武振起さんと、遺族:武双全さん・武抗戦さん

 武振起さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、45年4月29日「急性肺炎」により25歳で死亡とされています。
 武振起さんは44年9月頃、数え24歳で日本軍に捕まえられました。「武小琢」と言うもう一つの名前がありました。結婚していて、2、3才の女の子がいました。武振起さんは3人兄弟で一番上、次の弟はその後八路軍に入りました。一番下の弟が武双全さん(兄の連行当時15、6歳)。武双全さんは98年4月12日の第1回追悼会に来阪しました。以下主に追悼会会場での証言から拾っていきます。
追悼会での武双全さん 左から武双全、張友棟、范臘月3氏

兄は日本軍に捕まえられ金もだまし取られ(クリックで証言へ)

 その借金を返すため、お父さんは中国東北地方に出稼ぎに行き、慣れない仕事のため亡くなられてしまいます。生活苦の中で、武振起さんのお連れ合いは子どもを残して別の家へ再婚せざるを得ませんでした。残されたお母さんと武双全さんは、村の人々の助けを借り畑を耕し何とか生活していました。食べ物はトウモロコシ・あわ・山芋などの野菜、それが足りないときは木の葉を取って粉に一緒に混ぜて食べました。小麦粉などは全然ない。そんな生活の中武双全さんは1日も学校に行けませんでした。お母さんは51年頃、55、6歳で過労のため亡くなります。
武双全さんの写真 98年北京に於ける武双全さん
 家族は武振起さんの消息を1945年の日本の敗戦前に知りました。
 近くの田福録さんという人が一緒に連行されていて、手を負傷したのでもどされました。田さんの手は機械で切断されていたそうです。役に立たないというので45年4月、全国の28事業場から集められた138人の一人として送還されます。
 その田さんが武振起さんの日本への連行を伝え、大阪へ行ったことが初めて分かりました。
 大阪で亡くなったことはその翌年に、一緒に連行されていた近くの村の范臘月さんから伝わりました。

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 武双全さんには息子さんがいます。58年年生まれのその息子さんに「武抗戦」という名を付けました。「抗戦」の相手は日本帝国主義です。一家の災難をもたらしたものに対する怒りです。
 その武抗戦さんに98年1月お会いした時の次の言葉が印象的でした。

「大阪で命尽きた武振起を、平和への礎にしたい。」

 歴史を忘れず鑑とし、侵略を2度と繰り返してはならないと肝に銘じます。そのことを大阪で亡くなった方が教えてくれています。
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま

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