姚光俊さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、44年12月5日「赤痢」により17歳で死亡となっています。あまりにも若い犠牲者です。 姚光俊さんは、別名を姚和子、42年に国民党によって兵隊として連れ去られ、それ以後ずっと音信不通になっていました。二人兄弟で兄が姚天永さん(88歳で死亡)でした。 *** *** *** 2004年の手紙に対しお二人から返事を頂いています。 一人は姚光俊さんの又従兄弟の張石頭さん(31年頃の生まれ)、19人家族です。 もう一人は姚光俊さんの兄・姚天永さんの子の姚五倍さん(34年頃の生まれ)、4男3女の子に孫も入れ12人家族です。 手紙を受け取った時のことを姚五倍さんは次のように語っています。 父の姚天永は死んでも死にきれない気持ちで(クリックで手紙へ) また次の質問をされました。 「最後にぶしつけなことをお尋ねしますが,叔父には日本に後継ぎがいるのでしょうか。叔父の遺体あるいは遺骨は,どこに安置されているのでしょうか。」 (04年4月16日の手紙) 最初の質問に対しては、強制連行先の様子について同じ築港の幸存者が語っている証言として、『大阪と中国人強制連行』(99年)の第1章の翻訳を送りました。 2番目の質問に対しては、幸存者の証言により、保管していた遺骨が高潮で流されてしまったことを伝えることしかできませんでした。 |
![]() 中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。 戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい |
![]() ●遺族の所在地 多くの人にとって連行された人の故郷のまま |
|