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平成16年9月15日(水曜日)
 今日からこの記録を開始する。  私が会社を定年退職して丸2年が過ぎた。お恥ずかしい話だがその間満足に読了した本が1冊もない。会社勤めのときは通勤時間が往復3時間かかったので、その間本を手放したことが無かった。退職して自由時間が増えたのに本を読まなくなったのはどうしたことだろう。私は自分の健康のため雨さへ降らなければ,午前中散歩するよう心がけている。というのは自分が少々肥満気味で、これ以上の体重増加は将来健康の維持に障害になると思っているからである。読書をするとすれば午後ということになるのだが、今までその時間をパソコンの前で費やしていた。しかもパソコンですることは、自分の趣味に関連したホームページを見て歩く程度のことを毎日漫然と繰り返していた。この時間を少し削減して読書に充てるよう心がけよう。幸い自宅から自転車で5分程度のところに市立の図書館がある。ここを利用すれば経済的負担も無くてすむ。時間というものはある程度計画的に使わないと、自分のしたいことが何も出来ないうちにどんどん過ぎていくもののようだ。

9月16日(木曜日)

 マイクロソフト社はOS Windows XPの使用者に対し、無償でサービスパック2(SP2)の交付を始めたようである。これまでにもSP1は無償で交付されているので、今回は2回目の更新になる。マイクロソフト社のWindowsはOSとして圧倒的な支配力を誇るが、そのぶんハッカーやコンピュターウイルスの標的になり易い。今回のSP2もこうしたWindowsの脆弱性を補うためセキュリティ機能を大幅に強化したと発表されている。このこと自体は大変結構なことだが、問題はこれをインストールした場合、今まで使っていたソフトが機能しなくなったり、パソコン周辺機器に障害が出る恐れがあることである。しかもSP2をインストール場合、後で起きるかもしれない障害は自己責任に於いて処理することとなっている。すなわち、マイクロソフト社は責任を負わないということである。これでは初心者は安心してインストールなど出来ない。無償サービスといっても初心者は何も恩恵を受けられないようだ。

 9月18日(土曜日) 

今日も午前中散歩する。相変わらず蒸し暑い。まだ真夏とほとんど代わらない。真夏の散歩は体力を消耗する。直射日光をまともに受ける昼日中の散歩はことにきつい。2,3年前まではそれでも帽子をかぶって何とか散歩に出た。しかしさすがにこの頃は真夏の直射日光を見ると身体が拒否反応を起こす。そのため夏の間は日陰のある新幹線高架の側道を散歩することにしている。この側道は私の家の近所から何の障害もなしに5キロ以上にわたって続いている。片道5キロ、往復10キロは厳しいので、大体2キロ程度の道を毎日往復することとしている。もっとも毎日同じコースは飽きるので曇りの日とか、小雨の日はコースを代える。夏の散歩は暑いので歩く前から汗がにじむ。散歩を終わるとたとえ4キロ程度でも下着は汗でボトボトになる。ところがこれだけ汗をかいても体重は一向に減少の気配が無い。増加はしないが減少もしない状態が続いている。この頃は散歩するからこそ体重が増加しないのだと、自分で自分を慰めている。

 9月20日(月曜日) 敬老の日

中国の江沢民氏が中国共産党中央軍事委員会主席を辞任し、後任に胡錦濤国家主席が選出された、と報じられている。江氏は
天安門事件の直後1989年に党総書記につき、その後国家主席、軍事委員会主席も兼務し中国の最高実力者として君臨していた。
2002年総書記、2003年国家主席の座を胡錦濤氏に譲ったが、軍事委員会主席の座は譲らずその影響力を行使してきた。中国では軍を支配するものが最高権力者とされ、たとえ国家主席といえどもその意には逆らえなかったといわれる。今回胡氏がその座を継いだことにより名実とも中国の最高実力者になる。これまでは江氏に遠慮して十分な政策運営が出来なかったが、これからは徐々に自分の路線を敷くことになるだろう。まだ党中央委員会の委員には江氏の息のかかった委員が多いといわれるので、しばらくはその影響力は残るであろうが。江氏は改革開放政策で市場経済化を急速に進め一定の成果を収めたが、それに伴う不平不満、矛盾もあちこちで見られるようになる。それを抑える手段として国民に反日民族主義教育を推し進め、内に対する不満を外に転嫁するよう仕向けたといわれている。先のアジアカップのサッカー試合の混乱、日本人留学生の寸劇に対する反日運動の高まりなどはその影響があると思われる。ところで中国の反日民族主義教育とは一体どのようなものであったのであろうか。私はつい最近までそのような教育がなされていること自体知らなかった。我が国の報道機関は首相や閣僚の靖国神社参拝に対し毎年のように中国や韓国が抗議する件については詳細に報道するが、中国が行っていたという反日教育については、私が知る限り報道したことが無い。10年以上も前から行われていたという反日教育の実態を報道機関は知らなかったのであろうか。それとも知っていて報道しなかったのであろうか。

