石洛東さんと、遺族:石卯尓さん

 石洛東さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、45年7月24日「心臓性脚気」により47歳で死亡とされています。
 44年旧暦の7月9日早朝、日本軍が村を包囲し、この村の10人の人を同時に捕まえて、次々と県城の第一中学校へ連行したあと、石門から塘沽へ、さらに日本へと送り込んだのです。その一人が石洛東さんでした。日本側資料では「史老東」となっていました。

 10年以上前に中国保定市の河北大学の調査によって判明した遺族の消息を教えてもらいました。息子の石卯尓さんです。ここでは98年2月12日河北大学の劉宝辰さん整理の石卯尓さんからの聞き取りから転載します。

石洛東が連行されて(クリックで証言へ)

 石卯尓さん当時まだ5〜6歳になったばかりでした。一家の大黒柱の石洛東さんを拉致された後の生活を次のように語っています。

 「農作業は主にはお母さんとお姉さんとがやりました。二人は私の手を引き、まだ乳飲み子の妹を抱いて野良に出ました。まったくどうしようもない日々でした。」

 石卯尓さんは、1年間だけ小学校に通ったことがあります。しかし家が貧しいため中途で退学しました。新中国が成立したあと、村では非識字者をなくすための班が組織され、彼は夜学に通うことになったのですが、明かりをつけるための油代が捻出できず、数日間学んだだけで終わってしまっています。石卯尓さんが続けて語ります。

すべて母のたくましい身体と強靭な忍耐力にのしかかっていた(クリックで証言へ)

 石洛東さんの大阪での死亡は同胞から聞いていました。

 「私の父が日本で死んだという知らせは、この村の楊三(石洛東と同じく大阪で強制労働させられた)が戻ってから教えてくれたのです。父の遺骨も海に流されてしまったと言っていました。」
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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