人の仲は急速に深まり、男女の仲にまで発展した。昌美は橋本が唯一の自分の理解者だと信じた。しかしこれは昌美の都合のよい思い込みに過ぎなかった。男は昌美のもとを去ってゆく。その日昌美が近所に買い物に出たわずかの間に、義母がオムツをはずして布団をぬらし、這い回って部屋中を排泄物だらけにした。数日前灯油が残り少ないのに気づき、夫に帰りに買ってきてくれるよう頼んだが断られた。この寒いのに石油ストーブの灯油は後わずかだ。汚れた義母の身体を拭き、悪臭のする部屋の拭き掃除をする間、灯油がもつかどうか。翌朝二人の無理心中事件が報道される。

          4月10日(木曜日)
青山七恵          「ひとり日和」
私が5歳のとき離婚した母は埼玉で私と二人で暮らしていた。母は私立の高校で国語の教師をしている。今度交換留学制度とかで、中国に行くことになった。母は私に一緒に中国に行くかと尋ねた。気が進まないので私は断った。「一人でどうするの」「東京に行きたい。で、仕事見つける」。私の返事に母は「お前みたいな世間知らずの田舎者が東京に行ったって疲れて帰ってくるだけだよ」「いや、あたしは行くよ。今年あたり出ようと思ってたところなんだから、ちょうどいい」。さらに母は「大学に行くなら、ちょっとは資金援助してあげる。仕事につくなら自分で稼いで」とも言った。勉強はしたくなかったので「じゃあ自分で稼ぎます」ときっぱり告げた。母はその後もあれこれ言っていたが、私の決意が固いのを見て、都内に一軒家を持っている人がいるので、一応それだけは紹介してあげる、ということに落ち着いた。母が紹介してくれたのが、遠い親戚に当たる、一人暮らしの71歳のおばあちゃんだった。名前は荻野吟子さん。私も自己紹介をした、「三田知寿と申します。今日から、お世話になります」。吟子さんは小さく、痩せていて、柔らかいくせのある白髪を伸びるまま、と言う感じで肩におろしている。いつも背筋をしゃんとしている。ていねいに、きゅっと握ったおにぎりのような印象の人だった。他に猫が二匹いた。この家に来た次の日に、私はコンパニオンのアルバイト派遣所に登録を済ませて、精力的に仕事に励んだ。アルバイトは二時間で8千円もらえる。来年の春までには百万円くらい貯まるだろうか。貯金通帳に記されたその数字を想像すると笑いがこぼれてしまう。吟子さんは社交ダンスサークルに入っていて、木曜日になるといそいそとお化粧をして出かける。付き合っていた彼氏に振られて、気分を変えようと台所に入ると、見知らぬ男の老人がいた。ダンスで知り合った吟子さんの男友達、ホースケさんだそうだ。ホースケさんはこの後よく訪ねてくるようになり、私も吟子さんと三人で食事や、お茶を飲むことがある。週三回のコンパニオンのアルバイトにも慣れ、欲が出てきた。6月に入って、もう一つ新しいアルバイトを始めることにした。笹塚という駅で、ホームの売店の売り子をやることになった。私の仕事は朝6時から11時までの5時間である。この仕事をしていて、私はアルバイトで駅の整理員をしている一人の男性に目を惹かれた。白い半袖シャツがピリッとしていて、りりしい。背が高く朴訥な印象。マッシュルームカット風。色素が薄く、なで肩気味。私はすれ違いざまネームプレートを見た。名前は藤田君。私がじっと見ていると向こうもそれに気がついたようだ。笑顔で会釈すると藤田君も微笑を返してくるようになった。そして私達は付き合うようになった。初めは藤田君のアパートへ行った。ウエッジウッドのティーカップで紅茶を出してくれた。少し話をしただけでその日は帰った。その後、藤田君と仕事の後よく会うようになった。仕事を終えてその日はすることがなかった。藤田君に「うちに来ない」と誘った。「うん。いいよ」。藤田君を連れて帰って、お互いを紹介した。「こちら、藤田君。こちら、吟子さん」。その後、吟子さんは冷麦を作ってくれたので一緒に食べた。二時になると吟子さんはダンスの教室に行ってしまった。藤田君が「眠い」という。「寝る」。「寝よう」。私達は初めて一緒に寝た。藤田君がちょいちょい家に来るようになった。家には藤田君の茶碗や箸、歯ブラシも用意されている。吟子さんの男友達、ホースケさんの茶碗や箸も用意されるようになった。時々は四人が一緒に食事をすることもある。藤田君との仲はその後しばらく続いた。私はこのまま二人の関係が続くことを望んでいた。しかし恐れていたことがやってきた。藤田君の職場に新しく、若くて、カワイイ女性が入ってきた。それからしばらくして二人の仲は疎遠になり始めた。そして藤田君が家に訪ねてきて「もう、しばらくこないから」と言って帰った。それで終わりだった。私は職場で藤田君と顔をあわせるのが辛いから、駅の売店の仕事を辞めた。コンパニオンの登録も解約した。そして池袋にある会社で事務のアルバイトを始めた。年末に母が中国から帰ってきた。顔色はよく元気そうだった。「中国ってそんなに悪くないよ。行かない」。「行かない。日本にいる」。「そう。それじゃあ、ほんとに母子離散ね」。「ほんとに、いいのね」。「いいってば」母は中国へ帰っていった。年明け初出勤の日に上司に呼ばれた。正社員にならないかと声をかけてくれたのだ。「社員寮に空き室があるからよければ引っ越してもいいよ」とも言ってくれた。よく考えて私は引っ越すことにした。吟子さんに「わたし、出てくよ」
と言うと「急ねぇ」。「まあそうだけど」。「一人暮らしはいいものよ」吟子さんは、また「若いときには、苦労を知るのよ」とも言った。いよいよ誰に頼ることもなく一人暮らしを始めるのだ。

作者は本作品により2007年第136回芥川賞を受賞した。

         4月12日(土曜日)
大崎善生       「聖(さとし)の青春」  新潮学芸賞 将棋ペンクラブ大賞受賞
難病のため若くして亡くなった天才棋士村山聖の生涯を綴るノンフィクション。村山聖は昭和44年6月広島県で生まれた。家族は両親と子供3人の5人家族。3歳になるまでは兄、祐司と飛び回って遊ぶ元気な子供であった。3歳の夏、兄弟で山登りの遊びから帰った後、突然高熱を発して寝込んだ。近所の医者で見てもらうと、風邪との診断で、しばらくすると熱も下がり元気になった。しかしこの後しょっちゅう熱を出すようになった。今までの元気な聖とは少し違う。昭和49年の6月ひときわひどい高熱に襲われた。いままで近所の医院では、いつも風邪と診断されていたのだが、様子がおかしいので広島市民病院に連れて行った。下された診断は腎ネフローゼ。状態はかなり悪く、即入院となった。腎ネフローゼは極度の疲労や発熱が誘引となっておこる腎臓の機能障害である。腎臓のろ過能力が低下し、血液中の蛋白濃度が薄れることによって浸透圧のバランスが崩れ、水分が各細胞へと流出しはじめる。その結果顔や手足が異様にむくみだすのである。最悪の場合は肺に水分が流れ込む、肺水腫。呼吸困難により死亡することが多い。蛋白質は細胞の基盤である。その蛋白質が減少すると、身体を護る免疫細胞の供給が減少し、抵抗力が低下する。そのため一寸したことで高熱を発しやすくなるのだ。最高の良薬は安静にすること。何もせず、何も考えずに布団にじっと横たわっていることが、もっとも効果のある治療法なのである。しかしこれは遊びたい盛りの子供にとって最も困難な治療法でもある。広島市民病院に入院した聖は一週間もしないうちに尿から蛋白がスーツッと消えた。たちまち元気を取り戻した。しかしこれからがこの病気の厄介なところである。熱も引き体のだるさからも開放された子供は病気がなおったと思ってはしゃぎまわる。そして少し回復しては、遊ぶことにより体力を使い果たしてまた発熱と言う悪循環の繰り返しになる。結局聖は入院してから5ヶ月経った12月の末にようやく退院した。しかし、昭和50年8月聖は広島市民病院に再度入院した。腎ネフローゼの再発である。この病気には安静が第一である。病院のベッドで過ごすには膨大な時間がある。読書を勧めてやると聖は夢中で本を読んだ。その他にもゲームやトランプ、将棋なども教えてもらった。とくに将棋には格別興味を示した。最初は父の伸一が相手をしたが、それに飽き足らず今度は将棋の本を買ってほしいと言い出した。母のトミコは将棋の知識がないので、どんな本がよいのか分からなかったのだが、数十冊ある本の中から「将棋は歩から」という本を買ってきた。この本は戦前将棋の専門誌「将棋世界」に連載されていたもので、格調が高くとても初心者で、しかも小学一年生が手におえる代物ではなかった。「わかるんか。漢字なんか一つも読めんじゃろ」と父が問うと「漢字は読めんけど、でも大体のことは前後を何回もよみかえせばわかる」と答える。「面白いんか」の問いには「ああ、面白い」と嬉しそうに答える。来る日も来る日も聖は「将棋は歩から」を何回も何回も読みふけった。そしてそれを読破すると「また将棋の本を買うて来てくれ」と注文した。この間主治医の勧めで、病院を転院した。その頃には将棋の専門月刊誌「将棋世界」も購読するようになっていた。そこには聖が知りたい情報、歯ごたえのある詰め将棋や定跡の知識などが網羅されていた。毎日何時間もかけて聖は「将棋世界」の詰め将棋を解きそして昇段コースの問題にも取り組み、懸賞の問題にも欠かさず応募した。小学三年の終わりの三月、聖は外泊許可を得て自宅に帰った。家には親戚でも将棋の強いという人が来てくれた。三段だそうだ。初めはなかなか勝てなかったが、すぐいい勝負をするようになった。聖の相手をする人の顔色が変わりだした。実戦らしい実戦をしたことのない9歳の子供が、すさまじいまでの読みを繰り広げたからだ。三段といえば、アマチュアとしてはトップクラスであり、9歳の子供相手では飛車、角、桂、香を落としても負けないはずである。この子は天才だ、そう叫びたかった。その後、聖は立ちはだかる幾多の障害を乗り越え、病魔と闘いながら、昭和58年11月プロ棋士の養成機関である奨励会に入会する。入会時は5級であったが順調に成績を伸ばし、昭和60年一月には1級に昇級、昭和60年8月の例会では12勝4敗の成績で初段昇格を果たす。昭和61年1月ニ段に昇段。昭和61年7月三段昇段。昭和61年11月、聖、17歳で見事四段に昇段して奨励会を卒業する。奨励会在籍はわずか2年11ヶ月。体調不良で休会した回数をを考えれば、将に奇跡的な昇級昇段であった。4段に昇段した村山聖はいよいよプロ棋士としてスタートする。聖の悲願は唯一つ"名人になること”。しかし病魔は聖の願いを叶えてくれなかった。名人に手の届く八段A級に在籍しながら平成10年8月、併発した進行性膀胱がんのため、惜しまれながら世を去った。 享年29歳。

これまで述べたきたのは概要で、多くの部分を割愛している。とくに奨励会入会前後から以後は省略した部分が多い。奨励会入会に際し、森信雄六段の弟子として師弟関係を結び、以後公私にわたり実の親子以上の深い結びつきが実現する。またプロ棋士として出発してからの聖の青春像、ライバルとして切磋琢磨した棋士達。感動のエピソードなどは、是非本作品を一読されることをお薦めする。

           4月15日(火曜日)
乃南アサ        「ボクの町」
二人の巡査見習い生が、警察学校の6ヶ月間の初任教養期間を終えて、警視庁城西警察署に配属された。実務見習い、職場実習を行うためである。一人は三浦君、身長180センチ弱、体重64、5キロ、全体に華奢な感じ、親切で世話好き。もう一人は本作品の主人公、高木聖大、身長174センチ、体重66キロ。今日から地域実務研修が始まり、実際に交番勤務を受け持つのである。勿論仕事は半人前だから先輩が指導につく、霞台駅前交番班長の宮永巡査長である。交番勤務初日の今日は午前8時半屋上での点検から始まった。総勢40人あまりが整列し点検官の合図で携帯品の点検を受けることになる。「手帳」という声で全員が一斉に左の胸ポケットから警察手帳を出して一ページ目を開く。点検官が整列した警察官の間を回り始め、高木の前で止まった。さりげなく聖大の警察手帳を手にとって、ページをめくっている。「何だ、これは」。聖大は一瞬声が出ない。「何だと聞いておる。これは何だ」目の前に、警察手帳の一番後ろのページが差し出された。「プリクラです」。  「写真に写っているのは誰だ」。「去年まで付き合ってた、彼女です」。次の瞬間、鼓膜が破れるほどの大声が響いた。「馬鹿もん、警察手帳を何だと思ってるんだ」
「何を考えとるんだ、お前は」。課長のどなり声が、聖大の脳みそを震わせた。本署から交番に行く途中、宮永班長が「それにしても、阿呆だなあ、お前」「常識で考えろよ。普通、プリクラなんか貼るか、警察手帳に」そして如何にも愉快そうに「そんな阿呆みたことねえや」。こうして聖大は勤務初日から、出来の悪い見習い生として有名になった。交番勤務についてみると道案内、交通整理、落し物の処理など結構忙しい。そしてそれらの処理は何一つとして自分ひとりでは出来ない。みな指導巡査である宮永班長に頼ることになる。聖大はもともと警察官になりたくてなったのではない。大学の同期生が皆正社員として働いているので、自分だけフリーターでは肩身が狭い、やむなく人に勧められて警察官になった口である。したがって、使命感に燃えてとか、正義感に燃えてとかで、積極的に仕事をやるタイプではない。人の嫌がる仕事は避けたい、しんどい仕事も出来ればやりたくない、適当に大過なく過ごしたい方である。そんな聖大でも、同期生の三浦が職務質問で窃盗の常習犯を検挙したのにはあせった。以後三浦は次々に実績を上げてゆく。聖大も珍しくやる気を起こして、職務質問を繰り返し実行するのだが実籍に結びつかない。かえって交番の同僚からは"疫病神"という有難くないあだ名をつけられる始末である。そして実務修習の交番勤務が終了する日が迫ってきた。何の実績もない聖大は落ち込む。そんな或る日管内で大規模な放火事件が連続して発生する。そしてその犯人と思われる不審者を三浦が発見、追跡しながら、いきなり近づいてきた車にはねられ瀕死の重症を負う。聖大は警察無線でそれを知り、現場に駆けつける。そして倒れている三浦から犯人の人相風体を聞きだした。直ちにこれを本署に連絡すると共に、自分も犯人検挙のため周辺を厳重に捜索する。そして墓地に潜んでいた犯人を見事逮捕した。この放火事件は居住者が焼死したため放火殺人事件となる大事件であった。

端にも棒にもかからない巡査見習い生が、先輩の指導を受けて、徐々に本物の警察官として育っていく過程が、ユーモアを交えてほのぼのと記録されている。読後感の爽快な物語。何故かリチャード.ギア主演のアメリカ映画「愛と青春の旅立ち」が思いだされた。

          4月18日(金曜日)
綿矢りさ        「蹴りたい背中」  2003年第130回芥川賞受賞作品
ハツこと長谷川初美には高校に入学してから、2ヶ月経つのに友達がいない。今日も理科の時間に担任教師が、実験だから適当に座って五人で一斑を作れといった。適当に座れといわれても、適当なところに座る子なんていないんだ。誰か余っていませんか、と聞かれて手を上げた、あの惨めさ。もう一人の余り者も同じ卑屈な手のあげ方をしている。この挙手で、クラスで友達がいないのは私とそのもう一人の男子、にな川だけだということが明白になった。にな川が授業時間中に隠れて雑誌を見ていた。肩越しに覗くと女性のファッション雑誌だった。雑誌のページの中に、見覚えのある笑顔があった。「あ、私この人知っている。駅前の無印良品で、この人に会ったことがある」。にな川が振り向いて「人違いだろう」。「そんなことない。このハーフみたいな顔よく覚えてる」。夕暮れ、部活を終えた私を、にな川は校門前で待ち伏せしていた。授業時間中に「うちに来ないか」と誘われていたのだ。無言で彼についてゆく。にな川の家は平屋の古い造りだった。彼の部屋は二階にあった。「突然だったのに、おれんちまで来てくれてありがとう」。「君がオリちゃんに会った場所の地図、ここに書いてくれないかな」。「オリちゃんて誰」。「おれが読んでた雑誌に載ってたファッションモデル」。彼の部屋の学習机の下に、大きなプラスチックケースがあった。その中を見せてもらうと、教室で見ていたファッション雑誌が、古いものから新しいものまで整然とそろえられている。雑誌だけじゃない。アクセサリーや花柄のブラウスなども入っていた。「そこにある雑誌には全部オリちゃんが載っている。服とかサイン入りハンカチ、アクセサリーなどは、読者サービスの抽選や、ネットオークションで揃えたものもある」。「何でこんなことしてるの。こんなに集めて...」「ファンだから」。「おれ、オリちゃんのファンなんだ。死ぬほど好き」。にな川がもう四日ほど学校に来ない。クラスの派手な女子生徒が「夏休みを待たずして登校拒否生徒がでたぞ!」と笑った。生まれて初めて「お見舞い」をすることにした。にな川の家に行くと彼は自分の部屋で寝ていた。「えっ、長谷川さん。何できたの」。「お見舞いに来たの」。「クラスの子が登校拒否って噂してたから、本当なのかな、と思って」。「そんなぁ、まだ四日しか休んでないのに。ただの風邪だよ。チケットぴあに徹夜で並んだせいだよ」。「あっ、それよりオリちゃんのライブ一緒に行かないか、チケット四枚も買ってしまって、余ってるんだ。興味なかったらいいけど」「日にちが合ったら行く」。「来週の土曜日の夕方」。「チケット四枚あるから友達誘ってもいいよ」。にな川の家から帰ると、すぐ絹代に電話した。絹代は中学時代の友達だった。毎時間の休みを一緒に過ごし、毎日お弁当を一緒に食べ、共に受験した友達だった。今は同じ高校の同じクラスにいながら、見捨てられている。絹代が果たして、一緒に行くというかどうか緊張して電話した。「一緒に行ける」と返事を聞いて、情けないほどうれしかった。オリちゃんのライブには三人で行った。にな川はオリちゃんの初めてのライブに感動していた。ライブが終わって絹代と私は帰ろうとしたのだが、にな川は楽屋口のほうへ向かった。私達も仕方なくにな川について行った。にな川は混雑するファンを掻き分け、オリちゃんに近づこうとして前へ進む。そして警備員に阻止された。結局私達はオリちゃんが車で会場を去るまで、見送ることになってしまった。絹代が「にな川がオリちゃんのところに走って行ったときのハツ、ものすごく悲しそうだった」。「そんなことない」。「そんなことある」絹代は頑固に言う。私の表情は私の知らないうちに、私の知らない気持ちを映し出しているのかもしれない。

           4月22日(火曜日)
宮部みゆき      「名もなき毒」
昨年の春に読んだ「誰か」の続編のような感じ。今多コンツェルンの会長今多嘉親の令嬢を妻として娶った、幸運なサラリーマン杉村三郎が主人公である。杉村は9年前、銀座の映画館でふとしたアクシデントから、今多菜穂子と知り合う。お互いに好意を抱いて交際するが、相手がまさか今多コンツェルン会長の令嬢とは夢にも思わなかった。いよいよ結婚を決意する段になってそれを知る。杉村は破談を覚悟していたが、今多嘉親は直接面談して娘との結婚を許してくれた。ただし若干の付帯条件がついている。今多グループの経営にはタッチしないこと。菜穂子をビジネスに巻き込まず、平穏な暮らしを保障すること。菜穂子の資産を当てにして起業しないこと。今多コンツェルン総本部に職を得て、一社員になること。当時杉村は小さな出版社で働いていた。主に子供向けの書籍を作る編集者であった。今多コンツェルンにはグループ全体の社内報を作っている「あおぞら」という編集部がある。ここで杉村は平社員として働くことになった。今回の事件はこの編集部にアルバイトとして採用された女子社員を巡って発生する。「あおぞら」編集部は社員6名のこじんまりした所帯である。「編集庶務」のアルバイト募集広告に対して88名の応募があったのには正直びっくりした。原田いずみはそんな中、88倍の競争率を勝ち抜いて採用された。履歴書によると私大の文学部を卒業後、ビジネス関係書籍を扱うプロダクションで、3年余り編集の仕事に携わったことになっている。面接のさいの印象も悪くなかった。真面目でハキハキしており、表情豊かで、落ち着いていた。そんな彼女がとんでもないトラブルメーカーだったのだ。実際に勤務を始めると、履歴書通りの編集の経験があるとはとても思えない、初歩的なことを知らない。教えると弁解ばかりする。注意すると、食って掛かり、あげく無断欠勤する。今では編集部内でも腫れ物に触るように、誰からも忌避されている。今回は編集長に仕事に関して注意を受けると、逆上して物を投げつけ暴言を吐いて出て行った。そのまま出社しない。杉村は編集長に代わり解雇を通告した。原田いずみはこれを恨んで、杉村の自宅を探り当て、刃物を持って押しかけ杉村の娘を人質にとって、台所に立てこもる。その前、杉村は原田いずみの経歴を調査するため以前の勤め先を訪れるが、その帰途公園で泣いている女子高生に出会った。様子かおかしいので事情を聞こうとすると、突然倒れて気を失ってしまった。救急車を呼ぶ手配をした。ところがこの女子高生は、母親が青酸カリによる無差別殺人事件の容疑者と疑われている人だと、後で知った。二つの事件が絡んで事態は進展する。 