 9月23日(木曜日) 秋分の日
1980年代末のバブル崩壊以後我が国は、10余年の不況を経てようやく回復の兆しが見えてきたといわれる。しかし完全な回復とは程遠い。金利は実質まだゼロ金利だし,金融の量的緩和解除の時期もまだ見えてこない。金融機関の不良債権もメガバンクと呼ばれる大手こそ山を越したようだが、地域金融機関の不良債権処理はまだまだ時間がかかる情勢だ。来年4月からはペイオフが完全解禁になる。中小金融機関はその対策も必要だ。長期にわたる不況対策のため政府は公共投資を大幅に増やし、しかもそれを継続し続けた。そのため国、地方を合わせると長期債務は700兆円を超えるといわれる。景気回復で税収が増えつつあるとはいえ税収だけではとても国の歳出を賄えない。景気が少しぐらい回復したからといって決して安心できる状況ではないことは確かだ。

 9月24日(金曜日)
ホームページ更新の作業をしようとしてパソコンの電源を入れたら、ブービー音がしてパソコンが立ち上がらない。これまでもこういう現象はたまに現れるが、その対処法としてパソコンの電源コードを別のコンセントに差し替えることで対処できた。今回もいつもの調子でコンセント差し替えてみたが、ブービー音が出るだけでいくら待ってもパソコンは立ち上がらない。これはパソコンの故障に違いないと思ってうろたえた。一応ホームページのバックアップはとってあるが同じパソコンのDドライブである。パソコンが動かなければどうしようもない。パソコンメーカーに電話しようとしたのだが、もう一度だけコンセントの差し替えを試してみようと思い、一時間ほど時間をおいて試してみた。ところが今度は何事も無くすんなり立ち上がった。パソコンの初心者である私には、なぜコンセントを差し替えるだけで故障が修復できるのかさっぱりわからない。この対処法を教えてくれたのはメーカーの担当者であるが、パソコンが故障した場合いろいろの方法を試してみてそれでも効果の無い場合は、最後の手段としてコンセントの差し替えを行ってみろ、との回答であった。コンセントの差し替えで修復できる理由は説明が無かった。厄介なのは前日パソコンを使っていて何の問題もなく終了できたのに、今日改めて使おうと思うと使えない。つまり何の前触れも無く故障することである。初心者にとってパソコンはやはり気難しく、使いづらい道具である。これからは大事なデータは必ずバックアップを取ることを心がけよう。それも出来るだけ外付けのドライブに。

 9月29日(水曜日)
今年は台風の襲来が多い。当地でも記憶しているだけで4つは通過している。今日もまた深夜に台風21号が通過する予定、と報じられている。この異常気象は我が国だけでなく中国や台湾、アメリカ方面では巨大なハリケーンの発生として表れている。地球の温暖化により海面温度の上昇が進んでいるため、台風が発生し易いのではないかとも言われている。もしそれが本当の原因だとすると,今後は毎年毎年台風被害の拡大に泣かされることになる。地球温暖化は化石燃料の使用を制限しない限り、これから益々進むと予測されており、石油や石炭に代わり二酸化炭素発生の少ない代替燃料の開発が緊急の課題となる。原油価格が高騰している現在は代替燃料開発にとって一つのチャンスかもしれない。

 10月1日(金曜日) 
今日は息子の28歳の誕生日。今東京の大学で助手として働いている。これまでの人生は運にも恵まれて比較的順調に進んできた。人生の転機と思われることがこれまで2回あった。まず最初は平成7年の大学入試センター試験。1月14、15日の2日にわたって行われたがその初日の15日、朝前日の風邪をこじらせて38度5分の発熱があった。学校に相談すると、体調不良の場合追試も可能とのことであった。本人に確認すると解熱剤を飲んででも受験するという。私たち家族は危ぶみながらも受験に送り出した。幸い薬が効いたのか発熱も収まって2日とも何とか受験できた。忘れもしないその2日後の1月17日朝まだ暗い6時前阪神淡路大震災が発生した。もしあの時センター試験の追試を選択していたら、交通機関寸断のため1月21日に福岡市で行われた追試はとても受験できず浪人として1年を棒に振るところであった。またたとえ1年浪人したとしても第一志望の大学へ合格できたかどうかもわからない。もう1回は大学院に進学修士課程を修了し、博士課程に進んだ1年目に訪れた。同じ学部の研究室に助手として採用されることが内定していた人が家庭の事情で採用を辞退した。この欠員の補充に運良く息子が推薦されたのである。こんなチャンスは2度とないという、担当教授の強い勧めにより息子は博士課程を1年で中退し研究室の助手として採用された。今までのところ強運に見舞われて順調に進んできたがこれが今後も続くとは考えられない。行政改革の一環として国立大学は今春から独立行政法人としてスタートした。学問の世界もこれからは厳しい競争の世界にさらされる。気持ちを引き締めて新しい人生を切り開いていって欲しい。

 10月3日(日曜日)

