ねたみを受けて育った子は
いつも悪いことをしているような気持ちになります

If a child lives with shame,He learnes to feel guilty.

子供に屈辱を与える親

 「妬みを受けて育った子供は」の直訳は、「shameとともに育った子供は」となっています。「shame」と は恥辱であり、不面目であり、そして恥ずかしく思うことです。
 どのような親がそんな屈辱を子供に与えるのでしょうか。その典型的なタイプの一つは、おそらく恩着せ がましい親ではないでしょうか。ニイル(注1)は、「最低の父親は、子供に感謝を要求する父親である」 と言っています。

成功を恐れるひとびと

 私がアメリカ滞在中に読んだ向こうの精神分析関係の本にある症例の中に、成功できる能力と機会に恵ま れながら、最後にくるとどうしても失敗してしまう人の話がよく出てきました。例えば次のように、です。
 Some people are afraid of success.(成功を恐れている人がいる)。
 私は当時、このことがどうしても理解できませんでした。そんな馬鹿なことがあるものだろうかと疑問に 思ったものです。
 不思議なことに、それらの例や文章を、私はちゃんと記憶していたのです。私は、自分で信じられないこ とというのはたいてい忘れてしまう性分なのですが、それらは忘れていなかったのです。おそらく、そんな 馬鹿な、と思いながらも無意識の部分に刺激となっていたのでしょう。
 大きな家にすみたいと望んでいた婦人が、現実に大きな家に住めるようになってみると「うつ」になって しまう、という例がありました。どうやら成功を恐れている人は、確かに存在するようなのです。彼らは幼 い頃、不幸な人々に囲まれて成長してきたのではないでしょうか。
 何かいいことがあるとそれを妬むような人々の集まっているところで成長すれば、成功することを恐れる 人が出てきても不思議ではないでしょう。ことにそれが親であればなおさらです。成功すると見捨てられる、 憎まれる、と感じて無意識に成功を避けてしまうということがあるのです。それでも、どうしても成功して しまうと、罪悪感をもってしまうことだってあるのです。

楽しいことが楽しくない?

 そんなことをなかなか信じられなかった私ですが、よくよく考えてみると、実は私自身がそうだったので す。心の底で成功を恐れていたのです。そして何よりも、自分が幸せになることを恐れていました。成功し たら幸せになることに私は、罪悪感すらもっていました。
 幼い頃から私は、楽しい時に父親に本当に喜んでもらったことがありませんでした。父親の神経症的な自 尊心を満足させること以外には、とても不機嫌に対応されていたのです。
 私が父親の自尊心とは関係のないところで何かに喜んだ時、父親は明らかに面白くなかったようです。 「父のおかげ」で何かをするのではなく、「父の恩恵」と関係なく何かに喜んだりすると、父親は不快の念 を露にしました。私は幼い頃から、そんな父の不機嫌な顔に怯えていたのです。
 「お父様のお陰で」こんな素晴らしい体験をすることができました、などということについては父親は満足 していたようです。しかし「お父様のお陰」とは関係のないことで面白いと私が喜んでいると、父親は苦虫 をかみつぶしたような渋面を作ったものです。
 それで私の心のなかには「自分が何か楽しい経験をすると、周囲の人に受け入れられない」というメッセ ージが日々送り込まれていったのです。私にとって楽しい経験は、いつしか脅威となりました。
 「このような圧倒的なやり方で影響されている人は、もし楽しい本を読んでいても、急に親からの『楽しみ の前に仕事をしなさい!』というメッセージを頭の中できくかもしれない。彼のなかにある『子ども』は 当然ながら楽しいことをしたがっている。しかしこの人は自分が楽しむことに対して罪悪感を持つようにプ ログラムされてしまっている。罪の意識を持ち、この不快な感情に対処し切れず、この男は本を伏せ、ガレ ージ清掃にとりかかるのである」(注2)。
 私が幼い頃に受けたメッセージは「楽しみの前に仕事をしなさい」というものだけではありませんでした。 「おまえの楽しみは私を不快にする」というものまでありました。このことは私の心の底に深く刻まれ、や がてそれは意識することまでも禁じられて、無意識のものとなっていました。人を動かすのは、人の意識で はなく、無意識なのです。
 こうして無意識のものとなったメッセージに支配された私は、楽しいことをしたくてもできない人間にな ってしまいました。楽しいことをする時間的・精神的ゆとりがあっても、です。周囲の人が、その楽しいこ とをするように私にすすめてくれてもダメでした。楽しいことをすると何か悪いことをしているように感じ てしまうのです。楽しくないことをしている方が、罪悪感から解放されていました。だから、楽しい事をす る時には、必ず何か言い訳をしてしまったのです。