            4月25日(金曜日)
椰月美智子      「しずかな日々」 野間児童文芸賞 坪田譲治文学賞受賞作品
枝田光輝はお母さんとの二人暮し。今日から五年生の新学期が始まる。担任の先生は四年生のときと同じ椎野清子先生。その名前を見てぼくは半分くらいホッとした。椎野先生はぼくのことをすごく気にかけてくれるから。何かにつけて声をかけてくれる。授業中、ぼくが手を上げていなくても、指差して、ぼくに何かしゃべらせようとする。まるでぼくの中から、新しいぼくを見つけ出そうとするように。でも実際のぼくは、このまんまが百パーセントのぼくだから先生に申し訳なく思ってしまう。でも、やっぱり椎野先生でよかった。すごすごと教室に入り、出席番号順になっている席に座った。ぼくには、仲のいい友達もいなかったから、誰かと一緒になってうれしいとか、誰かと離れて残念だとかいう気持ちは全くなかった。ぼくはいつも、まぬけなクラスの一員でしかなかった。クラスメイトには何のとりえもなく、目立つことのない、さえない男の子としか映らなかったろう。ぼくは勉強も出来ないし、スポーツもからきし駄目だった。椎野先生が「では、まず皆さんの自己紹介から始めましょう」と言い、自己紹介が始まった。ぼくは席順から行くと二番目だ。名前だけいって、「よろしくお願いします」と付け加えた。後ろの席のやつが、もっと何か言えよ、とぼくの背中を突っいてきたが、何も思いつかなかったのでそのまま座った。後ろの生徒は押野という名だった。その押野が学校の帰りにぼくを野球に誘ってくれたのは驚きだった。クラスメイトからそういう誘いを受けたことなんてこれまで一度もなかった。ぼくには、いつでももの悲しいようなイメージが付きまとっていたと思うし、実際ぼくはそのとおりなんだし。自分が発している雰囲気をクラスメイトは敏感に感じ取って、ぼくに遠慮していたのかもしれない。ぼくには何で押野が突然声をかけてくれたのか、さっぱり分からなかった。でも単純にうれしかった。夢じゃないかと思ったくらいに。家からグローブをもって急いで三丁目の空き地に向かった。「枝田、こっちだ」押野が大きな声で呼んでくれた。まるで親友みたいに声をかけてくれた友人を、ぼくは考える間もなく好きになった。初めて参加したぼくを、そこにいたみんなは何事もなかったように受け入れた。昔からの顔なじみみたいにあっさりと自然に受け入れてくれたのだ。実を言うと、ぼくが野球をしたのはこの時が生まれて初めてだった。そんなぼくを仲間に入れてくれた。すごく、ものすごく楽しかった。汗をかいて、服を汚すなんてことはぼくには初めての体験だった。それが五年生になったばかりの日の出来事だ。その日のことはよく覚えている。「あなたの人生のターニングポイントはどこですか」と聞かれたら、ぼくはまずその日のことを答えるだろう。初めての経験。将に、社会への小さな一歩を踏み出した記念すべき日だ。三丁目の空き地は小学校の校区の境界付近にあり、他校の生徒も一緒になって遊ぶ。押野やぼく達野球のグループも他校の生徒が混じっている。学校を終わって空き地に行くと必ずグループの誰かに出会う。こうしてぼく達は交友を深めた。そんな或る日お母さんが突然「会社を辞めて新しい仕事をするので、引っ越す」と言い出した。ぼくは初めて出来た友達と別れて引っ越すのは絶対にいやだ。お母さんの説得には強硬に反対した。学校の先生にも相談して、結局ぼくはお母さんと別れて、同じ校区内にあるおじいさんの家に住むことになった。夏休みに入るとすぐおじいさんの家に引っ越した。おじいさんの家は古くて大きくて、田舎のような昔ながらのうちだった。広い庭にはいろんな木が植わっている。緑の葉っぱが気持ちいい。せみがうるさいくらいに鳴いている。おじいさんはあまりしゃべらないし、貫禄十分で、初めての人にはとっつきずらい感じがする。夏休みに入ってしばらくすると、三丁目の空き地で一緒に遊んでいた連中が、この家に集まり始めた。広い庭につめたい井戸から汲んだ水をまいたり、水遊びをしたり、おじいさんもまじえて、皆が集まっておしゃべりをしたりと、本当に楽しくて幸せな日々が続いた。今思い出しても、あの当時のことははっきりよみがえってくる。おじいさんは85歳になると、足腰はまだしっかりしているのに、「隠居だ」といって、勝手に自分で手続きをして老人ホームに入ってしまった。ぼくはここに一人住んでいる。今のぼくの楽しみは仕事から帰って、縁側で漬物をつまみながらビールを飲むことだ。秘伝のぬか床は、おじいさんから譲り受けた。人生は劇的ではない。ぼくはこれからも生きてゆく。

            4月30日(水曜日)
乃南アサ       「駆け込み交番」 
「ボクの町」に登場した出来の悪い見習い警察官高木聖大が、警察学校を無事卒業して新任巡査として、警視庁等々力警察署に配置され、不動前交番勤務となった。聖大としては、いよいよ一人前になったからには、まずは新宿とか渋谷などといった、都心の大きな盛り場を抱えている警察署に配置してほしかった。そういう場所はひっきりなしにトラブルがある。ひとたび覚悟を決めて警察官になった限りは、あらゆる事案を体験し、処理の仕方を学んでいくことが大事だと学校でも教えられた。忙しくても、どんなに疲れていても、最初の経験ほど一生の宝になるものはないという話だ。だから聖大は、期待に胸を膨らませていた。ネオン瞬く夜の街を、この制服で歩く自分を思い描いていた。ところがこの等々力警察署というのは、都心から離れて東京二十三区のうち、唯一管内に等々力渓谷という「渓谷」を有することで知られる、どちらかというと、のんびりした警察署である。聖大の勤務する不動前交番は等々力不動尊の傍に位置する交番である。周囲は丘陵地帯になっており、坂道が多い。その坂道に沿って、古くて大きな住宅地が広がっている地域である。ここで聖大は、愛犬が迷子になったのを保護したのが縁で、時々交番を訪ねてくる、品のいい、神谷文恵という七十過ぎの老女と懇意になる。彼女は高級マンションの最上階で一人暮らし、十数年前主人と死別し、二人の息子も別に居を構えている。主人は大会社の役員だったそうで、現在住んでいるマンションはもと邸宅の敷地に建っている。大資産家の未亡人でもある。彼女には、とどろきセブンと称する親衛隊のようなものがあり、彼女はその中で、女王様的な存在である。とどろきセブンのメンバーは、いずれも主人の在世中のお屋敷出入りの職人達で、大工の棟梁、植木屋の職人電気屋の職人、中には贔屓になった料理人などもいる。いずれも現役を引退した隠居ばかりである。この連中に聖大は気に入られた。このメンバーが持ち込む情報をもとに、聖人は活動することになるが、結果はどうなるか。

            5月6日(火曜日)
関口 尚       「あなたの石」
桜井修二は大学の三年生。盛岡市内の鉱物店「石の花」でアルバイトとして働いている。勤め先の佐川ミネラル社は、石の展示販売会を開く有限会社だ。ワゴン車で東北全域のデパートやスーパーに出張し、催事場を借りて展示販売会を開催している。修二が働いている「石の花」はそのアンテナショップである。修二は大学入学後すぐ、佐川ミネラル社でアルバイトを始めたのだが、鉱物についての知識が全くなかった。そんな修二を教育してくれたのが、修二より二つ年上の、大学の先輩であって佐川ミネラル社でも先輩に当たる滝川彩名だった。彩名は鉱物のイロハも分からない修二に丁寧に教育してくれた。鉱物の種類から、その成分、その鉱物の形成される過程まで、彩名はすらすら説明する。そんな彩名に修二は尊敬の念さえ抱いた。同僚として働くうちにお互いに好意を持つが、彩名には演劇の趣味を通じて知り合った社会人の恋人がいる。しかもその恋人は妻帯者である。彩名はどちらとも交際を続けるつもりのようである。修二は悩みに悩んだが結局この恋をあきらめる。彩名は佐川ミネラルからも去っていった。彩名と別れてからもう一年以上経つ。二月の或る日、修二が店番をしていると、肌の色が透き通るほど白い女の子が店に入ってきた。店内には水晶やひすい、輝安鉱、緑鉛鉱、かんらん石など常時200種、2000個近い鉱物がそろっている。女の子は展示棚を一つ一つ覗いて回っている。そして、時々ちらちらと僕のほうを窺い見る。その視線が僕を異性として意識しているように感じられる。「石、お好きですか」と僕のほうから声をかけてみた。彼女はつと顔を上げて僕を見た。何ともいとおしそうに僕を見つめる。僕は思わずたじろいだ。何とも変わった女の子だ。けれどもかわいらしい。少しだけ期待してしまった。失恋した当時は二度と恋などしないと誓ったはずなのに。こののち、彼女はしばしば店を訪ねてくるようになった。しかし、自分の住所や名前、電話番号、現在の職業など個人情報が話題に登ると、なぜか口をつぐんでしまう。いささか謎めいた女の子でもある。彼女との交際が深まるにつれて、その理由が明らかになる。そして、なぜ彼女が最初会ったとき、いとおしそうな表情をしたかも。佐川ミネラル社の社長、佐川にも亡き妻ハルコさんとの間に、石にまつわる懐かしい思い出がある。この本のテーマとなっている鉱物は水晶、蛍石、アレキサンドライトの三つだが、その他にもいろいろの名前の鉱物が登場する。鉱物に関心のある人は一度ご覧いただきたい。

             5月8日(木曜日)
立石勝規        「国税査察官」
巨額で悪質な脱税を摘発する国税局査察部。巨大銀行頭取から頭取就任を応援してくれた謝礼として、時価5億円のルノワールの絵が現首相に贈られた。ところが首相はこれを税務署に申告していなかった。銀行はこの絵の代金を、銀行の裏金から支出していた。この事実を査察部が探知した。そして、この絵が目下行方不明。これが表面化すると現政権は崩壊する恐れがある。首相の命を受けて、事件を圧力をかけて何とかもみ消そうとする側近と、巨悪の摘発に命をかける査察部と検察庁の合同チームが死力を尽くして渡り合う。実際にあった事件をモデルにした経済小説。迫力があって結構面白かった。

             5月14日(水曜日)
朱川湊人        「都市伝説セピア」
ファンタジックな怪奇小説が得意な朱川湊人の作品。これまで読んだものより少し怖いお話が揃っている。
   「アイスマン」
25年前の夏、私は「河童の氷漬け」というものを見たことがある。私はその頃精神的に不安定で、岐阜県M市の祖父の家に預けられていた。その夜私は従兄弟の孝一君と、近所の神社の夏祭りに出かけた。県下では有名な神社らしく、近くの沿道まで出店で一杯になるほど盛大なお祭りだった。その頃私は16歳だったが、祭りに見世物小屋が出ているのをはじめて見た。孝一君とは別れて見世物小屋に入ろうとしていると、十歳ぐらいの女の子がニッコリ笑って私の手を引いた。「向こうにもっと面白いものがあるよ。一緒においでよ」。女の子に連れてこられたのは、神社の敷地を離れた駐車場だった。駐車場の一番奥にバスが止まっていた。バスのボディーには「世界初!河童の氷漬け 正真正銘の本物」と書かれた横断幕が張られていた。中に入ると水槽と見まがう、大きな冷蔵庫があり、そのふたが上に向かって開かれていた。冷蔵庫の中には長さ1メートル以上、幅70センチぐらいの、いわば墓石のような氷が安置されており、その中に濃淡の茶色を混ぜたような奇妙な色の物体が封入されていた。河童と言うわりに嘴がなく、ごく普通の人間に近い形状だった。唇をしっかり閉じ、まるで歯を食いしばっているように見える。頭には硬そうな茶色い髪が生え、言葉どおりのおかっぱ頭だった。しかし氷の透明度が悪く、うすぼんやりとしか見えない。正直なところ私は少しがっかりした。多分河童の偽者だ。河童に似せた人形を氷漬けにしたものか、死んだ猿の全身の毛を剃り、河童風に作ったかつらをかぶせたものか。それにもかかわらず、なぜか気になって私は翌日も河童を見に出かけた。しかし昨日の場所にはバスは止まっていなかった。参道をうろついていると、昨日の女の子に出会った。今日は神社からずいぶん離れた場所にバスを止めているという。同じ場所で商売をしていると、地元の分方さんと呼ばれる顔役の場所代の要求が、厳しくて商売にならないそうだ。女の子(のぶ子)に連れられてバスのところにたどり着くと、二人の中年の男がのぶ子の父親に場所代を要求して言い争っていた。そのうちの一人がのぶ子の父親に殴りかかったが、大男の父親は反対に二人を殴り殺してしまった。二人の死体をバスに積んで、見ていた私も一緒に逃げる羽目になった。バスで山の奥のほうに逃げ、道が狭くなって動けなくなったところでバスを止め、私は穴を掘って死体を埋める手伝いをさせられた。それが済むと父親は、のぶ子と私に今度はバスに積んでいる「河童の氷漬け」を更に奥にある「川のほとりまで運んで焼却してこい」と命じた。のぶ子と私は近くの農作業小屋に置かれていたリヤカーに「河童の氷漬け」を積んで運ぶことになった。川までは相当な距離がある。運びながらのぶ子が泣き出した。この「河童の氷漬け」は弟の勇治だという。驚いた私は「あの男は君の本当の父親なのか」とたずねた。のぶ子が返事をしないので重ねて尋ねると、どうしても聞きたいなら話してもいいが、その前に約束してほしいという。「おにいさん、これからずっと私といてくれる。いつでもそばにいて私のことを護ってくれる。それができないなら話すわけにはいかないの」。私は返事が出来なかった。のぶ子とはそのまま別れた。その後私は大学を出て就職した。あれは一年ほど前、深夜酒に酔った私はタクシーで自宅に帰ろうとした。タクシーが荒川の土手近くの信号で止まった時、土手下の人気のない路上に、20余年前見た見世物バスが止まっているのを見た。私はタクシーを降りた。車体の横にはあい変わらず「世界初!河童の氷漬け 正真正銘の本物」と書いた横断幕が張ってあった。バスの後ろに回りこむと、以前に見たあの大男が座っていた。中に入ると水槽のような大きな冷蔵庫があり、ふたが開け放たれていた。やはり墓石のような氷の中に、河童がいた。昔のものとはっきり違う部分があった。胸が少しふくらんでいたことだ。そして冷蔵庫のふたにつけられた「河童の氷漬け」という看板に、「メス」と書き加えられていること。私はのぶ子がこの河童の正体だと気付いていた。
    「死者恋」
女流画家の鼎凛子は中学3年生のときに激しい恋をした。相手は20歳で自殺した画学生の朔田公彦。凛子が公彦を知ったのは家の近くの本屋さんで「美は死と共にありてーある画学生の魂の彷徨」という本を見てであった。作者朔田公彦はこの本が出版される二年前に、睡眠薬を飲み、頚動脈を切って自殺している。この本は彼が17歳から死の前日までの日記を綴ったものであり、写真なども掲載されていた。女性みたいな顔で、目線がとても美しく、まるで映画スターのプロマイドみたい。それ以来凛子は高校から美大を卒業して、画家の卵として勉強を続け、画家として認められるようになった現在でも、彼に恋をしている。つまり、彼女は死者に恋をしているのであり、生前の彼を知らない。そんな凛子にも強力なライバルがある。凛子が高校一年の夏、公彦のことを少しでも知ろうと、彼が住んでいた家を探した。詳しい住所は知らなかったけれど、公彦の残した日記にはいくつものキーワードがあったから、探し出す自信はあった。探しくたびれて公園で休んでいると、髪の長いメガネの女性が声をかけてきた。「あなた、朔田公彦さんの家探してるんじゃあなくて?」。これがライバル三ケ崎しのぶとの出会いだった。以後、二人はさまざまな場所、場面で死者朔田公彦をめぐって、鞘当を繰り返す。その結末は...

他に「昨日公園」「フクロウ男」「月の石」が掲載されている。

             5月19日(月曜日)
広川 純         「一応の推定」  松本清張賞受賞作
この本の末尾に記載されている著者紹介によると、作者は保険調査会社勤務を経て88年に独立。デビュー作の本作品によって2006年第13回松本清張賞を受賞したとある。
題名の「一応の推定」とは聴きなれない言葉であるが、生命保険や損害保険を取り扱う保険業界では、日常的に使われる業務用語であると共に裁判で争う法律用語でもあるらしい。

保険調査事務所に勤める村越務は、正月明けの一月四日事務所に出勤すると、所長に呼ばれて、グローバル損保が依頼人である死亡事故の原因調査を命じられた。事故は、暮れの12月24日午後2時4分ごろ、JR東海道線膳所駅で発生した。長浜発姫路行き新快速電車に男性がはねられて死亡した。膳所署の調べでは男性は東大阪市に住む原田勇(60)さん。同署によると、ホームから人が落ちるのを見て、運転士が非常ブレーキをかけたが間に合わなかった、と新聞では報じられている。この被害者原田さんが事故の起きた3ヶ月前、3000万円の傷害保険契約をグローバル損保と結んでいた。正月明け早々に被害者の遺族から保険金支払いの請求が出された。保険会社では保険契約が結ばれてから実際に事故が発生した期間が短いことと、保険金の支払いを急かされていること、に少し不審な点があるとして、保険調査事務所に調査を依頼してきた。傷害保険は自殺であれば保険金は支払われない。この事故が偶発的に発生したものか、被害者が保険金を得るために、覚悟を決めて自ら起こしたものか。警察の調査では現在のところ、目撃者もいないし、遺書なども見当たらないのでどちらとも判断できないという見解であった。村越は損保会社の社員と共に調査に当たることになった。被害者の身辺を調査してみると、保険金の請求をする上で、被害者に不利な状況が、次々に浮かび上がってくる。まず被害者が経済的に行き詰まっていたこと。被害者は長年機械の個人事業を営んでいたが、長引く不況で仕事が減り、銀行の借金返済に苦しんでいた。自宅の土地建物も銀行の担保に取られ、債務不履行で競売処分を受けていた。また、被害者の孫が先天的な難病で、国外で臓器移植を受ける以外助かる道がない、と医師に宣告されていた。臓器移植を受けるには多額の費用が必要である。このため被害者の親族は日曜祭日などに、盛り場で募金活動を続けていた。これらの点から判断すると、被害者がお金を得る目的で自殺したのでは、との疑いが強まる。村越は事故現場の検分を皮ぎりに、被害者の周辺の関係者を一人一人訪ねて回る。そして、この圧倒的に不利な状況から、遺族に保険金が支払われる証拠を探り出した。

作者はデビュー作にも拘らず、手馴れた書き方で読者を最後まであきさせない。人が誘拐されるでもなく、殺されるでもなく、身体的な被害にあうでもない地味な事件。しかし、読者は弱者である被害者の遺族に、保険金が支払われることを願って、最後まで付き合うことになる。次作を期待したい。

              5月24日(土曜日)
佐川光晴         「家族芝居」
上杉 瞭は北海道で両親と暮らしていたが、進学の都合で東京に出てきた。父親は北大出身の弁護士で人権派弁護士として知られているが、人権派では労力の割りにお金にならない。一家がどうにか食べてゆけるのは、母親が高校の教員をしているお陰である。父親は世間の狭い北海道を嫌って、息子が北海道の大学に進むのを歓迎しない。。アキラは滑り止めに受けた、北大の医学部に合格したのだが、父親はそれを喜ばなかった。東京の大学に進むため浪人することになる。東京にはアキラと20歳近く年の離れた従兄弟がいる。従兄弟の後藤善男は変わった経歴の持ち主で、親元を離れて、北大に入学したのだが、演劇熱にとりつかれ、殆ど授業に出なくなり学生芝居にのめりこんだ。彼の役者としての人気はうなぎのぼりで、大学構内の青テントの芝居小屋はいつも長い行列が出来た。その絶頂が、善男が23歳のときに催された青テントでの彼の結婚式だった。会場には200人以上の人々が集まり、盛会を極めた。しかし彼の好調もこれまでで、妻と共に立ち上げた劇団も上手くゆかず、苦戦する。大学は中退し、浮気が原因で離婚もする。心機一転、一人俳優のみちを目指して上京する。残念ながら善男には運がなかった。三年近く音信が途絶えていた父親に手紙が届いた。よんどころない事情から老人グループホーム八方園を立ち上げることになり、そこの責任者兼専従の介護福祉士を務めることになった、と書かれていた。善男が居候をしていた下宿の持ち主が亡くなって、その遺言を調べたら、現在下宿しているアパートの入居者(善男をのぞいて、すべて女性の老人)をそのままにして、すべて善男があとを引き継ぎ、そのまま年寄り達の面倒を見て欲しいと書かれていた。善男としては行き掛り上断るわけには行かず、そこを改造して正式な老人グループホームを立ち上げることになったらしい。アキラはこの八方園に入居して、大学の医学部を目指して勉強すると共に、手すきの時間は善男を助けて老人の世話をすることになった。現在の入居者は85歳の米子を筆頭に80歳代3名、70歳代4名、それに介護福祉士で管理者の後藤善男、その補助者であるアキラの合計9名。そのうち介護保険の対象者は痴呆性高齢者と診断された82歳の登志子ひとり。残りの6人は実に元気な老婆達である。八方園はもとは学生相手の下宿だったが、建物が古くなると共に学生が入らなくなり、学生相手の下宿はやめてしまった。家主の主人が亡くなると、それまでよく遊びに来ていた一人暮らしの近所の女性高齢者が集まりだし、いつの間にか八方園は老婆の住みかにになってしまった。それは家主である主人に死に別れた妻の政子さんが、同年齢の老婆達を暖かく迎え入れたのが老人の集まりだした最大の原因らしい。そもそも善男がここに居つくようになったのも政子さんに勧められたからだった。今から7年前の或る日買い物帰りの政子さんがひったくりに遭った。たまたまそれを見ていた善男が犯人を取り押さえた。それが縁で善男は用心棒代わりに八方園に居つくようになった。その頃善男は本当に金がなくて、家賃はおろかその日の食事代にも事欠いていたらしい。八方園でメシを食べさせてもらえるだけで、ありがたかったと、のちに善男は語っている。すっかり政子さんに気に入られた善男は、彼女が亡くなるにあたって後事を託されるまでになった。この八方園を初めて訪れたアキラは老婆ばかりに囲まれて、どう対処してよいのか戸惑ったしまった。一方の善男は7年間生活を共にした間柄で、気心も知れている。老婆達も善男の指示には文句も言わずに従っている。善男の言葉遣いはぞんざいで、初めての人はびっくりする。例えば「この婆ぁどもは、もう鼻が利かなくなっちまって平気なんだろけれど、クソした後の便所なんか入れたもんじゃねぇ」。こんなことを平気で老婆達の前で言う。部外者は驚くが、その陰には善男が普段から献身的な努力で老婆達の世話をしていることがある。つまり老婆達とは遠慮のいらない付き合いがあるからこそ、口に出来る言葉である。言葉の裏には並々ならない老婆達への愛情がある。暮れの27日、餅つきを終わった晩、入居者の一人、75歳の和代が死んだ。餅つきを無事終えて入居者が和気藹々のうちにつきあがったもちを食べた。和代も喜んで餅を口にしており、その晩に亡くなる兆候などまるでなかった。善男は入居者の初めての死を迎えて落ち込んだ。入居者は老人ばかりである。いつ次のお迎えがあるか分からない。そんな或る日新しい入居者があった。しかも二人。アキラが食べ物を買って、公園で転寝をしている間に、その食べ物をかっぱらわれた。捕まえてみると、二人の女の子だった。食べ物に窮してやったようだ。この二人は姉妹で施設から逃げてうろついていたという。善男はこの二人の面倒を見るという。若い入居者が増えて老婆達もうれしそうだ。そしてもう一つお目出度い話。ボランテァで老人グループホーム八方園の会計の仕事を見ていた、公認会計士の河原有里(32)が善男に恋をして押しかけ女房のような形で、八方園にやってくることになった。二人の新婚生活は上手くゆくのか。乞うご期待。 

