邵永修さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、45年5月21日「腸結核」により30歳で死亡となっています。 邵永修さんは市(いち)に出かけた際に,日本兵に捕まって連れ去られました。そのとき29歳。残されたお連れ合いが、年取った両親と6歳の娘と1歳の弟を抱え苦難の生活を強いられます。数年後両親は相次いで亡くなってしまいます。 *** *** *** 当時6歳の娘であった人が邵蘭淑さんです。2004年に古い住所宛送った手紙は、今は他の人が住む元実家から転送され、別の村の邵蘭淑さんの嫁ぎ先に届きました。郵便局の人たちの大きな協力無しには不可能なことでした。 邵蘭淑さんから当時の状況を話していただきます。 日本軍が若者や丈夫そうな男たちを捕まえ(クリックで手紙へ) 邵蘭淑さんは戦後も厳しい生活をしてきました。 「18歳になったとき,私は家族の生活の全責任を担うことになりました。それから私と弟は相次いで結婚しました。弟には2人の子どもが,私には4人の子どもができました。不幸なことに,弟の妻は子どもを産んですぐに亡くなってしまいました。私と母は6人の子どもたちの面倒を見ながら苦しい生活を送りました。その後,暮らし向きが更に逼迫してきたため,家屋も売り払ってしまい,母は私の嫁ぎ先に一緒に住むことになりました。その家が,現在私が住んでいる家なのです。母はずっと私が養っていましたが,10年前病気で亡くなりました。」 (04年2月24日の手紙) 働き手を奪われた家族は厳しい生活を余儀なくされます。強制連行の被害は連行された本人にとどまらず、その数倍の被害者を伴っています。 ![]() 中央が邵蘭淑さん。奥が息子さんたち。訪中時、息子さんから「目的は何だ」と問われ緊張しました。「私たちは邵永修さんの歴史を継承することで二度と日本が過ちを繰り返さないようにしたい」と答えました。息子さんは「それなら分かる」と返事をくれました。 |
![]() 中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。 戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい |
![]() ●遺族の所在地 多くの人にとって連行された人の故郷のまま |
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