侯彦君さんと、遺族:侯運学さん

 侯彦君さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、45年10月27日「慢性腎臓炎兼肺浸潤」により28歳で亡くなったとされています。帰国を目前にした死亡でした。
 16年生まれの侯彦君さんは連行されたとき28才、郭小巧さんと結婚し子どもはいませんでした。侯彦君さんは衡水へ出稼ぎに行っている間に日本軍が街に入り、その後全く音信がないままでした。

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 2004年に会の方から送った手紙に対し一番最初に返事をくれた人が遺族の侯運学さんです。日本からの手紙が着いて、翌日に手紙を書いて下さいました。侯彦君さんについての初めての消息が、日本の大阪での死亡だったのです。手紙は次のように始まっています。

手紙を受け取った驚き(クリックで手紙へ)

 侯彦君さんは二人兄弟で、お兄さんの侯彦齢さんの子どもが侯運学さん(47年生まれ)です。これまでに10通の手紙をもらっています。侯運学さんはご両親から、侯彦君さん・郭小巧さんのことを次のように聞いています。

 「叔父は中肉中背で丸顔でしたが,顎の先は少し尖っていました。大きな目をした元気な人でした。色白でやや小太りで,性格の良い人でした。父も大らかな人だったので,父たち兄弟2人は喧嘩をしたことがありませんでした。
 叔母は小柄な人で,背丈は150センチぐらいだったでしょう。丸顔で,はつらつとした人でした。色黒でも色白でもなく,普通の感じでした。叔父の消息がつかめなくなってから病気にになって働けなくなり,家族全員が1日の食事を2回に削って,その数斤の穀物を売って叔母の病気の治療費に充てましたが,またお金がなくなって,48年8月26日とうとう病死してしまいました。」
        (04年5月1日と8月18日の手紙)
登記証 48年当時の土地などの登記証
 登記証には、侯彦君さんのお連れ合い郭小巧さん、兄の侯彦齢さんのお連れ合い王玉梅さん(侯運学さんのお母さん、存命)の名が入っています。
現在の家族の写真 04年訪中時の侯運学さん一家
 左から、侯運学さん、王玉梅さん、侯運学さんのお連れ合い、二人の息子
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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