             5月27日(火曜日)
大崎善生        「将棋の子」  講談社ノンフィクション大賞受賞作
先日若くして亡くなった、天才棋士村山聖8段のノンフィクション「聖の青春」を読んで感動したが、同じ作者のノンフィクション第二弾。前作では本人の血のにじむような努力があったにしろ、村山聖という天才棋士が、日の当たる道ばかりを超特急で駆け抜けた出世物語であったが、今回はその陰で泣いた数多くの無名棋士が主人公。紹介によると、筆者は日本将棋連盟に所属し、将棋雑誌「将棋世界」の編集長を10年間にわたって務めたそうだ。プロ棋士の養成機関である「奨励会」は将棋を知らない部外者でも、競争と淘汰が激しいところとして知られている。筆者はその内部に身をおいて、その実情をつぶさに見てきた。プロ棋士として給料を支払う以上、将棋連盟としてもその数をむやみに増やすと財政的に破綻する。そこで年齢制限という壁が設けられた。まず21歳の誕生日までに初段、続いて26歳の誕生日までに4段に合格しなければならない。この制限を越えると如何なる理由があろうと奨励会の退会を迫られる。奨励会退会イコール、プロ棋士断念ということになる。プロ棋士は奨励会卒業以外、他の道を認められていないから。地方では将棋の天才としてもてはやされた少年が、青雲の志を抱いて奨励会に集まってくる。しかし田舎では光り輝いていた少年も、奨励会では天才でもなんでもない、ただの人であることに気がつく。激しい競争の末、奨励会を退会した者には厳しい現実が待っている。多くの少年は中学校卒業と同時に奨励会に入会する。毎日明けてもくれても将棋ばかりで他の世界を知らない、教養も中学卒業程度の知識しかない。こんな状態で20歳を過ぎて社会に投げ出されたらどうなるか。こんな悲惨な人たちの、その後の人生を筆者は克明に追っていく。感動のドラマあり、気の毒で、悲しくて涙が出るような話あり、波乱万丈の物語。

             5月29日(木曜日)
 (閑話休題)
今日は読書ではなく、便利なオーディオ機器の話。私は若い頃レコード及びオーディオに凝っていた時期があって、その頃集めたLPレコードが相当数ある。昭和40年代の初めから昭和60年代の初めまで。集め始めた頃はまだモノラルのLPレコードからステレオのLPレコードへの転換期で、レコードの値段も結構高価だった。当初はまだ独身時代で、働いて貰う給料の大半が、レコードやオーディオ機器に消えて行ったのを覚えている。食べるものや、着るものを節約しても、まずそちらに回していた記憶がある。昭和60年代になるとCD(コンパクトディスク)が発売されだした。しかしコンパクトディスクが出だした頃、私はすでに沢山のステレオレコードを集めていた。今更レコードからコンパクトディスクに乗り換えるわけにはゆかない。そう言う訳でCD全盛期になった後も、私が集めるのはもっぱらレコードのみだった。レコードはCDに比べると嵩高いし、埃に弱いなど管理も大変だ。それにレコードプレーヤー関連のオーディオ機器も高価である。そして何よりもレコードの発売が急速に縮小していった。今ではレコードは宝の持ち腐れになりつつある。そんなわけで、集めた沢山のレコードをどう活用すべきかずっと悩んでいた。方法としてはレコードを音楽用CDに録音しなおせばよいのだが、それが簡単ではない。レコードの演奏をパソコンを通じてCDに録音する方法はあるのだが、オーディオ機器とパソコンの両方を操作しながら、録音をすることは言うほど簡単ではない。私の技能のレベルをはるかに超える。躊躇しているうちにネット上で、あるオーディオ機器を発見した。T社のステレオプレーヤー/CDレコーダーという機器である。説明によると、この機器に備えられたレコードプレーヤーでレコードを演奏し、おなじく備えられたCDプレーヤーに音楽用CDを入れて録音ボタンを押せば、ややこしい操作も不要ですぐ録音できるという。これこそ私が捜し求めていたものだ。そんなわけで先日この機器を購入し、早速試してみた。不慣れのため最初は少し戸惑ったが、何回か操作するうちに上手く録音できるようになった。大変便利である。現在のところ、この機器を発売しているのはT社だけのようである。欲を言えば備え付けられたレコードプレーヤーが少し簡素すぎること。同じ録音をするのであれば、少しでもレコードに収められた情報を忠実にCDに録音して欲しいから。一応MM型のカートリッジが付属しているが、他のカートリッジに交換できない。駆動方式がベルトドライブであるがその作りが華奢。ターンテーブルも少しお粗末。まぁしかし、これは少し厳しすぎる要求。こんな便利な機器が出てきただけでもありがたい。

              6月2日(月曜日)
藤原伊織         「てのひらの闇」
堀江は食品会社タイケイ飲料宣伝部の製作担当の課長である。タイケイ飲料はひところ、ライバル尾島飲料と肩を並べる飲料業界の最大手であったが、商品開発で遅れをとり現在は業績が低迷している。会社は先日、早期希望退職募集を発表した。堀江にも宣伝部長から希望退職の打診があった。堀江はあっさり早期退職を承諾した。タイケイ飲料は食飲料業界でも、課長インフレ企業と呼ばれており、20名足らずの宣伝部の中に堀江も含めて課長職が4人もいる。堀江がこの会社で勤務するのも後2週間ほどになっていた。そんな或る日堀江は、宣伝部長の真田と共に会長室に呼ばれた。宣伝部長の真田は退職が決まっている堀江が呼ばれることに奇異を感じていた。会長の石崎は創業者の一族で、経営の第一線からは退いているものの、依然として代表権を持ち、経営に対する影響力は大きい。会長は堀江に退職を思いとどまるよう慰留したが、堀江の意志が固いのを知ると、退職するまでに一つの案件の結論を出すよう指示した。それは、会長が個人的に撮影したビデオ映像を、現在の会社の商品の宣伝に利用できないかということだった。会長の趣味はビデオ撮影であるということは社内報などを通じて、社員にはよく知られていた。会長室で真田と共にそのビデオ映像を見た。そこにはジョギング中の男が写っており、通りの向こうに豪華なマンションがある。そのマンションの4,5階のバルコニーからニ、三歳の男の子が上半身をはみ出している。いつ転落してもおかしくない位置と姿勢であった。泣き声が爆発し、マイクを震わせた。直後、彼は転落した。そのとき、鳥の影のようにひらめく動きが画面に飛び込んできた。さっき走っていた男だ。次の一瞬、彼は落ちてきたものをキャッチし、両腕に抱きとめていた。どうやら男児に怪我は無いようだ。抱きとめた男の笑顔に浮かぶ汗。真田は「すごいスクープ映像ですね。これを会長がお撮りになられたんですか」と尋ねた。会長はこの映像を自社のコマーシャルに利用できないか、との意向だ。現在使用しているコマーシャルと差し替えた場合、どういう影響が出るか検討して欲しいという。真田と堀江はもう一度よく検討するため、このビデオフィルムを会長から預かった。だがこのビデオ映像は非常によく出来たCGの映像であった。ここから事件は始まる。会長の自殺。広域暴力団による恐喝。暴力団同士の勢力争い、政党幹事長の選挙介入など。また堀江には人に知られていない意外な顔があった。

この作者の作品は初めて読んだが、推理小説かと思えば、経済小説的な要素もあり、ハードボイルド的なところもあって大変面白かった。残念ながらすでに故人である。 

               6月9日(月曜日)
坂木 司          「ワーキング.ホリデー」
沖田大和はホストクラブで働いている。ある日突然、店に男の子が訪ねてきて、ヤマトに頭を下げ「初めまして、お父さん」といった。「お、おとうさん...」。ありえない。結婚もしてないし。そりゃあ今まで女と何もせず生きてきたわけじゃないから、もしかしたらって可能性もあるけど。その場にいた同僚が「やあだ、可愛い!。ヤマト、こーんな大きな子供がいたんだ」と叫ぶ。「お父さん、ってのは俺のこと?」とりあえず尋ねてみた。ガキはこくりとうなずく。「沖田大和って人がお父さんだって」。一応名前はあっているようだ。「じゃあ、お母さんの名前は」。すると子供は少し表情を曇らせた。「言いたくないなら、せめて自分の名前くらいいいなよ」「すすむ。前へ進むの、進」。「進君か、苗字は」。「神保」。嫌な予感がした。できればふたをしたまま忘れていたい部分に、そんな名前が刻まれていた気がした。「悪いけど、それだけじゃあわからないよ。下の名前は」「由希子。神保由希子だよ」。これでもわからない?そんな表情で進が俺を見つめる。由希子。それは俺の唯一つの汚点。俺の中にある、たった一つの思い出。忘れられるわけなんか無かった。こうして俺は進を自分の住んでいる寮へ連れて帰ることになった。進は小学校の5年生。自分の父親は死んだことになっていたが、最近生きていることを知った。母親の実家に電話して、大和のことを聞き出した。そして大和の実家に電話して大和の勤め先も探り当てた。今は夏休み。母親には父のところに行く、と置手紙をして家を出てきたのだという。そんなヤマトがホストクラブをクビになった。喧嘩ばやくて口が悪い。妙に正義感が強くて、正論を吐く。それがヤマトの良い所でもあり、欠点でもある。今日も店に来たお客さんに、正論を吐いて怒らせてしまい、二度と来ないと泣かれてしまった。経営者であるジャスミンは常に女装ををしているオカマであるが、ヤマトの欠点も、美点もよく知りつつ、使っていたが今日はとうとうヤマトに引導を渡した。ジャスミンは格好こそオカマであるが、国立大学を出ているという噂のある頭のよい事業家でもある。最近宅配業の経営にも手を広げた。これまでの経緯からしてホストはヤマトの適性に合わない。大和は宅配業で働くことになる。ホストクラブの寮からワンルームマンションに引っ越した。これまでの夜の仕事から昼の仕事に鞍替えしたわけである。進は大和が朝出勤すると昼間は一人留守番することになる。ところがこの進はよく出来た息子で、昼は弁当を作って宅配便の事務所に届け、夜は夕食を作って大和の帰りを待っている。その料理の腕前も中々のもので、大和の太刀打ちできる相手ではない。また、経済観念も発達していて、少ない予算で如何においしいものを作るかをよく研究している。大和が時々贅沢なものを買うと、勿体無いと小言を頂戴する。母親の由希子の教育が、如何にきちんとしたものであったかが想像できる。その夏休みも残りわずかになってきた。進は母親の元に返ってしまうのか、大和は気が気ではない。

               6月15日(日曜日)
乙川優三郎        「生きる」  2002年第127回直木賞受賞作品 
石田又右衛門の父は関が原の戦いで西軍に属し、戦いに敗れたため長い間浪々の生活をおくっていた。久しく浪人だった父がようやく北国の地で仕官を果たしたのが5月5日端午の節句のことだった。当時又右衛門は小四郎といって十三歳だった。「これで人並みに暮らせる」。父が再び食禄を得た喜びと安堵は、それまで暗澹たる思いで生きてきた少年の感想でもあった。微禄で召抱えられた父であったが、藩主飛騨守の覚えもめでたく、父が亡くなった後もその子又右衛門も重く用いられ、今では馬廻組五百石の家柄となっている。新参の家臣が古参、譜代を牛蒡抜きににして今の家柄に進んだのは、本人の忠勤もさることながら、藩主飛騨守の恩顧によるものと言っても過言ではない。その飛騨守は今年62歳になるが、ここニ年ほど江戸で病臥に伏し、容態が思わしくない。それだけにもし飛騨守が身罷ったときには、寵臣の一人として忠義と悲しみを形で表さなければならないと又右衛門は思っている。そもそも飛騨守に拾われなければ一家は野垂れ死にしていたかも知れぬし、三十七年もの間、平穏にしかも豊かに暮らせただけでもありがたく思わなければならない。しかし健康な身でありながら妻子を残して死ぬとなると、心残りが無いわけではない。又右衛門には五百次という今年十五歳の息子と、このところ病がちの妻佐和がいる。娘のけんは七年前同藩の手廻り頭を務める真鍋恵之助のもとへ嫁いでいる。そのけんが何か悲痛な面持ちで訪ねてきた。夫の恵之助が殿様の後を追って死ぬ覚悟でいるという。藩主にしたがって江戸にいる恵之助からの手紙にしたためられているので、それを思いとどまらせてほしいと泣き付かれた。そんな折、筆頭家老梶谷半左衛門から呼び出しを受けた。出頭すると、他に旗奉行を務める小野寺郡蔵も招かれていた。小野寺も重用されて着実に出世を重ねてきた口だった。家老は「有り体に申して、後十日ほどのお命らしい」。そして家老の方針として「追い腹を禁止する」と申し渡された。二人はそれぞれ追い腹について意見を述べたが取り上げられなかった。その上、決して追い腹を切らぬという誓紙までとられることになってしまった。家老が二人を呼んだのは、殿にもっとも恩顧を蒙った者に追い腹を切らせないことによって、他のものにも追い腹を切らせぬ予防策であったと思われる。ところが殉死する者は、真鍋恵之助をはじめ十七名に及んだ。下は微禄の小姓から郡代の山村次兵衛まで、いずれも浪々の身を飛騨守に召抱えられたか、あるいは重く用いられてきた男達である。わずか八石のご恩に小姓が報い、石田はなぜ追い腹を切らぬのか、なぜ生きているのかという眼や声が聞こえてくる。真鍋家が義絶の通告をしてきたのもこのころである。主の悪評が聞こえたのであろう、石田家の使用人も次々にやめていった。そして、息子の五百次まで世間の目に耐えかねて、腹を切って果てた。長く患っていた妻の佐和も亡くなった。又右衛門は一人取り残された。しかし又右衛門は誰に何といわれようと生き続けた。そして62歳で隠居するまで務めを辞めなかった。

                 6月19日(木曜日)
山本幸久            凸凹ディズ
小さなデザイン事務所凹組(ボコグミ)の物語。浦原凪海(ナミ)はこの凹組で働いている。バイトで八ヶ月、社員になって一年になる。田園調布に隣接するこの町は高級住宅街なのだが、事務所があるのは、その景観を損なうボロアパートだった。事務所は1Kの和室。そこにいろいろの物が散乱していて、凪海はこの部屋の畳を入社以来一度も見たことが無い。現在社員は凪海を入れて三人。所長ははっきり決めたわけではないが一応、大滝ということになっている。もう一人は黒川という身長188センチ、体重100キロの大男。現在の凹組の仕事は和菓子店の二色刷りのパンフレットや、東京郊外のスーパーのちらし、国道沿線のラーメン屋の看板、地方都市の電機メーカーの会社案内などどれをとっても、未来への展望の開かれるようなものは無い、ショッポイ仕事ばかり。そんな中で凹組設立以来の一大チャンスが訪れた。遊園地を経営している慈極園が、一年後に温泉を目玉とし、アトラクションを増やして全面リニューアルオープンを予定している。リニューアル後の慈極園のメインロゴ及びキャラクターデザインがコンペにかけられた。このコンペには十社が参加したらしい。最終的に凹組ともう一社が残った。もしこれが決定すれば、慈極園の宣伝や販促物のデザインの仕事が一気になだれ込んでくる。その結果が近く発表されることになっている。凪海たち凹組のメンバーは期待と不安をこめてその日を待っていた。コンペの仲介をした広告代理店から呼び出しがあった。凹組のメインキャラクターと、もう一社残っていたデザイン事務所QQQの、メインロゴを組み合わせて使うことに決定したという。その席で凪海はQQQの女社長の醐宮を紹介された。醐宮は所長の大滝をオータキ、黒川をクロと呼び捨てにした。凪海はそれが不審であった。事務所に帰って聞いてみると醐宮は事務所設立時の仲間の一人だったという。大滝が専門学校を卒業して、今はもう消滅してないが「ゴッサム.シティ」というデザイン事務所で働き出した頃、黒川と醐宮は「ムサビ」に在学しながら同じ事務所ですでにアルバイトとして働いていた。黒川は無口で愛想は悪いが仕事は出来た。仲間内では天才と呼ぶものもいたほどだ。大滝は入社すると社長の木村の仕事を手伝っていたが、社長が留守中に得意先から仕事をせかされて、社長の許可を得ず自分で仕事をこなして得意先に渡した。後でこれがわかって事務所を追い出された。しばらくして大滝のもとに黒川と醐宮が訪ねてきた。そしてデザイン事務所を立ち上げることになった。今から10年前のことである。しかし醐宮はこの事務所に10ヶ月ほどしかいなかった。ある大手新聞社の広告デザインのコンクールがあって、凹組もこれに応募した。応募者の名前は醐宮個人になっていたが、作品は三人の合作であった。ところがこの作品が入賞すると、醐宮は手柄を独り占めにして、さっさと凹組をやめ独立してしまった。凹組にはこんな過去があった。この後も曲折があって結局醐宮も再び凹組で働くことになるのだ。

                 6月26日(木曜日)
山本文緒            プラナリア  2001年第124回直木賞受賞作品 
上原春香は26歳で現在は無職。4歳年下で大学生の豹介という恋人がいる。一昨年乳がんで右胸を手術し、翌年背中の肉を使って乳房の再建手術のため再び入院した。手術は一応成功したが、現在でも月に一度病院に通って、ものすごく気分の悪くなる注射をしなければならない。ホルモン剤だそうだが、打ってみるとぐるぐるめまいはするわ、脂汗をかいて眠れないは、疲労感やら倦怠感やらで吐きそうになるやらで病院に行く日は憂鬱になる。今日豹介に連れられて飲み会に行った。酒の席での馬鹿話で、今度生まれてくるときは何になりたいかという話になり、春香は「プラナリア」と答えた。出席していたのは豹介の友人達で皆春香より若い連中だった。一人が「プラナリアって何」と尋ねてきた。プラナリアとは清流に棲むヒルに似た、三岐腸目プラナリア科に属する扁形動物で体長20〜30ミリ。身体を切り刻んでも死なず、分割されたところから再生する。生物の実験などによく使われる。春香は「よく知らないけど、とにかく切っても切っても生えてきちゃうなんて、いいじゃない。ほら私、乳がんでしょう。そういうもんに生まれてたら、取った乳も勝手に盛り上がってきて、再建手術も要らないんじゃない」。笑わせようと思って言ったのに、尋ねた男の子は困ったような笑みを浮かべているだけだった。豹介が「そろそろ引き上げようか」と言った。みんな明らかにほっとした顔をしていた。あとで豹介から「いい加減にしろよ」と小言を言われた。「みんなが盛り上がって飲んでいる時に、なんでそんなつまらないことを言うんだよ。ほんとに露悪趣味だよな」。「もう自分で自分の病気のこと言うの、やめなよ。そんなんじゃ、本当に友達なくすよ」。豹介はこれまでこのプラナリアの話を散々聞かされてきた。豹介とは私が当時勤めていた会社に、短期のアルバイトに来ていて、気があって仲良くなり付き合いが始まった。そのころ私にはちゃんとした恋人がいた。しかしこの男は私が乳がんだと聞くと尻尾を巻いて逃げていった。豹介は逃げなかった。私と私の家族に混じって一緒に泣いてくれた。暴れて手がつけられない私に毎日会いに来てくれ、根気よく慰めてくれた。手術のときもずっと傍に付き添ってくれた。情緒不安定な私が壊れて暴れると、「ガンになっちゃったものはしょうがないだろう!。あきらめろ!」と叱り付けてくれるけど、それで去って行ったりはしなかった。わがままで自分勝手な私が、ガンのショックから一応立ち直れたのも、豹介のおかげだと心では感謝している。週末にデパートの駐車場で以前入院していた頃、同じ病院に入院していた人を見かけた。美人で上品な雰囲気のある彼女は、言葉は交わしたことは無いが、私に何か憧れを抱かせるような存在だった。地下の食料品売り場は夕方にはまだ早いというのに、人ごみでごった返していた。そんな中を歩いていたら、人あたりしたのか立ちくらみがしてきた。そんな中で、唐突に誰かが袖を引いてきた。見ると背の低い老婆だった。「出口はどこかしら」。私は気分が悪くなって立っていられなくなってしゃがみこんだ。それでも老婆は袖を離さない。そこにどこかの店員さんが来てくれた。顔を上げると、白い上っ張りを着たあの女の人の顔があった。永瀬さんというその人は、私をデパートの医務室に連れて行ってくれた。そこで永瀬さんが甘納豆屋の店長さんであることを知った。永瀬さんは私に「うちで働いて見る気はない」と尋ねた。私はとりあえず週に4日働いてみることにした。仕事自体はそんな難しいものではなかったので、二週間もすると慣れてきた。ただ、わずらわしいのは隣近所の店員さんが、好奇心丸出しであれこれ尋ねてくることだった。黙っているわけにも行かず、対応には苦慮する。私はどちらかというと社会不適応者だと思っているので尚更である。永瀬さんから食事の誘いを受けた。私が乳がんで入院していたことを話すと翌日私宛に宅配便が届いた。差出人は永瀬さんでずいぶん重い段ボール箱だった。中から出てきたのは6冊の本だった。しかも全部ガン関係の本。芸能人の闘病記や乳がんの専門書、あとは医学書に近い分厚い本。親切心で送ってくれたのだろうが、私は呆然としてしまった。ガンは私にとって、もう終わった病気としてもう触れられたくない部分がある。永瀬さんは意地悪ではなく、親切でしてくれたことであろうが、私にはどうしても理解できなかった。結局私は無断欠勤を続けた挙句退職してしまった。