63歳で退職してから丸2年が過ぎた。幸いにもその間病気らしい病気をしたことがない。医者にかかったのは歯の治療で短期間歯科医に通ったぐらいである。といって全く何の心配も要らない健康体であったかというとそうでもない。退職前にはなんとも無かった膝が階段の上り下りとか、自転車に暫く乗ると痛み出す。加齢によるもので致し方ないとは思うのだが痛みが少し続くと、何とか軽減できないものかとサプリメントに頼ったりする。いまグルコサミンとかコンドロイチンを含んだサプリメントを毎日服用している。もう1年以上飲み続けているが痛みは無くはならないので、効果のほどはよくわからない。単なる気休めかもしれないが。それと筋力の衰えから膝痛が起こることもあると聞いて、無理をしない程度に毎朝筋力体操を続けている。これもやり始めてもう1年半ぐらいにはなると思う。医療費の増加は今でも大きな話題となっているが高齢化が加速する今後は、国民負担の増大をめぐって重大な社会問題になるだろう。そういう意味で高齢者もただ医者に頼るだけでなく、自らすすんで病気の予防にもかかわっていく姿勢が必要であると思う。出来れば若い世代の負担を少しでも軽くするため、そして自分自身のために。

 10月5日(火曜日)
私の住んでいる播州地方には灌漑用の野池が沢山ある。まだ若かった40代の頃、この野池のつりに夢中になったことがある。釣りの対象はへら鮒だが時には外道として大きな鯉が釣れることもある。 この野池ではへら鮒は大きくても35センチどまりだが,鯉はたまに50センチオーバーのものも釣れる。釣った魚は鮒でも鯉でも家に持ち帰ることは無い。釣れると暫く魚籠の中で泳がせておくが帰りにはすべて放流してやる。海の釣りは釣果は持ち帰って家族や、知人のお腹の中に納まるが、池の釣りはそうではない。一般人からすると暑くても寒くても、朝から晩まで釣りをして、帰りには釣った魚を逃がしてやる人の気持ちが知れない、と思うかもしれない。しかし釣り人は釣れない魚を苦労して釣り上げたとき時の腕の感触が忘れられない。この瞬間にこそ釣りの醍醐味を味わうのである。私もこの感覚を忘れかねて酷暑の7,8月、厳寒の1,2月でも休日を待ちかねてせっせと釣りに通ったものである。その私が釣りをやめたのは、50肩といわれる症状に見舞われたからである。50歳前のある日突然左肩の激痛に襲われ、左腕の上げ下げが出来なくなった。しばらくすると右肩にも激痛が走り、右腕も使えなくなった。釣竿を振り回す釣りどころではなくなったのである。この状態が意外に長引き1年以上に及んだ。そんなわけでとうとう釣りを諦めざるを得なくなったのである。

 10月9日(土曜日)
今年も「石ふしぎ大発見展(京都ショー)」がやってきた。これは西日本で開催される鉱物・化石・宝石・銘石の大きな展示・即売ショーで
春は大阪、秋は京都で毎年開催されている。こちらではこんな大きな催しは年2回しかないので、私のような素人収集家でもみなこの日を楽しみにしている。今年は開催前日まで台風22号の襲来が心配されていたのだが、幸い進路が東よりに変わったため朝雨こそ降っていたが風は弱かった。しかし朝の時点では台風はまだ本土に上陸しておらず、四国のはるか沖合いを進行中であった。このため進路がにわかに変わって最悪の場合京都も暴風圏内に入る可能性があり、展覧会の開催日として相応しい日とはとても言えなかった。
私も行くのを翌日に延ばそうかと大分思案したのだが(展覧会の開催期間は3日間)、誘惑には勝てず京都行きを決めた。朝8時前に家を出て展覧会場の「みやこめっせ」に着いたのは10時半を過ぎていた。相変わらず雨は降っていたが風は無かった。会場についてみると心配されていた台風の影響はほとんど無い様で、開場後30分程度しか経っていないのにほぼ満員の盛況で混雑していた。正直言って今日はすいているだろうと予想していたので、熱心な愛好家が多いのにびっくりした。私がこの趣味に入ったのは定年退職後のことでまだ2年程度の初心者である。子供の頃近所の河原で石拾いをした程度で、社会に出てからも鉱物とは全く無縁の生活を送っていた。ただ、宝石とかきれいな鉱物には多少関心があり、たまに鉱物とか宝石の図鑑を暇つぶしに眺める程度のことはあった。定年退職して暇が出来たので平成15年4月初めて大阪の「石ふしぎ発見展」を見に行った。これがきっかけで鉱物の魅力に見せられ、本格的に(?)収集を始めるようになった。ただにわか収集家の悲しさで地質学とか、鉱物学の知識はほとんどない。ただ見て、集めて楽しむだけである。しかしこのおかげで私は退職後何もすることが無くて困るという悩みから開放された。今では生きがいというと大げさだが、私の生活の一部となっている。また集めた鉱物はデジカメで写真に撮り、それをホームページで公開するという作業も継続して必要なためパソコンを触る機会が必然的に多くなる。このため多少でも頭の活動が刺激され、将来のボケ防止に役立つのではないかと思ったりもしている。それとインターネットを通じて同じ趣味を持つ収集家や愛好者と知り合う機会が増え、自然に顔は知らなくても交流が始まる。私もこの趣味を通じて多くのベテラン収集家と知り合い、いろいろ勉強させていただいている。これがまた大変楽しい。今後もこの趣味を可能な限り続けて行きたいと思っている。

