ひやかしを受けて育った子ははにかみ屋になります
If a child lives with ridicule,He learnes to be shy.

子供をからかうことの罪

 カーネギー(注1)をはじめ多くの人が、人間の最も大切な願望の一つとして、自己重要感をあげていま す。自分が、社会や誰かにとって必要なんだと感じたい気持ちです。ところが、からかうということは、こ の大切な気持ちを傷つけることになります。相手を軽くみているからこそ、からかうという行動にでるので すから。これほど子供の気持ちを傷つけることはないでしょう。にもかかわらず、案外大人葉子供をからか って遊びます。子供のほうでも親にからかわれることを喜んでいるかのようにふるまう時があるのですが、 実は、子供は親の歓心を買うために、自分で自分を傷つけているのです。
 一方でからかっておきながら、他方で意欲的な人間になってもらいたいというのは「手足を縛って水の中 にほうりこんで泳げというようなもの」(注2)です。

他人を嘲笑うタイプとは

 とはいっても、世の中には他人を嘲笑うタイプの人が多いのです。自分の感情を相手に押しつけ、何かに つけて嘲笑って気持ちがよくなるタイプです。親しい間柄の人をことさら嘲笑うタイプもいます。「日常生 活では、自分の子供や妻(または夫)を無知だと嘲笑ったり、親密な間柄の客や同僚の欠点をことさら取り 上げたりする人に、この構えが見られます」(注3)。この構えとは「私はOKである、他人はOKではな い」とすることです。この構えが基本にある人が、自分に忠誠を尽くす人を嘲笑うのです。
 このタイプは、自分に自信がないので、親しくない人に対してはびくびくして迎合していきます。この心 の葛藤を親しい人にぶつけるのです。それにこのタイプは押しつけがましくもあります。自分の趣味や考え 方をそのまま、親しい人に押しつけます。内弁慶の親がまさにこのタイプで、子供を嘲笑ったりするのです 。
 この趣味や考え方がまた歪んだものであることは言うまでもありません。歪んだものを受け入れてもらう には押しつけるしかないでしょう。嘲笑うのはこの押しつける時に起きるのです。自分と違うことを嘲笑う のです。

嘲笑われるタイプとは

 自分が嘲笑われるばかりで決して他人を嘲笑ったりしない人がいます。小さい頃には親をはじめとした 周囲の人からからかわれ、大人になっては仲間から嘲笑われてきた人です。自己否定的で神経症的な人なの です。彼らは、自分の嘲笑われる立場をいっこうに変えようとはしません。
 他人を嘲笑う、他者否定的な人は、こんな自己否定的な人と親しい関係を結びます。彼らにとって親しい 人というのは、あらゆる点で自分に従順な人です。そしてちょっとでも従順でないと嘲笑うのです。
 ですから親しくない人は、彼らのこのいやらしい正確に接することがありません。彼らは自分の獲物に敏 感です。誰が自分の指示通りに動くかということを的確に判断します。そして自分に忠誠を尽くす人以外に は、まったく正反対の立派な態度をとるのです。まちがってもその人たちを嘲笑ったりしません。要するに、 彼らは自己否定的な人を「なめている」のです。たとえば、子供を嘲笑する親は弱いものをいじめをしてい るのです。
 それにしても、人間というものは不思議なものです。自分を嘲笑い、なめている人に忠誠を尽くし、従順 であろうとしてしまうのです。それなのに、この自己否定的な人は、決して自分を嘲笑ったりしない人、な めていない人、自分の人格を大切にしてくれようとする人を、かえって避けようとするのですから。