           7月3日(木曜日)
柴崎友香      「また会う日まで」
大阪で会社に勤める有麻は一週間の休暇をとって東京へ出てきた。高校時代の同級生であり、大学でも写真部で一緒だったしょうちゃんの家に泊めてもらうつもりである。しょうちゃんは雑誌関係の会社に勤めて、アシスタントのカメラマンをしており、週刊誌や広告の写真を撮っている。高速バスで大阪をたった私は早朝東京に着いた。しょうちゃんの仕事が終わる夕方まで時間をつぶし地下鉄の駅でしょうちゃんと待ち合わせた。しょうちゃんとしゃべりながら歩いていると、李花ちゃんから電話がかかってきた。李花ちゃんは2年前まで私と同じ会社の東京営業所にいた子である。タレントになりたいと言って会社をやめ、俳優養成所に通っていた。このごろはテレビでもたまに李花ちゃんの顔を見るようになった。その李花ちゃんが一緒に食事をしたいという。しかも彼氏同伴で。ところがレストランに現われたのは李花ちゃん一人。彼氏はと聞くと、一時間前に別れたという。この前から態度が少しおかしいので問い詰めたところ、二股も三股もかけられていたそうだ。李花ちゃんはレストランで泣きながら呑んだり食べたりした。あまり呑みすぎてその夜は李花ちゃんも私と一緒にしょうちゃんの家に泊まった。次の日、私は高校時代の同級生で同じく東京で勤めている鳴海君に電話した。先日の日曜日休暇をとって東京に出かけるとは連絡していた。鳴海君とは高校を卒業して以来6年振りである。鳴海君は仕事が忙しくてニ三日家に帰っていないという。時間を打ち合わせて鳴海君の家に行くことになった。鳴海君の家に行くとかわいらしい、若い女の子がいた。よく見るとここに来る電車の中で見かけた子だ。鳴海君に聞くと、ここ四、五年ほど一方的に慕われて付きまとわれているそうだ。私は初めて見るが、鳴海君が三年のとき入学してきた新入生で凪子といい、オリエンテーションで案内したとき鳴海君を見知ったらしい。東京で偶然再会して以来尋ねてくるようになった。鳴海君はいま婚約中で婚約者と同居している。大学の事務をしている婚約者は、現在夏休みで実家に帰省しているそうだ。凪子のことは婚約者も知っている、と凪子はいう。たまに凪子はこの家に泊まるらしく、家の中の様子をよく知っている。私にはこの三人の関係がよく理解できない。この本は、写真を写すことに興味があり、手元には必ずカメラを携行する有麻が、一週間の休暇をとってまだ知られない東京の風物や、風景を写真に撮ろうと計画する。その行動や出来事を曜日をおって綴られている。登場する人物は殆ど高校や大学の同級生や現勤務先の同僚、元同僚。大きな事件や出来事があるわけではないがどこかなつかしいほのぼのとした感じが伝わってくる。

            7月10日(木曜日)
大島真寿美      「悲しみの場所」   
果那はお互いに好き同士で結婚したのに、いつの頃からか理由もはっきりしないのに相手が嫌になり、さっさと離婚してしまった。いつか夫の亮輔に「君は何か大きな悩みがあるんだろう。その寝言は尋常じゃない。それに寝言をしゃべっているときに質問するとちゃんと答えが返ってくる」と言われたことがある。さらに目覚めてから寝言でしゃべったことを質問される。はっきり覚えていないことを聞かれるのであやふやな返答になってしまう。そんなことが重なり果那は亮輔が次第に嫌になった。まさか寝言が原因で離婚するとは言えないから、実家では黙って泣いていた。そのうちに両親は私を責めるのをやめ、いつの間にか離婚の話し合いも決着した。専門学校に通っていた頃、私は仲間とグループ展を開き作ったアクセサリー類を出展したところ、意外に好評で作品を雑貨屋におろすよう勧められた。これが縁で梅屋との付き合いが始まった。結婚した当初は作品の製作が滞ったこともあるが、作品の納入はその後もずっと続いていた。離婚してからは趣味で始めたアクセサリー類の制作が本業となり、いまはこれで生計を立てている。今のところ梅屋専属のような形となっている。梅屋はオーナーの篠田さんが妹のやえちゃんと一緒に、おばあちゃんの御坂梅さんから引き継いだ店で、初めは骨董の家具や、食器、古着、古美術などを扱っていた。その後篠田さんが海外から仕入れてきたアジア雑貨、家具、陶芸作家の作品なども扱いだした。現在は妹さんは商売から手を引き、代わってその娘のみなみちゃんと篠田さんでやっている。しかし篠田さんは海外に出かけるのが好きで、しょっちゅう留守にしており、その留守はみなみちゃんが預かっている。みなみちゃんは勤めていたギャラリーを退職して、梅屋に転職してきただけあって、美術に関する感覚は鋭いものがある。顔が幼いので私よりずっと若いと思っていたのだが、きいてみると殆ど私と変わらない。みなみちゃんは私の作品を高く評価してくれており、出来上がった作品についてもいろいろとアドバイスしてくれる。このごろ眠れないと、出来上がった作品を梅屋に納品しがてら、梅屋の奥の三畳ほどの小部屋によく寝かせてもらう。みなみちゃんも心得たものでちゃんと布団を用意してくれる。おかしなもので自分の家ではよく眠れないのにこの部屋では熟睡できる。私のごく幼い頃、私は誰かに誘拐されたらしい。私のごくごく薄い記憶の中にその断片が残っている。しかし父母はそれを隠蔽して、そんな事実は無かったことになっている。普段はおしゃべりの伯母(母の姉)に尋ねても何も教えてくれない。その伯母が息子に呼ばれて家族でマレーシアに行くことになった。不眠が続く私に、環境が変われば眠れるようになるかもしれないから、留守番がてらにこちらに来なさいと誘われた。そちらに引っ越して荷物を整理していると、古いアルバムが出てきた。その中に伯母や母と一緒に写っている男の人の写真が何枚もあった。どう見ても兄弟のように見える。しかしある時期を境に写真が見当たらなくなった。この人は誰なのか。まだ生きているのか。私との関係は。いろいろ疑問が浮かぶ。これを追求していくとこれが母の弟であり、私が誘拐されたのは、この人であることが判明した。この後果那の身辺にどういう展開が待っているのか。

            7月15日(火曜日)
今野 敏        「隠蔽捜査」
竜崎伸也は警察庁長官官房の総務課長を務めている。東大を卒業すると同時に国家公務員T種(当時は甲種試験)試験に合格し警察庁に入ったエリート官僚である。朝新聞を見ていると、警視庁管内で拳銃による殺人事件が報じられている。被害者は暴力団関係者だ。竜崎は、なぜ私のところに報告が上がってこないのだ、と思った。長官官房の総務課長という仕事は、国会、閣議、委員会の質疑の受付などと共に広報の仕事も重要な任務の一つだ。マスコミへの対応、対策は重要な仕事だ。組織暴力については警察庁全体が神経質になっている。それに関連すると疑われる事件をマスコミに突っ込まれて総務課長が「知らない」では済まされない。早速登庁して直接の担当である捜査一課長の坂上に情報提供を要求した。しかし坂上は刑事事件の担当でもない総務課長が、何をしゃしゃり出てくるのかという態度を示した。実はこの殺人事件の被害者にはもう一つの重要な側面があった。1980年代に都内足立区で発生した誘拐、監禁、強姦、殺人、死体遺棄事件の実行犯の一人だった。当時少年だったため、事件の凶悪、重大性から見て不当とも見られる、5年から10年の不定期刑の判決を受け、その後服役して3年で出所していた。続いて今度はさいたま市で運送会社勤務の33歳の男性が、拳銃で射殺された。被害者は誘拐、監禁、強姦、殺人、死体遺棄事件の共犯者だった。当初凶器に拳銃が使用されていたため、捜査本部は暴力団の抗争事件を疑っていたが、被害者が過去の誘拐、殺人、強姦事件の被疑者であったことから事件関係者の報復との見方が強まった。更に都内大森署管内において会社員が鈍器により撲殺される事件が発生した。被害者は過去にホームレスの傷害、殺人事件で逮捕され、保護処分で二年間少年院に入っていたが、その後社会復帰して会社員として働いていた。いずれも事件が被疑者の少年時の犯行であったため、事件の凶悪性、重大性に関わらず不当に軽い量刑で済まされている。この三件の事件を指揮する捜査本部長には警視庁刑事部長の伊丹俊太郎があたった。竜崎と伊丹は警察庁に同期に採用された同期生である。同期に警察庁に入庁したのは22名だった。22名のうち東大卒は15名、京大が6名、私立大卒はわずかに一人だった。その1名が伊丹だった。竜崎には東大以外は大学ではないというエリート意識がある。息子の邦彦が私立の名門校に合格したが、即浪人させた。東大に合格させて公務員のエリートコースを目指すためである。46歳で警察庁長官官房の総務課長は悪くない。今後も競争は厳しいだろうが更に上を目指して努力を続けるつもりである。そのためにも仕事上でのミスは禁物である。竜崎は3件の犯行日時をながめていて、奇妙な規則性に気がついた。それは警察官なら馴染みのあるパターンにそっくり当てはまる。竜崎は気になって捜査本部の伊丹に電話した。「内部犯行なのか」。捜査本部でも既にこのパターンに気づいていた。密かに内部の調査を行っている気配がした。もしこれが現職警察官の犯行であったら所轄の署長は間違いなく引責辞任、刑事部長、警視総監の首だって危ない。警察庁の刑事局長にまで飛び火するか分からない。捜査本部は今後事件にどう対応するのか。竜崎は気が気でなかった。今のところマスコミは内部犯行の可能性を匂わすところは無いが、今後の捜査の進展によっては感ずかれる恐れもある。マスコミに報道される前にすすんで記者会見で内部犯行を発表するのと、報道に追い詰められて内部犯行を追認するのとでは、市民の事件に対する印象は格段の差が生ずる。極秘の捜査の結果現職警察官が参考人として捜査本部に呼ばれ、犯行を追及されて自白したが、凶器の発見には至っていない。マスコミはこの事実をまだ知らない。捜査本部はこれをどう処理するのか。捜査本部長の伊丹は憔悴していた。伊丹一人では判断できず、上部の判断を仰ぐことになる。警察庁の刑事局の一部には警察威信の失墜を防ぐため、事件をうやむやにして迷宮入りを画策する動きがある。竜崎はこの動きに反対する。もし後でこの事実が発覚したら、それこそ取り返しのつかない事態になる。組織ぐるみの隠ぺい工作として警察庁長官を初め、警察組織全体が糾弾を受ける羽目になる。報道を受ける前に記者会見を開いて、事実を洗いざらい公表して市民の審判を仰ぐことこそ、取るべき道だと主張する。これに先立って竜崎には身内に不祥事を抱えていた。息子の邦彦が受験勉強に疲れて気晴らしに、ヘロインを吸引している事実を確認したことだ。事情がどうであれ麻薬に手を出すことは重罪である。竜崎は苦しむが息子を自首させることに決めた。竜崎の家族に対する監督責任を問われ左遷されることは間違いない。竜崎は捜査本部長の伊丹を必死に説得して、記者会見を開かせ事実を洗いざらい公表させた。息子も所轄の麹町署に自首させた。

刺激的な題名なので読むのを少しためらったが、読み進むうちにグングン中に引き込まれた。検索してみると「果断 隠蔽捜査」で直木賞を受賞している。次作も是非読んでみたい。

          7月21日(月曜日)
角田光代      「対岸の彼女」  2005年第132回直木賞受賞作品
小夜子は結婚して5年、3歳になる娘のあかりがいる。娘が生まれて半年になる頃、乳幼児を持つ母親向けの雑誌を熟読して、その雑誌の指示どうりの時間帯に、指示どうりの格好をして住んでいるところから一番近い公園に行った。同じくらいの子供を持つ母親と幾度か言葉を交わしたし、検診や予防注射の日に待ち合わせて病院に行ったりもした。しかし次第に、その公園で微妙な派閥があることに気づいた。ボス的存在がいて、嫌われるとは言わないまでもさりげなく避けられている母親がいる。30歳を過ぎていた小夜子は、多くの母親よりだいぶ年長で、彼女達の派閥では「ちょっと異質な人」と見られていることも理解できた。そうなるとその公園にいくにはとたんに気が重くなり、その公園に行かなくなった。家にいればいたで、公園にいって他の子供と接する機会を作らなければ、あかりの社交性は育たないような気がしてくる。この二年ほど小夜子は徒歩圏内の公園をぐるぐると巡っていた。A公園にしばらく通い、そこに集まる母親達の人間関係が見えてくるとB公園に移動する。小夜子の住むマンション付近には大小の公園が無数にあった。自分のような母子のことを公園ジプシーと呼ぶそうだ。しかし好きでさすらっているのではない、居心地のいい公園を探しているだけだ。あかりを見ていると、あまりにも自分に似ていて驚くことがある。誰かと遊びたいと思っても、無邪気に仲間に入っていくことが出来ず、片隅でいじいじと声をかけられるのをまっている。けれどそんな姿に気づく子はいなくて、みんなどこかへ行ってしまう。どこの公園に行ってもあかりの状況は変わらない。小夜子は専業主婦をやめて働くことにした。きっかけは買い物であった。今のまま(経済状態)では自分の欲しいものが買えない。あかりも保育園に預けたほうが社交性が身につくのではないかとも考えた。求人雑誌を買いあさり、面接を受け続けた。おととい受けた面接の結果が今日分かる。小夜子はそれを期待していた。おととい面接を受けた女社長は小夜子と同年で、偶然にも同じ大学の出身者だった。そのため大学時代の思い出話に花が咲き、面接の感触はよかった。夜の八時ごろ、殆どあきらめかけていた頃、女社長から採用通知の電話があった。プラチナ.プラネットという会社で旅行関係の便利屋のようなことをやっていると社長の楢橋葵は言った。しかし小夜子の仕事はお掃除代行業務だという。このあと物語りは楢橋葵の高校時代の出来事と、小夜子とのかかわりが交互に語られる。
小学生の頃、葵は友達がいないだけだったが、中学にあがるととたんにいじめられるようになった。教科書がなくなり、上履きがなくなり、クラス全員に公然と無視され、しまいには葵の机と椅子だけ、いつも教室の外に出されるようになった。中学二年の終わりから葵は殆ど登校しなくなった。中学三年時にはこのままでは卒業が危ないと言われ何日かは登校した。中学を卒業すると葵はいじめの無い遠くへ引っ越したいと両親に訴え、横浜から母の実家のある群馬県へ引っ越した。地元の女子高ばかり何校か受験し、あまりできがよいとは言いがたい女子高に合格した。入学してみると脱色したのやパーマや、刈上げしたのは殆どおらず、勉強が出来ないところは不良ぞろいと相場が決まっているが、思いのほか真面目な学校なのかと葵は思った。スカート丈の短いのも葵だけだった。ダサイと言われないように短くしてきたけれど、ここではそれがよく目立つ。「ねぇ、それ、あげたの」すぐ近くで声がした。それが野口魚子(ナナコ)だった。男の子みたいに髪を短く切っており顔立ちも男の子のようだ。これがナナコとの最初の出会いだった。最初は何も無かったが、授業が始まって二週間がたった頃からだんだんグループが形成されてされてきた。葵はごく普通の女の子達で形成される、あまり個性が無く目立たないグループにいつの間にか属していた。ナナコはどのグループにも属していなかった。派手なグループや、体育会系のグループなど、ちょこまかとグループ間を動き回り、それでも疎まれてはいなかった。十月に入り、それまでさほど変化の無かった葵のクラスに、微妙な空気が漂い始めた。一人の生徒がはじき出された。それを皮切りに次々に違った生徒が仲間外れにされだした。葵はいつ自分が標的になるか気になりだした。ナナコは「アオちゃん、何にも怖がること無いよ。もしアオちゃんがいじめられたら、あたしだけは絶対にアオちゃんの味方だし、出来る限り守ってあげる。みんなが無視したって、たった一人でも話してくれたら何にも怖いこと無いでしょう。」「でもこれは協定でも、交換条件でもないよ。もし私が無視されてもアオちゃんは何もしないでいいよ。みんなと一緒に無視してくれていい。そんなの全然怖くない。そんなとこに私の大切なものはないし」。二年になると葵とナナコはクラスが分かれた。葵は仲間はずれにこそされなかったが、いつ自分が標的になるかという警戒心は常に有った。中間試験の頃になると、ナナコが学年中から無視され、からかわれ、さげすまれるようになった。狭い県営住宅でひどい貧乏暮らしをしているとか、道端の雑草を夕食にするとか、いろいろ噂が流された。でもナナコは平気だった。夏休みに葵はナナコと伊豆の民宿でアルバイトすることになった。仕事は厳しくてきつかったが、民宿の主人とその家族はよい人で、葵たちを大事にしてくれた。アルバイトが終わった日、葵は「来年も絶対アルバイトに来ようね」とはしゃいだ。帰りの電車に乗るだんになって、ナナコはこのまま家に帰りたくないと言う。ナナコは大粒の涙をこぼし、鼻水をたらして泣いていた。葵はナナコを見た。深い深い井戸のそこを覗いているような気分だった。真っ暗で、がらんどうで、その奥に何があるか分からない井戸の底。夏休み直前に訪れたナナコの家は古い四階建ての公団住宅だった。ナナコの住む家に足を踏み入れた時の印象は人が生活している気配がなく、むき出しにされた公共施設のような家だった。電気冷蔵庫以外家具や電化製品もなく炊飯器も電子レンジも無い。ナナコは「満足した。噂の貧乏な家が見られて」。しかしナナコの家の違和感は貧乏とは違うように思えた。ナナコはここでどんな風に成長して、どんな風に暮らしているのか、葵には深い謎に思えた。例えば何を食べて、誰とどうやって会話して日々を過ごしているのか。「わかった、帰るのやめよう。ナナコ」。それから二人はアルバイト代や、所持金を出し合って、安い旅館や、ラブホテルを泊まり歩いた。いよいよ所持金が乏しくなった頃、通りがかりのマンションの屋上から、二人は飛び降り自殺を図った。幸い二人とも奇跡的に命を取り留めた。駐輪場のトタン屋根でバウンドして芝生の地面に落ちたため、骨折すらせず打撲だけで済んだらしい。当時、新聞や週刊誌では同性愛女子高生の心中事件として、いろいろ報じられたそうだ。たまたま、小夜子はこの事件を知っていた。通っていた女子高の友達グループから些細なことから締め出しを食っていた。その頃発生したのがこの事件だった。ワイドショーで流れた女子高生心中未遂事件に、小夜子は自分でも驚くほど興味を持った。自分と同じ女子高に通う彼女達は、どのようにして親しくなり、どのような会話をして、どのようにして逃亡を決めたのか、関心があった。小夜子の掃除代行業の仲間が社長楢橋葵の噂をしていた。それで葵がこの事件の当事者の片割れだったと知った。    この物語は同年齢のいじめを経験した女性、楢橋葵、野口魚子(ナナコ)、それに小夜子、三人のこれまでの人生が綴られている。今後それはどう展開してゆくのか。 