 10月16日(土曜日)
京都ショーから一週間が過ぎた。ようやく石の整理が一段落したので他のことにも手をつけられる状態となった。一つのことに集中すると他には手が回らない悪い癖だ。その間に急速に秋が深まった。この間まで半そでのTシャツで散歩しても汗だくだったのに、この頃は長袖を着ても暑くない。それにしても今年は異常気象だ。散歩しているとあちこちで桜が咲いているのを見る。こんな経験はこれまでに無い。そういえば最近は連日熊が人里に出没している。熊も人間の怖さをよく知っているはずだから、むやみに人の前には姿を現さないと思うのだが。伝えられるところでは捕らえられた熊の胃の中には、食物がほとんど見つかっていないという。この異常気象で山の中に何か異変が起こっているのではないか。熊も人間に対する恐怖よりも飢餓に対する欲求を抑え切れなかったようだ。

 10月17日(日曜日)
この日記の書きはじめの頃読書について書いた。相変わらずあまり読書は出来ないが、その後ネット上で無料の読書が出来るサイトを知った。すでに多くの人が訪れており利用者は大変多いようである。無料で利用できるわけは、すでに著作権の消滅した作家の著作を集めているためである。私も早速利用させていただいている。夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介、島崎藤村、横光利一、太宰治など著名な作家の作品がずらりと並んでいる。肩のこらないところでは「旗本退屈男」「大菩薩峠」などの作品も読むことが出来る。菊池寛や角田喜久雄の作品もある。とにかくとても読みきれないほどの膨大な作品が揃っている。最近の作品こそ読めないが日本文学を知るうえで十分な質、量がある。今私は夏目漱石の作品を読み始めている。「草枕」「行人」「三四郎」「坊ちゃん」を読了して、「虞美人草」の途中である。以前に読んだ作品もあるが再読してみるとまた違う感覚を覚える。こんな有益なサイトを無料で利用できるのは大変ありがたいことである。とはいえこのサイトを維持するためには、多くの人のボランティア的な協力とスポンサーの資金提供が必要である。例えば作品を読みやすいように新かな使いに直したり、ネットに乗せるためHTML文で入力したりと膨大な手数がかかる。利用する人はこれらのご苦労を認識して感謝しながら読みたいものである。  ちなみにこのサイトの名前は「青空文庫」。  
URLは http://www.aozora.gr.jp/ となっている。

 10月22日(金曜日)
またまた台風23号が襲来した。今回の台風はわが兵庫県に多大の損害をもたらした。幸い我が家は多少の雨漏り程度ですんだが、台風の襲来前より降りだした激しい雨は台風通過後も降り続き、県下の河川の増水をもたらし、各地で堤防が決壊した。私の生まれそして少年期を過ごした但馬地方では、豊岡市で円山川が氾濫し全市の90%が浸水していると報道されている。私の少年期に円山川が氾濫したという記憶が無いので、前夜に豊岡市全域に避難指示が出されたという報道を見て誤報ではないかと疑った。
翌朝の新聞で事実を確認し、さらに避難指示が出てまもなく堤防が決壊し水浸しになった市内の様子もテレビ報道されていた。今回の台風は被害が身近に及んだので格別印象深いが、この台風に限らず今年は我が国に大きな災いをもたらしたものが特に目立つ。台風が上陸するたびに住民の生命、身体、財産が危険にさらされている。自然の大きな力の前にわれわれ人間は無力である。この自然の大きなエネルギーを何とかコントロール出来ないか。台風だけでなく地震のエネルギーも巨大である。これらのエネルギーをコントロールしさらにこれを有効利用できれば、人類にとって計り知れない福音となるのだが。         
大きな台風被害が出るたびにこんな夢物語を想像したくなる。

