敵意にみちた中で育った子はだれとでも戦います
If a child lives with hostility,He learnes to fight.

戦場にある心

 本章のテーマであるこの一文を見たとき、私はすぐに「自分の弱みを他人に見せまいとして、虚勢を張っ ている人は、いつも戦場にいるようなものだ」という意味のウルフ(注1)の言葉を思い出しました。この ことは、虚栄心の強い人のことを考えるとよくわかります。
 虚栄心の強い人は、多大なエネルギーを浪費し、自分を大きく見せて相手を圧倒しようとします。いわば 力の誇示ですが、実は心の底で、自分はつまらぬ人間だと思っているのです。実際の自分がばれることを恐 れているのです。
 こうした劣等感がさらに深刻だったりすると、心のバランスをとるために、他人の賞賛を激しく求めたり もします。自分が望むほど自分が優れていないと感じていながら、それを認めることができずに、虚勢を張 って生きているのです。こんな人はまた、野心や名声にも固執します。それらが自分の無力感や孤立感を解 消してくれるからです。恐ろしいことに、この栄光を求める心の中には、他人や世の中への復讐の衝動がか くれています。(注2)
 他人と心のつながりをもてるような環境で育った人は、失恋や事業の失敗、それに友人の裏切りなどにあ っても、復讐に生きてしまうなどということはまずありません。世の中に信じられる心のつながりの存在す ることを知っているからです。彼らはやがて挫折から立ち上がり、新しく情熱を傾けられるものを見つけて いくでしょう。
 ところが、敵意に満ちたなかで育ったり、無視されて育ったり、過保護過干渉の中で親に束縛されて育っ たりした人はどうでしょう。彼らは他人との心のつながりなどというものを信じることができません。です から、挫折にあうと、つい復讐に心を奪われがちなのです。ついには、他人だけでなく自分をも含めたつな がりそのものを破壊しようとしてしまうのです。
 次にあげるのは、その一例、ある失恋した人の日記です。
「俺は生きる、断じて死なない、復讐するために生きる、復讐するまでは生きる」。
 これが先ほど書いた「栄光を求める心のなかにある復讐の衝動」でしょう。日記は次のように続いています。
「人生の目的、そんなものはない。ただ、俺のまえにあるのは復讐だ。人間は何のために生きるのか、そん なものは関係ない。一人の人間に復讐するためにのみ生きるのだ」。
 憎しみにとらわれると、そういう人生に意味があろうがなかろうが問題ではなくなってしまいます。復讐 が彼の心にとって必要不可欠になってしまったのです。自分を成長させようなどとは考えず、他人の上に自 分をおき、他人を辱めることが彼の人生の目的になってしまっているのです。

若い心に巣食う不安

 私の若い頃を反省してみますと、心の底にあったのは、やはり他人に負けたくないという強い願望でした。 しかし当時は、そのような激しい願望に気づくことがありませんでした。自分の心の奥底にそんな願望がひ そんでいるとは思いもよりませんでした。
 この人に負けたくない気持ちを意識から排除するというのは、自分が人に実は負けているとわかっている のにそれを認めたくないという願望のあらわれです。もともと負けず嫌いの私でしたから、いちばん認めた くない事実に目をつぶり続けたのです。不毛とはいえ、私はいつも戦っていたのです。
 だから、自分が負けていると思ったものにはことごとく反発しました。そんなものは皆くだらない、とい うことでかたづけてしまいたかったのです。しかし、いくらおさえつけていても私の心には、不安な緊張が いつもありました。

ほんとうに安らぎを得るには

 ところで、自分を実際よりも重要な人物として印象づけようとする人格の特長を、ウルフは「プラス・ジ ェスチュア」と呼んでいます(注3)。たとえば、小さな犬が、大きな犬のことが気にかかって黙っておれ ずに吠えたりすることです。それに、少年が暗い夜道で口笛を吹くのもそうです。
 こうして自分を実際以上に見せようとすることは、重荷を背負っているようなものです。ウルフは、金持 ちになることで安心しようとする人のことを「それは1トン半もの重い鎧を身につけた恐竜が、あの大昔に 泥沼の中で生きるための戦いをしなければならなかったのと同じである」と言っています。自分を守るため に身につけた鎧のあまりの重さに、うっかりはまり込んだ沼地からぬけ出せなくて、かっえて命を落してし まった恐竜。人間でいえばこの鎧に当たるものがお金であり、名誉であり、地位だとウルフは言っています。 自分を守るために、名誉や金や権力を手に入れても、やがてはそれによって滅んでしまうとしたら、あまり にも悲しいではありませんか。
 ほんとうに心の安らぎを求めるのなら、実際の自分そのままに価値があることを見つけなければなりませ ん。しかし、敵意に満ちたなかで育った子供には、とても困難なことです。