           7月28日(月曜日)
浅田次郎      「珍妃(ちんぴ)の井戸」
大清帝国の光緒28年(1902年)。鎮国公載沢殿下主催の舞踏会が北京で催された。出席した英国海軍の提督サー.エドモンド.ソールスベリーはミセス.チャンと名乗る美女から「義和団事件の混乱に乗じて清国皇帝の寵姫、珍妃が何者かに殺害された」と告げられる。エドモンド.ソールスベリーは義和団事件の際の、八カ国連合軍の略奪の実態を調査するため、英国議会から派遣された調査団の団長である。義和団事件とは清朝末期に起こった外国人排斥運動。列強諸国やキリスト教の進出に反感を抱いた民衆は、宗教結社の義和団に入って鉄道や教会を襲った。運動は山東省からおこり中国全土におよび、北京にも広がった。1900年には外国公使館を包囲した。清朝は義和団を支持して、各国に宣戦を布告。日本とロシアを中心にイギリス、米国、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアの八カ国は連合軍を送って北京を占領した。1901年講和条約を結んだが、清朝は巨額の賠償金の支払いと、外国軍隊の駐留権を認めざるを得ず、清朝崩壊へとつながった。北京陥落から数日間の八カ国連合軍の略奪ぶりはすさまじく、犯し、殺し、略奪することが公然と行われた。さすがにリベラル派の多い大英帝国議会は、その事実を調査すべく調査団を派遣した。ソールズベリーは珍妃殺害の話を聞いて驚いた。二年前の事件なのに、その事実が伝わっていなかった。ミセス.チャンは「誰が珍妃を殺害したのか。真相を明らかにして欲しい」と要求した。一国の王宮の只中で、皇帝のお妃が殺害された。独立した大国の君主の妃が宮廷内で何者かに殺される。しかも発生から二年も経過しているのに、事件の真相が闇の中に葬られている。これは大事件である。ソールズベリーは清国に滞在する、他の列強諸国の公館関係者を招集して、珍妃殺害事件の犯人究明を提案した。手始めとして情報収集から始める事になった。まず最初はニューヨーク.タイムズ駐在員トーマス.E.バートン。彼から聞き出せたのは時の権力者西太后が、珍妃の聡明さを恐れていたこと。次に訪れたのは元養心殿出仕御前太監蘭琴。光緒皇帝の側に仕えた宦官の責任者。戊戌の政変で皇帝側近から追放され、宦官も廃業した。殺害事件の当時既に皇帝の側近から追放されていたので、事件のことは分からない。推測にすぎないが、あんなことが出来るのは西太后のお気に入りの袁世凱将軍ではないか、との言。次は直隷省総督、北洋常備軍総司令官袁世凱将軍。続いて光緒帝側室瑾妃殿下
彼女は殺害された珍妃の姉に当たり、珍妃と一緒に光緒帝の側室になった。更に永和宮首領太監劉蓮焦。廃太子愛親覚羅溥儁と尋ねたが、真相は明らかにならない。最後に清国皇帝光緒帝に直接面会して尋ねることになった。そこには意外な真相が待ち受け、真相究明のため訪れた調査者は面目を失うことになる。


            8月2日(土曜日)
蜂谷 涼        「へび女房」 
この本には四篇の物語が含まれる。
   「へび女房」
旗本荻野仁右衛門の妻きちは若い頃「呉服町小町」ともてはやされ、実家は呉服町の小間物問屋であった。歌舞伎見物に出かけた際、仁右衛門に見初められ、拝み倒されるようにして荻野家に輿入れした。輿入れした前後には井伊大老が暗殺されたり、老中安藤信正が襲われたり、と世情がざわついていたが、そのうち波風は収まり徳川の治世は永遠に続くものと信じていた。ところが、きちが輿入れして数年を経ずして幕府の威光は弱まり、そして大政奉還、江戸城の明け渡しで徳川の世は終わった。幕府の崩壊後、仁右衛門は日がな一日、腑抜けのように仏壇の前に座っているばかり、売り食いする家財とて見る見る底をつく有様。寝たきりの姑を抱えて奉公人に暇を出したのも、屋敷を買い取ってくれる人を探してきたのもきちだった。それでも一家の生活は成り立たない。そんな折ふとしたことから蝮の皮、反皮の効能に気がつき、これを商いにすることを仁右衛門に提案する。仁右衛門は反対したが、このまま家族を飢え死にさせるわけにはいかない。知り合いの百姓に頼んで大量の反皮を仕入れ、縁日や祭りにきちが商いをした。こうしてきちは24歳で的屋になった。幸い商売は順調に運んだ。反対していた仁右衛門も漢薬屋に弟子入りして、薬の勉強をしだした。そして念願の店を持つことが出来た。「荻野長命堂」と名づけた店を開いた後も、仁右衛門は製造役で、きちは店番の傍ら得意先回りをして売り歩いた。そんな或る日、きちが目覚めると異臭が漂っていた。塩辛いような、湿気くさいような鼻を突くにおいである。ふとみると、畳に座り込んでいる仁右衛門の後姿が目に入った。「いかがなさいました」。「よもや、おまえさま」。「不覚じゃ....」仁右衛門はがっくりうなだれた。なぜ仁右衛門は失禁したのか...
   「きしりかなしき」
糸子の夫ル.ジャンドルはフランス系アメリカ人で身の丈6尺有余、重さも25貫目はあろうかという大男。日本国外務省の軍事顧問を務めている。糸子ことたまは、半玉としてお座敷に出ていた柳橋から、一本の芸者になるにあたって、山谷堀の置屋に鞍替えした。そこで自分に瓜二つの池田糸子に出会った。顔つきはもとより小作りな背格好も、足袋の文数も、細くて長い指の形までそっくりだった。驚いたことに糸子はなんと、福井藩主であった松平春嶽公が腰元に生ませた子だという。さすがに糸子は三味線にしろ琴にしろ、唄にしろ、踊りにしろそれらの素養は既に養家で積んでいたとかで、すぐにでもお座敷に出られる状態であった。置屋の女将はたまに、糸子から高貴な血筋の立ち居振る舞い、言葉使いを教えてもらえという。お座敷に出るようになると、あれは世を忍ぶ双子の姫君ではないかとか、一方はさる親藩大名のご落胤らしいとか、大変な評判になった。或る日、参議の大隈重信公がお忍びで置屋にやってきた。女将に「実は、このたび外務省では、アメリカ人の軍事顧問を迎えることになった。彼はかの南北戦争で勇名をはせたル.ジャンドル将軍と申すお方じゃ」「将軍は大の親日家で独身である。外務省顧問を引き受けるからには、れっきとした家格の武士の娘を本妻に迎えたいと仰せだ。じゃが首を縦に振ってくれる娘御が見つからず難儀しておる。聞けばこちらに松平春嶽公の御落胤を抱えているとか。是非輿入れの仲立ちをしてもらいたい」。それを糸子に取り次ぐと「死んでも、らしゃめんになどなるものか」と涙をこぼし座敷を飛び出した。女将はたまに糸子の説得を頼むが、どうしても説得に応じない。万策尽きておたまが糸子の身代わりになって、ル.ジャンドル将軍ののもとに輿入れする。そのまま月日は流れて、何事もなく十数年が過ぎ去った。しかし糸子ことおたまは、良心の呵責に耐えかねて、夫に真実を告白する。さて、結末はどうなるか。
    「雷 獣」
辰巳芸者の小せんは兄弟芸者の千代丸や濱次らと共にお座敷にはべっていた。客は北海道開拓長官の黒田清隆、海軍卿の榎本武揚の二人。黒田の酒癖の悪さはこの座敷にいる誰もが、うんざりするぐらい何度も目のあたりにし、迷惑を蒙っているのだ。いや、酒癖が悪い、などという生易しいものではない。一昨年、黒田の妻が亡くなった時、酒に酔った黒田が切り殺したのだという噂が立ったほどだ。濱次と千代丸がそろって頭を下げた。「お名残惜しゅうはございますが、わたしたちはこれにて」。二人は他の座敷に出ていたのだが黒田のたっての望みで貰いをかけて、半時ほどこちらに来ていたのだ。榎本は「ご苦労じゃったな」と労をねぎらったが、黒田は「なんじゃ、おはんらは、おいの相手をするのはいやじゃと申すか」。「いえ、決してそのようなわけは」千代丸はおろおろとしている。「お忘れになりましたか。初めからそのような約束でございましたでしょう」。濱次が言い含めるが黒田は納得しない。「ごちゃごちゃ言わんと早よ酒ば注げ」。黒田ににらまれた千代丸は震えながら酒を注いだ。銚子が杯に当たってカチカチと音を立てた。黒田は酒を飲み干すと、次の瞬間その杯を千代丸の眉間に投げつけた。それを見ていて小せんは我慢がならなかった。「いい加減になさいましっ」。皆の目がいっせいに小せんにそそがれる。「今何というた」。奈落から響いてくるような黒田の声に度胸が据わった。「誰に向かって、そげんな口ば叩いちょるか、わかっちょるか」。黒田は肩を怒らせて身を乗り出した。「はばかりながら、先刻承知でございますとも。だいたい、参議にして北海道開拓長官ともあろうお方が、お酒に飲まれて芸者に乱暴を働くなんぞ、見苦しいたらありゃしませんよ」。「芸者の分際で、ようも...、ようもそこまで」。黒田の拳が、小せんの目の先でわなわな震えていた。「私はうそ偽りのない気持ちを申し上げただけです。お気に召さなければ、叩き殺すなり、絞め殺すなり、どうぞ存分になさってください」。黒田は、太いため息をついて目をそらした。「榎本どん、河岸ば変えて飲みなおしじゃ」このあとしばらくして、榎本からお座敷がかかった。何の用事かと出向いてみると、意外な話だった。黒田が小せんに惚れて、後妻に迎えたいと言っている。どうか承知してくれと言う話だった。「ああ見えて、黒田さんは大変な照れ屋でな。もともとお前さんが気に入っていた上に、あんなふうに叱り付けられて、お前さんの気っ風の良さに心底惚れこんだそうだ。だが、どうにもばつが悪くて自分じゃ会いに来られない、それで私が頼まれた」「なあ、小せん。黒田さんは、お前が思っているほど酒乱じゃないぜ。ただ、ときどき、あの人の中に眠っている雷獣が、酒に揺さぶり起こされちまうんだよ」「雷獣が黒田さんの心に棲み付いたのは、西郷さんが城山で自決した頃からだ。黒田さんにとって、西郷隆盛さんは大恩人だった。それが、西南の役じゃ、黒田さんは政府軍を率いて西郷軍を攻めねばならなくなった。永年師と仰いできた西郷さんを切腹に追い込んでしまったんだ。その苦渋は、余人にはかり知られないくらい大きかったに違いない。そこの所を汲んでやっちゃあくれねえか」。小せんは熟慮した後、この縁談を承諾した。黒田清隆は後に内閣総理大臣にまで登りつめる。

            8月8日(金曜日)
若竹七海       「悪いうさぎ」 
葉村 晶は小さな探偵調査所でフリーの女性調査員として働いている。年齢は31歳の独身。長谷川探偵調査所で三年間社員として働いた後、所長の勧めでフリーとして独立した。人手が欲しくなると所長が私のところに電話をよこす。自由契約の調査員である。要するに何でも屋のフリーターである。月に60万稼ぐときもあれば、6千円のときもある。忙しいときは寝る暇もないし、仕事が無いときは飢える。4月の或る日、長谷川所長から電話があった。「東都からご指名なんだ」。東都総合リサーチは中堅の探偵会社で、社長の久保田氏と長谷川所長は肝胆相照らす間柄である。仕事で必要なときはお互いに、人手を応援しあったりしている。その東都からご指名があったのだ。仕事は、家出中の女子高校生を家に連れ戻す、というものであった。家出中の高校生は平ミチルといい、私立セイモア学園の生徒であった。セイモア学園は幼稚園からの一貫校で、莫大な金がかかるが、金だけでは入学できず、家系を重要視する学校だった。父親は大手ゼネコンの役員である。最初は単純な不良少女の家出事件だと思われていたのだが、そのうちに事件は意外な展開を見せる。ミチルの知り合いの高校生が殺され、これを皮切りに友達や、知り合いが次々に行方不明になる。行方不明になったうちの一人は同じセイモア学園に通う同級生滝沢美和だった。美和の父親滝沢喜代志は先代から莫大な遺産を引き継いだ大金持ちだが、経営手腕はまるで無く、バブル期に大失敗をやらかして、今は大手ホテルチェーンの会長職に祭り上げられている。滝沢は行方不明の娘の捜索を葉村に依頼する。美和の探索のため周辺の調査を進めると、滝沢喜代志とミチルの父親は同じニ八会のメンバーであることが判明する。ニ八会とは昭和28年生まれの財界人若手や弁護士、キャリア公務員、経営コンサルタントなど有志7名で結成され、一応21世紀の経済界をリードしていくことを目指しているそうだ。今は財界人の集まりと言うより、趣味を同じくする者同士余暇を楽しむサークルのような存在になっている。その同一の趣味に狩猟が含まれていた。葉村はこのニ八会の内情を調査するうちに、とんでもない事件に巻きこまれ、危うく一命を落としそうになる。ニ八会の狩とは人間を狩ることであった。 

             8月20日(水曜日)
藤原伊織        「シリウスの道」
大手広告代理店東邦広告社員の辰村祐介は、京橋第十二営業局第五部で副部長を務めている。東邦の大手スポンサーである大東電機から突然18億円の大口広告の話が入った。他社と競合見積もりになると言う。しかも担当に京橋第十二営業局を指定してきた。これまで大東電機の担当は銀座第六営業局であり、大東のために計三部、三十人体制がしかれていた。変更の理由を尋ねたが、大東電機から回答は無かった。役員会では大東電機の内政干渉ではないか、と言う話も出たが結局十八億円と言う予算規模に惹かれてこの話を受託することになった。これがこの物語の導入部分。辰村は少年時代を大阪の今里で過ごした。中学生当時、二人の親友がいた。一人は浜井勝哉、もう一人は村松明子。三人の境遇は似たようなものだった。辰村の父親は貧乏絵描き、本業では食べてゆけないので、細々と子供に絵を教えている。しかし、周囲は貧乏人ばかりで、継続的に絵を習わせる余力を持つ親は少ない。母親が家計を助けるため近所の食堂で働いている。勝哉は母子家庭で、母親はホステスとして働いている。明子は四人家族で父親は大酒呑み。トラックの運転手をしていたが、事故を起こして以来働かず、呑んだくれている。母親は雇われママで、家にいることが少ない。他に弟がいる。そんな明子に不幸が襲った。酔っ払った父親が、母親が不在なのを幸いに、襲い掛かったのだ。この事実を知って辰村と勝哉は激怒する。二人で制裁を加えようと計画するが、その前に明子の父親は自分の失策から事故死する。辰村の身辺にも不幸が訪れた。絵描きの父親が、自分の才能の限界を知って自殺する。このため辰村は母親の縁者を頼って横浜に引っ越すことになった。勝哉はホステスをしていた母親に、恋人が出来結婚することになった。勝哉も一緒に東京で暮らすことになるという。こうして三人は離れ離れになった。以後、辰村は二人の消息を知らない。ただ、明子については、のちに有名プロダクションにスカウトされ、レッスンを受けた後プロの歌手として華々しくデビューしたことは、マスコミの報道で知っている。しかし、明子はデビューして間もなく、大東電機会長の御曹司から求婚を受け、結婚して引退してしまった。現在は半沢明子に変わっている。その明子の主人半沢から、辰村に面会を求める連絡を受けた。面会して用件を聞いてみると、匿名の手紙で妻明子の過去について父親との関係を公表する旨の脅迫を受けている。誰か心当たりはないかと言うものであった。父親との事件は明子からすべて聞いて承知しており、辰村や勝哉のことについても明子の話でよく承知している。他に明子の過去を知るものがいないか、教えて欲しいとも言われた。辰村は今度の大東電機の広告の件は、この脅迫事件がが絡んでいることを悟る。それでなければ、これまで担当していた銀座第六営業局をはずして、わざわざ辰村が副部長を務める京橋第十二営業局を指名する理由が無い。続いて半沢のもとに第二の脅迫状、第三の脅迫状が舞い込む。そしてその三通目の脅迫状には、辰村、勝哉、明子しか知りえない共通の言葉が使われていた。辰村は愕然とした。まさかあの勝哉が、明子の秘密を脅迫の材料に使うなんて信じられなかった。彼の知る親友の勝哉は、絶対そんな男ではなかった。彼の身に何が起こったのか。彼は今どこにいるのか。辰村は勝哉の行方を追及する決心をした。
この物語は大手広告代理店の、業務内容を詳しく伝えており、あまり詳しすぎて外部のものには分かりづらい点が多少あるが、興味深く読み進めることが出来た。

             8月24日(日曜日)
唯川 恵        「刹那に似てせつなく」             
未婚の母である並木響子は、一人娘を大企業の社長の不良息子にもてあそばれ、娘は自殺した。小学校6年、わずか12歳のときだった。社長の息子藤森佑介は幼い少女にしか欲情を感じない、変態性欲者で彼の毒牙にかかったものは他にも多数いるとの評判があった。佑介は学校帰りの可菜に言葉巧みに近づき、道案内を頼む振りをして車に乗せ、目的の場所に連れ込んでさまざまないかがわしい行為をして、可菜を犯した。以後数回にわたって学校帰りの可菜を待ち伏せ、行為を強要し、断ると行為中に撮ったいかがわしい写真を友達に公開すると脅した。恥ずかしくて母親にも相談できなかった可菜は、転校した親友に唯一事実を打ち明けた手紙を残し自殺した。後でこれを知った母親の響子は、佑介の親の会社に談判に行くが相手にされず、反対に証拠の手紙も何者かに奪い去られる。これを知ったマスコミは、あたかも可菜が援助交際を求めた末のトラブルの如く報道した。マスコミの批判の対象は響子にも向けられた。勤め先にも響子宛に批判の電話が頻繁にかかるようになり、会社の迷惑を考えて、響子は会社を辞めた。警察にも被害届けを出したが、自殺であり、犯罪を立証する証拠が無いと受け付けてもらえなかった。弁護士を頼んで民事の裁判を求めたが、敗訴した。最愛の娘を亡くして響子は、八方手を尽くしたが可菜の無念を晴らすことは出来なかった。響子は直接自分で復讐することを決意する。何年間も待って、藤森産業に掃除婦として潜り込み、息子の佑介が副社長就任のパーティの日に、念願かなって復讐を遂げる。ところがその日に、佑介を殺そうとして訪れたものがもう一人いた。逮捕されるのを覚悟して犯行に及んだ、響子はこの女に助けられる。話を聞いてみるとこの女、ユミも佑介の毒牙にかかった一人だった。

             9月1日(月曜日)
村松友視        「武蔵野倶楽部」
このところ、吉祥寺の町はすさまじい発展を遂げているが、仔細に眺めてみると現代風のときめきの中に、古くからある魚屋、鰹節専門店、海苔屋、茶舗などが混じりこんでいる。清明さんが通う「武蔵野倶楽部」は駅に近い喧騒から、先に行くと武蔵野の余韻漂う井の頭公園の鬱蒼たる雰囲気に包まれる場所に至るが、その途中にある。両側の店に挟まれた狭い入り口の奥がやけに暗いので、初めての客は少しばかり戸惑う。店内に入ると、まず目立つのが大きなグランドピアノだ。ピアノの上にはかなりの数の酒壜、鍵盤を照らすライト、それに巨大なラッパ付き蓄音機などが雑然と置かれている。壁には往年のハリウッド女優や俳優の写真が適当にあしらわれている。天井には幾つかのスポットライトがあり、そこから放たれる光が、ピアノを弾くときのマスターの左肩あたりに、ピンポイントで当たる仕組みになっている。ふだんは抑えた音量で店内にジャズが流れている。やはり最も目立つのが赤シャツの大男、マスターの姿だ。ここにいつしか、現役を引退した経営者や、元船長、銀座で税理士を開業している、初老の男性などが集まるようになった。それぞれが酒を楽しみ、ジャズを楽しみ、そしてかっての武蔵野の面影を懐かしんでいる人たちばかりだ。これまで世の風雪に耐えてきた人々が、余生を楽しむために集まっている場所のようだ。
          「浅野川」
金沢市内を流れる浅野川界隈で、「浅の川園遊会」が開催されるようになってから20年になる。浅野川園遊会は、近代化が進む金沢の街から、金沢本来の魅力が失われてゆくのを何とかできないものかと、地元の有志が、「そりゃ祭りやぞいね」の掛け声でスタートさせた催しだった。金沢の賑わいの中心が香林坊や片町に移り、若者の人気を集めていたが、浅野川界隈はかっての華やかさを失い、人影もまばらで、空き家も目立ち始めた。そんな時期に始まったのが「浅の川園遊会」である。地元の有志による実行委員会は、浅野川界隈が最も賑わっていた全盛期の再現を目指していた。河の中に浮き舞台を作り、河川敷に露店をだして庶民的な賑わいをかもし出そうと考えた。老舗料亭への儲けを度外視した弁当の依頼、花街への協力の要請、一定金額以下に絞った協賛のお願いなど、実行委員は駆けずり回った。そして、大会社の後ろ盾や政治家の協力の申し出は平身低頭して断り続けた。園遊会は誰の儲けにもならぬもの、そういう庶民の心意気を貫いたのだ。「あれが、金沢の"だんさん”の心意気やな....」。世間ではそういう噂が流れた。その園遊会に今年一人の老人が現われた。自分がどこの誰かも分からぬままに、家人に勧められて園遊会に参加したのである。過去の記憶は部分的には覚えているところもあるが、それは極めて限定的であった。会場に着くと、園遊会の役員が「これは野斎先生、お見受けしたところお体の具合はもうよろしいようやねえ」と言いながら案内してくれた。老人は自分がかって、地元の有力者ではなかったのかと思ったりもするが、思い出せない。そして突然、十数年前、浮き舞台の花道にたった名妓美ち奴の姿を思い出す。老人はお座敷太鼓に合わせて桟敷席から踊りながら、土手へと移り、踊り続ける。「野斎先生、危ないがね」。「ほれほれ、気つけんと」。「つんのめったら、川やで」などと声をかけられながら。
           「リターン.トゥ.センダー」
岩手県の一関市にジャズ喫茶ベイシーはある。外側にあるドアを開け、二つ目のドアを開けると、すさまじい音量の、しかも厚味のあるドラムの響きにいきなり襲われた。薄暗い照明の中で、奥に巨大な二つのスピーカーとドラムのセットが置かれていることが見てとれる。二つのスピーカーに向かって、駅の待合室のように席が並んでいる。カウンターの右に、ガラスで仕切られたコーナーがあり、そこにターンテーブルがある。マスターの風貌は茶と金がメッシュになったようなオールバックの髪型で、うっすらと口髭を蓄えている。大きい目を左右に配るとき、片方の眉だけが吊り上り、ちょっと危ない雰囲気が現われる。ジャズ喫茶ベイシーの名は、誰もが想像するようにカウント.ベイシーに由来する。ジャズマンの名を店の名として借用するのは、よくある話だが彼の場合は少し違う。マスターはかって、カウント.ベイシーに、綽名をつけられるほど可愛がられていた男なのだ。ジャズ黄金時代の巨匠カウント.ベイシーとマスターとは、そんな間柄なのだ。地元一関の人々に、ベイシーの店の価値がどれほど浸透しているかは疑わしい。コーヒーを飲んで歓談をするにはうるさすぎる。特殊なケースを除いて、ベイシーを訪れる常連は、全国津々浦々のジャズ愛好家や、ジャズ業界、オーディオ業界の人々だ。だが、マスターはそんなことなど意に介さず、悠々とベイシーの時を紡いでいる。ジャズ喫茶ベイシーにはいろいろな顔がある。ジャズやオーディオのマニア的ファンが、見学気分で訪れる店。カウント.ベイシーとの深い縁を持つ伝説の店。エルヴィン.ジョーンズ、渡辺貞夫、山下洋輔、日野晧正など内外の音楽家のライブ会場。昨年はJBL本社の社長やエンジニア陣が来店し、そこで聞かされたJBLの音に驚嘆して、今年再度来店したという。カウント.ベイシーは、1980年の春に初めてこのジャズ喫茶ベイシーを訪れた。ベイシー夫人やバンドのメンバーとともに、バスでやってきた。ベイシー一行はマスターの奥さんがつくったビーフシチューに大満足して、しばらく店で時を過ごしてから帰っていった。カウント.ベイシーが来日するとマスターは店をホッポリ出してツアーについてまわる。ところがカウント.ベイシーが二度目にベイシーに来店した時に、かねて聞いていた彼の病が、かなり進行していることを知る。それ以来マスターは松寿仙という漢方の万能薬を、彼の元に送り続けるようになった。そんなカウント.ベイシーから「薬切れた。すぐ送れ」との電報が届いた。だが、あわてて送った最後の薬は彼の元に届かなかった。カウント.ベイシーの自宅宛に送ったが、彼は別の病院へ転送されていた。そうやって幾つかの病院に移っており、薬はその後を追いかけたが、彼の死に追いつけなかった。そしてその薬の小包は「リターン.トゥ.センダー」のスタンプを押されて、送り主であるマスターの元に返ってきた。それは今でも彼の元に保管されている。