 10月27日(水曜日)
台風が去ると地震が来た。新潟県中越震災から今日は5日目を迎える。震災で人的、物的、経済的および精神的被害に遭われた被災地の方々に心よりお見舞いを申し上げます。今から約10年前私たちも阪神淡路大震災により大きな被害を蒙った。10年一昔といい、天災は忘れた頃にやってくるという言葉もある。その一昔前を振り返って、その当時の状況を思い起こし記録にとどめたい。忘れもしない平成7年1月17日午前6時少し前、私は朝食を終わり台所で出勤前のひと時テレビを見ていた。突然ドーンという音がして下から突き上げられるような衝撃を受け、続いて左右に激しい揺れを感じた。一瞬何事が起こったのか判断できなかったが、台所の食器棚から食器やコップが落下して散乱し、冷蔵庫は転倒こそしなかったが大きく移動した。隣りの間では仏壇が台から放り出されてひっくり返っている。これは大地震だと思い家族の安否を確認するとともに、このまま屋内にとどまれば家屋がつぶれるのではないかという恐怖を感じた。余震は断続的に続いたが、幸い激しい揺れは次第に収まってきた。この激しい揺れにもかかわらず当地は奇跡的に水道、電気、ガスとも止まらなかった。とりあえず会社に出勤しなければならないので,地震による交通機関の影響を見ようとテレビの報道番組を見た。地震発生直後はテレビも事態を把握していなかったが、時間の経過とともに次第に被害の実態が報道されだした。当初未確認情報として新幹線高架の落下、阪神高速道路高架の落下、高層マンションの崩壊などが伝えられていたが、それがみな事実として確認された。神戸市の長田区方面では火災も発生しているが、地震で道路損傷が激しく消防車が現地に到着できないとか、現地に到着しても水道が断水していて消火活動が満足に出来ないという状況も報道されだした。もちろん鉄道もJR、,私鉄とも架線の断線や線路の損傷が激しく全面ストップになっており、復旧の見込みが立たない状態。こういうことで会社のことが気にかかりながら、何も出来ない状態が4,5日続いた。5日ほど経って会社の役職者から初めて連絡があった。私の勤め先は西宮市だがやはり相当の被害が出ているということだ。会社は鉄筋コンクリート造り6階建てビルの1階だが,倒壊こそ免れたものの、最上階から1階までクラックが走り損傷が激しいという。交通手段が確保でき次第直ちに出社せよとのことであった。とはいへ西宮市は地震災害の最も激しい神戸市を通過し更に大阪よりに位置する。交通機関が部分的にでも復旧しない限り出社する手段が無い。地震発生後1週間ほど経って、JRの福知山線が震災地を経由して大阪まで開通したと報道された。早速翌日から加古川線を経由し福知山線で宝塚まで出、そこからは交通機関が無いので徒歩で西宮の会社まで出社することとなった。会社到着まで何時間かかるかわからないがとにかく出社する。翌朝午前5時過ぎの始発電車で加古川に向かい、それから列車を乗り継いで宝塚に着いたのが午前10時ごろ、それから徒歩で会社に向かった。
宝塚も震災被害がひどい、いたるところで家屋が倒壊している。木造の家屋はほとんどが倒壊もしくはそれに近い損傷を受けていた。全く損傷が見られないというものはほとんど無かった。途中で新幹線の高架橋の落下しているのにも出会った。2時間近く歩いて会社に着いたのが昼前。会社の付近も被害が大きい。鉄筋コンクリートの建物さえ損傷が激しい,木造の建物で被害の無いものは皆無である。会社に着いてみるとほとんどの人の顔が揃っていた。幸い誰も無事だったようだ。しかし中には自宅が倒壊した人もいた。会社の中も震災後は無茶苦茶にに散乱していたそうだ。重さ1トン以上もある金庫2台が転倒したり、書類ロッカーもすべて転倒し中の帳簿、書類が床に散乱していたという。電気、ガス、水道もすべて止まり厳寒の1月だというのに暖房は無し。初日は散乱した書類の整理に追われた。会社の勤務時間は午後6時までだが5時に退社しないと家に帰れない。5時に会社を出て部分開通した阪急電鉄で大阪に出、JRの福知山線に乗る。加古川に戻って最終電車にやっと間に合う。家に帰り着くと12時を回っていた。翌朝はまた始発電車で出勤である。はっきり覚えていないがこんな生活が半月ぐらい続いた。この間食事は朝食だけ家で食べる。昼食は震災被害で食堂が開いていないため家から持参した弁当を食べ、夜は帰りの列車の中で簡単なパン、牛乳程度で済ます。もっとも困ったのはトイレである。
断水のため水が出ない。小の場合は裏の川の水をくみ上げたものを流すが、大はこれが出来ない。やむを得ず近くの私鉄の駅の便所を拝借した。仕事の面でもいろいろ難しい問題が山積している。会社が不動産賃貸業であったため、木造のアパートやマンションを沢山所有している。その多くが倒壊したり、損傷が激しくて住めないものが出ている。何とか住める物件でも、何らかの修理を必要とするものがほとんどである。倒壊して住めなくなった物件の入居者には敷金を全額返還した。家賃収入が激減する中、修繕費の手当てとか、返還敷金の手当てとか資金面でも大変である。今から考えるとよくあの難局を乗り越えてこられたものだとしみじみ思う。ただ,
今言えることは、あの時はみな必死に困難に立ち向かった。耐えがたきを耐え,忍びがたきを忍ぶ努力をした。ということである。

