単景文さんと、遺族:単愛金さん

 単景文さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、45年5月30日「赤痢」により23歳で亡くなったとされています。
 単景文さんは、44年21歳の時、河北省束鹿県の辛集駅で仕事をしている時に日本兵によって連れ去られました。

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 10年以上前に中国保定市の河北大学の調査によって判明した消息を教えてもらい、大阪からの報告は送ってきたのですが、大阪で亡くなった人の詳細を教えてほしいとあらためて手紙を出すと、単景文さんの妹の単愛金さん(26年2月30日生まれ)から初めて手紙が届きました。お兄さんが捕まったときの様子を次のように語っています。

何の音さたもないまま(クリックで手紙へ)

 そして次のように結ばれています。

 「兄はすでにこの世を去ったわけですが,しかし,日本帝国主義による中国侵略と中国労工殺害の動かぬ証拠を残しました。良識ある日本人一人一人がこの歴史をしっかり記憶して忘れないでおくべきです。そして歴史を鑑とすべきです。」
              (04年4月2日の手紙)
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま

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