他に、ジャズ演奏家に、阪神大震災がもたらした傷跡を描く「キリストの涙」。かっての札幌、ススキノの繁栄時代、そこで活躍した伝説の事業家を描いた「夜の神父さん」。などが収録されている。いずれの作品も読後、余韻の残る佳作だと、私は感じた。

              9月7日(日曜日)
加納朋子         「モノレールねこ」
以前にNHKのラジオ放送の高校生講座でこの作品を題材として取り上げていたことがある。2回に分けて放送され、しかも前半部分の途中から聞いたので、題名も作者も分からなかった。面白い内容だったので、気になっていたのだがそのままになっていた。
或る日、ボクの家にデブで不細工な、ノラねこがやってきた。しかも、縁側で干していたお客用の上等の座布団の上に、気持ちよさそうに寝そべっている。お母さんに見つかればきっと追い立てられるに違いない。それは分かっていたのだが、あまりに気持ちよさそうに眠っているので、ボクはシゲシゲと観察してしまった。見れば見るほどデブで不細工な猫だった。白地に黒のぶち猫だが、その黒が真っ黒ではなくて、絵の具を何色も混ぜ合わせたような汚い黒だ。その上肥っている。肉が小汚い毛皮の下で雪崩を起こしている感じ。それから、このねこはちょくちょくやってくるようになった。「またきたのか、おまえ。ちょっとはダイエットしろよ。腹の脇から肉がたれてるぞ」。ボクは声をかけてしまった。その後、お母さんが大切に育てていた花芽を台無しにしたり、客間の絨毯の上にゲロを吐いたりして、お母さんをすっかり怒らせてしまった。「あんな猫捕まえて、どこかに捨ててきて」。お母さんの命令が下った。ボクとお父さんは大捕り物の末、このデブ猫を捕まえて、自転車で30分ぐらいかかる河川敷に捨ててきた。ところが、一週間後あのネコが、我が家のお客用のソファの上に寝転んでいた。しかも、ねこの首に、赤い首輪がついていた。どこかの飼い猫になったのだ。ねこの首輪を見ているうちに良いことを思いついた。ノートを小さく切って、鉛筆で書きつけた。「このねこの名前は何ですか」。そしてそれを小さく折りたたんで、ねこの首輪に押し込んおいた。何日かたってあのねこがやってきたので、首輪を調べると、「モノレールねこ」。ただ一言記されていた。何という素晴らしいセンスだ。塀の上に座って、両脇からたれた脂肪でがっちり塀を掴んでいる姿は、まさに「モノレール」以外の何者でもない。このねこを仲介役にして、首輪をつけた主との交流が始まった。学校は違うが、同じ小学校の五年生で名前はタカキという子だった。今のところ男女の性別は分からない。そんな或る日、事件は起こった。「モノレールねこ」が車に轢かれて死んでしまった。交通量の多い国道を渡ろうとして事故にあったのだ。それで、タカキが何者とも分からぬうちに交流は途絶えてしまった。それから十数年の月日が流れた。ボクが社会人デビューしたその日、配属された部署で、インストラクターとして紹介されたのは、なんと若い美人の先輩だった。ネームプレートには「高木瑤子」とある。高木先輩は社内でもキツイことで有名だった。翌日、その高木先輩に連れられて、都内の支店に挨拶回りをすることになった。婦人警官に連行される犯人のような気分で、道を歩いていると、道端のあるものが目に留まった。塀の上にねこが座っていた。恐ろしく肥った不細工な猫だった。「あ、モノレールねこ」。思わず呟いてしまった。その途端、瑤子先輩の足がぴたりと止まった。タカキの正体は高木瑤子だったのだ。
          「バルタン最後の日」
俺はこの世に生を受けて、まだ一年に満たない若いザリガニだ。ある日、俺の住んでいる公園の池に子供が釣りに来た。俺は不覚にもおいしそうな餌の匂いに負けて、この子に釣り上げられてしまった。フータという子だった。そしてフータの家で飼われることになる。待遇はそう悪くなかった。公園の池にいる時は、何日も食事にありつけなかったことなどザラだったが、今はその心配が無くなった。そしてお父さんが名前をつけてくれた。「バルタン」と言う名だ。お母さんが「月給前でピンチなの」と言いながらも水槽とポンプを買ってくれた。酸素不足で死にそうになっていた俺は、助かったと思うと大変うれしかった。俺も一家の一員になって感じたことだが、人間社会にも結構悩み事があるようだ。お父さんは「バルタン、俺会社辞めたいよ」などと泣き言を言うし、フータも学校で辛い目にあっているみたいで、このごろ笑顔を見せなくなった。しかし、お父さんはそれを決してお母さんに言わないし、フータも学校の出来事を両親には打ち明けない。誰も我慢しているみたいだ。或る日お母さんがフータが最近笑わないことに気がついた。お母さんは何とかフータを笑わせようと努力する。以前にはしゃべったことも無い、駄洒落を飛ばしてフータの気を引く。お父さんもこれに気がついた。「今度の休みに、家族でどっかに行こう」お父さんが誘った。「ホント?」フータは弾んだ声を上げた。
「でも、お金が無いか」フータは余計な心配もした。お父さんは「大丈夫。節約すればなんとかなる。ディズニーランドに行こう。泊りがけで」。フータ達親子三人は土曜日からディズニーランドに出かけた。さて、その晩のことである。水槽の置かれた出窓の窓ガラスが割られた。泥棒だ!「冗談じゃないよ。ディズニーランドに行くのに、生活を切り詰めてようやく行けるようになったのに。狙うならもっと他の家があるだろう」。俺は猛烈に腹が立った。俺は何とか泥棒を阻止しようと、水槽のチューブを必死で伝い登り、窓ガラスの割れ目から出てきた泥棒の指を,渾身の力を込めてはさみで挟みつけてやった。泥棒はびっくり仰天して、何も盗らずに、一目散に退散した。しかし、俺は水槽からはるか向こうに放り投げられて、もう水槽まで帰れそうにない。さらば、それなりに住み心地の良かった俺の住処よ。やれやれと俺は思う。ガラにもないことをしちまったなあと。

この本には他に六つの短編小説が収録されている。いずれの作品にもほのぼのとした暖かさが伝わってくる。

             9月12日(金曜日)
向田邦子        「隣の女」
この作者の原作で1974年1月から1975年にかけて放送されたテレビドラマ「寺内貫太郎一家」、懐かしくてDVDを購入し、いまでも時々見ている。情にもろくて、義理人情に厚い、昔かたぎの熱血ワンマン親父小林亜星が繰り広げる珍騒動。加藤治子、悠木千帆、西城秀樹、浅田美代子など共演者が皆好演。今見ると皆若い。とりわけ浅田美代子の初々しさが印象に残っている。余談はこれぐらいにして、実は向田邦子の作品をこれまで読んだことが無い。図書館で偶然目についたので読んでみた。

2DKのアパートに夫とともにつましく暮らすサチコ。今日も内職のミシンを踏んでいた。夫と二人なのであくせくすることも無いのだが、遊んでいても勿体無い、と思って始めた内職である。今日も隣の部屋から男女の声が聞こえてくる。初めは言い争っているような険しい声だったが、そのうちに睦み合うような声に変わり、しまいには微妙な音まで聞こえ出した。安普請のアパートは隣家との壁が薄い。いやでも隣の音が聞こえてくる。聞きたくないから、サチコは激しくミシンを踏んだ。隣に住むのは峰子というスナックのママ。そこに現場監督風のノブちゃんと言う若い男が、三日にあげず通ってくる。夕方ミシンを踏みながら転寝をしていると、又隣の女の声を聞いた。「谷川岳ってどこにあるんだっけ」。「群馬県の上越国境」。いつものノブちゃんと呼ばれるあの男ではない。もっと深みのある声だ。そしていつもの男女の出来事が始まった。夕方、隣のドアの開く音がしたので、覗いてみるとくたびれたレインコートを着た若い男だった。夜、夫が帰ってきたのでこの話をしたが全く関心が無い。疲れているといって、大きなあくびをして寝てしまった。幸福ともいえないが、取り立てて不幸ではないとサチコは思っている。或る日、夫を送り出した後ミシンを踏んでいると、隣家からガスのにおいがする。気のせいかと思いながらミシンを踏み続けた。壁の向こうに気配がある。女のうめき声がする。男のうなり声が聞こえる。ベランダ越しに隣を覗いてみると、峰子が倒れているのが見えた。無理心中事件だった。相手は現場監督風のノブちゃん。幸いどちらも命は取り留めたようだ。このあと、サチコはこれまでの平凡な生活からは考えられない大変身を遂げる。峰子の家に通っていた、もう一人の若い男、麻田とひょんなことから知り合い、浮気をする。さらに麻田が仕事でニューヨークに渡ると、それを追って自分もニューヨークに行き麻田を訪ねる。一生に一度の恋だといいながら、三日一緒に過ごしただけで日本に帰るという。麻田が「帰さないといったら、どうする」と尋ねるが、「帰ります」、「帰って何というの」、「何も言わないわ。何も言わないで一生懸命ミシンをかけるわ」、「たくましいね」。しっかりやれよという風に麻田は手を差し出した。そして、サチコは元通り主婦に戻ってミシンを踏んでいる。
          「春が来た」
今年27歳になる直子は今、風見隆一と喫茶店で話している。二人だけでお茶を飲むようになってまだ五回ぐらいだ。「父はPR関係の仕事をしているの」、「大学時代の友人と共同経営でやってるの」。「じゃあ重役ってゆうわけ?」。父の趣味は謡で、自分も幼い頃少し稽古したこと。母はお茶とお花の心得があり、今でも行儀作法にやかましいこと。庭付きの一戸建てに住んでいて庭には松、楓、八つ手、手洗いの側には南天も植わっているなど、問われもしないのに自慢話をしてしまった。風見はそれを真顔で聞きながら、ときおり「最高だなあ」、「俺、南天なんて何年も見てないなあ」とか「君は最高の贅沢をしてるんだよ」としきりに感心する。実際は直子の父は失業してブラブラしているところを知人に拾われ、町の小さな印刷屋の下請けをしている。30坪足らずの借地に、古い汚い家が建っており、しかも地主との間にゴタゴタがあり、立ち退く立ち退かないでもめていることなど一切言わなかった。直子自身も十人並みの姿、形で、化粧栄え、着映えのしないたちで、華の無い影の薄い存在だった。これまでにも片思いが二つ三つあっただけで二十七になってしまった。あきらめていた時に、取引先の風見と口を利くようになった。自分の周りを飾って言うと、後で困ることは分かっていた。それでも良かった。今この瞬間が惜しかった。ところがその後、食事を終わって帰り際車に乗ろうとして脚を捻挫してしまった。直子は断ったのだが、風間は送っていくといって聞かない。やむを得ず家まで送ってもらう羽目になり、先ほどのうそが全部ばれることになる。風間は事実が余りにも違うことに驚いたようだった。直子はこの交際が駄目になると、あきらめていたが破れかぶれで次週も家に来ないかと、誘ってんみた。ところが驚いたことに風間はやってきたのだ。それから風間は頻繁に直子の家を訪れるようになった。果たしてこのままハッピーエンドを迎えることが出来るのであろうか。

この本にはこの他に短編小説三篇が収録されている。

             9月20日(土曜日)
早瀬 乱         「三年坂 火の夢」 江戸川乱歩賞受賞作   
推理小説作家としての登竜門第52回江戸川乱歩賞の受賞作。
現在の東京が江戸と呼ばれていた頃から明治時代まで、大火と呼ばれる大火事が幾度もあった。西暦1892年、明治25年4月9日に起きた神田大火と呼ばれる火災は二日間にわたって燃え続け、4100戸ほどが全焼したといわれている。この火災の放火犯という風評のあるの男の息子二人が、真相を究明しようとして東京中の坂という坂を調査し続ける。二人の父親橋上隆左衛門はもとさる藩の作事奉行を務めていたが、公儀の大政奉還が決まり、藩侯に従って江戸に上った。江戸に一年ほどいた後、版籍奉還となり藩侯は、あらたに知藩事という役職に付き藩政を見ることになる。その後廃藩置県が断行され、藩士は家禄を失うことになる。廃藩ののち、2年も経たずして隆左衛門も無職となった。その頃住んでいたのは東京麹町区にあった旧藩邸の長屋だった。当時の東京は、廃藩置県により碌を失った旧士族が新時代に不満を唱え、「士族の反乱」やら「自由民権運動」など物情騒然としていた頃であった。隆左衛門はこの頃改名し、橋上隆を名乗る。橋上隆を名乗りだした頃から、父が何を職業としていたのかよく知られていない。家族の暮らす長屋へも次第に帰ってこなくなり、家に入れる金も滞りがちになる。破綻が決定的になったのは旧藩邸長屋の退去を申し渡されたとき、明治13年4月のことだった。夫婦は話し合い父は東京に残り、母子は離婚して実家のある奈良県N町に帰郷し、内村姓を名乗る。家族を捨てた後の父の暮らしは知られていない。どう人生を歩んだのか。今も生きているのかどうかさへわからない。神田大火から六年後の明治31年3月、本郷春木町で全焼1478戸、死者二人を出す大火があった。その大火の際、火事のさなかを走り回る人力車が、あちこちで目撃されている。そんな中で6年前の神田大火の際も、人力車があちこち走り回っていたとの噂が流れた。その人力車の車夫が兄弟の父、橋上隆に似ているというのだ。このころ兄の内村義之は東京にいた。東京帝国大学の学生だった。兄は学業の傍ら、火災の真相を確かめるため調査を進める。そんな兄が卒業を真近に控えて、大学を退学して郷里に帰ってきた。しかも腹部に怪我を負って。この怪我から体内に雑菌が入り、兄はあっけなく死んだ。怪我の原因は「三年坂で転んだ」という言葉を残して。弟の実之は第一高等学校受験のため、東京に来た。兄の怪我の原因究明と、行方の知れない父の消息調査もあわせて行うために。大火の原因を探るため、もう一組警察関係者も含めた探偵が動いている。果たして大火の真相は究明できるか。

              9月27日(土曜日)
森 絵都          「永遠の出口」
小学3年生の頃、私は<永遠>という言葉に弱い子だった。その弱点を知っていて姉はしょっちゅう私に<永遠>という言葉を使う。例えば「あーあ、紀ちゃん、かわいそう」「紀ちゃんがいない間にすっごく素敵なランプ見たの。可愛いお人形がついたフランス製のランプ。紀チャンはあれ、もう永遠に見ること無いんだね。あんなに素敵なのに、一生見れないんだ」。永遠に...。この一言を聞くなり私は、息苦しいほどのあせりに駆り立てられる。そしてそのランプを求めて、あちこち探し回る。この弱点を姉は余すことなく活用し、さまざまなバージョンで執拗に攻撃を仕掛けてくる。「あたし今日、友達んちですごく貴重な切手を見せてもらったの。すごく高くて、すごっく珍しいやつ。でも、紀チャンはあれを永遠に見ることが無いんだよね」。永遠に。一生。死ぬまで。姉の口からそんな言葉が飛び出すたびに、私は歯を食いしばり、取り返しの付かないロスをしてしまったような焦燥と戦った。年を経るにつれ、私はこの世が取り返しのつかないものであふれていることを知った。(永遠に〜出来ない)ものの多さに私はあきれはて、くたびれ果てて観念し、ついには姉に何を何を言われても動じなくなったのは、いつの頃だろう。いろいろなものをあきらめた末、ようやくたどり着いた永遠の出口。      この物語は主人公紀子の小学校3年から始まり、高校を卒業して社会人として旅立つまでを描いている。家族は父母と三つ年上の姉景子の四人。中学生の頃には少し道を踏み外して、万引きをしたり、たちの悪い先輩とも付き合ったりする。そして父さんの浮気がばれたのもこの頃だ。家族の絆を修復しようとして姉の景子は九州旅行を計画する。母の怒りは大きく、修復は難しいかに見えたが、泊まっていたホテルの火事というハプニングで何とかこの危機を乗り切る。余談だが、この九州家族旅行で出てくる国東半島にある両子寺の、紅葉の場面の描写が素晴らしくて、私も機会を見つけて是非行って見たいと思ったりもしている。紀子の非行は中学を卒業する頃にはやんだ。高校に入学して大恋愛をするが、紀子が余りにも積極的になりすぎて、最後は失恋する。失恋の痛手が尾を引いて、大学進学の準備が遅れ自分の進路を決められないまま卒業を迎える。

               10月4日(土曜日)
松井今朝子         「吉原手引草」 2007年第137回直木賞受賞作 
松井今朝子はこれまで何回も直木賞の有力候補といわれながら、受賞を逃していた。それだけに手馴れた語り口で読者を最後まで飽きさせずひきつけて行く。
今回の作品は吉原の花形花魁葛城を巡る大騒動の顛末。とはいえ、事件の内容はこの本を殆ど読み終わる寸前まで分からない。冒頭から,謎の人物が
あるときは一見の客を名乗り、あるときは草双紙戯作者の卵を名乗って事件の真相究明のため、葛城花魁の周辺の関係者から探りを入れる。尋ねられた関係者が一人語りで、事情を説明するという形で物語りは展開する。吉原の女郎屋はピンからキリまであって、花形花魁を抱える大見世と、河岸あたりのしけた小見世とでは登楼するお客も、置いている女郎もまるっきり違う。葛城は女衒(ぜげん)を通じて大見世の舞鶴屋に雇われた。舞鶴屋に来たのは14歳と、立派な花魁になるのには遅すぎる年齢であった。しかし舞鶴屋の楼主は、容貌はいいし、何といっても品があるから上手く仕込めばものになると踏んだ。桧舞台で花形花魁になるには、ただ見た目がきれいで色気があるというだけじゃいけない。花魁を買うほどの通の客人は、見た目がきれいで、色気があり、気持ちが優しいのは勿論、何か一本筋が通っていることが必要であるという。葛城は最初から年相応の読み書きができ、行儀作法も心得た、実に利発な子だった。世話をした女衒の話では或いは武士の娘では、ということであった。やがて葛城は楼主の期待通り、いやそれ以上に立派な花魁として売り出すことになる。客は蔵前で一二を争う札差の田之倉屋平十郎をはじめ、大呉服屋の若旦那、縮緬問屋の主人など、お大尽ばかり。物語が進むにつれて次第に事実が明らかになる。やはり葛城は旗本の血を引き継ぐ娘で、父と兄を老中にも縁のある大身旗本に謀殺され、家は途絶えていた。葛城はその仇を討つため吉原に身を沈めることとなった。そして或る日放蕩者で知られるその大身旗本が、葛城の客として訪れる。見事大願は成就できるか、葛城はその後どうなるか。なお、草双紙戯作者の卵を名乗って事件を調査していたのはお目付け配下の小人目付けであった。

                10月9日(木曜日)
朱川湊人           「スメラギの国」     
作者はこれまでどちらかというと、ファンタジックなホラー小説が多かったがこれは怖いお話。それも長編小説。