 10月28日(木曜日)
前日書き残したことを続いて記録する。
そのうちに交通機関は徐々に回復し、JRが三宮まで開通した。そこから西宮までバスによる通勤になる。震災後初めて見る三宮は無残な姿であった。永らく三宮駅前の象徴であった新聞会館ビルは窓ガラスは全部壊れ倒壊寸前の姿をさらし、対面の築後日も浅い信託銀行ビルも柱が崩れて階下に崩落し復旧不能の状態であった。そのほか駅前周辺のめぼしい高層ビル、たとえば交通センタービル
国際会館ビル、神戸市役所ビルなどはいずれも崩壊またはその寸前であった。(神戸市役所ビルは旧館の方)              三宮駅前からは大阪方面の各地に向けバスが発着している。バスが往来するための唯一の手段となっているからである。そのバスも各地で道路が損壊しているため迂回したり、交通渋滞に巻き込まれたりしてなかなか目的地には到着しない。到着時間はその日の交通事情により大きく異なる。こういう経過を経ながらJRは徐々に復旧範囲を広げていった。三宮の次は灘駅、続いて住吉駅それが暫く続いて全線開通となった。全線開通したのは今はっきり覚えていないが、たぶん3月の下旬ではなかったかと思う。
残念なことはこの地震により私の会社の住宅の入居者が、はっきりした数は記憶していないが10名ほど亡くなったことである。 いくら天災とはいえ前途ある若い人の死亡は、ご遺族の方の心中を推察すると断腸の思いである。謹んでご冥福を祈りたい。

この地震の年は我が家にとっても大きな変化の年であった。地震による被害はよそに比べれば軽微なものであったが、それでも屋根瓦が一部落下し、全体的にもずれが起こった。外壁にも何箇所か亀裂が入りそのままにすると雨水が浸透する恐れがある。そういうことで建物全体について点検を依頼し、必要な箇所は修理を行った。この年はまた息子の大学受験の年でもあった。国立大学の受験を目指し1月14,15日センター試験を受験したが、二次試験の行われる2月中旬までに交通機関が復旧して、東京まで受験に行けるかどうかが危ぶまれた。2月上旬になってJRが三宮まで開通したので、それからバスを乗り継ぎ大阪に出てどうにか東京に着き受験することが出来た。3月10日に入試結果の発表があって、幸いにも合格したという。4月10日に日本武道館で入学式が行われる。私の母がこれにぜひ出席したいと言い出した。冥土の土産に孫の晴れ姿を見ておきたいらしい。それは良いがそれまでにJRが全線開通するかが問題だ。80歳を過ぎた老人を交通機関を乗り継ぎさせて東京に行くのは無理がある。 どうやら3月末にはJR全線が開通した。そういうわけで4月10日の入学式には、用事のある娘を除いて一家全員(3名)が参列した。ばあちゃんにも良い思い出になったようである。またこの年、娘がかねて交際のあった男性との婚約が整い結納を受納した。こうして我が家は若い者が皆いなくなり、年寄り3人の家族となってしまった。

 11月10日(水曜日)
早いもので今年も余すところ2ヶ月足らず、町には早くもクリスマスの飾りつけをしているところも見かける。退職すると時間をもてあますというが、現在のところ月日は風のように過ぎてゆく。今年1年自分が何をやったのか、どんなことがあったのか、何か思い出に残るような事があったか、と問われると即座に答えは出てこない。ただ、今年はやたらに天災が多かったことが記憶に残っている程度である。
近頃は記憶力が薄れ、人の名前が出てこない。言葉が出てこない(ボキャブラリーの欠乏)。これも加齢による自然現象なのか。これを防ぐためには必要なことは記録しておくしかないようだ。

 11月14日(日曜日) 
我が国と中国の間の政府関係がぎくしゃくしている。中国は小泉首相の靖国神社参拝を問題視して政府間交流を取りやめて久しい。
一方我が国は江沢民氏が行った反日民族主義教育、その影響を受けたといわれる民衆の反日的な行動を受けて、日中間の交流には距離を置く姿勢を崩さない。そういう中で中国の原子力潜水艦による我が国領海の侵犯事件が発生した。我が国政府は直ちに中国に対し厳重抗議を申し入れたが、現在のところ中国政府は調査中ということで詳細はまだわからない。中国の政経分離政策により政治的交流は停滞しても、経済的な結びつきは益々重要度を増している。今回の領海侵犯事件をきっかけとして、順調に推移している経済関係までその影響が及ばないよう両国の自制が求められる。

 11月18日(木曜日)
このところドル安が一段と進み、17日のニューヨーク外国為替市場では一時1ドル104円36銭をつけたと報じられている。これは米国の双子の赤字、すなわち財政赤字と経常収支の赤字を嫌気して市場がドルを売る動きを強めたためとされる。ドルは円以外にも売られユーロでは一時史上最高値1ユーロ1.3048ドルを記録し、アジア通貨に対しても安値を更新していると報じられている。ただ米国の最大貿易赤字相手国中国は通貨をドルにリンクしているため、米国はドル安の恩恵を受けられない。米国は経常赤字を補填する必要があるため建前として強いドルを主張するが、本音はドル安で貿易赤字の改善を望んでいる。しかし米国が本気で貿易赤字の改善を望むなら中国の通貨である元に対してこそ相当の調整が必要である。元以外の他通貨に対してドルは全面安の様相を示すのに、元だけが超然としているのはいかにも不自然である。では元はこのままドルに対して為替を固定していられるか。それは恐らく不可能ではないかと思われる。なぜなら中国は為替を固定するため従来から元を売り、ドルを買ってきた。ドルが他通貨に対して全面安となる中で何時までもドルを買い続けて含み損を拡大できるとは思われない。もしあえて中国がそれをするとしても市場はそれを放置しないだろう。もちろん中国は為替管理を徹底しているがそれでも不自然なことは市場が調整する。