恩着せがましい親の罪

 恩着せがましい親は、子供に自分の価値を売り込んでいるのです。売り込まれた子供のほうはというと、 自分の価値がなくなってしまったような気持ちになります。そんな関係のなかで育った人間が、素直になる ことはとても難しいのです。
 私自身前述のように、他人に話しても信じてもらえないほど恩着せがましい環境で育ったので、そんな環 境がどれほど子供の無価値感を根深いものにするか、よくわかっているつもりです。
 「恩着せがましい」親に育てられると、自分は他人に迷惑をかける存在だ、と思い込んでしまいます。つ いには、自分などいない方がいい、とまで感じてしまうのです。「恩着せがましさ」は断じて愛ではありま せん。子供にとっては百害あって一利なしです。

自分の価値を見失う子供

 では、子供の心に、自分にも価値がある、という気持ちが生まれたならばどうなるのでしょう。今度は反 対に親の心の無価値感を刺激してしまいます。すると「おまえのためにこんなに苦労してやっているのだ」 と主張することによって親は、自分の価値を感じようとするのです。
 恩着せがましい親にとっては自分の心の安定のために、子供が「自分は価値のない人間だ」と感じること が必要なのです。子供がそう感じてくれれば、親は自分の価値を感じることができるのです。
 ウェインバーグ(注3)は著書のなかで、恩着せがましい親に育てられた患者についてこう言っています。
 「彼は、なにか他人が価値のあることを言うと屈辱的に感じてしまう」。
 つまりこの患者は、たえず屈辱を味わって生きてきたのです。親の恩着せがましさは、子供にとっては屈 辱なのです。
 こんな育ち方をした人は、自分の存在が他人に喜ばれているという感情をもつことができません。それど ころか、自分は他人にとって負担という感じ方を心の底にこびりつかせています。
 だから、心地よく他人と一緒にいることができません。他人といると気がひけてしまいます。すると、相 手に何かしてあげなければいられない気持ちになります。相手の得になるようなことをすることで、その居 心地の悪さから逃れようとするのです。
 さらには、損をすることでかえって気持ちが安定します。ところが損をしたという不快感は残ってしまい ます。これではどうしたって他人と居心地よくいるということはできません。

にせの罪悪感

 フィットテイカー(注4)が「にせの罪悪感」という言葉を使っています。幼い頃から何か悪いことがあ ると「おまえのために」と言われ、何かいいことがあっても「苦労したため」にできたことだと親から言わ れて育てられた人が抱く感情です。こんな人は、大人になっても、ただ会っただけですでにその相手に心理 的な借りをつくってしまいます。
 他人と一緒になることで、幼い頃に心の底にすりこまれた親の恩着せがましい声や表情が再現されはじめ るのです。このようにして味わうのがにせの罪悪感です。
 困ったことに、こういう人は本当の罪にはかえって鈍感です。そのくせ正当なことを主張することに罪悪 感をおぼえてしまうのです。他人の不当な要求にノーと言えないのです。これもまた、幼い頃の経験が生ん だ悲劇でしょう。

