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 保元2年(1157年)、紀州根来寺の融源大徳が当山住持になり真言宗に改宗される。また、近くに住む長者小明栄麿が、地蔵菩薩の加持により、妻の難産を救われ元気な男子を得たことに感激して、堂宇を建立して、地蔵尊を安置した。その後、栄麿は薙髪して栄源と改名し、当山の住持となり、諸堂を建立し、境内4ha(約12000坪)に本堂、地蔵堂、九重塔、護摩堂、金比羅堂、施餓鬼堂、辻堂、道西房、西谷房の伽藍や僧房が建ち並び輪奐の美を極めていた。このようなことから、栄源和尚は当山中興の祖と仰がれている。

 文禄2年(1593年)豊臣秀吉は、淀君妊胎の祈祷を当山住持の信空律師に命じて、秀頼の生誕をえてより、当山を厚く崇信し、田園70石を寄付された。それ以降、郡山藩主をはじめ武門の当山に祈願をこめる者が多くなった。
 今も子安地蔵尊として祈願する者が多くあり、安産の祈祷と、腹帯を授与している。

 元和5年(1619年)以降、数度の火災にあい、堂塔伽藍が消失し、荒廃していった。

 延宝4年(1676年)住持唯唱代、大通上人の融通念仏宗の勧進により、浄土宗から融通念仏宗に改宗された。この2年後の延宝6年(1678年)、大通上人の兄弟子である湛海律師が宝山寺中興のために生駒山に入る前に駐錫した。

 元文5年(1740年)から天保11年(1840年)にかけて、貫嶺、智山、智道の歴代住持によって、本堂修復、庫裏立替が、隣村南田原の大工文平によって本堂と地蔵堂の建立がおこなわれた。特に、智山和尚は当山再興の祖と仰がれている。

 明治以降も、明治22年(1889年)住持智鏡代に鐘楼再建、唱和34年(1959年)住持義明代に太平洋戦争で供出した吊鐘再鋳、昭和59年(1984年)住持良慶代に地蔵堂再建と代々の侍従と檀信徒の努力により、増改築が進められ、現在に至っている。 
 
 
 
 

 当山は、宝亀2年(771年)に行基の高弟・信定僧都が稲藏大明神の霊告により開創した寺である(法相宗)。東大寺大仏の後背が完成した年でもある。

 弘仁9年(818年)、各地に疫病が流行した時、弘法大師空海が高野山への帰途、当山に駐錫し、霊夢を感じて一体の不動尊像を彫り、護摩供養をして災厄壊除の祈祷をおこなった。