ある大手事務機メーカーに勤める志郎は26歳の営業マンだ。これまで入社してから四年間会社の寮に住んでいた。家賃の安さと賄いつきの便利さで我慢していたが、部屋は狭いし、会社の延長のような感じで息が詰まりそうだ。辛抱しきれなくなってアパートを探すことになった。しばらくは一人で住むが、将来は恋人の麗子と結婚して住みたいと思っている。会社から少しはなれたところに新築の瀟洒なアパートを見つけた。緑が多くて静かな環境が気に入った。周辺は建築中の建物も多く、空き地もところどころにある。引越しには恋人の麗子も手伝いにきてくれた。大変気に入ってくれたようで、早く一緒に住みたいなどという。アパートの前には野原と呼んでいいような広大な空き地がある。不動産屋の話では、昔は大家の別宅が建っていたらしい。引越しの挨拶に大家の家に出かけたが、大変な資産家で広壮な邸宅に驚いた。主人は元学者だったそうだが亡くなり、今は夫人と使用人が不動産の管理に当たっているようだ。引越しの際感じたことなのだが、この近所はやたらと猫が目につく。アパートの前の空き地にもしょっちゅう猫が出入りしている。引越しの荷物を運び終わって一服していると、麗子がベランダで昼寝をしている大きな野良猫を見つけた。薄いオレンジの地に濃いオレンジの縞が入っている。そして又一匹猫が迷い込んできた。体全体が濃い灰色の斑のキジトラ模様で顎と手足の一部だけが白い。体格はあまり大きくない。志郎は猫を嫌いではないので餌を一度与えたところ、二匹とも住み着いてしまった。大きいほうの猫にジンゴロー、小さいほうをヨアヒムと呼ぶことにした。或る夜志郎はヨアヒムの後を追って前の空き地の中に入った。暗くてよく分からないので「ヨアヒム。ヨアヒム」と呼びながらあたりを探した。すると突然、白くふんわりしたした頭の中に、つぶらな瞳が愛らしい一匹の子猫が現われた。その可愛らしさは半端じゃない。志郎はそれを見惚れていた。もっとよく見ようとして近づくと茂みの中に隠れてしまった。子猫を探していると、月光に映し出されて真っ白な大きな猫が現われた。身体は並みの猫より一回り大きい程度だが、無駄な肉は全く付いていない。やや長めの四肢は見るからにしなやかで、スピード感のあるプロポーションである。顔つきも並みの猫とは違って、どこか知的で、高貴な印象を与える。猫の眉間には三本の筋のような模様が付いていた。その猫に見惚れているとさっきの子猫が現われた。よく見ると子猫の眉間にも三本の筋のような模様があった。この二匹は親子のようだ。よく見るといつの間にか十数匹の猫が志郎の周りを取り囲んでいる。「御免よ、集会の最中だったのかい」。志郎は薄気味悪くなってその場を離れた。白い大きな猫を囲んで猫の集団は会議をしているように見えた。あとで志郎はこの猫に名前をつけた。親猫は「スメラギ」。子猫のほうは「プリンス」。もともと猫がすきだった志郎だがある事件から猫との全面対決が始まる。きっかけは志郎が車を取得し、その置き場としてアパートの前の空き地の一角を借りたことに始まる。或る日志郎が車をバックで置き場に入れようとして、誤ってプリンスをひき殺してしまった。ここから猫集団の志郎に対する復讐が始まる。常に志郎の周辺は数匹の猫が監視している。そしてすきあらば志郎のアパートに侵入しようと狙う。油断していると数匹の猫が襲い掛かり、手足を引っかき、噛み付きあわよくば首筋に牙をたてんと狙っている。首筋に牙をたてられると悪くすると致命傷になる。このため志郎は常に護身用のナイフや棒、猫を撃退するための目潰しスプレーなどを携帯している。猫の集団は志郎の勤務先や、仕事先にまで現われだす。そして車を運転する志郎の目前に、自爆テロよろしく飛び出してくる。志郎の運転を誤らせて事故を起こさせるためだ。このため志郎は数十匹の猫をひき殺した。幸いまだ事故は起こしていないものの、このストレスは相当なものだ。こんなことが続くといつかは大事故につながるだろう。そんな時、恋人の麗子が重大事故を起こした。対向するダンプカーと正面衝突したのだ。猫が直前に飛び出して運転を誤ったという。猫の復讐は恋人にまで拡大したのだ。麗子は片足を失った。この後猫の王国の王、スメラギとの直接対決が始まる。さて結果はいかに。

               10月13日(月曜日)
北 重人           「月芝居」   
西美濃に3000石の知行地を持つ旗本左羽家は旗本寄合衆である。大名並みに参勤交代するが、大名と違って隔年参勤ではなく、四月ごろ参府し一月ほどで帰国する。その都合で江戸屋敷が置かれ留守居役を配している。小日向弥十郎は左羽家の江戸留守居役を務めている。左羽家の江戸屋敷は大久保にあったが、百姓地に屋敷を造作したものだった。しかも、百姓名義のままで、幕府に届け出ていなかった。江戸の武家屋敷は本来幕府から下賜される拝領屋敷が本筋である。しかし次第に下賜される拝領地が減って武家自ら屋敷地を手当てせざるを得なくなった。これを抱え屋敷と呼ぶ。左羽家の大久保屋敷はこの抱え屋敷だった。先年水野忠邦が老中首座に座って権力を手にして以来、質素倹約を旨とし、政治改革が急で江戸の町は不景気の底に沈んでいた。このたび抱え屋敷も厳しく取り締まられることになった。幕府の屋敷改めの台帳に記載されていない地面は建物撤去の上、元の百姓へ土地を無償で返すことを命じられた。左羽家の大久保屋敷はこれに引っかかった。あちこち伝を頼って工作もしたが駄目だった。こうして左羽家は江戸屋敷を失った。現在は分家の東左羽家の江戸屋敷に居候しているが、早急に江戸屋敷を手当てしなければならない。弥十郎は新たな屋敷を求めて駆け回っていた。その手助けをしているのが若い頃、同門の剣術道場で修業していたことのある築土の尽左衛門である。尽左衛門は今は一番弟子だった鍬蔵に後を譲っているが、江戸市中を取り巻く百姓地を仲介し、屋敷にしてしまう地面屋が生業である。その後を継いだ鍬蔵が何者かに殺された。鍬蔵は土地の仲介で口銭を得るだけでなく、土地を先に手当てし普請作業をして屋敷を欲しがっている者に引き渡したりしていた。利は厚いが先に金の工面をつけねばならず、借金も増え危険も大きい。調べを進めるうちに本所の御家人の四男坊で若い頃から剣術を習っていた波島三斎という男が浮かび上がる。波島は悪知恵に長け、弁が立つ。さまざまなところに出入りし知己が広い。南町奉行の鳥居甲斐や金座の後藤のところにも出入りしているという。剣術も免許皆伝の腕前、相手にすると至極厄介な男と噂されている。或る日,弥十郎のところへ尽左衛門から文が来た。鍬蔵が残した覚書が見つかり、容易ならざる内容なので相談に伺う、と認められていた。ところが尽左衛門はその日失踪した。弥十郎も正体不明の暴漢に襲われ危機にさらされる。この先物語はどう進展するか。

                10月17日(金曜日)
(番外) 京極高伸追悼集刊行の会  「夢なおさめず(京極高伸追悼集)」
ネット検索をしていて偶然、今から20年近く前の1991年3月3日亡くなった、高校時代の同級生の追悼集が刊行されているのを知った。一般には市販されておらず、自費出版図書館で蔵書として公開されている。大変懐かしく思い早速貸し出しを受けて読んでみた。京極さんは私の高校時代、一年間だけ同じクラスで勉強したことがある。私は劣等生、彼は秀才で、気後れから一年間何も言葉も交わしたことが無い。それでも彼のことは印象に残っている。彼が但馬豊岡藩の藩主の子孫だったこと。世が世であれば(戦前)貴族である子爵の息子として、東京に住み学習院に通うなどして、我々下々の者とは住む世界が違ったのではないかと、畏敬の念を抱いていた。しかし私の記憶では一般の高校生となんら変わることなく、服装なども質素でこれがほんとに殿様の子孫かと疑われるほどだった。さすがに風貌には気品があり、寡黙だが何となく威厳が感じられた。

追悼集によると京極さんは昭和33年高校卒業後、大阪大学法学部に学び、外国語特にドイツ語が得意でドイツ語の弁論大会に優勝するなどの実績がある。その語学の才能を知る阪大の先輩の推薦で、殆ど無試験状態で三菱商事に入社した。三菱商事入社後は一流商社マンらしく世界をまたにかけて駆け回り、それこそ寝る間も惜しんで激務をこなしていたようだ。そんな彼のユニークなエピソードを一二紹介する。昭和35年阪大在学当時、世は第2次安保騒動で騒然としており大学でも学生運動が盛んな時期であった。そんな時期に彼は所属する「ドイツ文化研究会」の部室で、しばしばナチスドイツのヒットラーの演説を朗々と暗誦していたという。学生運動に迎合せず、反動視されるのを無視して超然としていたのが強く印象に残ると語られている。また、三菱商事入社後、機械グループに配属されていたが当時グループ内には「海外出張、駐在は、英検三級合格を条件とする」という規則があり全員これを受験していた。ところが彼だけは実力がありながら断固としてこれを拒絶。曰く「私は英語でなければだめだというところには行きません。ドイツ語でなければ駄目なところに行きます」と、GOING MY WAYを貫きとおした。鉄の規律を誇る一流商社で自分の主張を貫き通す信念はある意味でユニークだと思われる。自分の健康には自信を持ち深夜に及ぶ仕事も厭わず、加えて仕事上の付き合いや個人的な交際もあってお酒が大好きな酒豪であったようだ。三菱商事には准定年制というのが有って定年前に会社を辞めると5000万円が独立資金として支給される。腕に覚えのある彼は躊躇なくこの制度を活用した。得意な語学とこれまで培ってきた豊富な人脈を通じて東欧圏貿易に乗り出したのだ。特に彼は東欧圏でもチェツコスロバキアに注目し、その文化と工業製品に着目した。それに海外駐在期間が長く彼が大好きだったブラジル。京極さんはチェコと日本それとブラジルを拠点とした三角形を中心とした貿易を志して、1988年10月オリチェス株式会社を設立した。1989年1月プラハで行われた会社設立パーティは大盛況で、新聞の取材を受けたり、テレビで報道されたりもした。それから京極さんはチェコ、アルバニア、スイス、ドイツ、ブラジルなどを飛び回り、たまに日本に帰るがまた海外に出かけるという多忙な日々が続いた。今まで健康には自信があった彼だが、1990年3月チェコから帰国した際、社員から「また痩せましたね」と声をかけられるほど身体の衰えが目立った。4月末病院に入院、5月の連休に手術、そのまま引き続き入院。8月には一時的に回復したように見え9月に退院したが10月再入院。そして1991年3月帰らぬ人となった。病名ははっきり告げられていないが癌ではないかと思われる。会社を設立してこれからというときに、病に倒れ本人も周囲もさぞ心残りであっただろうが、こればかりは如何ともしがたい。ただただご冥福を祈るのみ。

                 10月22日(水曜日)
石田衣良             「4TEEN] 2003年第129回直木賞受賞作品
月島中学2年生四人組の物語。取り立てて何の特徴もない平均的な中学生僕、テツローと早期老化症候群という難病を抱えるナオト、勉強することが楽しくて趣味というジュン、それに食うことにかけては人一倍貪欲で、体力、体格が秀でるダイの四人組である。ナオトは先日から体調をくずして聖路加国際病院に入院している。ナオトの抱える早老症という病気は普通の人の何倍もの早さで老化が進む病気で、白髪が目立つのも、顔や手や首筋にしわがあるのもその病気のせい。だけど年をとるのは身体だけ。心は中学生のままだ。あと何年生きられるかを示す生存曲線というのを見ると、十代の後半からじりじり落ち始め二十代も引き続き落ち続け、三十代になると滝つぼに落ち込む滝のように、雪崩を打って落ち込む。ふだん調子のよい時は普通の生活をおくれるのだが、調子を崩すと即入院となる。ナオトの誕生日は来週に迫るが、この調子では退院は無理のようだ。昨年は超高級マンションスカイライトタワー34階にあるナオトの家で、みんなが集まって朝方まで騒いだ。今年は絶対それは無理だ。そこで三人が集まって相談した。ナオトが思いもつかないもの。初めて経験し、思い出に残るもの。そのびっくりプレゼントとは何だろう。

ダイの父親が死んだ。警察はダイがこの死に関わったのではないかと疑っている。しかしダイはこれについて何も話さない。事情を調べてみると、ダイの父親は大酒呑みで泥酔すると、母親を殴り続いてダイや弟にも暴力を振るった。この日も母親を殴った後、次々に家族に暴力をふるい、暴れ疲れて寝てしまった。泥酔して寝たのはいいが、そのうちに部屋の中で着衣のまま糞尿をたれ流しそのまま寝ている。部屋の中があまりに臭いので、ダイが弟とともに父親を外に運び出し、匂いを消すため着衣を水で洗い流した。父親はまだ熟睡していたのでそのままにしていた。ところがその朝は寒くて、気がつくと父親は死んでいた。こういう状況だった。ダイは児童相談所で事情聴取を受けたが、何の処分も受けず帰ってきた。しばらくしてダイの元に青いマウンテンバイクが届いた。注文していないのに届いたこの自転車を見て、ダイは自転車屋に問い合わせた。すると父親が死ぬ2,3日前に注文していたものだった。仕様を変更していたため届けるのが遅くなったという。ダイは「うちの親父は最低だよ。死んじまった後で俺にこんなプレゼントをする。ずっと憎んでいたかったのに、簡単には憎ませてくれない」といって泣いた。

四人組は中学2年生を修了して新学期から3年生になる。その春休みに四人は2泊3日の旅行を計画していた。最初は房総半島の最南端白浜を往復する自転車旅行を予定していた。爽やかな汗をかきながら房総フラワーラインを自転車で走るなんて、僕たち四人組には似合わない。そんな健康的な旅行より、どこかアブナイ街に行って精一杯大人の世界をのぞいてやろう。いつの間にか結論が180度方向転換した。白浜のキャンプ場の代わりに、新宿中央公園でホームレスに混じってテントを張ることになった。初日は歌舞伎町のゲームセンターで遊んだり、18歳未満お断りの看板の出ている怪しげな店に、恐る恐る入ったりしてスリルを楽しんだ。その後ストリップ劇場に入場して出演した女性と写真を撮ったりして初日は終わった。予定通り公園内にテントを張り
四人で寝る。案外しずかで何事も起こらなかった。翌日ぶらぶらして時間をつぶし、夕方歌舞伎町に向かう。裏手のほうに向かい、ヒップホップの雑誌で見当をつけておいたJUICEというクラブに入った。バスドラムやベースの音で身体全体が揺れるような強烈な音楽にあわせて僕らは踊った。このクラブで踊っていた2人の女子高生と知り合う。二人は家出中で今晩とまるところがないという。四人で相談の結果、テントに泊めてやることになった。ところが就寝したあとの二人の態度が怪しい。気をつけていると僕らの仲間の持ち物を物色し始めた。問いただすと金がないという。しかも二人のうちの一人は、妊娠しているかも知れないから至急検査しなければならないが、そのお金が工面できない。翌朝四人で資金カンパして妊娠検査薬の費用を調達した。検査したところやっぱり妊娠の反応が出た。相手は誰かわからないという。このままではどうにもならない。四人はかわるがわる親の元に帰るよう説得し、二人も状況を判断して説得に応じた。僕らの15歳への旅は学校では教わらない、貴重な体験ををしたことになる。

               10月27日(月曜日)
瀬尾まいこ          「卵の緒」
僕は母さんと二人暮し。父さんのことは知らない。最近自分が捨て子だったのではないかと疑っている。「僕は捨て子なの?」と聞いた時のばあちゃんやじいちゃんのリアクションが怪しい。二人ともギョッとしたような顔をした後で「何ばかなこと。そんなわけないじゃないの」と笑う。学校で先生がへその緒の話をした。「へその緒はね、お母さんと子供を繋いでいるものなの。だから、お父さんがいなくても、鈴江君の家にもちゃんとあるよ」。ついに僕の捨て子疑惑を明らかにする時がやってきた。母さんが仕事から帰ってくるのを待ちわびて「ねえ、へその緒見せて」といってみた。いきなり言われて母さんはしかめっ面をした。そして出してきたのが、どこかで見たことのある和紙で出来た箱。中には白くて小さな欠片が幾つか入っていた。これは先生が見せてくれたへその緒とはまるで違う。「これってへその緒じゃない。卵の殻でしょう」。「母さん、育生は卵で生んだの。だから、へその緒じゃなくて、卵の殻をおいてあるの」。かあさんはけろりとした顔で言った。「とにかく、母さんは誰よりも育生が好き。あなたを愛している。
他に何がいる?。それで十分でしょう」。何か母さんにごまかされたような感じだ。母さんはこのごろ殆ど毎日同じ話をしている。母さんの働いている総務部にやってきた、朝ちゃんと言う名前の課長だか部長だか知らないけど、とにかくその人がびっくりするほどかっこいいらしい。夕飯のたびに朝ちゃんの話を聞かされてうんざりしている。或る日母さんが「育生、自分が好きな人が誰かを見分ける簡単な方法を教えてあげようか」。「すごーくおいしいものを食べた時に、ああ、なんておいしいの。あの人にも食べさせててあげたいと思う人こそ、今時分が一番好きな人なの」。母さんがハンバーグを焼いた。「今日のハンバーグかなりの出来でしょう。誰かこのハンバーグ食べさせてあげたい人ないの」。僕は誰も思い浮かばなかった。「母さんは食べさせたい人がいるんだけど」。「朝ちゃんでしょう」。「えっ、何で分かったの」。母さんは本当に驚いていたけど、あれだけ毎日同じ名前を聞かされていれば誰だってわかる。「朝ちゃんを家に呼んで、ハンバーグご馳走してもいい?」。僕はしぶしぶながら了承した。母さんが朝ちゃんに電話して30分後、朝ちゃんはやってきた。朝ちゃんは「朝井秀裕です。夜遅く突然お邪魔してごめんなさい」と言って、僕にぺこりと頭を下げた。朝ちゃんはほんとうにハンバーグを食べにきただけで食事を終わるとすぐ帰った。「行っちゃった。あっという間だね」。僕が言うと、母さんは嬉しそうにけらけら笑った。「どうやらお気に召したようね」。そのごお母さんがおいしい料理を作ると朝ちゃんががやって来るようになった。そして僕が6年生になった4月、朝ちゃんと母さんは結婚した。結婚式は別に挙げなかった。朝ちゃんが荷物とともに僕のマンションに引っ越してきた。しばらくすると母さんのおなかが大きくなり、母さんは会社を辞めた。家にいるようになった母さんは僕に、出生の秘密をようやく打ち明けてくれた。母さんは女子大に入学するとすぐに恋に落ちた。相手は16歳年上の先生。その先生ときたら、まるでやる気がなくて、いつもただ適当に教科書を流し読みしているだけ。母さんは彼から発せられるまるで抑揚のない言葉を聴くことや、授業の時間中殆ど変わらない彼の表情を眺めるのが好きだった。或る日先生が前回と全く同じ授業を始めた。いくらなんでもひどいと思って先生に抗議に行った。すると先生は「僕はもう半年の命なんだ。だから気力が出ない。何もやる気がしない」という。「病気だったの」僕が聞くと、「いいえ、先生はいたって健康だったわ。でもね、彼は本気で言ってた。半年より先の自分の姿がどう頑張っても思い描けないって。だから自分はきっと死ぬだろうって。全然理屈に合わない話でしょう。でも母さんはそういう何もかも捨て去ったような彼に惹かれたの」。母さんも彼は半年後にはきっと死ぬと思った。母さんは彼に猛アタックした。ところが彼には死んだ奥さんとの間に一歳の子供がいた。それを彼が育てていたのだ。そして、母さんによると人生最大の出会いが待っていた。彼の子供だ。ほっぺたはピンク、染められたような赤い唇、黒目の大きな瞳、とにかくその子は私のハートをグットつかんで離さなかった。「そして、母さんはあなたを手に入れたの」。大学を辞めて強引に彼と結婚した。誰も祝福してくれなかったし、今後どうなるかもさっぱり分からなかった。でもすごく幸せだった。「先生はどうなったの」。「勿論、死んだわよ。宣言どうり私と結婚してすぐ。長い話になったけど、結論は母さんと育生は血はつながってないということ。そして、母さんは誰よりもあなたを好きだってこと」。

 この本にはもう一編「7’s blood」という中編小説が収録されている。
七子と七生は姉、弟であるが母親が違う。七生は七子の父と愛人との間に出来た子である。その父親はとっくの昔なくなった。七生は自分の母親と暮らしていたが、その母親が一緒に暮らしていた男との間に傷害事件を起こした。母親は実刑判決を受け、刑務所に収監された。七生は行くところが無くなった。それを見かねた七子の母親が七生を引き取った。父さんが死んでから七年も経つから、愛人への憎しみみたいなものも消えているかも知れないけど、あまりに太っ腹な行動に周りは驚いた。小さなリュックに着替えやら身の回りのものやらを詰め、ランドセル、教科書などの学校用品を入れたダンボール一つで七生はやって来た。「お世話になります」挨拶こそ丁重だったが、卑屈さは微塵も感じられなかった。黒目がくるくる動き、笑うとえくぼが出来てかわいらしい。物怖じするするということを知らないようで、誰に対しても惑いの無い態度で接し、とても愛想が良かった。家庭環境に恵まれない子はその分生まれつき人に好かれる要素が与えられるのか、とにかく11歳とは思えないよく出来た子だった。ところが七生が引っ越してきて5日目突然母さんは倒れた。救急車で病院に運ばれそのまま入院した。それ以来七生との二人暮しが始まった。七子は高校3年生になったが進学はしない。母子家庭だからじゃない。父さんが残した保険金もまだ残っているし、月々はいる遺族年金もある。ただ必死で勉強するのが面倒くさいだけだ。七生は料理は上手だし、洗濯もする。掃除も手伝ってくれる。ほんとに手のかからない子である。七子にはその子供らしくない卒の無さが気に入らない。「あんたまだ11でしょう。なのにちっとも子供らしくないわ。子供ってもっと人の顔色を見ず自分の思うように行動するものよ」。七生は小さな声で言った。「僕はまだ十一歳だから。.....大人に気に入られないと生きていけないもん。一人じゃ何も出来ないもん。食べるものも住む場所も、一人じゃどうにも出来ないもん」。確かに七生の言うとうりだ。母さんは見舞いに行くと元気に見えるのだが、なかなか退院できない。そして突然死んだ。手遅れの癌だったらしい。母さんは七子に最後まで何も言わなかった。母さんは半年近くの間、私には全く悟らせなかった。全く強い女だった。葬式は周りの人によってすすめられた。こういう時未成年というものは幸せだ。打ちひしがれていれば周りが何とかしてくれる。私の今後については、母さんの兄が一緒に暮らそうと言ってくれたが、「あと少しで卒業だから、学校を替わりたくない」と言うと、あっさり引き下がってくれた。ここまで育った人間を引き取るのは煩わしいに違いない。という訳でまた七生との二人暮しが始まった。しかし七生とも別れが待っていた。母親が刑務所から出所することになったのだ。
この物語はこれで終わる。七子は今後どう生きてゆくのか。七生は母親と幸せに暮らせるのか。