他人の不幸を望む理由

 ところで、他人の不幸を望む動機とは、いったいなんなのでしょうか。それは、あからさまな敵意であっ たり、陰にこもった妬みであったりします。いずれも強い感情です。ことに妬みは、無意識の部分で相手を 侮辱しようとしているのですから、相手のいい所を受け入れるのは簡単ではありません。
 ドイツ語には「人を傷つける喜び」という意味の単語があるほどです。「シャーデンフロイデ」といいます。
 心の底に敵意をかくしている人は、まず他人の幸福は喜べないでしょう。他人の不幸を心のどこかで、い い気味だ、と思っているでしょう。こういう人は、自分の幸せよりも他人の不幸が重要になってくるのです。
 心が満ち足りている人は、他人の幸福の報せをほっとして聞くのです。「ああ、よかった、あの人たちは 幸せなんだ」と胸をなでおろします。ところが、悩んでいる人は、他人のそんな報せを聞いても面白くあり ません。何か期待はずれのような気持ちになるのです。
 その違いはどこから出てくるのでしょう。その人の心の底に愛情があるか敵意があるかの違いなのです。
 ちょっと不思議なことなのですが、人は不幸にともなう感情、例えば妬みやひがみなどにしがみつきます。 どうしてなのでしょう。やはり心の底に敵意をおさえつけていることがその原因なのです。
 人は心の底の敵意や憎しみを、表には出しづらいものです。妬んだりひがんだりすることで、敵意を密か に満足させてしまうのです。英語では、これを「受け身的攻撃性(passive aggressiveness)」といっています。
 しかも、嫉妬している人は、自分が嫉妬していることまで隠そうとします。人は弱いものです。うつ病者 を生みだしやすい家の人が嫉妬深い、と言われているのです。当然でしょう。家中に、陰にこもった敵意が 渦巻いていては、うつにもなるでしょう。
 強い人、つまり自分で自分を頼れる人ならば、自分の内にある憎しみにも向きあえるし、そんな感情も弱 い人に比べれば少ないのです。すると受け身的攻撃にでることもないでしょう。
 ですが、ストレートに攻撃的になれない弱い人も世の中には多いのです。そうなれないぶん憎しみはどう しても強くなってしまいます。これが嫉妬となります。
 例えば「あいつは自分の人生をダメにしようとしている」などという憎しみを吐き出せずにおさえつけて いると、それが嫉妬となって、自分を攻撃する心配のない他人に向けて発散されます。本来向けるべきとこ ろに攻撃を向けることなく、いわれのない敵意を浴びる犠牲者がでるのです。
 親にとっての「自分を攻撃する心配のない他人」が、子供です。こうして親の嫉妬が、正義とか教養とか 愛情とか、社会的に奨励される価値の仮面をかぶって子どもに向けられるのです。

無意識が与える影響

 よく言われるように、子供に影響を与えるのは、親の意識ではなく無意識です。いくら表面を立派にとり つくろったところで、親の無意識にある憎しみや敵意や陰湿な嫉妬、それに家の中に隠されている対立や葛 藤、それらの影響を子供はもろに受けてしまうのです。

他人の幸福を許せない人

 また、他人の上に立つことで、自分の悩みを解決しようとする人もいます。そんな人は、他人を妬み、羨 む気持ちに支配されています。なぜなら他人の上に立つことで心に安らぎを与えようとしているのに、現実 にはそのようになっていないのですから。こうして心のなかには、妬みや嫉妬や羨望が激しく渦巻き出すの です。他人の幸福を許せなくなるのです。
 こんな人と一緒にいると、こちらまでが何となく悪いことでもしているような気持ちになります。「他人 に対する恨みとは、しばしば他人に罪悪感を持てという要求」とムリエル・ジェイムズは言いますが、確か にそうです。

白雪姫の継母の悩み

 有名な『白雪姫』にも、悩める継母が登場します。彼女の悩みはただただ「世界で一番美しくありたい」 ということです。世の中には、すべてのことに自分が優れていないと気のすまない人もいるのですから、そ れに比べれば可愛いものですが、一つのことに集中しているぶん深刻です。
 彼女は、自分以外の人が美しいのが気に入りません。それは、自分以外すべての人に対する敵意です。
 自分が世界で一番美しくありたいので、白雪姫が美人であることが許せません。それで白雪姫を傷つけて 自分が一番になりたいのです。
 もし白雪姫が彼女より美しければ、彼女は生きていけません。心のなかの何らかの葛藤を、自分が一番美 しいとすることで解決をしようとしているのです。だから、あれほど一番美しいということにこだわるのです。
 白雪姫より美しくない自分には生きている価値がない、とまで自己蔑視しているのです。白雪姫と自分と を、対立して考えているところに、彼女の問題があります。
 白雪姫の美しさは、決して彼女の価値を下げるものではないはずです。若い女性の美しさと、年をとった 女性の美しさとは違うものです。彼女は自分の価値に気がついていません。してみると、物語を貫く彼女の 競争は、必要のない無意味なものでしかありません。
 彼女がもし、白雪姫を手元において育てたならばどうでしょう。白雪姫は美しいことに罪悪感を覚えるよ うになるはずです。自分が他人より美しいことが、何か悪いことのように感じ、心の底では美しくなりたい と願いながら、どこかしら言い訳をしていなければいられなくなるでしょう。これでは白雪姫の無垢な美し さは半減するしかありません。

