呂明訓さんと、遺族:呂照根さん

 呂明訓さんは1944年8月に藤永田造船所へ連行されました。死亡診断書では、44年9月11日「急性大腸カタル 栄養失調症」により51歳で死亡となっています。到着間無しのことです。
 呂明訓さんは43年河南省民権県で100人あまりの人と共に日本軍に捕まったようです。呂さんに限らず藤永田の人たちが民権県で捕まったときの様子はまだよく判っていません。残された当時の名簿では60人近くの人がこの県から藤永田に連行されています。

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 現在、呂明訓さんの孫の呂照根さん(68年頃の生まれ)の証言をもらっています。呂照根さんは同じ藤永田の高文声さんが努力の末見つけた遺族です。呂明訓さん連行後の生活を次のように語っています。

父は10歳にも満たずに孤児に(クリックで証言へ)

 この証言を聞き取ったのは、安治川に連行された張修正さん(故人)の遺族(子)で、河南省原陽県在住の張忠杰さんです。彼は父から聞いた消息を基に96年から原陽県内で生存者・遺族の聞き取り調査を始めます。やがて安治川だけでなく、また原陽県に止まらず活発な調査を始めます。今までに日本での連行先が全国各地の1000人にも及ぶ人たちから聞き取りをし記録に残しています。民権県にも何度も訪れ、藤永田の生存者・高文声さんや甘白平さんと調査をしてきました。私たちはまだ呂照根さんと会ったことはありませんが。こうして貴重な証言を聞くことが出来ています。
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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