 11月19日(金曜日)
昨日久しぶりにステレオを聞いた。以前は何時聞いたか思い出せないほど昔である。確実に10年以上は経っている。          働き始めて間もない頃、私はクラッシック音楽にあこがれていた。初めて買ったLPレコードがアンセルメ指揮スイスロマンド管弦楽団演奏のベートーベンの「第九交響曲」であった。
今から思うとアンセルメと「第九交響曲」とは妙な取り合わせだ。しかしその頃の私は音楽的素養の無いズブの素人だった。これを聞いて何も判らないなりに感激した私は、次々にクラッシックレコードを買い増していった。とはいえそのころ30センチLPレコード1枚がたしか2000円前後だった。古いことではっきり覚えていないが当時の私は月給が2万円程度だったと記憶している。その中でのLP一枚2000円は大変高価な買い物であった。だからよくて月に1枚程度買えるかどうかだったのだが。それでも何とか工面してクラッシックの名曲をそろえだした。レコードが増えるにしたがって、次にこれを出来るだけ良い音で聞きたいという思いが募りだした。こうして今度はオーディオの世界へのめりこみだした。初めてそろえた再生装置が、アンプは福音電機(現在のパイオニア)、スピーカーがクライスラー、レコードプレーヤーがニートという組み合わせだった。これで暫くは満足して聞いていたが、昭和50年代になるとレコードもモノラルからステレオへと代わり再生装置も買い換える必要が出てきた。その後は音狂いが昂進し数々のオーディオ遍歴をへて最後はアンプはコントロールアンプがオンキョー、パワーアンプがテクニクス、レコードプレーヤーはビクター、カートリッジにオルトフォン、シュア、デンオン、テクニクスなどを揃え、スピーカーは自作の3ウエイ、高音がJBLのホーン型、中音もフォステクスのホーン型、低音はオンキョウの30センチコーン型というラインアップとなった。レコードも初めはクラッシック一辺倒だったが、次第にジャズ系統も聴くようになり民謡や演歌も聴いた。しまいには録音の良いものならジャンルを問わず集めだした。こうして集めたレコードがクラッシックで約150枚、ジャズで70枚程度、民謡とか演歌系統が約50枚、その他のものが約30枚と合計で300枚ぐらいにはなる。こうして集めたレコードを毎日夜テレビなど見ず聞いた。休みの日は朝から部屋に閉じこもって1日中飽きもせず聞いたものである。当時の私はレコードを聞くのが唯一の楽しみであった。しかしこの楽しみも子供が大きくなるにしたがって次第に諦めざるを得なくなる。長男が私学の中学校に通いだした頃から,やかましくて勉強の妨げになるということで、完全に諦めることとなった。この間に音楽のソースが次第にレコードからCDに変わっていった。いちおうCDプレーヤーは購入したものの、またカセットデッキを初めから収集しなおすわけには行かない。こうして私は音楽鑑賞の楽しみを放棄することとなった。子供が大学に進学して家を出たのでこれで音楽が聴けると喜んだのもつかの間、今度は同居していた母が老衰のため寝たきりとなり、ステレオの置いてある部屋が使えない。最近その母が週2回デイサービスに通うこととなりようやく音楽を聴くチャンスがめぐってきた。ということで久しぶりにステレオを聞くことが出来たわけである。しかし10年使わないと再生装置に故障が出てくる。レコードプレーヤが全く動かなくなっていた。カートリッジも使えるかどうか判らない。かろうじてCDプレーヤーで音楽を聴いたのだが、やはりテレビやラジオの音とは一線を画する音である。しかし以前と比べると雑音がある。スピーカーもガリガリと音がする。この頃はオーディオに関心を持つ人が少なくなったのか、大手の電器店でもオーディオ売り場はどんどん縮小されて、ないに等しい状態である。ひところは沢山有ったオーディオ関係の雑誌もほとんど見かけなくなった。音楽には関心があるが音にはこだわらないという人ばかりになったためだろうか。オールドオーディオファンとしては大変寂しい話である。

 11月26日(金曜日)
我が国国債の残高は1997年末約280兆円弱だったものが、長期にわたる不況の影響で2004年末には600兆円を超えると予想されている。わずか7年の間に国の借金は2倍以上に膨らむ計算になる。現在景気は一応回復しつつあるといわれるがその回復力は弱く、とても景気回復に伴う税収増だけでは歳出を賄いきれない。このため政府は行財政改革を進めて歳出を抑えるとともに、新たな財源を求めて増税を模索している。小泉首相がかねてから公約している、自分の任期中の消費税引き上げはしないは実行されるだろうが任期の切れる来年秋以降は、税率引き上げが必至と思われる。また所得税の定率減税廃止とかビール類似のアルコール飲料にかける酒税の税率引き上げとか、今後は折にふれて増税の話が出てくるだろう。ただ増税の対象は主として個人で、国際競争力を保持するため、よほどのことが無い限り法人の増税は行わないと思われる。つまり法人は国際競争力を高めて雇用を守り、個人は法人から配分される所得から応分の税負担を求められるということになる。それにしても国の借金のなんと多いことか。地方を含めると借金は
1000兆円に迫るのではないか。景気対策のため出る内閣、出る内閣が赤字国債を発行し続けた。それでも景気は一向に回復しない。小泉政権にいたって景気対策のための公共投資は必要最小限度に縮小し、不良債権処理の構造改革に取り組んだ。それが実を結んで民間の過剰債務は縮小し、金融機関の不良債権問題も山を越えつつある。その結果として景気回復につながった。民の過剰債務は縮小して健全な体質に代わりつつあるが、後に残ったのが公の借金である。この公の借金を減らすため今後の内閣は、誰が出ても国民の負担増を伴う不人気な政策を取らざるを得なくなるだろう。