親の嫉妬の影響

 さて、ここまで書いてもこの物語がどう自分に結びつくか、多くの親御さんは疑問に思うでしょう。
 ここに、子供の成功を通して世間を見返してやりたいと願う父親がいます。幸いにも子供は成功へと歩ん でいきます。ところが、彼は心の底で子どもの成功を不快に思っています。
 この父と子の葛藤は、継母と白雪姫の葛藤そのものなのです。
 父親は子供の成功を喜びながら、秘かにその成功を破壊したいと願いはじめます。現実に成功しはじめた 子供に敵意をもちだすのです。しかし立場上父親は、自分の子供を妬んでいるとは認められませんので嫉妬 はおさえつけられます。
 嫉妬がおさえつけられると、父親は今度は息子のあらさがしをはじめます。例えば「おまえは虚栄心が強 い」と非難したりします。非難はすべておさえつけられた自分の嫉妬の投影ですが、父親はもちろん気づき はしません。
 子供はこうして成功することに罪悪感を覚えていくのです。

他人と比べていい人、悪い人

 自分が優れていることを、異常なまでに他人に認めさせようとする人がいます。
 「自分より優れたものが身近に出現すると、その存在が癪の種になってくる。そして、自分が彼より優れ ていることを相手にもまわりの人にも認めさせようとするのである」(注5)。
 私は若い頃、こんな比較はするな、とよく本に書いていました。ところが、世の中には他人と自分を比較 しても苦しんでいない人もいることに、後になって気づいたのです。それどころか、比較することで自分を 励ましている人もいるのです。これはどういうことでしょうか。
 比較する人の心に、妬みがあるかないか、なのです。妬む心があれば、比較することでそれを刺激される でしょう。しかし心に妬みがなければ、比較しても苦しむことはないのです。
 比較しては苦しむ、という人は、いつも誰かと競争しています。いつでもどこでも他人より自分のほうが よくないと気に入りません。ですから心はいつも不安定です。いつも自分の立場を脅かされています。実際 に脅かされているかどうか、は彼にとって問題ではないのです。

嫉妬される子供の不幸

 こうした一連の心の動きは、妬まれ恨まれる側にも深刻です。
 誰かに妬まれている、ということは、その誰かに(いわれのない)非難をされているということです。 したがって、妬まれた人が自分に罪悪感を持ったとしても不思議ではありません。何かいつも悪いことをし ている気分にもなるでしょう。恨みもまた同じです。
 こうなっては、妬まれる側はたまりません。じんわりと「自分に罪悪感を持て」と脅迫されているのです から。そして罪悪感を持つと、当たり前ですが、人は行動的ではなくなってしまいます。これは前出の「 にせの罪悪感」です。
 ムリエル・ジェイムズは、にせの罪悪感を持った人について「自分自身の行動に対する責任を回避するた めに、しばしば人は謝罪したり、罪悪感を持ったような表情や仕草をする」と言っています。少なくとも そんな人間になってしまう危険な可能性があるのです。
 批判や敵意のなかで育つと、ある子供は他人を非難したり戦ったりするでしょうし、またある子供は、 いじけてはにかみ屋になったりするのです。


注1)1883年スコットランド生まれの教育学者。進歩的な教育論で教育界に話題を呼んだ。ニイルから 見ると教育制度が大人の神経症的イメージを子供に押しつけるものと映った。
注2)『自己実現への道』(他著・本明寛他訳・社会思想社)168頁。 *:ムリエル・ジェイムズ…国際交流分析協会の福会長を務めた。
注3)現在ニューヨークで精神分析医として活躍している。『自己創造の原則』(加藤諦三訳・三笠書房) という著作で注目された。
注4)女性心理学者。『あなたが私をどう考えるか、私の知ったことではない』を1979年にアメリカで出版。 まだ日本には訳されていない。
注5)『嫉妬の心理学』(託摩武俊著・カッパ・ブックス)。


加藤諦三著・アメリカインディアンの教え・扶桑社文庫より

Dorothy Law Nolte
作・ドロシー・ロー・ノルト/訳・吉永 宏
[次へ] [目次へ]