なぜ人は快楽を求めるのか

 生きていることが無意味に感じられるとき、人は快楽や権力への意志が現れる、とフランクル(注4)は言 います。
 自分の人生に果たすべき使命も見つけられず、解決すべき課題や、生きる目標もないとなると、生きること の意味を満たすことなどできません。その心の空白に、権力指向や快楽への欲望は生まれるのです。
 またフランクルとは少し違って、ホルナイは、不安や憎しみ、それに劣等感から人は権力を求める、と言っ ています。自分の弱さを守るために権力を求める、ということの他に、自分が重要でない人物だと周囲から 思われることを恐れてのことでもあります。あくまで自分のなかの不安をおさえつける手段として権力を求 めるのです。

他人の成功を喜べる心

 それまで生きることがじゅうぶんに楽しめなかった私が30代になって楽になれたのも、自分が負けている ということを認めたからです。そんな気持ちをおさえつけている愚かさがわかったからです。
 負けていることを認められないでいると、いつも他人に自分の価値を証明していなくてはなりません。しか しそんな態度では、ますます周囲の反発を買うことになりかねません。他人の成功が自分の価値を下げるよう に思えて、他人の成功に素直になれないでしょう。逆に他人の失敗が、自分の価値を上げるようにも思えるで しょう。そうなると、いつも他人の成功と失敗が気になってしかたがないのです。
 まずは、今まで目をそむけていた「自分は負けている」という気持ちに気づくことです。不思議なもので、 そうなるとそれまでの勝負へのこだわりが滑稽に思えるはずです。すると、勝ち負けと自分の価値とが別の ものに感じられ、素直に負けを認めることもできるのです。
 そうなってはじめて人は、他人の成功を心から喜び、また他人の不幸を心から哀しむことができるように なります。そしてそのような生き方からくる心の安らかさを味わうことができるのです。
 自分が負けている、という気持ちから目をそむけていることは、その人にとって不幸なことです。心の平和 など望むべくもありません。

救いのない家庭とは

 親が周囲の評価を気にしていたらどうでしょう。いつか世間を見返してやる、などという敵意を持ってい たらどうでしょう。何かにつけ他人より優れていることを期待された子供は、ほんの少しにことで深刻な劣 等感をもってしまうでしょう。
 こんな子どもたちが教えられることには、いつもトゲがあります。親が心の葛藤を逃れるのに、子供のさ さいな行動をとりあげて激しく叱る時、子供は敵意にさらされるのです。
 子供たちは、人を好きになれない人たちに囲まれて育ってしまうのです。
 いくら親が表面的に否定したところで、子どもたちが影響されるのは、そうやってかくしている親の無意 識です。子供はこうした雰囲気のなかで、自分は親に好かれていない、と思ってしまいます。こうなっては、 親がいくら子供に表面上思いやりを見せても、家庭を支配するのは深刻な不信感でしかないのです。
 このような家では、だれも子供の不安をとりのぞくことができません。もちろん子供自身にもそんな力は ありません。したがって、子供には、自分の身をあずけられる誰も存在しないのです。

思いやりをもつために

 逆に、安心して母親に身をあずけていられた、そんな幼い頃をもった人は、自分を守るために他人の上に 立とうとして戦う必要がありません。母親を信頼できたかどうか、この違いはとても大きいのです。母親に 身をまかせていれば、不安から自分を守ってくれる、自分でじたばたすることもない、母親に訴えれば不安 があってもとりのぞいてくれる、また多くの場合母親に身をまかせていれば不安そのものがない、なんと快 適なことでしょう。
 そんな幼年期をもてた人に、どうして虚勢をはって周囲の人と戦う必要があるでしょう。だからこそ、逆 の場合には自分を脅かすものと戦うのです。
 これでは他人に対する思いやりなど出てくる余地はありません。自分のことしか考えられないのも当然で す。幼い頃に母親を信頼できなかった人は、成長しても他人を信頼できなくなりがちになるでしょう。信頼 できなければ、自分を守るために戦ったり、逆にむやみに迎合して自分を守ったりするのは当たり前です。
 自分を心理的に守る必要のない人が、はじめて他人に対して思いやりをもつ余裕が出てくるのです。



注1)オーストリア生まれの精神医学者。後にニューヨークで仕事をした。既に死去。
注2)ドイツ生まれ(1885年)の女性精神科医、ホルナイの言葉。彼女は1932年からアメリカで仕事をした。
注3)『どうしたら幸福になれるか』(岩波新書)142頁。
注4)1905年オーストリア生まれの実存分析の精神医学者。ウィーン大学医学部精神科教授を務めた。 日本にはフランクル著作集として多くの本が訳されている。


加藤諦三著・アメリカインディアンの教え・扶桑社文庫より

Dorothy Law Nolte
作・ドロシー・ロー・ノルト/訳・吉永 宏
[次へ] [目次へ]