瀬尾まいこの作品は自分の陥っている不幸な境遇を、淡々と述べ不幸を不幸と感じさせない。どんな苦境に陥っても人生を楽観的に捉え、積極的に生きてゆく。作品の底に流れるほのぼのとした温かみや、ユーモアは私を瀬尾まいこファンにしている。

              11月2日(日曜日
篠田節子          「妖櫻忌」
高名な女流作家の大原鳳月が死んだ。鎌倉にある広壮な邸宅の母屋から離れた茶室で小火があり、お客として招かれていた若手演出家とともに鳳月は焼死体で見つかった。その葬儀が鎌倉の寺院で行われ、アテナ書房の堀口はその手伝いとして駆り出された。アテナ書房では発行する月刊誌に「花伝書異聞」という鳳月の評論を連載しており、堀口はその編集担当者だった。「花伝書異聞」は作者の急死にによって後、一回を残して中絶してしまうことになる。葬儀からオフイスに帰ってみると机の上に、分厚い茶封筒が載っている。「えっ」と、堀口は声を上げた。見慣れた楷書の宛名、几帳面に紐をかけた梱包。秘書の若桑律子の手によるものだった。堀口は乱暴に封筒を破って中身を取り出す。大原鳳月の原稿だった。まぎれもない「花伝書異聞」の最終回だった。まるで自分の運命を予期していたように、鳳月はいつもより三週間も早くそれを仕上げ律子に送らせていた。大原鳳月は約束した以上、間違いなく書いてくれるありがたい先生だった。締め切りに遅れることも、枚数足らずのこともない、編集者の手を煩わせることのない作家だった。堀口は「ありがとうございました。おつかれさまでございました」原稿を押し頂くようにして頭をたれた。しばらくしてアテナ書房に若桑律子が訪ねてきた。堀口は「いろいろ大変だったでしょう。突然のことで」。応接に通して応対した。律子はアタッシュケースを持参していた。堀口はそれに目を走らせながら「未整理の原稿なども結構あったんじゃないですか」期待を込めて尋ねた。律子はそれに答えず、アタッシュケースの中から茶封筒を取り出した。「大原先生の原稿ですよね」。「いえ」律子はきっぱりと否定した。「先生は、ご自分の運命はわかっておられたようで、身の回りはきれいにされていました」。「それでは、それは?」。律子は黙って、封筒から原稿用紙の束を取り出した。「私のものです」。堀口はこれまで何度か若桑律子の書いたものを読んでいた。中世文学を専攻していた律子は、鳳月のもとに来るまで大学の研究室で助手をしていた。その博識と古典解釈の確かさには定評があり、将来を嘱望されていた。しかし、文体も手法も学術論文以上のものでも、以下のものでもなく、彼女に文学的センスがあるとは思われない。不特定多数の読者が読んで満足する「商品」として流通させるには無理がある。戸惑いながら「一応、お預かりしておきましょう」と堀口は答えた。原稿を読んでみると、中身は主人公の名前は変えてあるが大原鳳月の一代記の序章にあたる部分だった。表現が硬く論文調で、とても小説には向いていない。若桑さんにどうして断ろう、と堀口は悩んだ。悩んでいるうちにある考えがひらめいた。「使える」思わず叫んでしまった。女流文学の大家、大原鳳月が死んで、新聞、雑誌でその業績が再評価され、大きく取り上げられているこの時だからこそ、この原稿は使える。上司や同僚に相談すると、評価はまちまちだった。しかし、この出版社の社長でもある編集長の田村は大乗り気だった。ただ小説としてではなく、ノンフィクションとし、ヒロインは実名の大原鳳月、題名は「独占手記 わが師.大原鳳月」にする。「よしそれで行こう。短期集中連載で、終わり次第、即、単行本化だ」。編集長の田村の声が響き渡った。こうして雑誌への連載が決定した。連載が始まると、律子は遅れることなく几帳面に原稿を届けたが、奇妙なことに二回目の原稿は文体が一変している。首をひねりながら何回も読み返したが、間違いない。これは大原鳳月の書いたものだ。念のため上司にも読んでもらったが同じ意見だった。こんなことが何回か続いた。編集長の田村は「大原鳳月の作品は実は、若桑律子が書いていたのではないか。とすると大スクープではないか」と興奮気味だ。編集長は今後の大原作品の売れ行きを予想して、一人悦に入っている。堀口はこの点を律子に質した。律子は自分が書いたものに間違いないという。これはどういうことなのだろう。堀口は悩み始める。鳳月はまだ生きているのか。

              11月8日(土曜日)
平 安寿子         「グッドラック ららばい」
1983年、片岡積子が高校を卒業した日、母がいなくなった。帰宅すると父が居間でお茶を飲みながらテレビを見ていた。父は信用金庫で庶務課長を務めている。地元の商業高校を卒業後、就職して27年間、痔の手術をして一週間入院したほかは無遅刻無欠勤、風邪や腹痛くらいでは休まず、皆勤賞の賞状を毎年のように貰っている。そんな父が5時前に帰ってテレビを見ていた。「お母さんは」。「それがね、お母さんいないんだよ」。「いないって、買い物?」。「いや....出ていったんだよ」。「私の卒業式には来てたよ」。「お母さん家出したの」。「信用金庫に電話がかかってきたんだよ。今からちょっと家出しますからってね。だけど別れるとか死ぬとか、そんな大変なことじゃないから、心配しないでくれって」。「まあ、本人がそう言うんだから、心配することないと思うよ」。ところが、母さんはそれから一週間経っても、十日たっても帰ってこない。時が経つにつれて中学三年生の妹、立子が騒ぎ出してきた。父さんは、そのうち帰ってくるさ、とのんきに構えている。父さんと母さんは別に仲が悪かったわけじゃない。それどころか、二人が喧嘩しているのを見たことがない。父さんは朝帰りはおろか、年度末の残業以外定時に帰り、土日も家にいる。ご近所でも親戚の間でも「片岡さんは真面目が服を着ているような人」で通っている。真面目と言うより臆病、凡庸。何よりケチだ。外に出れば金が出てゆく。それが嫌なのだ。さして多くはない月々の稼ぎは、住宅ローンと二人の子供にかかる費用で消えてゆく、食べるに困らぬ程度の暮らし向き。わずかに増えてゆく預金通帳の残高を眺めて楽しむ、父さんのケチは主義と言うより趣味である。これがこの物語の幕開け。以後、母さんは20年にわたって家出を続ける。この間に片岡家は父さんが定年を迎え、次女の立子は名門女子大を出て、年収三千万を超えるコンピューターゲームソフト開発の技術者と結婚し、一時は超リッチな生活をして周囲を羨ましがらせた。しかし、立子はそれに飽き足らず、自分で事業を起こそうとして、人にだまされ不倫の挙句、夫に金銭的迷惑をかけて離婚された。それにもめげず、事業家の夢を追っている。母さんはたまに父さんに電話をかけてくる。母さんが家出したのは、たまたまパチンコ屋で田舎役者の財布を拾ったのが縁で、それを届けたところ田舎芝居に興味を覚え、ついてゆくことにしたという。田舎芝居をやめた後は流行らない旅館の雇われ女将をしたり、マッサージ師の仕事を手伝ったりして、気楽に暮らしている。長女の積子は面倒なことが嫌いで、今が楽しければよいとの主義で、結婚もせず彼氏をとっかえ、引っかえして男に金を貢いでいる。母さんが家出して20年後の2003年、たまたま台風に伴う竜巻に襲われて、片岡家の屋根が吹き飛ばされ、それがテレビで放送された。それを見た母さんは何事もなかったように家に帰ってきた。このユニークな個性あふれる一家はこの後どう発展するのだろうか。

              11月20日(木曜日)
葉室 麟          「風渡る」
ジョアン.デ.トルレスが生まれたのは天文二十年(1551)9月、山口である。ジョアンは周防の土豪の子で、父はアンドレースという洗礼名のキリシタンだった。ジョアンは生まれて間もなく司祭のコスメ.デ.トルレスから洗礼を受けた。トルレスはザビエルとともに日本を訪れ、ザビエルが去った後、日本での布教活動の中心となってきた人だった。幼少期のジョアンは白い頬をして、目の輝く可愛い子だった。髪は栗色で目は青みがかった灰色である。ジョアンが生まれた山口は当時、豊後の大友義鎮(宗麟)の弟、義長を主として迎え、義長はキリシタンを保護した。天文二十一年八月、山口に日本で初めての教会、大道寺を建てることを許可した。このため山口はキリシタンの聖地となったが、合戦で安芸の毛利元就に敗北する。山口は兵火に襲われ、教会も焼け落ちた。この頃山口のキリシタンは二千人ほどになっていたが、兵火を逃れて九州の博多へ落ち延びた。しかし、ここも安全ではなかった。ジョアンが博多に来て一年後、毛利に呼応した有力国人が兵を挙げ博多の町を焼いた。ジョアン達母子は逃げ延びるが父のアンドレースは敵に殺された。ジョアン達母子が次に避難したのは、キリシタン大名として有名な豊後の大友宗麟のもとだった。ここでジョアンは母と別れ、修道院に入り修業を積むことになる。ジョアン十四歳の時、数人のキリシタンらとともに、同じ修道院の少年達と京へ上った。この物語は一応ジョアンが主人公であるが、さまざまな人物が登場する。キリスト教の布教に努めるザビエルやトルレス、コエリョ達。キリスト教宣教師の所属するイエズス会が行う交易を通じて、南蛮との取引を拡大したい織田信長や豊臣秀吉。スペインやポルトガルはキリスト教の布教を通じて、相手国との貿易を広めその勢力を全世界に拡大しようとしていた。信長や秀吉はこの意図を予見していたが、交易のためキリスト教の布教活動を許していた。この布教活動に感化されてキリスト教に入信したキリシタン大名の大友宗麟や高山右近や、その他の大名達。豊臣秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛、黒田官兵衛。織田信長の重臣でありながら謀反を起こした明智光秀等さまざまな歴史上の人物が登場する。そしてこの物語では明智光秀の謀反は、竹中半兵衛の遺志を受け継いだ黒田官兵衛が仕組んだ謀略とされている。この他にも信長に反旗を翻した荒木村重、キリスト教信者としてよく知られた細川ガラシャ夫人などが登場するスケールの大きな物語である。

               11月28日(金曜日)
北 重人            「蒼火」
彦十店に住む周之介は六百石の旗本立原家に生まれた。しかし妾腹のため部屋住みであり、幼い頃父は可愛がってくれたものの、一族の扱いはいたって冷たいものであった。それに反抗して無頼の輩と付き合い、刀を振り回しての喧嘩三昧、悪所に居続けてめったに家には寄り付かない。見かねた一門の者によって座敷牢に押し込められた。数年間座敷牢に閉じ込められたまま、苦しい日を過ごした。祖母の手引きで座敷牢を抜け出し、以後立原家を出奔、市井に暮らすようになった。武道好みの父左右衛門は刀の目利きで知られていた。幼い頃父は周之介を可愛がり、よく刀剣を見せられた。剣術の道場に通うようになると、道場の師範やら剣術使いの連中が集まって、よく腰の物を鑑定する寄り合いが催された。父の血を受けて周之介も刀には目が利いた。それに、周之介は11歳で剣道の道場に通い始め、17歳の頃には師範代に次いでニ三番を争う腕に上達した。今でも稽古は欠かさず、道場では師範代を務めている。立原家を出てからの周之介は、道場の師範代や、刀剣の目利きなどを生業としているが、之だけでは食えず、町奉行所の取り扱わない、よろず揉め事相談を引き受けている。或る日、太物問屋の主から「娘の婿が切り殺され、商いの用意に置いておいた200両が手文庫から消えている。娘に事情を聞くと、近く大きな商売が出来そうだと婿は喜んでいたと言う。しかし娘はそれ以上の話は聞いていなかった。この件に関して詳しい事情を調べてくれ」と言う。調べてみるとこの他にも油問屋の主人が切り殺され、用意していた300両の金が消えていた。こちらも、大きな商いが出来ると、家人や奉公人に話していた、と言う。こんな話が何件か出てきた。これ以外にこちらは金は絡んでいないが、大道芸人が多数辻斬りの被害にあっていることも分かった。殺害の手口は袈裟懸けや払い胴、いずれも一太刀で絶命するという凄まじい業である。調査を進めるうちに西国のさる大藩の名が浮かび上がってきた。この家中の者が藩の出入り業者に推挙すると甘言を用いて、商人をおびき寄せている疑い出てきた。その中の一人は剣術の達人で、しかも重罪人の死罪を執行する役人、山田浅衛門の門下生であったこともあるという。町奉行所は大名家、家中の関与する犯罪を忌避する。上役から横槍が入ったり、幕府要路からの指示が出たりで犯罪がうやむやになり、いつのまにか事件自体が消滅してしまう。この事件も町奉行所は事件を把握しながら放置した疑いがある。周之介は単身、之に立ち向かうが果たして結果は如何に。

                12月6日(土曜日)
森見登美彦           「きつねのはなし」
大学生である私は縁があって、古道具屋の芳運堂でアルバイトすることになった。芳運堂は現在、ナツメさんという独身の女性が店主をしているが、もともとは彼女の母親が営んでいた。母親が病気で入院したので、彼女が東京から帰ってきて家業を引き継いだ。古い得意先の天城さんに荷物を届けるよう、ナツメさんから頼まれた。立派な屋根付の門のある大きな屋敷だった。暗い奥から出てきたのは着流し姿で、眠そうな顔をした男だった。細長い顔には生気がなく、青い無精ひげがうっすら顎を覆っている。ここから天城さんとの関わりが始まった。或る日、得意先に届ける荷物の皿を、私の不注意から取り落としてしまった。ナツメさんは怒りはしなかったが、「困りました」と眉をひそめた。届け先の須永さんが特にこれと指定したもので、代品が見つからないと言う。ナツメさんはしばらく考え込んでいたが、「天城さんのところへ行っていただけますか?」と尋ねられた。「あの人なら代わりのものを見つけてくれます。あの人はそういう商売もしているのです」。「天城さんのところへ行って替わりの品物を貰うということですか」。「お礼は後日私が直接お持ちすると伝えてください。天城さんが冗談で、あなたに何か要求するかもしれませんが、決して言うことを聞いてはいけません。どんな些細なものでも、決して渡す約束をしないでください。あの人は少し変わった人なのです」。天城さんは代品を渡してくれたが、そのとき「君の部屋にある電気ヒーターが欲しい」と要求された。大学に入学した時から使っていた古いヒーターだったので、別に惜しいと思わず、ナツメさんから注意されていたにも拘らず、引き渡す約束をしてしまった。それ以後天城さんから次々にいろいろの要求を受けることになる。この物語は現代の怪異譚というか、ホラー話というか怪奇現象を綴っており、現代風御伽噺を読んでいるようで面白かった。この本には芳運堂が関係する物語が他に三篇収録されている。

                 12月11日(木曜日)
中島誠之助            「やきもの鑑定五十年」
最近は殆ど毎日図書館通いをしているが、いつのころからかやきものに興味を覚えて、わからないままにときどきはやきものの本とか写真集を手に取っている。先日テレビで放映されている、なんでも鑑定団の鑑定士中島誠之助の随筆があったので読んでみた。それがこの本である。テレビでも人をそらさない軽妙な話術と、豊富な知識を披露して視聴者の人気を掴んでいるが、この本でも豊富な知識とゆたかな体験談を語って、読者をあきさせない。幼少時父母に死別し、養子縁組をして親戚に引き取られたが、養父が厳しい人で家業の骨董商を丁稚さながらの待遇で厳格に鍛えられた。これが養父が亡くなり、骨董商として独立して商売を始めてから役立った。商売上の知識は勿論、歴史や地理、俳句や短歌、漢詩にいたるまで文学的素養も深い。この本にはあまり出てこないが、料理や酒に関しても一家言あるようだ。初めは骨董鑑定の先生の体験談をまとめたものとして軽い気持ちで読んでいたが、読み進むうちに失礼ながら先生が随筆家としても立派に通用する文章をお書きになることに感服した。今後も引き続きこの人の本を読んでみたい。前置きが長くなったが内容を一部紹介する。「なんでも鑑定団」で女優の水谷八重子がゲストとして登場した時のことだった。水谷八重子は川喜多半泥子製作の茶碗を持参した。信楽風の珪石混じりのざっくりとした土に白泥がかけてある。作風はまさに心の赴くままに茶碗をひねったという、おおらかな福福しさに溢れた感じの作品であった。半泥子は銀行家として活躍した人で、陶芸の仕事はあくまで趣味として楽しんでいた程度で、一部の人を除いてこれまで一般の人にはあまり馴染みがなかった。中島はこれに300万円の値をつけた。そして、「将来この茶碗は、今日ある光悦の茶碗と同じような価値が与えられる日が必ず来るでしょう」とコメントした。この放送から四ヶ月ほどした頃、一人の視聴者から手紙が来た。半泥子の茶碗を骨董屋から買ったので鑑定してくれと言う。更に読んでみると、馴染みの骨董屋に立ち寄ったところ、主人が出てきて「何某が半泥子の茶碗を100万円で売り込みにきた。五万円なら置いてゆけと言ったら、それでいいと言って置いていった。だから六万円で買わないか」と持ちかけられ、買ってしまった。本物かどうか鑑定して欲しいと言う。添えられた写真を見ると半泥子の作品とは似ても似つかぬニセモノだった。ご丁寧に半泥子の後継者である坪島土平氏の偽筆で極めが記されていた。まずホンモノは、そうそこいらに転がっているものではない。いいモノはあるべきところにあるのだ。そして、いいモノは高いのである。決して安い値段では手に入らない。これがニセモノを掴まないための最低の条件なのだそうだ。

                  12月22日(月曜日)
上坂冬子              「ときめき老後術ー一人暮らしの骨とうざんまい」
中島誠之助             「ニセモノ師たち」 
急速に骨董や、やきものに対する興味が湧いてきて、このごろは図書館に行くと小説はそっちのけでやきものの写真集や、本を手にとっている。上坂冬子は保守派の評論やノンフィクション作家として知られるが、私は知らなかったが隠れた骨董愛好家、収集家としても知る人ぞ知る存在だったようだ。もう古希を迎えて、一人暮らしをされているようだが、その支えとなっているのが若い頃から収集を始めた骨董の焼き物類だそうだ。眠られぬ夜など夜中に焼き物を引っ張り出してきて、一人悦に入ることもしばしばあるという。この本にはこれまで収集した焼き物類の写真が数多く展示され、われわれ素人の入門者にとっては、いずれも目も眩むような逸品ばかりがそろっている。その収集にまつわる楽しい苦労話など、初心者にとって興味の尽きない話題が綴られていて楽しい。
一方、中島誠之助の本には骨とう界にはつきものの、ニセモノをめぐる裏話が数多く披露されている。その中には、事実は小説よりも奇なりと言う、大掛かりで手の込んだ詐欺話が出てきて驚嘆する。「なんでも鑑定団」が登場して骨とう収集が現在のようにポピュラー化する以前は、骨とう取引はもっぱら骨董商同士で行われていた。プロとプロとの仲間取引である。そこでは騙すより騙されるほうが悪い、騙されるほうは勉強が足りないとしてむしろ恥ずかしい思いをしたものである。だから余程のことがない限り被害は表に出さなかった。それでも仲間内では噂話が広がり、全貌が明らかになる場合が多い。この本には自分が危うく騙されかかった話とか、それを見破った話。目利きとして定評があった義父が、ニセモノと知りながら商売をした話。大掛かりな詐欺事件として新聞を賑せた「永仁の壷」事件。「佐野乾山」事件。「三越ニセ秘宝事件」。「ガンダーラ仏像事件」などが登場して興味が尽きない。

                   12月27日(土曜日)
今年も余すところあとわずか。それにしてもこの年末の重苦しさは何だろう。アメリカの金融不安に端を発したリセッションは、止まるところを知らず世界中をその渦に巻き込んで拡大中である。金融不安の元となったサブプライムローンの破綻は住宅バブルの崩壊にある。わが国が十数年前に経験した土地バブルの崩壊と同じ構図である。以後わが国は失われた10年と言われる長い不況に苦しんだ。この間アメリカは市場原理に基き、放漫とも受け取れる規制緩和で経済運営を行った。その結果経済は拡大し株式市場はもとより、商品先物市場や金融派生商品と呼ばれるデリバティブ市場にまで投資資金が溢れかえり、そこでは最新の金融工学を駆使した究極の資金運用が行われた。実体経済が順調に拡大している間は良いが、ひとたびそのバブルが破れると極限にまで拡大した信用リスクは容易に収拾できない。今、先進国をはじめ世界各国が、その収拾のため苦闘を強いられているがなかなかその出口は見えてこない。さて来年はどんな年になることやら。

例によって、今年読んだ本の内、印象に残っている作品を列挙する。
    重松 清     きみの友だち
    瀬尾まい子   幸福な食卓
    大崎善生    聖の青春
    乃南アサ    ボクの町
    椰月美智子   しずかな日々
    蜂谷 涼     へび女房
    村松友視    武蔵野倶楽部
    石田衣良    4TEEN
    葉室 麟     風渡る 
    朱川湊人    スメラギの国  

               



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