 12月9日(木曜日)
今年も残すところあと僅か。ぼつぼつ年賀状の準備をしなければならない時期となった。とはいえ昔に比べると年賀状作りは随分楽になった。パソコンに保存してある昨年出した年賀状のデータに、付け加えるべきデータを入力し、デジカメで撮った年賀状用の写真を入れてあとはプリンターで印刷すれば済む。これをいちいち手書きしていた昔は大変だった。字が下手で筆不精の私には年賀状書きが結構苦痛になっていた。この時期になるとパソコンの有り難味を実感できる。それにしても郵便による手紙やはがきを書かなくなった。たいていは電子メールで用が足せる。それの方が手軽で早いし、投函する手間もかからない。それに切手代やはがき代もいらない。これからはますます電子メールが主流になり、メールでは用が足せないものだけが郵便を利用することになるのではないか。

 12月18日(土曜日)
総理府の調査によると中国に親しみを感じない人が急増中だとのこと。当然のことである。サッカーのアジアカップ選手権における、日本ボイコット騒ぎ。江沢民氏時代の反日民族主義教育、頻発する知的財産権の侵害事件。歴代我が国首相の靖国神社参拝問題に対する執拗な抗議などわが国民にとって決して愉快な話題ではない。最近でも中国原子力潜水艦による我が国領海の侵犯事件が発生している。中国政府は当初事件を調査中ということで責任を回避しようとした。しかし我が国調査機関により、動かぬ証拠を突きつけられて渋々遺憾の意を表明した。ところがその舌の根も乾かぬうちに、今度は海洋資源調査船が我が国の排他的経済水域内を航行しているという。中国は自分の主張は最大限にそして執拗に行うが、他国に対する約束は簡単に反故にする傾向が見られる。それと注目すべきは中国軍による海洋進出行動だ。1970年代初め東シナ海に海底油田の可能性がわかると、中国軍は西沙諸島、南沙諸島を周辺各国の厳重抗議にもかかわらず、その実効支配下においてしまった。今回の原子力潜水艦による領海侵犯事件も、我が国の排他的経済水域内の鉱物資源に注目した活動の一環ではないかと疑われる。

 12月20日(月曜日)
退職してから今度は3回目の正月を迎える。昨年は家庭の都合で娘が帰ってこなかったが、今年は一家4名全員が来るという。息子はよほどのことが無い限り盆、正月は帰省する。久しぶりに賑やかな正月が迎えられそうだ。退職した当時はよほどレベルダウンしないと経済的にやっていけないのではないかと、一抹の不安があったが、収入が減れば減ったなりに何とか生活は出来るようだ。被服代はほとんどいらなくなったし、弁当代もいらない。住宅ローンも完済した。家族が大きな病気にでも罹らなければ,年寄り3人何とかやっていけそうだ。自分では丈夫だとは決して思わないのだが、退職後医者にかかったのは虫歯の治療程度である。今後も自分の健康は自分で管理して、一家の幸福に水をさすような事だけはしたくないと思っている。

 12月28日(火曜日)
今年も後数日を残すのみとなった12月26日インドネシアで大地震が発生した。阪神大震災の地震エネルギーの1200倍を超える驚異的なエネルギーを持った地震だったという。この地震により発生した津波は東南アジアはもとより遠くアフリカにまで被害をもたらし、犠牲者の数は日を追って増え続けている。新聞によると最終的に犠牲者の数は7万人を超えるのではないかと報じられている。犠牲者の数ががこれだけ増えたのは地震発生による津波警報が、周辺地域にまったく出されていなかったためといわれる。インドネシアのような地震多発国で津波警報が発せられないとは全く信じがたい話であるが、今回の大災害を教訓に津波警報システムが早急に整備されることが望まれる。

 12月29日(水曜日)
この1年を振り返ると私の生活は「石に明け石に暮れる」ようなものであった。石以外に何の収穫も見当たらない。私の悪い癖で一つのものに興味を持つとそれ以外は眼中に無くなる。その結果他のものが全く疎かになる。例えば読書や映画、旅行などほとんどご無沙汰している。来年はもう少しバランスの取れた生活を心がけたいと思っている。しかしこの石中毒症が軽快するかどうかいささか自信が無いが。

 


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