自分を笑って追いつめる

 交流分析という分野には「絞首台の笑い(Gallows transaction)」なる言葉があります。自分の首に縄が かかっているという絶体絶命の状況にありながら、笑うなどというばかげた行為で縄を締めてしまうという 破滅的な笑いです。失敗や不幸に対する笑いは、すべてこの「絞首台の笑い」です。この笑いをする人は、 自分が笑われる立場であることに甘んじています。「馬鹿げた失敗で他人の笑いを誘い、自分を軽蔑させる (注4)」という交流です。道化者を演じ、それを他人に笑われることで満足するのです。「医者から注意 されているのにまた酒を始めた」とか「暗い道でドブに気づかずにケガをした」などというのがそうです。 そして「これは敗者にみられる交流だ(注5)」とも言われています。
 こうした人は、自分の失敗を自分でクスクス笑って相手にとりいっています。また失敗をして見せて他人 に笑われることで、自己否定的な自分を確認するのです。さらには、笑われることで他人との関係を維持し ようとまでします。
 彼らは、自分が愚かでなければ他人に気に入られない、と無意識のうちに感じているのです。身近な人間 の愚かさを嘲笑うことで満足するような親に育てられた子供は、当然こうした面をもつようにもなるでしょ う。小さな子供は、親の関心を引く方法をいつもさがしているものです。そのためならば、自分を傷つける ことでもしてしまいます。こうして子供は自己主張のできないはにかみ屋になっていくのです。

不快を感じる勇気

 私は若い頃、他人に自分の失敗を笑われた時には心のそこでは不快でした。それでも他人に合わせて笑っ ている自分を、なんでこんな愚かなことをするんだ、と心の底で感じていました。
 しかし、世の中にはこのようなことを不快に感じられない人もいます。もちろん心の奥底では不快なので すが、それを意識できない事情があるのです。私の小さい頃がそうでした。
 その頃の周囲の人間との交流で、私は決定的に、自分は皆から嘲笑われるようなダメな人間だ、という気 持ちを確立してしまいました。その後は、絶えずこの気持ちを自分に認識させつづけていたのです。そこか ら抜け出し、不快なことを不快と感じるには、直面しなければならないある事実があります。不快と感じら れないのは、この事実に直面することを避けているからだ、とも言えるのです。

自己主張するために

 人にとりいろうとしてそのように行動し、他者否定的で高慢な人間に気に入られているとします。しかし、 心のどこかでなんとも頼りない感情がわきおこっています。
 ところがある日、私はこうして欲しい、こうしたい、ということをはっきり言ってしまいます。それが嘲 笑われたり無視されたりすることなくまともに対応された時、心のなかに、頼りがいのある何かが芽ばえる のです。自分が自分の中の何かを頼りに生きていけることがわかってくるのです。
 おわかりでしょうか。他人ではなく自分を頼りに生きていく、このことに直面しなくては、不快なことを 不快と感じることはできません。幼い頃からからかわれ、自己主張のできない人には、このことはとても難 しいのです。

強さを身につけるには

 私が幼い頃からスローガンのようにいつも言わされていた言葉が三つありました。「豪胆」、「忍耐」、 それに「従順」でした。そんななかで、私は宗教団員のように「従順」を求められ、教え込まれたのです。 「従順」な私はいつも嘲笑われました。
 そんな家があるのだろうか、と疑問を持てる人は、幸せな人です。忠誠を尽くした相手に嘲笑われること なく、自己否定的な交流を身につけてしまうこともなかったのでしょうから。
 幼い頃から、自分の願いや要求が嘲笑われたり無視されたりすることなく、まともに対応されて育った人、 つまり母親から愛された育った人は、自然に人としての強さを身につけていくのです。


注1)アメリカ・ミズーリ州の農家の子として生まれる。いろいろな職業を経て、カーネギー研究所を設立。 人間関係の著作で名声を博す。1955年に66歳で死去。
注2)臨床心理学者・ロロ・メイ(前出)の言葉。
注3)『こじれる人間関係』(杉田峰康著・創元社)64頁
注4)『こじれる人間関係』(杉田峰康著・創元社)145頁
注5)『こじれる人間関係』(杉田峰康著・創元社)145頁


加藤諦三著・アメリカインディアンの教え・扶桑社文庫より

Dorothy Law Nolte
作・ドロシー・ロー・ノルト/訳・吉永 宏
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